Top >>Read Me >>回復の方法論(2)
2) パワーゲームを降りる
勝ち負けばかりにこだわるのをやめる
「自分は今のあるがままで、愛されるべき、大切な存在なのだ」という信念は、健康な自尊心の発達、さらには対人関係や健康な責任感などの、人生全般のスキルを発達させるために欠かせないものです。 この信念が傷つけられ、「あるがままの自分はどこかまちがった、悪い存在だ」という病んだ信念を植えつけらるのはたいがい子供の頃の親や周囲からの心理的暴力や辱めの声によってですが、子供であれ、人間は誰でも自分が無力な、まちがった存在だと感じつづけていたくはないものです。そうはなりたくないので、逆に相手や周囲を支配し、うち負かすことで、「弱い、無力な自分」を忘れようとすること、それが「パワーゲーム」です。 パワーゲームの代表的な形は、他人と自分とを比べて「どちらが勝ったか負けたか、上か下か」という査定をつねに行なっては戦々恐々としている状態です。外面は親しい友達としてつき合っても、心の中ではすべての他人を自分の競争相手・ライバルとみなし、点数をつけているので、本当は誰とも心休まる人間関係が持てず、つねに他人に対し競争意識と嫉妬心をつのらせて生きていることになります。 この種のパワーゲームは他人に対するのと同じように、自分に対しても容赦なく点数をつける「審判」の目を向けるため、自尊心の渇きはますますひどくなります。人生がつねに勝ちつづけなければならない自分との戦いであり、ダイエットに失敗して過食になったり、引きこもったり、受験に失敗したりして「負けている自分」になってしまえば、それは自分を全否定されることにつながります。だから、今の「負けている自分」は「世をしのぶ仮の姿」「人生のリハーサル段階」ということにして、「すべてに成功し勝ちつづける、最高の自分」の人生がどこかにあるという幻想を持ちながらも、「まだその資格がないから」と人生の喜びや権利からわざわざ退却しているかのような、貧弱な現実生活を送っていたりします。これはけっして「若者の、モラトリアム人間の甘ったれた考え」などではなく、むしろ「手の込んだ自己処罰」と言った方が正しいように思います。 しかしパワーゲームの底にあるのは、「あるがままの自分そのものがどこかまちがった、悪い存在である」という信念――『インナーチャイルド』のジョン・ブラッドショーは「中毒性の恥」と呼んでいますが――「具体的などの部分が、どの行動が悪い、直した方がいい」という欠点ではなく「存在そのものが悪い、まちがっている」といういわば「直しようのない烙印」であり、パワーゲームはそれをいっとき忘れさせるにすぎません。ですから、パワーゲームでどれだけ勝ちつづけても、自尊心の渇きが癒されることはありません。それどころか、パワーゲームにハマればハマるほど、ますます周囲の他人すべてが自分の勝利と分け前をおびやかす存在でしかないように見えてきます。 あるがままの自分を否定されたみじめさを覆い隠すためのパワーゲームは、あらゆる嗜癖の温床であり、またそれ自体嗜癖である、ということも可能だと思います。 「パワーゲームを降りる」というと、何だかこの競争社会の一切の競争から降りて山奥で隠遁生活でもすることみたいに聞こえるかもしれませんが、けっしてその必要はありません。現代の私たちが生きている社会においてはどこへ行っても競争がつきもので、それは私たち個人の力ではどうにもしようがない部分の方が多いものです。大切なことは、「周囲の評価に関係ない本当の自尊心を持って、この競争社会に自分で選んで参加すること」だと思います。精神科医の斎藤学氏は『「自分のために生きていける」ということ』の中で、ベルリン・オリンピックのマラソンランナー、孫基禎(ソン・キジョン)の言葉を引いて「パワーゲームを降りること」を解説しています。 「戦争は、弾に当たったら死ぬんだよ。勝っても死ぬんだよ。負けても死ぬんだよ。(スポーツは)勝負のときは国があるけど、終わったらユニフォームを交換したり、笑ったりする。平和だよ平和。また明日やろう。今日は負けたけど」 「パワーゲームを降りるというのは、ゲーム自体を降りることではなく、勝ち負けの結果にこだわるのをやめることである」と斎藤氏は述べています。 