当サイトはAC(アダルトチルドレン)の生きづらさの問題を抱えた当事者が回復をめざすためのサイトです。


一般的なACの定義

AC(アダルトチルドレン)とは「子供の頃の親(あるいは養育者)との関係が原因で、生きづらさの問題を抱えている人」のことを指します。

もともと、ACという言葉は米国のアルコール依存症治療の現場で、「アルコールの問題を抱えた親のもとで育てられ成人した子供たち(ACoA:Adult Children of Alcholics)」に共通して見られる心の問題が取り上げられるようになって使われだした言葉です。その後、アルコール問題以外にもさまざまな機能不全のある家庭(Dysfunctional Families)で育てられ成人した子供たち(ACoD:Adult Children of Dysfunctional Families)にも同じような心の問題が共通して見られるという認識が広まり、今日では「子供時代の親や養育者との関係に起因する、生きづらさの問題を抱えている人」を広く指す言葉になりました。


「機能不全家庭」とは?

生きづらさの問題の原因になるような機能不全家庭の子供は無条件に自分を肯定された経験に乏しく、ありのままの自分でいようとすると(物理的・精神的な意味で)生き残れないような状況に置かれています

虐待には大きく分けて物理的虐待(暴力、育児放棄など)、心理的虐待(言葉の暴力、過保護・過干渉、プライバシーへの侵入など)、それに性的虐待があります。ACという言葉が生まれるもととなったアルコールの問題がある家庭などに見られる、暴力や育児放棄(ネグレクト)といった「あからさまな虐待」がそういったトラウマの原因となるのは無論のことですが、共依存的で感情の境界線があいまいな親による子供への心理的侵入といったような「見えにくい虐待」は何もあからさまな崩壊家庭ばかりに存在するわけではありません。

子供が本来の自己を安全に発達させることができない機能不全家庭には、以下のような特徴があるといわれます。

機能不全家庭 機能している家庭
強固なルールがある 強固なルールがない
家族に共有されている秘密がある 家族に共有されている秘密がない
家族に他人が入り込むことへの抵抗 家族に他人が入り込むことを許容する
きまじめ ユーモアのセンス
家族成員にプライバシーがない(個人間の境界が曖昧) 家族成員は個人のプライバシーを尊重され、自己の感覚を発達させている
家族への偽の忠誠(家族成員は家族から去ることが許されていない) 個々の家族成員は家族であるという感覚を持っているが、家族から去ることも自由である
家族成員間の葛藤は否認され無視される 家族成員間の葛藤は認められ解決が試みられる
変化に抵抗する 常に変化し続ける
家族は分断され統一性がない 家族に一体感がある


「毒になる親」のタイプ

子どもは自分で生まれてくる家庭を選べるわけではありません。生まれてからも、家庭がイヤなら「自立した、働く赤ちゃん」としてサッサと家から出てゆけるわけでもありません。つまり子どもが成人するまで家庭の中では、親が圧倒的に強者、子どもが弱者、ということになります。むろん、「完璧な家族」「完璧な子育て」なんてどこにもないわけですが、それでも子どもにとって深い心の傷となるような親の言動や、してはならないこと、というものは存在すると思います。

スーザン・フォワードは著書『毒になる親』の中で、子どもにとってその後の生きづらさの原因となるネガティブな影響を与える親のタイプを、次の6つに分けて解説しています。

1) 義務を果たさない親
子どもに衣食住などの物理的なニーズ、愛情や注目といった精神的なニーズを与えない親
大人としての生活能力がなく、子どもが「親の親」役を務めなくてはならないような親
蒸発・失踪や、離婚を契機に親としての義務を完全に放棄するなど、文字どおり「いなくなってしまう」親

2) コントロールばかりする親
自分の都合ばかりを押しつける親
子どもが思いどおりに動かなければお金や援助を与えないなど、金銭を支配とコントロールの手段として使う親
自分の優越感のために、子どもの能力を認めず、つねに「何もできやしないくせに」と子どもをこきおろす親
「善意」による世話焼きを隠れみのに、あらゆることに干渉をやめない親
兄弟姉妹も親と一緒になって「スケープゴート」の子どもを責める家庭
ほかの兄弟姉妹と比較して子どもをなじることでコントロールする親

