主にACでない一般閲覧者の方へ向けたメッセージですが、ACの人もどうぞ読んでいってください。

当サイトの主旨について

当サイトは問題を抱えたACであると自覚している人同士が自分たちの今考えていることや気持ちを分かち合い、回復と成長への手掛かりとしていくためのホームページです。AC(アダルトチルドレン)とは何かということについては、「AC(アダルトチルドレン)の定義」に詳細が書いてありますので、まずはそちらをご参照ください。

当サイトではAC本人同士が「言いっぱなし・聞きっぱなし」「分析や批判、お説教などの介入は一切しない」という原則のもとに自分たちの感情を言葉にし合い、問題を抱える元になった自分の人生や心の持ち方をもう一度自分たちの力で整理し直すことをめざしています。

したがってまず、「ACは精神医学用語・診断名として妥当か否か」「ACは“何でも親のせいにして甘えているだけ”かどうか」といった外部の論争に関して当サイトは一切関心を持たない、サイトとサイト利用者・管理人としてそういった論争に加わることは一切ない、ということをご了承ください。当サイトは「言いっぱなし・聞きっぱなし」の原則による感情の分かち合いと問題からの回復の場であり、決して論争の場ではないからです。


「社会常識・道徳基準からみて当惑させるような」感情について

ACでない方の中には、このサイトで表明される個々人の「親を憎んでいる」といったような感情について、道徳的な不快感を抱かれる方もいるかもしれません。

当サイトでは、AC同士が自分の内面の感情にできる限り正直になることを目指しています。そのためには「親が悪い」「恨みつらみ」上等、どんどん発言して、意識化することです。自分の損われた部分を取り戻す人生への展望がないまま“恨みつらみと悪口”だけに終始しているとしたら困りモノですが、しかし“恨みつらみ”の部分を意識化しないまま抑圧し、親や虐待者を美化しているかぎり、人間は「自分の痛みをさらなる弱者になすりつける」という、もっと始末の悪い事態をまきちらすことになるものです。

また、たとえここで吐き出された本当の感情が「親を怨んでいる」「誰それを憎んでいる」といったようなものであろうと、感情それ自体には「良い」も「悪い」も一切ないし、感情をどのように自分の行動に反映させていくかという点は個々のACの責任である、と考えております。

また、感情は本当に自分の中で否認したり逃げ隠れすることなく正しく経験すれば、いつかは収束するときが来ます。

生育歴の中で親(あるいは養育者)の適切な愛というものが決定的な場面でまるで欠けていた、親は精神的に未熟だったのであり今さら変わりようがない、と「頭で分かって」いても、「気持ち」のどこかで悪い親(親その人か、あるいは親に似た他人)を良い親へ変えることの魅力にしがみつき、本当に怒るべき怒り(暴力などの問題行動は怒りの姿を借りた「おねだり」に過ぎません)と、人並みな子ども時代は自分にはなく、これからも取り戻せることはないのだという本当に悲しむべき悲しみ(認めるべき現実)に目を逸らしてきたことから、ACとしての私たちの苦しみの大部分は来ました。

「許す」ことと「なあなあで済ます」ことは違います。たとえ私たちの親の幾人かは「何を言ってもムダな人々」であるにせよ、自分の中で本当に誰かを「許す」ためには、まず正しく「怒り」を持っていなくてはならない。何かを本当に「手放す」ためには、まず正しく「持って」いなくてはならない。怒りや悲しみを正しく持っている(正しく経験する)というのは決して親に当たったり引きこもったりして無闇に行動化することではなく、自分自身と他人とに対し、それを誠実な言葉にして表現することである――自助グループにつながった経験から、管理人はそのことを学んできました。


「言いっぱなし・聞きっぱなし」――誠実な聞き手であることについて

当サイトは「言いっぱなし・聞きっぱなし」「他の人の発言に対し分析解釈や批判、お説教等は一切しない」という原則のもとに、同じ悩みを抱えたAC本人同士が自分の経験と気持ちを分かち合う、という主旨でつくられています。

これは、まずACの問題というものの根底にあるのが「支配・被支配」「他者のコントロール」をベースにした共依存的な人間関係の問題であるからです。分析解釈・批判というのは一方が治療者(あるいは「にわか治療者」)として「あなたよりも私の方があなたにとって何が一番よいことかを知っている」的な立場で接するときの態度です。お説教に至っては言うに及ばず、です。