他人から何と評価されようと点数をつけられようと、「私は私」という強い健康な自己肯定感を持つためには、「回復の方法論(1)」で紹介したアファメーション訓練も有効ですし、また言葉だけでなく実践によって本当の自分の欲求を満たしてゆくことも、さらなる自己肯定感への支えになります。自分の本当に食べたいもの、読みたいマンガを注意深く選んで自分のために買ってくるというような小さなことでもいいし、好きな趣味に打ち込むのもいいでしょう。 たとえば「大きくなったら何になりたい?」と聞かれて、「お花屋さん!」「大工さん!」と即座に答えていた頃――花屋の店員は大卒か、短大卒か、専門学校か、あるいは大工の年収はサラリーマンと比べてせいぜい幾らで…というような他人の値踏みを気にした判断はまったく入り込む余地がなく、純粋に「自分が好きだから」という動機でいろいろな物事を追求していた、あの気持ちとのつながりを回復すること、それがパワーゲームを降りることであり、「インナーチャイルドを自分で世話する」ということではないかと思います。 むろん、子供の自分の声が命ずるままに現実のキャリアをいきなり変える、というのが必ずしも最善ではない場合もあるでしょう。大人としての現実生活との兼ね合いを見ながら、趣味などによって「自分の本当に好きなこと」を探っていくのもいいと思います。もちろん、「自分の好きなこと」を追求しているうちに、それが「自分の天職」になったら最高だと思います。自分の仕事に愛情を持って働ければ、世の中がどうなろうが、周囲にどう値踏みされようが、決して自分がみじめになることはないし、じっさい、さまざまな分野で名をなし安定した成功をおさめつづけている人々というのは、「成功のため、ステータスのため」というより「自分が好きなことを追求していたら、いつの間にかここまで来ていた」というパターンの方が多いようです。 1921年に今日のフリースクールの先駆的な学校「サマーヒル」を創設した英国の教育学者A.S.ニールは、「私はサマーヒルが、神経症の総理大臣よりもむしろ幸福な道路掃除夫を世に送り出す学校であってほしい」という言葉を残しています。道路掃除夫という、世間並みの基準から見れば「低学歴、低収入」であり、昨今の言葉でいえば「負け組」としてくくられてしまう職業であっても、たとえばエンデの『モモ』に出てくる道路掃除夫ベッポのように、あれほどの愛情と誇りをもって自分の職業や暮しにかかわってゆければ、それにまさる周囲への貢献はないでしょう。 逆に、「神経症の総理大臣」――世間並みのヒエラルキーの世界でいう「勝ち組」「エリート」であっても、心休まることもなく不幸で、「勝ち組」であったぶん、分け前をおびやかす存在としての他人に対する疑心暗鬼と憎しみが人間観・世界観のベースになってしまっているような人間――そのような人が「エリート」として社会の大きな権力を手にすることほど恐ろしいことはないでしょう。そういう人々は自分の疑心暗鬼と憎しみをベースに人間を見、人間を管理するシステムを作ろうとするからです。エーリッヒ・フロム『悪について』や、自伝『わが闘争』などを読めばきっとわかると思いますが、ヒトラーのナチス・ドイツの歴史とは、「総統」という最高エリートの座にのぼりつめても最後まで自分の人間としての価値を信じることができず不幸だった一人のアダルト・チャイルドが、「負け組=人間のくず」とみなしたユダヤ人、少数民族、貧民、同性愛者、子供を産まぬ女性、心身障害者…の痛みと累々たる屍の山を代償として、ようやく自分の「勝利」の確信にしがみつこうとした、ようやくかすかな安心を得ようとした、その不幸な結末だったように思います。 「幸福であること」――パワーゲームにとらわれず、自分自身にとって何が気持ちいいことなのか見極めることというのは、何も利己的なのではなく、結局はそれが周囲に貢献するいちばんの道なのではないかと思います。「不幸なエリートにならないこと」、それは出世競争を降りてラクができる云々というよりも、周囲の人々と社会全体のためです。もちろん、自分が心から幸福で誠実であれる仕事に真摯に打ち込んできて、それが社会からも高い尊敬を得ているなら、これほどいいことはありません。 この世に生まれることと、死ぬこと――パワーゲームを超える視点を持つ