3) アルコール中毒の親(嗜癖者である親)
嗜癖者本人による、「問題がある」という事実の否定(否認)
本人以外の家族メンバーによる事実の否定
「ノーマルな家」なのだ、という取りつくろい
その時によって言うことが変わる、首尾一貫しない親、約束を守らない親
子どもを「飲み仲間」にするなど、嗜癖行動に引き込む親
「飲まずにいられない」ことを周囲や子どものせいにする親

4) 残酷な言葉で傷つける親
「ジョーク」を隠れみのに、傷つきやすい子どもをターゲットにして笑いものにする親
「お前を鍛えてやるため」「世の中は厳しいんだ」などという口実のもとに、口汚い言葉で傷つける親
子どもと競おうとする親、子どもを蹴落とし、弱い立場のまま押さえつけておこうとする親
すべてに完璧でないと許さない親

5) 暴力を振るう親
自分の怒りやフラストレーションをコントロールできない親
「体罰」として暴力を正当化し、子どもを叩くことに耽溺する親
父(母)の暴力を止めない母(父)

6) 性的な行為(性的虐待)をする親
近親者が自分の性的興奮を目的として触れる行為はすべて近親姦
身体に直接触れなくとも、性器の露出、子どもの性的な写真を撮る、風呂を覗く、などの行為は近親姦的行為
近親姦の特徴:あきらかに「秘密にしておかねばならない」、後ろ暗い行為であること

子どもに対する性的行為は、人間が行なってはならない「悪」である


共依存 - いつわりの親密性

さて、ACという言葉自体が、アルコール依存の治療現場から生まれたわけですが、「共依存」もまた、アルコール問題の臨床の場から生まれた言葉です。そして今日では、アルコール問題家庭にかぎらず、ある種の人間関係の病理をひとことで言いあらわしている言葉として、広く認識されるようになりました。

ほとんどのアルコール問題家庭では、家族成員(おもに依存症者の妻)は依存症者の飲酒のことで頭がいっぱいになっています。今日は「いい日」になる(依存症者が酒を飲まない)か、「悪い日」になる(酒を飲む)か、と常に依存症者の言動に敏感になり、家の中の酒瓶を隠したり、酒を流し台に捨てたりして依存症者の嗜癖行動をコントロールしようとします。依存症者のプライドの地雷原を踏みつけて自己破壊的な嗜癖行動や暴力の爆発を招かないようにと、戦々恐々として暮し、依存症者の反社会的行動の尻拭いにまで奔走していることも珍しくありません。

ところが、アルコール臨床の現場の長い経験の中で、このような一見献身的な人々には共通した特徴があることが分かってきました。彼らは依存症者と別れてもまた同じような依存症者あるいは問題を抱えた人間と一緒になるケースがきわめて多く、そういう(たいがいはプライドが高く不器用そうな)人を「わざわざ選んでつき合っているとしか思えない」ほど、似たような人間関係のパターンを繰り返していたのです。そうして彼らのほとんどが、自身もアルコールその他の問題を抱えた機能不全家庭の出身者でした。

彼らは自己評価がきわめて低く、「自分は愛され、尊重されるに値する人間である」という基本的な確信を欠いていました。そのために見捨てられることを怖れ、普通の人を愛して拒否されるリスクを取るよりも、自分の助けがないとやっていけないような脆さを持った人を見つけ出し、世話を焼くことで、一見相手を助けているように見えながら実は相手の自分への依存を強めて離れられなくするように振舞っていることが分かってきました。

ひとことで言えば、彼らは「必要とされる必要」に駆られて人間関係を結ぶ人々でした。またそれは、彼らが育ってきた家族で冷たく無関心、あるいは暴力的であった親の姿を他人に投影し、今度こそ自分の自己犠牲の力で相手を自分のための「良い親」に変身させよう、という無意識の動機に突き動かされての行動である、ということも分かってきました。

