回復のモデル(1)」ではACの生きづらさの問題を大きく分けて

1) 嗜癖・依存症など、「分かっているのに止めることができない」破壊的な行動パターン
2) 対人関係において本当の親密さを築けないこと、またそれに起因する孤立感や恨みの感情
3) 「自分の人生を生きる」ことに対する恐怖・罪悪感からくる強迫的コントロール・完璧主義・自己処罰などの傾向
4) 未整理のトラウマから来る離人感・抑うつ・フラッシュバックなどの症状

以上のように分類し、「1) 嗜癖・依存症」と「2) 対人関係」の問題について論じました。

ここでは、残りの「3) 「自分の人生を生きること」の罪悪感・自己処罰」と「4) 未整理のトラウマの問題」について解説したいと思います。


3) 「自分の人生を生きる」ことに対する恐怖・罪悪感からくる強迫的コントロール・完璧主義・自己処罰

人生の早いうちから「病んだ家族システムを支える」という役割を取らされてきたACのほとんどは、「自分のために、自分の人生を生きる」ことについての罪悪感を持っています。また、親の虚栄心の道具として「非のうちどころのない、いい子」の規格に沿って生きることを強要された場合や、親自身が強迫的コントロールや「自分の人生を生きることの罪悪感」の問題を持っていた場合も、やはり「楽しめない、遊べない」自己処罰的な生き方が身についてしまいやすくなります。

このような心の持ち方の傾向はとくに、食物嗜癖や買物依存症などの人々において見られます。お菓子の袋を自分の部屋に持ち込んで四六時中食べていたり、貯金がなくなり借金するまで不必要な浪費をしつづける彼らは一見、自分の欲望ばかりを甘やかして自制心が全くないように見えますが、じつは彼らは自分が食べたり買い込んだりするものを本当に楽しんではいないのです。それどころか、大変な罪悪感を抱えながら過食したり浪費を繰り返したりしています。

食物嗜癖者や買物依存症者は心の奥底では、彼らが自分の本当に欲しいものを食べたり買ったりして楽しむ資格がないと思っています。だから、多くの過食症者・食物嗜癖者は食べ物を自分の部屋やトイレに持ち込んで一人でこっそりと食べ、買物依存症者は散財して買ってきた物を決して使って楽しもうとせず、包装紙さえ開けずにそのまま部屋に貯め込んでいることも珍しくありません。彼らにとって、これらの過食や散財は「本来自分にゆるされていない、それゆえに盗めるうちに大急ぎで盗み取らなければならない“いいもの”」であり、本当に自分のために何を買うか・何を食べるかということよりも、「散財する」「大食する」という“反逆”のプロセス自体に嗜癖しています。

しかし反逆は一瞬の開放感をもたらしますが、それは所詮、正当な欲望の“すり替え”であり、(心の中の親の声への)当てつけという形での“おねだり”に過ぎないため、真の欲求充足をもたらさず、かえっておねだりそのものが嗜癖化します。また、正当な権利の主張でない“反逆”とはそれ自体、いぜんとして「自分は正当なことをやっていない。いつか親に罰せられる」という考えにとらわれた子供の思考です。その「罰せられる」という予感は、クレジットカードなどの借金が払いきれなくなって問題が表面化したり、あるいは「食べ過ぎて太っているから、おしゃれをする資格も他のどんな人生の楽しみを味わう資格もない」という自己イメージの牢獄に自分の生活を閉じ込めることによって現実化します。