また、パワーゲームを降りるためには、「世の中のパワーゲームの枠組みそのものを、一歩離れた、さらに大きな視点から見て疑ってみる」ことも効果的だと思います。 たとえばあなたがパワーゲームの世界で最高の勝者――中学高校大学と最高の偏差値の学校でつねに1番、スポーツもできてルックスもよくてモテまくりで、ハーバードかオックスフォードの大学院を出て、『フォーブス』の世界長者番付にランクインするほど仕事に成功して、慈善事業にも精を出して「有徳の人」と称えられて……そうであっても、今もしあなたが死んだらどうなるか。たとえあなたが最高の勝者であっても、あなた一人が死んだところで、世界は変わらずに回っていきます。ひょっとしたら「惜しい才能をなくした」と惜しまれるかもしれない。仕事上の混乱があるかもしれない。しかしすぐに「代わりの人材」があなたの穴を埋めるでしょう。有徳の人をなくして、ケネディやダイアナ妃が死んだときのように1ヶ月、あるいは数ヶ月、「世界が悲しみに包まれる」かもしれない。しかし「悲しみに包まれている」人々にも普段と変わらずご飯食べて仕事に出かけて雑談して過ごす日常生活があり、そして1ヶ月か、数ヶ月を過ぎれば、あなたのことなどケロリと忘れているでしょう。 そのことを――死ぬことと、この世に生まれるということを大きな視点で考えてみるとき、パワーゲームは決して人間の究極的な幸福のゴールになりはしないということが、あらためて分かると思います。 アルコホーリクス・アノニマスなどの12ステップには「自分を超えた大きな力」「自分で理解している神」「ハイヤーパワー」といった表現がよく出てきます。管理人自身は無宗教ですが、「宗教」や「霊性(スピリチュアリティ)」というものは何も魔術的・非合理的なものではなく、人生の究極的な意味を求めようとした先人たちの知恵であり、「この世に存在させられることと死ぬこと」という大きな視野で人生をとらえるひとつの視点ではないかと思います。 英語で「信仰」という意味の「faith」という単語はまた、「誠実」という意味でもあります。「宗教=先人の知恵による平明な人生哲学」くらいにとらえて、リソースとして使える部分はどんどん使っていけばいいのではないでしょうか。 下に宗教・哲学的な書物をいくつかあげておきますが、特定の宗教を信じるかどうかは別にして、単に教養としても、そういったパワーゲームを一歩引いて冷静に見つめる大きな視点を自分の中に持つために、宗教的・哲学的な文献を読んでみるのはいい方法なのではないかと思います。 【おもな宗教の教典】 聖書 新共同訳 日本聖書協会 いわずと知れたキリスト教の教典。「新約聖書」の4つの福音書がイエス・キリストの言行録。「旧約聖書」はヘブライ人の神話と戒律といった性格が強く、福音書の後に続く「使徒行伝」はキリストの死後の、主にパウロによる伝道と「教会」確立の記録。 ブッダのことば - スッタニパータ 中村元訳 岩波文庫 仏教の教典はたいへん数が多いのですが、これはその中で最古とされるものです。 コーラン 上 中 下 井筒俊彦訳 岩波文庫 イスラム教の教えと戒律ですが、管理人がとくに興味深いのは「喜捨」(貧しい者への寄付)に関する考え方で、「一部の人間による富の独占(=死蔵)と、強制的な富の平等分配と、どちらも人間の本性に反する」という考えを打ち出している点です。 【宗教哲学その他】 善の研究 西田幾多郎 岩波文庫 哲学者・西田幾多郎による、人間にとっての「善」とは何か、という問いに対する考察。 愛に生きる - 才能は生まれつきではない 鈴木鎮一 講談社現代新書 ヴァイオリン教室「スズキメソード」の創始者による「子どもと音楽」についてのエッセイなのですが、平明な言葉で書かれた生活と芸術と宗教についての優れた考察でもあるように思います。 人生の短さについて セネカ 茂手木元蔵訳 岩波文庫 哲人の目から見た、パワーゲームにあくせくする古代ローマ社会への批判。厳密に「宗教」ではないけれど、「心の平静」という考え方は大変参考になるのではないかと思います。 宗教的経験の諸相 上 下 ウィリアム・ジェイムズ 桝田啓三郎訳 岩波文庫 心理学の視点から宗教体験を詳細にとらえた講義集。 