このような人間関係の持ち方のパターンが「共依存」と呼ばれるものです。共依存は一見「献身的な愛情」のように見えますが、本当の愛情(親密性:intimacy)と本質的に全く別のものです。以下は斎藤学『アダルト・チルドレンと家族』(学陽書房)より抜粋した、共依存にあって親密性にない特徴です。

【不誠実(不正直)】
共依存者は自己評価が低いため、本来の自分の判断を否定したり、隠してしまう。暴力をふるう夫との関係に耐えている女性たちは、居心地の悪さなどの感情に不誠実で、それを否認している。

【自己責任の放棄】
夫との緊張や暴力に苦しむ女性たちのなかには、その関係から離れたいと思っても、そのことが「他人に批判される」ことを恐れ、だから結局は離れ「られない」、という人がいる(明らかに「離れようと思えば離れられる」状況なのに、「他人に批判される」「子供がかわいそう」「そんなことをしたら大変なことになる」等々の言い訳を探し出すことで、選択の自由を放棄している)。

【支配の幻想】
「他人からの批判」を配慮するあまり居心地の悪い生活に耐えている人々は、周囲の人間にも「自分の世話を受けている他人は自分の仕事・役割に感謝し、少々問題があってもそれを表面に出したりせずに自分の支配下にいなければならない」という「配慮」を求める。とくに、親と子のような上位と下位の関係の中でそれは露骨に現れてくる。

【自他の区別の曖昧さ】
共依存者は他人の感情と自分の感情とをはっきり区別することができない。相手が沈黙したり、不機嫌そうな表情をすると、自分が何か相手にとって不本意なことをしたのではないか、そもそも自分に欠陥があるのではないかと不安になったりする。
他人が感じる感情を自分のものと切り離せないため、たとえば自分の愛する者が自分以外のものに惹かれると、もう自分を大事にしてくれないかのように感じてしまう。このことが共依存者の他人への支配を強める。
他人の世話焼きを優先する共依存者の生き方は、実はこうした自他の区別の曖昧さから発している。


現代日本社会の共依存的風土

「それでは日本の妻や母と呼ばれる人は、みんな共依存者ということになるではないか」ということになりますが、その通りであると思います。自分というものを否定しての滅私奉公や忠義が賛美され、また相手が何も感情表現しないうちに「気持ちを汲み取り」「気を使う」ことが美徳とされるなど、伝統的に日本の社会は共依存的な人間関係に対して無批判でありすぎたところがあります。「私がいなければ世界は壊れてしまう」というのは基本的に、自他の区別が曖昧な赤ちゃんの世界観です。

妻や母と呼ばれる女性たちということで言えば、戦前の民法では妻の地位は「無能力者」でした。また戦後日本の高度経済成長を支えてきたのは「男は外で七人の敵と闘い、女は安らぎの場としての家庭を守る」という家族観でした。その後時代はいくぶん変ったとはいえ、現代に至ってもまだ女性が家庭や子供を持ちながら働く環境が十分に整っているとは言い難く、未だ一部の業種では社会的信用度のシンボルとして「一人のサラリーマンに、一人の専業主婦」の家庭を持って「身を固める」ことが推奨されているなど、女性を家庭へと「囲い込む」圧力は依然として強く残っています。

このような中で女性が自分のパワーを発揮できる一番手っ取り早い方法は、世話焼きによって周囲の人々を自分なしではやっていけない状態にまで持っていくことであり、また自分と他人の境界線をあいまいにし、夫や子供を自分の野心を投影した「自分の身代わり」「すごろくの駒」としてコントロールすることでした。昔からある嫁・姑問題などを「共依存パワーの戦場」としての家庭の問題と見なすことも可能であろうと思います。

