何をもって「回復」と言うのか

ACにとって「回復」とは何なのか、ということを論じるにあたって、もう一度「ACの生きづらさの問題」について確認しておきたいと思います。

「AC(アダルトチルドレン)の定義」で見てきた、ACの生きづらさの問題は大きく分けて

1) 嗜癖・依存症など、「分かっているのに止めることができない」破壊的な行動パターン
2) 対人関係において本当の親密さを築けないこと、またそれに起因する孤立感や恨みの感情
3) 「自分の人生を生きる」ことに対する恐怖・罪悪感からくる強迫的コントロール・完璧主義・自己処罰などの傾向
4) 未整理のトラウマから来る離人感・抑うつ・フラッシュバックなどの症状

以上のようになると思います。

ですから回復とは、これらの問題が解消されることであるわけですが、世の中のどんな人でも、このような問題を一つたりとも抱えていない!という人は存在しないでしょう。「悩みのまったくない状態」になろうと思えばそれこそ神様か仙人にでもなるほかないし、そういう意味で人生とはつねに新しく明らかになった問題を解決していくプロセスでもあるわけです。

ロビン・ノーウッドは『愛しすぎる女たちからの手紙』の中で、「回復とはひとつの完成品ではなく、つねに過程(プロセス)である」と言っています。人生が新たな問題を解決していくプロセスの連続である以上、「コレとコレを達成したら「回復者」として合格」みたいな具体的なゴールがあるわけではありませんが、病んだ家庭で身につけてきてしまった自分の考え方や行動パターンを少しずつ変えることができて、ある日ふっと過去をふり返ってみて、「なんだか前よりも生きるのがラクになった」と思えるようになったなら、それが回復のステップを一歩前進したという何よりの証拠なのではないかと思います。


1) 嗜癖・依存症などの破壊的な行動パターン

「AC」という言葉が生まれる元となったアルコール依存などがよく知られていますが、嗜癖・依存症には大きく分けて、

●物質を取り込むことで身体的な依存を引き起こす「物質嗜癖」
例)アルコール、薬物、食べ物、カフェイン、ニコチンなど

●特定の行動に縛りつけられる「プロセス嗜癖」
例)ギャンブル、仕事、買物、セックス・売春、自傷癖、放火・窃盗、エクササイズ、テレビ、インターネット、宗教、暴力など

●他の人間をコントロールしようとする「関係嗜癖」
例)恋愛嗜癖、共依存、嗜癖・問題を持つ人へのイネイブリング(問題を長引かせる支え手であること)など

以上の3種類があります。

精神科医の斎藤学氏は著書『「自分のために生きていける」ということ』の中で、「嗜癖とは、耐え難い寂しさに対する“ごまかし”の形での防衛であり、その本質は自慰行為という、自分の本当の欲望の“すり替え”である」と述べています。本当の欲求が満足されたなら人間は欲求充足を感じますが、セックスの欲望の“すり替え”に過ぎない自慰行為のように、「耐え難い寂しさを解消する」という本当の欲求をすり替えているに過ぎない飲酒や過食やギャンブルなどのあらゆる嗜癖は、いくら飲んでも食べても真の欲求を満たさないために、むなしい繰り返しがつづくことになります。

ここで言う「耐え難い寂しさ」ですが、これは人間同士の適切な距離を知った「大人の寂しさ」とは別の、もっと原始的な感情で、赤ん坊が母親の乳房を求めて得られないときの憤怒・絶望・空虚などの入り混じった、パニックに近い感情のことです。母親の乳房、というのはむろん象徴的な表現で、母親をはじめとする他者に自分の欲望が読み取られ、あるがままで肯定されて充足されるという、赤ん坊の基本的なコミュニケーションの欲求のことです。

この欲求が満たされず、「私は人に認められ、受け入れられて当然」という健康な確信が持てないとき、人は「耐え難い寂しさ」に襲われることになります。虐待や嗜癖・共依存の問題のある家庭や、親の期待に沿う「いい子」であったときだけ愛してやるという「条件つきの愛」で縛られた親子関係の中では、子供はこの健康な確信を育てることができません。嗜癖のもっとも原始的な形は乳幼児の「指しゃぶり」、それに続いて4〜5歳から見られる自慰行為であるといわれますが、情緒的な安全感のない家庭で子供が「耐え難い寂しさ」に襲われたとき、これらの行為が活発化するといわれます。