精神分析と宗教 エーリッヒ・フロム 東京創元社 愛と心理療法 M・スコット・ペック 氏原寛・矢野隆子訳 創元社 べつに信仰を持つことや特定の宗教への入信をすすめるわけではないのですが、管理人は『マンガ 子ども虐待 出口あり』のイラ姫さんの「人からイノセンスをもらいそこねたら、神仏からもらえばいいだけのこと。そもそも、そのためにいるんだし」という考え方にすごく賛成です。 イノセンスとは「この世に生まれて存在させられているということ自体、それはあなたの責任ではない。あなたが悪いのではない」ということなのですが、イノセンスを受け止めて承認してくれるものがないかぎり、私たち人間にとって人生とは「どう考えてもスタート地点から自分の意志に関係なく存在させられていたのに、気がついたら甘えるな、逃げるな、自分の人生に責任を持て…としじゅう追いたてられている」単なる不条理の連続でしかなくなってしまい、そんなところにそもそも本当の責任能力など育ちようがないのではないかと思います。 よく、私たち人間は「生かされて生きている」という言い方をします。おまえは「生かされて」いるんだ、産んでもらって、面倒をみてもらっているんだ、ありがたく思えよ、くやしかったらせいぜい分をわきまえて、おまえも勝ち組になれよ…という誰かさんのエゴがこの言葉とセットになって押しつけられることもあります。しかしそういうエゴの押しつけこそ、人間としてこの世にあるということの理不尽な負債をただ自分より弱い者に押しつけただけではないか。管理人はそう思います。 だとしたら、そんないわれのない借金証文をバカ正直に信じたまま「勝ち組」「自立」の側へ立とうとあがく方が間違っているし、そうやって勝ち取った「自立」なんて所詮虚妄に過ぎないんじゃないか。この世に生まれることにも、死ぬことにも、私たち人間はまったく無力で受動的で、責任なんか最初から取りようがなかったのだと認めてもいいじゃないか。頼んだわけでもないのに、気がついたら確かに「生かされて」この世に存在しちゃってる。そのことはしみじみと哀しくもあるし、それは「呪い」だと思えば「呪い」であり、「恵み」だと思えば「恵み」にもなりうる。それが生きるということ、だと。 「神様」が人間の発明品なのかどうかはわからないけど、ともかく…神様でもAC仲間でも、それが可能そうな人に、「自分の人生の責任は一から十まですべて自分で負わなければならない」というそのどう考えても無茶苦茶ないわれのない負債の“無効宣言”をしてもらってもよくない? その方が心落ち着いて、日々の生活の責任へと歩き出せる気がするんだけどなぁ…と。そんなふうに思います。 父母はわたしを見捨てようとも、主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。 I(アイ)メッセージ――コントロール合戦をストップする言葉
またパワーゲームは世間的なステータスにおける勝った負けた、だけでなく、他人との関係においてもくり返されることが多いものです。とくに、嗜癖者とその家族や親しい友人などの間では、嗜癖者の側は「病気でいること」によって家族や友人の情緒を振り回してコントロールし、家族・友人の側は「嗜癖者の行動の尻ぬぐいに走り、嗜癖者を依存させておくこと」によって、嗜癖者の上に庇護者としてのパワーとコントロールを及ぼす…という小さな閉じた世界での人間関係のパワーゲームが展開されていることが多くあります。 このようなパワーゲームの原因のひとつは、「どこからどこまでが自分の問題で、どこからが他人の問題なのか」という、個人の境界線(バウンダリー)があいまいであることです。どこかで他人を自分の延長のように考えているから、自分の手足を動かすように他人をコントロールしようとして、その結果、互いを「憎み合いながら離れられない」ようなコントロール合戦の泥沼にハマっていくことになります。 カウンセラーの信田さよ子氏は『マンガ 子ども虐待 出口あり』の中で、このような癒着状態に対し境界線を作って整理していく方法として、「I(アイ)メッセージ」を提案しています。 I(アイ)メッセージの基本は「○○をやめろ」というような他人に対するコントロール・命令ではなく、「私はこういうことで困っている」というように、「私(I)」を主語にすることです。自分を主語にすることによって、主語があいまいなまま他人の問題をコントロールしようとすることをやめて、「自分の問題は何であるのか」に集中することができます。 例) 過食している娘に対する母親のメッセージ