男性もまたこのような共依存的な風潮にベッタリ依存して、日本の社会というものが成り立ってきたところがあるように思います。よく言われるように妻や母親が何から何まで身の回りの世話を焼いてくれ、自分では家の中の靴下や預金通帳のある場所さえ知らない、という中高年男性もいます。本多勝一『子供たちの復讐』(朝日文庫)の中には、母親の期待を一身に集めた男の子として育ちながら40歳代で初めてキャリアに挫折し、「東大に合格した日、母が五目ずしを作ってくれた」エピソードばかりを繰り返して過去の栄光に浸りながら妻に暴力を振るう高級官僚の話が出てきます。

現代日本の社会において、共依存の問題は「どこの家庭にも、あるいは家庭に限らずどこにでも転がっている」と言ってさしつかえないと思います。


フェミニズムとAC - 母・娘カプセルをめぐる問題

共依存的な母親は男の子だけに期待をかけ、女の子はさまざまな権利や社会的地位や職業をあきらめていずれ自分も共依存的な妻・母になってゆく、という従来のパターンは、現代社会において確かに変わりつつあります。古い時代には決して開かれなかった学歴や職業への門戸が、女性にも開かれるようになりました。

それと同時に、女の子がこのように成長すべき、という期待される女性像も大きく変わってきました。変わってきた、というよりは、個人レベル・社会レベルで大きく揺れ動きつづけている、と言った方がいいかもしれません。女性も学問や仕事の分野で成果を上げ社会に進出すべきであるという建て前と、実際に進出してきた女性へ向けられる男性や同性である女性の嫉妬や敵意、あるいはそういう今までにないタイプの女性を「どう扱っていいか分からない」周囲の困惑などが同時に存在し、期待される女性像は大きく混乱しています。

家庭という小さなレベルで言えば、従来の共依存的な母親たちにとっては、自分の抑圧された野心の投影として今まで男の子だけにかけていた期待を、女の子にもかける道が開かれました。同性の子ということで、母親にとっては自分の野心を投影した娘と自分自身とをより同一視しやすくもありました。しかしながら、望ましいとされる女性像は新旧の価値観の矛盾の中でかろうじて微妙な妥協点でのバランスを取っているものでした(それは例えば、女の子も勉強ができる方が望ましい、だけどいくら優秀でも勉強ばかりでスカートのシワも気にしないような「ガリ勉」タイプは、男の「ガリ勉」と比べてはるかに敵意を集めやすい。あるいはクラスの副委員長タイプのように女の子の「自主性」は「周囲から要求されたときだけ」発揮されるのが望ましい、といったような風潮です)。

「周囲から要求されたとおりに自主性を発揮する」という言葉が根本的な矛盾に満ちていることは、鋭い人ならすでにお気づきでしょう。しかし価値観の矛盾の中での妥協点に立った「期待される女性像」は、まさにそのようなものであると言えます。なぜなら、伝統的に女の子の成熟は、ときに従来の価値観からはみ出すような冒険もして失敗も繰り返しながら新しいものを獲得してゆくよりも、ひたすら失敗をせず、要求される価値観からはみ出さず、一個の「規格品」として完成されることに重点が置かれていたからです。そしてこれまでその規格とは、端的に言えば「花嫁」でした。今やそれに「キャリア女性」というもう一つの規格が加わったのです。

このように育った「新しい女性」たちはしばしば、本当に自主性を要求される局面まで昇りつめたときまで、全く自主性を発揮するための土台を発達させていませんでした。自主性を発揮するための土台とは、親や先生や上司の「いい子」でなくたって自分の世界は壊れはしない、世の中には言っても分からないヘンな大人もいたり、どうしようもないこともあったりして、自分には限界もあるけれど、でも自分のできることもある、という本当の自己肯定感です。自己肯定感の土台もなく「浮き足立った」女性たちは「クロワッサン症候群」と呼ばれたように仕事にも生活にも目標を見失って抑うつ的になったり、「シンデレラ・コンプレックス」と言われたように結婚に逃避を求めたり、あるいはカルトや自己啓発セミナーや、東電OL殺人事件の被害者のように拒食症などに「いい子」の自己イメージの回復(と、おそらくは無意識の復讐)を求めてしがみつきました。