「耐え難い寂しさ」から目をそむけるための行為が癖になったものが嗜癖ですが、ではどうやってこれを断ち切るのか。よく言われることは「他人や専門家は嗜癖に対してまったく無力」であり、「本人が本当に変わろうと思ったときだけ、嗜癖から回復することができる」ということです。そして、一番有効なのは、12ステップなどの自助グループにつながることであると言われます。

12ステップについては「全国自助グループ・ミーティングリスト」の「12ステップグループ」で紹介してありますので、ここでは斎藤学氏が提唱する「10のステップ」を紹介したいと思います。

1. 私は、○○することへのこだわりから離れられず、この執着のために日々の生活がままならなくなっていることを認めた。

2. ○○することへの執着は、他人の評価を気にしすぎるところから始まり、自分の意志の力を信じすぎたことでひどくなったことを認めた。

3. 今までの生き方を支えてきた意志の力への信仰をやめ、他人の評価を恐れることなく、あるがままの自分の心と身体を受け入れようと決心した。

4. あるがままの自分を発見するために今までの生き方を点検し、両親との関係から始まる人間関係についての点検表をつくった。

5. 前記の点検表を、先を行く仲間たちに見せて語りあい、「真の自己」の発見につとめた。

6. 「偽りの自己」の衣装の下に隠れていた「真の自己」の存在を実感できるようになり、この“もう一人の自分”と和解しようと思うようになった。

7. 今までの生き方の誤りが、「真の自己」を見失い、傷つけ、成長の最後の段階を踏みそこなったことに由来することに気づいた。

8. 自分の生き方の点検をつづけ、新たに気づいた無理な生き方は、勇気を持って変えることを心がけた。

9. 自分の命の自然な流れを実感するようになり、その流れに漂うことの落ち着きを楽しむようになった。

10. これら自分の経てきた成長のステップを、まだ○○することの努力に溺れている人々に正確に伝えた。

「○○」の中には、「アルコール」「過食」「ワーカホリック」等々、どの嗜癖や問題行動が入ってもかまいません。
斎藤氏はこれを、「パワーゲームを降りるためのステップ」とも呼んでいます。

「自分はあるがままで価値のある、大切な存在なのだ」という自己肯定感が得られなかったために嗜癖に走った嗜癖者は、「自分は愛されるはずがない」というみじめな自己否定の感情を覆い隠すために、対人関係において「自分と相手と、どちらが勝ったか負けたか、上か下か」の「パワーゲーム」を繰り返しています。このパワーゲームは嗜癖の対象に対しても繰り返され、たとえばアルコール依存症者は「自分はアル中なんかじゃない。いつでも意志の力で酒をやめられる」ことを証明しようとやっきになって飲み、食物嗜癖者は「明日こそダイエットして、“やせた、最高の私”になってみせる」ことを夢見ながら「最後の晩餐」の過食をやめることができない…といった堂々巡りに陥っています。

ですから、逆説的ですが、「自分が嗜癖者であり、嗜癖に対して無力であることを認める」ことが、嗜癖の悪循環を断ち切るための第一歩となるわけです。なぜなら、嗜癖と「意志の力」信仰は、同じ病根から発生しているものだからです。嗜癖によって麻痺させているのも、パワーゲームによって覆い隠そうとしているのも、どちらも自分の心の底にあるみじめな自己否定の感情です。それを認めないまま「意志の力」というおなじみのパワー信仰で嗜癖を「克服」しようとしているかぎり、自分のシッポを自分で捕まえようとぐるぐる回っているようなものだと言えるでしょう。

「12ステップ」ではすぐ次に「自分より大きな力が、われわれ嗜癖者を正気に戻してくれると信じるようになった」と続きますが、「10のステップ」ではやや宗教っぽい表現を抑えて「自分の命の自然な流れに漂うこと」というステップが9番目に登場します。