ここでは分かりやすい例として食物嗜癖者・買物依存症者をあげましたが、このような「自分の人生を生きることの罪悪感」をコントロールできない嗜癖の症状として行動化するところまでいかず、意志の力でもってすべてをコントロールし、「自分の人生を生きない・楽しまない」という生き方自体に嗜癖する人々もいます。「1日の食べ物:ロールパン4分の1、レタスの葉1枚」といったような自ら課した懲罰的な規則を強迫的なまでに遵守し、食物嗜癖の対極にあるかのように見える拒食症はその典型だと思います。あるいはディケンズ『クリスマス・キャロル』の主人公スクルージ老人のように、「人生をより豊かにするためにお金を使う」という本来の目的をまったく拒否して、ひたすらお金そのものを貯め込むことに嗜癖する人もいます。ワーカホリック(仕事依存症)も「楽しまない・遊ばない」生き方への嗜癖です。「仕事人間=やり手」のイメージとは裏腹に、多くのワーカホリックは細々とした雑事ばかりを抱え込み、自分の働きに見合った昇進・昇給などを要求することに非常な罪悪感を持っていたりします。あるいはまた、もう十分な資格・免状の数々を持っているのに自分の自由になる時間をひたすら資格試験の勉強などの「未来への投資」に捧げ、まったく「今」が存在しない人生を送っているような人々もいます。あるいは、自分の欲望をまったく放棄して「よかれと思って」他者の欲望に仕えることで、他者の人生にひたすら便乗して生きようとする共依存的な生き方に走る人々もいます。

これは管理人の私見ですが、現在の日本社会における受験体制というのはまさに「未来のためという名目のもとに、“今を生きること”を放棄する」生き方を私たちに叩き込んできたのではないかという気がします。そしてまた「引きこもり」とは食物嗜癖や買物依存と同じように、持つ権利がないと思い込まされてきた「自分のためだけの時間」を盗み取ることへの嗜癖であり、その結果としての「社会不適合者」の自己イメージの牢獄へ自分を閉じ込める自己処罰、という側面もあるのではないか。そんな気もします。

ではどうやって「罪悪感」→「反逆への嗜癖」→「自己処罰と自尊心の低下」の悪循環を断ち切ればいいのか。あるいはまったく楽しめない・遊べない・「今」が存在しない生活の中に、どうやって健康なバランスを取り戻せばいいのか。

まずは、「自分の欲求」というのは悪ではないのだ、と知ることだと思います。食欲や睡眠欲のように、欲求とは人間が生きていく上で必須のサインであり、欲求を完全に無視したら人間は死ぬのだ、という基本のポイントを確認することだと思います(「人と比べて、あれもこれも持ってなきゃ自分が“敗者”のような気がする」といった「自分を見失った欲求」もありますが、ここで問題にしているのはあくまで、人がどう思おうと関係ない自分自身の本当の欲求のことです)。

また、多くの「自分のために生きる」ことを恐れている人々は、「何かを欲しいと思うこと」と「実際に欲しいと思ったものを見さかいなく奪うこと」を心の奥底で混同しています。その底には、ひとたび欲求を持つことを自分に許してしまえば、際限のない欲求に呑まれてコントロールを失ってしまうのではないか、という恐怖があります。

しかし、食べたいときに食べて、お腹がいっぱいになれば自然に食欲が消えて食べるのを止めるように、人間の欲求には限度があるものです。買物にしたってそうです。ブランドの洋服でもCDでも、浪費それ自体への嗜癖ではなく本当に自分の欲しい物を買って楽しむなら、一度に袖を通せる洋服や聴ける音楽の量にはおのずと限度があります。そしてひとたび買ってきたものを本当に楽しんだなら、たいてい買物のことなどしばらくケロリと忘れて日常生活に戻っていたりするものです。

このことを体得するには、自分の本当の欲求にじっと耳を傾け、それを満たしてやる訓練を重ねることです。人に笑われるとか、後になってどうせ流行遅れになり価値がないものと位置づけられてしまうとか、そういう価値判断をいっさい抜きにした、「今・ここ」の自分の欲求をくみ取り、自分のできる範囲でそれを実現させることです。また実際に自分の欲しいものを食べたり買ったりする前に、イメージワークの中で自分の欲求やそれにまつわる感情を探索してみるのもいい方法です。スージー・オーバック『ダイエットの本はもういらない(原著:Fat Is a Feminist Issue)』の中には、空想のイメージの中で「無制限のお金を手にして、どんな食べ物でも手に入る自分の理想のスーパーマーケットへ出かけて好きな食べ物を手に入れる」体験をしながら特定の食べ物にまつわる感情や自分の今現在の欲求を探索するイメージワークが紹介されています。