本来の自己として肯定されるよりも「規格どおり」であることが優先されるような女の子の育てられ方自体がきわめてAC的なものであるといえますが、女性に多くの機会が開かれていく時代の中での(多くの場合、共依存的で自身も自己肯定感に乏しい)母親の嫉妬も、女の子が本来の自己を安全に発達させる場所を奪うものでした。

このような中で昨今では、自分には決して開かれない(あるいは決して開かれないと思い込んでいる)機会を娘を通じて間接的に手にしようと、娘の買物でもお稽古ごとでもすることなすこと何にでもくっついて回る母親と、そんな母親と「友達親子」のような関係を楽しんでいるかに見えながら、無意識の中では親を見捨て、親に見捨てられることへの罪悪感にとらわれているために「子供」を演じ続けている娘の「一卵性母娘」という現象も現れてきました。

女性とAC問題ということについて多くのスペースを割きましたが、これらの問題は決して、決して「女性が解放されたからこんな問題が生じてきた」というのではありません。昔からあった問題が、土壌の変化により今までにない形を取って目立って表面化してきた、そういう性格のものであると思います。よくこういう問題になると「だからフェミニズムが悪いのだ」という意見が聞かれます。昔ならこんな問題はなかったはずだ、「解放された女」たちが「男並み」に肩肘はってギスギスしたせいだ、だから女は従来の伝統的な生き方に回帰すべきなのだ、うわっついた夢はあきらめて現実を「受け入れ」、「土のにおい」のする「カアチャン」の生き方に回帰すべきなのだ、という声が(たいがいは保守層の男性から)聞かれます。しかし私たちはすでに、ジメジメと根腐れを起こさせる共依存的な「土のにおい」を知っています。人に期待をかけて世話を焼く以外の生き方を知らない「田舎のカアチャン」の不幸そうな顔を知っています。

社会という大きなレベルで言うなら、女性だけが本来の自己を発達させるかわりに他人に期待をかけて世話を焼く共依存的な生き方に押し込められる社会はやはりどこか間違っていると思います。が、それは何でも「男性並み」の成果を上げ、成果を主張すべきとされるマッチョ主義にすればいいという意味でもありません。事実、そういったマッチョ主義もまたワーカホリックの問題などあちこちに疲弊をきたしています。当たり前のことですが、社会は個人の集合体であり、個人の力で変えられる部分と、個人の力の及ばない部分が存在します。大切なのは、個人には限界もあるということを受け入れた上で、また個人に残された選択の自由を放棄せず、真の自発性と共感とをもって生きるということです。ずっと誰かにとっての規格品の「いい子」でしかない生き方からは、真の自発性も他人への共感も生まれないと思います。


「豊かさ」の中の牢獄

「機能不全家庭」という言葉によってまず私たちが想像するのは、父親が飲んだくれては暴力をふるい、家にお金も入れない、母親がパチンコに狂い、子どもを車に放置したり食事も与えないでおく、あるいはサラ金に手を出す、おおよそ学用品や服も満足に買い与えない、狭苦しい家の中には本の1冊もない…という、社会の中で「底辺」に位置するような家庭ではないかと思います。しかし、底辺ではない、経済的・地位的に「中流」や「上流」の家庭にもやはり機能不全はあり、その中で苦しむ人々がいます。