家族や友人やパートナーが嗜癖者だったり引きこもりだったり、その他「問題行動」があったりして、そのことで自分自身の生活がままならなくなるほど悩んでいる、という人は、この方法によって「自分の問題は何であるのか」ということに集中してみるといいと思います。 「そんな! だって家族なんだから、家族の問題行動を心配するのはあたりまえでしょう!?」というような反論が即座に出てくるかもしれません。しかしそこで、「家族なんだから」の「家族」とは(あるいは「パートナー」とは、「友人」とは…)何なのか、ということについて考えてみてください。家族とは…「愛情によってつながっているべき人間同士」、いいでしょう。ではその「愛情」とは何なのでしょうか。 愛情とは…「相手を思うこと」「相手の幸福を願うこと」、だとしたら、直接関係のない自分が夜も眠れないほど悩むことが相手の幸福になにがしか貢献しているでしょうか。そもそも、相手がある程度分別のつく年齢で、重度の精神疾患でもないのであれば、問題行動にしたって「好きでやっている」のではないでしょうか。せいぜい周囲に言えることは、その問題行動のせいで具体的にこっちにどういう迷惑がかかっている、ということくらいだと思います。 そして相手が分別のつく年齢であるのなら、「問題行動の尻ぬぐいをすること」も「相手にとって何がいちばんいいかを勝手に判断してガミガミと指図すること」も、どちらも相手を子供扱いしていることに他ならない、不健全な関係の持ち方といえるのではないでしょうか。本当の大人と子供であればそれは「保護」ですが、大人同士で大人と子供のような関係を持つとしたらそれは「支配・被支配」であり、「愛情」とはまったく反対の、愛情の仮面をかぶった単なるエゴの押しつけなのではないかと思います。 「だって家族なんだから!」「放っておくなんて、それじゃ愛情がないみたいじゃない!?」…と言いたくなる、その衝動をじっとふり返ってみてください。ああしなさい、こうしなさいとガミガミ言う、問題行動の尻ぬぐいをする、問題行動をやめなければ自殺する、別れるといった脅しを使う、相手の問題行動のせいで不幸になっている自分を見せつける、問題行動をやめるのによかれと思って相手を人前で辱める、あるいは相手と絶対に離れられない運命共同体であるかのように、ただひたすらストレスと不幸に耐えている……すべて「愛情」の行為だと思ってやってきた、あれこれと相手を変えようとする行動の底にあったのは、「それをやめてしまえばポッカリと真空地帯のような恐ろしい寂しさだけが残る」という予感だったのではないでしょうか。 精神分析医エーリッヒ・フロムは『人間における自由』の中で、「もし人が生産的に愛し得るならば、その人は自分自身をも愛しているのである。もし彼が、他人だけしか愛し得ないとすれば、彼は全く愛することのできぬ人である」と言っています。自分を愛することとは、自分ひとりでいられること、自分自身と向き合えることでもあるのではないでしょうか。自分ひとりでも自分自身との関係を楽しむことができてはじめて、本当に自由な選択として他人を愛することができるのであり、自分自身と向き合えないまま、自分の中の寂しさの空洞を埋めようとして他人の世話焼きに飛びついても、それは相手をむさぼりつくす「「愛」の仮面をかぶった支配」にしかならないと思います。 「家族は一心同体」「愛したらとことん尽くすもの」「愛したら相手なしでは生きていけないもの」…と、とかく私たちの社会には「愛」をめぐる固定観念があふれ返っていますが、このような固定観念の中で私たちは「つながり合う」ためにはまず「離れて立って」いなければならないこと、「心の扉を開く」ためにはまず「開いたり閉じたりすべき扉」をしっかり持っていなければならないこと、「与える」ためには「与えるべき自分」を持っていなければならないことを、ともすれば忘れがちなように思います。 もしあなたが他人の問題行動によって情緒的にふり回されてクタクタになっているなら、「私は〜だと思う」「私は〜で困っている」から言葉を始めて、自分の苦しさを言葉にしてみれば、きっと解決への道が開けてくることと思います。 | |