回復のステップの中にはこういった「霊性(スピリチュアリティ)」や「神」「自分より大きな力」「命の自然な流れ」…といった概念が登場します。これは管理人の考えなのですが、「霊性」とか「魂の次元」というのは特定の宗教や神秘思想のことでは決してなく、ただ人間が生まれることも死ぬことも、人間の意志の力などというものを超えたところにあるのだという事実に対する、しみじみとした謙虚さのようなものではないか。そう思います。

「条件つきの愛」をちらつかせて子供をコントロールする親は、子供に対して圧倒的な支配者としてふるまっています。子供はテストで100点を取らないかぎり、親の虚栄心を大いに満足させる優秀な子供にならないかぎり、無価値な存在として扱われます。あるいは「親のお金で食わせてやっているのだから」子供は何の権利もない存在であり、親のロボットであることが当然の義務、といった価値観を暗黙のうちに押しつけてくる親もいます。あるいはもっとあからさまに「お前なんか産まなきゃよかった」と言い放つ親もいます。

しかし本当に子供は「産んでもらったから」一方的に親にへりくだり、親に服従する義務があるのか?――生まれた時点で私たちは誰ひとりとして「自立した、働く赤ちゃん」としてさっさと一人立ちするか、この親に「育ててもらう」という「前借金」を負うか、などという選択の自由があったわけではありません。「親に食べさせてもらうかわりに、親の言うことを聞く」というのはそもそも親と対等な自由意志と責任能力でもって結ばれた契約でもありません。なぜなら、私たちがこの性別、この人種、この姿でもってこの世の、この国の、この親のもとに生まれてきたという事実は、すでに私たちの意志の力をはるかに超えたところにあるからです。

「子供は(親のロボットとしての機能を果たさないかぎり)ただ食わせてもらっているだけの無価値な存在」という親の提示した条件を呑んでしまうと、私たちは永遠にみじめな敗残者としての自分のイメージしか持てないことになります。なぜなら、どれほどパワーゲームで勝って成功を収めようとも、かつて自由意志を持って自立しようのない無力な赤ちゃんであり、子供であったという過去は、どんな人の上にも決して消えることがないからです。

しかしそれは自分の意志の力をはるかに超えたことであり、自分が悪いのではなかったのだと知ることで、私たちは親によって永遠に勝てないように仕組まれたパワーゲームそのものに「NO」と言うことができます。そして、嗜癖の底にある、うち捨てられ無視された赤ん坊の「耐え難い寂しさ」を、もはや自分の弱さ・恥として嗜癖やパワーゲームで抑圧しようとはせず、大切に扱うことができるようになります。

また嗜癖者のための自助グループではよく、「今日一日」というスローガンが使われます。「酒なんか、いつでもやめられる」「明日からダイエットして“やせた、最高の私”になる」という「意志の力」信仰でもって一気呵成に「負け」を取り戻すことを夢見ているかぎり、嗜癖者はパワーゲームにとらわれ続けています。そしてパワーゲームにとらわれているかぎり、再び嗜癖に「負け」て、さらに自己否定の感情にとらわれていくことになります。「今日一日」は小さな、しかし“確実に果たせる約束”です。実際、多くの自助グループで、「今日一日、今日一日…」という小さな目標のもとに、何十年も酒をやめることができている元アルコホリックがいます。

嗜癖を断ち、本当の自己肯定感を回復する道は、逆説的ですが自分の無力さを受け入れることからスタートします。なぜなら無力さ・弱点といったものは、受け入れた瞬間から、もはやその人にとって弱点とはなりえないからです。

以上、嗜癖を断つための最初の大きなカギとなるのは「パワーゲームを降りること」であるといえるでしょう。

そして、嗜癖とは「退屈な心のすき間に入り込んでくる何かにすがりつき、それが本当の欲望から横道にそれていることで、むなしい繰り返しが続く」ことである、と斎藤氏は述べています。ここでいう「退屈」とは、前に述べた「耐え難い寂しさ」が、「嗜癖に手を伸ばさずにはいられないような、耐え難い退屈」の姿をとって表面化したものです。この「耐え難い寂しさ」を根本から解決するためには、同じ問題を分かち合いサポートし合える仲間を見つけたり、アファメーション訓練などによって自己肯定感を高めていくことが重要になります。