たとえば親のお金がたっぷりあるおかげで「引きこもり」生活が何の経済的摩擦もなく成り立っているケースは多くありますし(多くの場合、“世間体”との摩擦は消えてなくなるわけではないので、家族ぐるみでひた隠しにしていたりするわけですが)、裕福な家庭で親の期待(と、進学校や塾などへの学歴投資)を一身に受けた優秀な少女たちがひっそりと摂食障害の「吐きダコ」を手の甲につくっていることもあります。経済的にも、世間の尊敬度も高い職業である医師が、麻酔用の笑気ガスや処方薬などへの薬物依存に陥っているという話もしばしば聞きます。医師のアルコール依存もあります。アルコール依存はなにも私たちが想像する“飲んだくれ”のイメージどおりの底辺労働者だけでなく、主婦にも、企業重役の間にも存在します。暴力に嗜癖しているDV加害者の一部は世間的には会社役員や弁護士といった立派な職業を持つ“紳士”として通っている、というのはよく聞く話です。もっとも簡単にカモフラージュできる依存症といえば「仕事依存(ワーカホリック)」でしょう。「仕事熱心」でその上に年収も多いとくれば、世間はそこに問題を抱えて苦しむ人間がいるなどとは気づきもしないものです。

そういう人々に世間はしばしば、「わがまま病」「ぜいたくな不幸」「ぐじゃぐじゃ言って、親のスネかじって甘えてるだけじゃないか」「何不自由なく恵まれておきながら、何が不満なんだ」…といったように、その人の問題と「お金や地位・学歴や特権をもっていること」とを混ぜくたにした道徳的非難を浴びせる傾向があります。「コツコツ働く苦労人こそが偉い」といった世間並みの道徳基準(それ自体はとくに間違っているとは思いませんが)から、そういう人に対し「過保護」「甘やかされすぎてスポイルされた」「ひよわなエリート」というレッテルを貼ったり、あるいは上の世代なら「昔はそんなことで悩んでいる暇なんかなかった、空襲や食糧難の中を生きていくのに必死だったんだ」と、自分たちの「昔」とひき比べ、その「悩みのくだらなさ、ぜいたくさ」を指摘して非難したり、というようなこともよくみられます。

しかし、「中流・上流」に属しているとされる「何不自由ないはずの人々」の悩みに対するそういった語られ方は、問題の解決にとってほとんど役に立たないばかりか、しばしば苦しんでいる当事者を二重に傷つけているのではないかと思います。それは「苦労人の一般庶民だから偉い、苦労をしてない金持ちエリートだからダメ」という、問題と直接関係ない上に具体性を欠いた道徳的非難を問題と結びつけているにすぎないし、また――あまりにも陳腐な決まり文句に聞こえるかもしれませんが――世間でいう「お金」「地位」といったものが、私たち人間にとって必ずしも、いつでも持っているだけで自動的に幸福をもたらしてくれる物であるとはかぎらないからです。

管理人が昔、さる大手スーパーでアルバイトしていた頃に警備員のおじさんからこっそり聞いた話ですが、ある万引き常習犯の中年女性がいたそうです。婦人服売場のブラウスや、靴や、化粧品、台所の洗剤、といった小さなものを万引きするわけですが、ある日私服の警備員に現場を押さえられ、売場の裏側にある事務所へと連れて行かれます。スチール机の前でおびえたウサギのように小さくなっている女性に身分証明の提示を求め、自宅へ確認の電話を入れると、なんと彼女はその都市の中の有名な高級住宅街に住む、ある会社役員の夫人だったことが判明したそうです。

事情を聞いて女性の身柄を引き取りに来た家族は店側に丁重に非を詫びて、いままでに彼女が盗んだと思われるものの金額をすぐにそっくり弁償し、どうかこの件は内密に、と頭を下げて帰りました。しかし、それは事件の「終わり」ではありませんでした。1ヶ月の後、彼女はふたたび万引きの現場を押さえられました。前とまったく同じように事務室へと連れて行かれ、同じように家族が弁償金をすぐに支払って、そうして言ったそうです。「(彼女は)病気なのだから放っておいてやってください、お金はあとで幾らでも払いますから」、と。

お金をすぐにきっちり支払われるのだから店側としては「警察につき出すぞ!」と強硬に出るわけにもいかなかった、ということでした。その後、三たび、四たび、まったく同じことが繰り返され、家族が万引き損害額の“前払い”として数十万円のお金を店に持ってきた日もあったそうです(店側が受け取ったのかどうかは分かりませんが)。そうしてしばらくして、その彼女ももう店に現れなくなった、ということです。