無論、世の中のいろいろな問題というものには、自分よりも問題についての的確な知識を持っている専門家の判断を仰いだ方がいいケースもあります。しかしながらACの問題について言えば、まさに「あなたよりも私の方があなたにとって何が一番よいことかを知っている」、何が「正しい現実」かを知っている、(本当は存在した)アルコールの問題も性的虐待も「起こらなかった」というのが我が家公認の「現実」なのだ、寂しい共依存的な母親が子供の生活に侵入を繰り返し、机を勝手に覗き見して整理するのも「普通の家庭ならどこにでも見られる、微笑ましい風景」なのだ、そうじゃない?なら「他人は他人、我が家は我が家」なのだ、ともかく何が「正しいこと」かを判断するのは我々であってお前ではない、「フツーの家庭」の外見を取り繕うためにはどんな犠牲でも払わなくてはいけない、自分の現実認識能力に対する信頼、精神的自立を放棄してでも「家族の幸せ」の芝居は続けられなくてはならない…という内面化された親(監視者)の声こそが問題の根源でした。

分析解釈・批判やお説教は、ACとその家族などの身近な人間にとっては、(たいがい無意識下で)「どちらが上か下か、勝者か敗者か」をアピールしたり、相手のプライドを逆撫でして挑発し、幼児的な反抗に逆戻りさせて依存を強めたりするための「パワーゲームの道具」でもあります。そして「自分はACでない」と自認する人々も、ときに自分の中のAC的な部分を触発されることによって、つい批判やお説教に首を突っ込んでしまい、延々と続くパワーゲームの堂々巡りの「片棒を担がされる」こともあるものです。

それならばACは全く独りで自己点検の作業をやればよさそうなものじゃないか、と思われるかもしれませんが、他者に語りかけることを目的としないセルフ・ディアローグ(自己対話)はたいがい、気づかないまま内面化された監視者の声による自己批判の渦に陥るか、あるいは他者の目に決してさらさないがゆえにどこまでも「都合よく」肥大化する被害者意識の形をとりがちです。

ためしに自分が性的虐待なり何なり、親から虐待を受けた立場になった場合を想像してみるといいと思います。ほとんどの場合そうですが、虐待者は(暗黙のメッセージも含めて)「誰にも言うな。言えばお前が恥をかくだけだ」と脅すか、「これはお前に対する正当な罰だ」と言って自分の行為を正当化して疑わないことでしょう。そしてあなたは虐待者である親の言うことを信じたまま、外部と何ら接触を持たずに自己点検の作業に乗り出し、「やっぱり自分の現実把握能力は当てにならない。自分は悪い、半人前の、当てにならない人間だ」という自己批判によってますます虐待者への精神的依存を強めるでしょう。

あるいはたった独り、カギを閉めた子供部屋で「親が悪い。何もかも親のせいでメチャクチャにされた」という物語を紡ぎ始め、だがしかし自分は「現実把握能力の当てにならない子供」であるという内面化された声ゆえに、その物語を他人に話して虐待者の予言どおり「恥をかく」ことを怖れ、誰にも言わない「被害者の物語」は自分以外誰も知らないことで一種の都合のいい被害者意識の部分だけがどんどん肥大化したものになってゆき、「自分は被害者なんだから」親や周囲に当たったりする権利だってあるはずだ、という反抗による依存・幼児返りのための「自分しか知らない論拠」になってしまうことでしょう。

しかしそれを、批判もお説教も安易な同情もせずただそこに居て聞いている第三者に向かって話すとき、その行為自体が現実の世界に向かって自分というものを打ち立てる第一歩になります。

自分は虐待を受けた、そしておそらくはそれが原因で、現在こんなふうに苦しんだり考えたりしていることがある。…その物語は今、暗黙のルールが支配してきた家庭の外で話され、親や擬似親を演じたがる人々によって批判されたり中断されることもなくこの場に響いている。しかしそれを聞いている「聞き手」は確かに、そこに存在する。聞き手にとって話し手の「虐待の事実」が本当か嘘か知るよしもないし、確かめるすべもないけれど、話し手がそのように現実を把握し、物事を考えているのだということは、聞き手という第三者に確実に投げかけられている。…そこにおいて聞き手を通して映し出されるのは、内面化された親の声からの強制によるものではない、話し手自身の一人の人間としての良心です。