なお、過去のトラウマの問題を抱えている人は、「トラウマに向き合う」という作業に入る前に、嗜癖を断ち切っておくことが前提条件となります。嗜癖が気分の乱高下を招きやすくしているところにトラウマと向き合うのは危険である上、嗜癖そのものが感情を鈍麻させてトラウマの問題を包み隠しているケースがほとんどだからです。


2) 他人との間に本当の親密さを築けないこと

ACの問題のひとつに「自己評価が低く、他人に自分の“真価”を知られるのを恐れるため、人と親密な関係を築くことができない」というのがあります。親との関係で植えつけられてきた自己否定の声が自分をけなすため、他人と知り合っても、「あの人が本当の私を知ったら、きっと軽蔑して去ってゆくはずだ」と考えて、緊張して疲れ果ててしまい、対人関係から遠ざかってゆく、ということを繰り返していたりします。また、「いい人」の基準から外れたくないがために必死で「いい人の自分」の外ヅラで対人関係を維持してクタクタになっていたり、あるいは「軽蔑されて去られ傷つく前に、こちらから相手を軽蔑して捨て去る」ことを繰り返したり、無意識下でわざわざ相手を怒らせ、相手が自分から去って行くようにふるまっていたりします。

人間の信念とは、世界を見るフィルターのようなものです。「私は無価値で愛されるはずなんかない」という信念が自分の中核にあると、見えてくる外の世界も、すべての行動も、それを前提にしたものになってきます。多くの現実の中で「自分が愛されるはずなんかない」という“証拠”しか目に入らず、また人に接するときも無意識のうちに信念どおりの結果を招くように行動してしまうのです。

ですからなんでもかんでもとにかく対人関係を築き上げるために「人の中に飛びこんで」みたらいい、というわけでもなく、自分の中に植えつけられてきてしまった病んだ信念やトラウマが未処理だと、がむしゃらに人と接したところでまた同じようなトラウマを招きやすいわけです。

これを防ぎ、新しい実りある対人関係を築くには、「私は無価値で愛されるはずなんかない」という信念を「私は今のあるがままで十分、愛される価値のある人間なのだ」というより健康な信念に書き換えることです。いわば、親に吹き込まれた病んだ信念の“脱洗脳”です。

また抑圧したトラウマの問題が隠れているままだと、やはり同じようなトラウマを招きやすくなります。虐待を受けて育った人が、大人になっても親と同じような虐待的な相手に引きつけられたり、レイプなどの性暴力のトラウマを抱えた人が無意識のうちに「わざわざレイプされたがっているとしか思えない」ような危険な場所にとどまっていたり、というようなことです。

これは再演技化(リイナクトメント)と呼ばれる無意識の行動で、同じようなトラウマを繰り返し繰り返し招き寄せて再体験することで、心が今度こそこのトラウマをコントロールして打ち勝ってみせよう、トラウマの衝撃を弱めてみせようとあがいている状態です。

しかしこれも放置しておくと、心の傷をよけいに広げる結果となることが少なくありません。再演技化はある意味、人間の「環境に適応しようとする能力」であるとも言えると思いますが、私たちの社会において、繰り返し虐待されたり毎日レイプされたりするような環境で生きなければならない理由は誰にもありません。心が「最悪の環境」に適応しようとするあまりに、本来そこに生きる権利があるはずの「健康な環境」へのごく自然な適応のしかたを忘れてしまうとしたら、本末転倒なことです。

ではどうすればいいかというと、意識的にトラウマに向き合い、たとえば虐待や性暴力や災害ならば「それは自分の落ち度ではなかったのだ」と知ることです。コントロールできなかったトラウマの出来事そのものは変わらなくても、それが現在の自分に及ぼしている意味づけを変えることで、トラウマを無害化することができます。

トラウマと向き合う作業は、人によってはパニックや抑うつなどの深刻な症状が出てくる場合もあるので、そういった場合は信頼できる仲間や専門家のサポートを得て行なうのがいいと思います。



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