このような訓練を重ねていくと、自分のひとつひとつの欲求がどの程度まで「自分の本心から出た欲求」なのか、それとも病んだ考え方のパターンから出た「反射的な欲求」なのか、ということを識別するのも上手になってきます。そして「反射的な欲求」が湧き起こってきたならば、そこから連想する感情や過去の出来事などを言葉にして表わすことによって、自分の心の奥底にあるメッセージを“すり替え”行動に過ぎない嗜癖などで行動化することなく、健康な形で表現できるようになります。

この自分の感情や過去を言葉にするという作業は、同じような問題を抱えた人々の、分析解釈や批判・お説教などを一切排したグループで行なうとさらにいいと思います。同じ問題を抱えた仲間がいることによって恥と孤立感から解放され、感情的なサポートを得ることができる上、あなたが自分について語る言葉が、他の人々のまだ言葉にできなかった思わぬ感情の鉱脈にヒットして、その結果他の人々が自分たちの感情を理解するのにも役立つ、ということが非常にしばしばあるからです。このサイトや他のサイトの掲示板などでもいいし、自助グループなどでもいいと思います。自分の直観を信頼して、自分にとって安全で役に立ちそうな場所を見つけてみてください。

そうして自分の感情や過去を言葉にしてゆくと、子供の頃から親や周囲に植えつけられてきたゆがんだメッセージが浮かび上がってくることが多いものです。そういった過去からのメッセージにひとつひとつ挑戦して、それをより健康な価値観へと書き換えていく必要があります。

どんなものが「ゆがんだメッセージ」なのか、ということについてですが、ひとつの判断基準として、「それに固執することによって、他者に対し恨みがましい気持ちを抱いている」かどうかを見ればいいのではないかと思います。たとえば、「少食でヤセていることが善であり、欲求のままに食べること・太っていることは悪である」という価値観に固執すれば、周囲の「デブであってもべつに劣等感を感じもせず、好きなものを食べてのうのうと生きている」人々が自分の道徳的な勝利をおびやかす許しがたい存在として映り、その結果、「あの人はデブだ、オバタリアンだ、トドだ、あんな姿にだけはなりたくない…」としじゅう恨みがましくブチブチまくし立てていることになるでしょう。あるいは「お金を持たないこと、欲しいものを欲しがらないこと」に不当に重い価値を置きすぎる人々は、「金持ちはみんなバカで不正なことをしている。金持ちの子供は全員、放縦でわがままだ」というような、ゆがんだ攻撃的な白黒発想でもって自分の道徳的な正当性を再確認したりします。あるいは学歴という「未来」のために「今」を完全に犠牲にしている(してきた)人々は、「低学歴」ということや低学歴とされている人々に対し不必要に攻撃的であったりします。

こう言ったからといって何も自分を本当におびやかしているものに対して怒りを感じてはならないとか、本当に不正な手段で利益を得ている金持ちのような社会的な悪を野放しにしておいていいとか、そういう意味ではありません。不正に対して怒りを感じていても、健康な人々は落ちついて自分のできることを行動に移せるものです。ゆがんだ、無理のある価値観に固執している人々が、自分たちの“正しさ”を再確認するために、実際の、あるいは想像上の“悪者”を貶めることを必要とします。

過去からのメッセージをひとつひとつ検証し、それをより健康な価値観へと書き換えていくことができたなら、それまで罪悪感と反逆への嗜癖にとらわれていた心の領域が何倍もの余裕を持てることと思います。大切なのは、「人生には未来に対する備えも必要だけども、備えばかりで「今」のまったくない生き方もまた狂気である」ということを知ることだと思います。お金や地位や学歴や痩せた身体はたしかにすばらしいけれど、所詮お墓の中にまで持って入ることはできないのだということを知ることだと思います。そして、たわいない、子どもっぽい、誰の・何のためにもならない、いっときの流行や浮かれ騒ぎや楽しみにすぎない、しかし心から楽しいと思える、ささやかな「今」のためにも、人間はたしかに生きているのだと、知ることだと思います。