その後のその中年女性がどうなったかは知りません。どこかへ引っ越したのか、入院したのか、またどこかで回復のきっかけをつかんだのか…それは想像の域を出ません。しかし、「お金」と「人間の幸福」というものについて、たいへん象徴的な話なのではないかと思います。まず彼女は会社役員夫人というたいへん裕福な身分で、ブラウスや靴や洗剤くらい、お金を出せばいくらでも、ひょっとしたら段ボール1箱分でも、簡単に買えたはずでした。にもかかわらず、お金で簡単に買えるはずのものを、彼女はわざわざ盗んだのです。

そしてまた、おそらくは家族も――彼女のために数十万円もの万引きの弁償金の“前払い”まで申し出るなどという、法外なお金の使い方をしながら――彼女のほんとうの心の叫びに耳を傾けることはなかったのでしょう。万引きの代金を払って店側と損害の差引勘定ゼロになれば、経済的にはなんの問題もなかったことになり、「家族の恥部」である彼女の窃盗癖は口外にされずに済む。…「警察につき出す」という選択がすべての窃盗癖のケースにとって正しいのかどうかは分かりません。ただ言えることは、「お金の怖さ」のひとつとは、「問いを十分に経験すべきところに、あまりにも簡単に解決を与えてしまうこと」ではないか、と思うのです。正しい問いとは、心の成長へ向かおうとする生命力の働きです。万引きという周囲の迷惑はなはだしいような無意識のふるまいの言語を通してにせよ、おそらくくだんの役員夫人が求めていたのは商品そのものではなく、自分の苦境、虚しさ、自分の存在に対する「問い」でした。そこに安易な「解決」だけが次々と先回りして与えられてしまうなら――それは神話のマイダス王を思い出させる光景かもしれません、どうという価値はない、しかし本当に生命を維持すべき食物や水までもが、黄金という決して食べられない「富」に変えられてしまうなら――「お金」やそれによってもたらされる「解決」に、いったいどんな意味があるでしょう。

それだからといって、ただちに“スパルタ何とか塾”式に、お金も保護も何もかも引っぺがして荒海へ放り出せ、貧乏を体験させろ、みたいな処方箋を提示するのが正しいとも思えません。確かに、経済的環境が「金持ち」から「貧乏」にシフトすれば「わがまま病」とみなされる症状は一時なくなるかもしれない。しかし、貧困の中にも私たちの心まで貧しくしてしまう「怖さ」があるのと同じように、貧困とは全く逆に見える「お金」や「豊かな社会」にも、私たちの内面的な生活をまったく生命と切り離された“解決”の牢獄に変えてしまう「怖さ」が存在すること、問題はそこだと思うのです。ともかくなんでも貧乏を体験させてサバイバルさせればいいんだ、という考え方は、ひょっとしたら、「お金の怖さ」からの逃避、ではないでしょうか? 「豊かさ」の中身はどうあれ、私たち日本人が現在生きているのは戦後50数年を経て達成された「豊かな社会」です。その中でどうしようもない内面の渇き・生きづらさを感じているということ、それは見方を変えれば、この「お金」や「豊かさ」と正面から向き合い、その中にひそむ「怖さ」が一体何であるのかを見きわめて乗り越えてゆける、大きな成長のチャンスでもあると思うのです。

「人はパンのみにて生くるにあらず」という言葉があるように、衣食足りた「豊かさ」の中にも生きづらさが存在します。貧困の中にもそれは存在します。しかしそこで「何不自由ない暮しをしているくせに、何をぜいたくな…」と、物質的豊かさをひき比べて非難することは無意味であると思います。他人から見て「ぜいたく」であろうとなかろうと、その人にとっては生きづらさの悩みであるわけです。ひょっとしたら、非難する人々の心の底には「私たちだって苦しんできたのに、貧乏を、戦争の中を必死で生き抜いたにもかかわらず、誰も私たちの苦しみをかえりみてはくれなかったのに、あんたたちは衣食足りていながら“生きづらさ”なんかで悩んで、話を聞いてもらえるなんて、大事にしてもらえるなんて、ずるいじゃないか…」という気持ちを触発される部分があるのかもしれません。もしそうならば――そうであればこそ、互いが愛情の“分け前”をおびやかすと信じている寂しい子ども同士のように反目し合うのではなく――それぞれに比較されることなく自分たちの苦しみを語り尽くすことのできる場が、今なお必要だと思うのです。