4) 未整理のトラウマから来る離人感・抑うつ・フラッシュバックなどの症状

ACのほとんどは子供時代から親や周囲による物理的・心理的暴力にさらされてきた人々ですが、子供は誰でも自分の家族が病んだ、最悪の家族だとは認めたくないものです。「自分は親に虐げられている」と拗ねていたとしても、その拗ねつづけていること自体が「いつか親が自分のための良い親に変わってくれたら」という願望を捨てられないことの表われであったりします。子供が自分の家庭というものを中心にして対人関係の基礎や価値観を学んでいく以上、その家庭が「病んだ、最悪なもの」であっては心のより所とすることができないからです。

ですから、実際に病んだ、最悪な家庭であったとしても、子供は何とか「自分の家庭は何も問題ない、いい家庭である」というストーリーに沿って自分の経験を説明づけようとします。心理学者の岸田秀氏やナラティブ・セラピーは「物語」と呼んでいますが、「自分の家庭は何も問題ない、いい家庭である」という首尾一貫した矛盾のない物語をなんとか作ろうとするわけです。

しかし、実際の物理的・心理的暴力という、その「親には何の問題もない」という物語と矛盾し、こぼれ落ちる事実が出てきたとき、物語の整合性を守るために、「親は悪くない」→「ではなぜ自分が暴力を受けなければならないのか?」→「それは自分が“悪い子”だから」というもうひとつの説明=物語を採用しなくてはならないことになります。この「自分が“悪い子”だから」という説明を早くから自分の信念としてしまうことで、親に傷つけられたことの怒りが抑うつ(気分の落ち込み)などの形ですべて自分に向かうようになってしまいます。

あるいは抑圧した怒りを感じないように感情を鈍麻させ、離人症とよばれる状態に陥ったりします。離人症とは、「自分と世界がベールを一枚隔てているような感じ」「自分の身体や時間が自分のものとして感じられない」「自分のしていることが自分のこととして見えず、傍観者のように見ている感じ」といった症状です。

あるいはまた性的虐待のような、「家庭には何も問題はない」という物語に統合しようのないひどい暴力を受けた場合、記憶そのものが凍結したようにスッパリと抜け落ち、「子供時代の中で、どうしても思い出せない部分」を抱えて生きることになったりします。これは解離性健忘と呼ばれる状態ですが、記憶は消えてなくなったわけではなく、凍結されたままになっていて、何かのきっかけでそのまま氷山が水面下から浮かび上がってくるように生々しく思い出されたり、あるいは当時の恐怖感や身体の震えや痛みの記憶が理由のわからないまま何かの拍子によみがえってきたりすることがあります。これがフラッシュバックと呼ばれる状態です。

こういった問題を解決するには、心の底に抑圧したままにしている未整理のトラウマと向き合い、整理していく必要があります。それはとりもなおさず、「親や家族には何の問題もない、全部自分が悪い」という、曲がりなりにも今までしがみついて生きてきた物語を捨てて、新しい現実に即した記憶の説明づけをやりなおすことを意味します。

未整理のトラウマを記憶に統合することは、今までしがみついてきた物語=自分の人生への説明づけを捨てることを意味するわけですから、程度の差こそあれ、「何を信じていいのか分からなくなった」「自分がバラバラになったような感じ」といった情緒的な混乱がついてきます。ですからこの作業は、同じ問題を抱えた仲間で構成される、分析解釈や批判やお説教のない安全なサポートグループや、あるいは信頼できる専門家のサポートを得て行なうのがベストだと思います。

トラウマに向き合う作業はトラウマを語ることが中心になりますが、仲間や専門家のサポートの中で自分の語る内容が批判も安易な哀れみもなくしっかりと支持され、情緒的混乱を通り抜ければ、だんだんと「自分のための、新しい物語」を形成することができるようになってきます。そして過去の悲惨な事実を抑圧もゆがめもせず受け入れたままでなお自分の人生に対して前向きに生きられるほどに、心の強度が増し、新しい人生のスキルやリソースを活用できるようになった時、過去のトラウマはもはや現在の人生に害を及ぼさないものとなっていきます。



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