すべての家庭は機能不全家庭でありうる――「完璧な家族」信仰はアブナい

子どもにネガティブな影響を与える機能不全家庭、ということについて論じましたが、自らがすでに親の立場である側からしてみれば「じゃあ私たちにどうしろというんだ、あれもこれも機能不全じゃないか!?」という反論が出てくるのは当然だと思います。家庭の中に、自分自身の選択肢や社会的スキルを持った「大人」という強者と、選択肢もスキルもない「子ども」という弱者がいれば、いくら親子で仲がよくてもそこにはつねに「支配・被支配」の関係があるものです。それは「大人と子ども」という「構造上逃れようのないこと」、だと思います。大切なことは、それについて自覚的であること、だと思うのです。自分が支配者になりうること、完璧ではないこと、過ちを犯しうることについて自覚的でなければ、過ちについて軌道修正できる可能性も決して生まれてはこないでしょう。

むしろいちばん危険なのは、なんの問題も起こさない「完全無欠なあたたかい家族」がどこかにあるという幻想を抱いてしまい、その基準を自分にも他人にも押しつけることなのではないかと思います。自分たちが「完璧な善」を達成した、自分たちこそが絶対の正義だ、という幻想に浸ってしまえば、「完璧さ」の外面を取りつくろい演じつづけるために、さまざまな偽善が生まれてきます。いちばん手っとり早く自分たちの「正しさ」を再確認する方法は、対比すべき「悪人」をどこかに作り出して血祭りにあげることです。「コドモがコドモを産むな」「鬼畜のようなバカ親」「母性愛の欠片もないヤンママ」…といったような「いじめの対象」を作り出して攻撃することです。

一方、自らも親に虐待されて育ったり、行き場のないストレスを抱えていたりして子供を虐待してしまった人々は、そのような非難の声の中で「鬼畜」として攻撃されることを怖れ、自らの虐待をひたすら隠しておかねばならないと感じるでしょう。そして事実を包み隠して自分を責め続けることで行き場のない思いはいっそう悪化し、それをまた虐待によって放出してしまう、という、嗜癖とそっくりな悪循環が形成される可能性は高いでしょう。そういう親たちの隣近所もまた、「すべての家族は“完璧な、あたたかい家族”であるはず」、家族だけで近所に一切迷惑もかけず何もかも自己完結しているべき、と考えていれば、壁の向こうから子どもの悲鳴が聞こえても虐待が疑われても、助けに入ったり介入したりする可能性はほとんどないでしょう。

そして当のACにとっても、「完璧な家族」という幻想を抱いてしまうことにより、それに対比した自らの過去を憎み、自分自身を欠陥ある親に育てられた「できそこない」として永久に憎まざるをえないでしょう。家庭や子どもを持つ・持たないということは個人の選択の問題なのですが、一部で言われる「ACは連鎖する」「虐待は必ず連鎖する」、だからACは家庭や子どもを持つべきではないといった考え方には、どこにもない幻想の「完璧な家族」「完璧な人」に対比させたACを「欠陥人間」として断種・絶滅でもさせろといったような方向へ走りかねない危うさがあるように思います。「完璧な子を育てるための完璧な親」であれ何であれ、人間を目的のためのたんなる手段に変えるということは、「合格品」として選ばれた側も「欠陥品」としてハネられた側も、どちらも自尊心を奪われるものです。

本当に怖ろしいことは、「ACになってしまったこと」ではなく、「ACとしての自分自身の問題に無自覚であること」だと思います。



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