なぜなら、自分の体験し感じたままを人に話すということは、自分の現実認識を公のものにする、ということだからです。家族内で否認され子供部屋でこっそりと独白した「非公式な現実」を「公式な現実」として自分の中で位置づけてゆくことだからです。もはや黙っていれば(自分で自分に嘘をついている部分も)分からない「被害者の論理」といった弱々しいものではなく、それを第三者に向けて話したという事実は残る以上、批判も攻撃も受けなくとも、それを「公式発表」したことに対し自分の中で良心の責任を負っていくべき「現実」となるわけです。

嘘や騙りがあれば、それは語り手の良心に対し撥ね返ってきます。「首尾一貫しない」ように見える試行錯誤があっても、真実から出た言葉なら、それは語り手の良心を強化し、確実に虐待者への精神的依存を断ち切る力となってゆきます。


精神科医・カウンセラー等、治療者の方へ

当サイトは問題を抱えていると自覚するAC本人同士の自助グループ的サイトですが、問題からの回復のために精神医療・心理療法のサービスを利用するか否かはAC個々人の判断に任されています。決して当サイトの利用だけでACの問題からの治療効果を主張して精神医療・心理療法を否定したりするものではありません。

「AC(アダルトチルドレン)」という言葉自体定義があいまいだ、本来患者にならなくてもいい健康な人間まで「患者」にしてしまう、あるいは別の精神病や神経症の症状までアダルトチルドレンということで何とかしようと間違った方向に導いてしまう、と思われる治療者もおられるかもしれません。

たしかに、ACの定義は「多かれ少なかれ、誰にでも当てはまる」ものである、といえます。当サイトの管理人は、AC(アダルトチルドレン)の問題とは究極的には何であるのかということについて、「人間的成長に逆行しようとする『生き方の病気』である」と考えております。それは日常のほんの些細なことから嗜癖などの重篤な症状までを含む、程度のスケールもさまざまな問題であるし、神経症的な症状のみならず、個人の世界のとらえ方、生き方、倫理観といった分野にまで関わってくる問題でもあります。

だからこそ、ACという言葉は精神医学・心理学的な診断名ではなく、それに気づいた個人のセルフ・ヘルプ(self-help:自助努力)のための自覚の言葉なのであり、ACの問題から回復するためには自助グループなどのような、問題を自覚したAC本人なら誰でも参加できるセルフ・ヘルプの場こそふさわしいというのが当サイト管理人の考え方です。

神経症や精神病といった、ACという問題よりもさらに具体的な個別の症状に関しては、当サイトとしては決して無理矢理ACの問題に当てはめて処理しようとするものではない、ということを、どうぞご理解ください。

なお、精神科医、カウンセラー、ケースワーカーといった援助職にある人々の、あくまで「帽子を脱いだ」一人のACとしてのサイト利用でしたらいつでも歓迎いたします。


研究者・学生の方へ

AC・心の問題系のサイトを回っていると、研究者や学生の方の、論文やレポートのために「コンテンツや書き込みを使わせてほしい」「アンケートに答えてほしい」といったような掲示板書き込みも時々見かけます。

まず一言断っておかなければならないと思うのは、当サイトのコンテンツやBBSへの投稿はAC個々人の視点にもとづく、きわめて主観的で個人的な「内面の現実」である、ということです。いいかえれば親との関係をどう思うとか、周りの人をどう思うとか、一人のACの視点からみた、刻々変わってゆく世界観である、ということです。科学的な客観性をもたなければならない論文やレポートの中でどの程度の「資料」になりうるかは、ご自身で適切に判断してください。

投稿などの転載にあたっては必ず掲示板などでその筆者の許可を取るというのが大前提ですが、許可を取ったからといってどのような扱いをしてもいいということにはなりません。特に昨今では心理学用語が一般の人々にも知れ渡って、「○○の病理」「××を精神分析する」と週刊誌・TVまでが(大概、される側への配慮を全く欠いて)誰かを勝手に「患者扱い」「分析」してみせるような風潮に慣れきってしまっているせいか、そのように(悪気はなくても)勝手に一段上に立ったつもりになって他人を分析してみせることが本来どんなに失礼な態度かということに、無神経な人が増えたように思います。

アンケートへの協力や投稿の転載といったことは個人の間で取り交わされることなのでサイトとしてはあれこれ具体的な規則は設けませんが、そこにいる一人のACは人工頭脳でもモルモットでも「気ちがい」でもない、完全な権利をもった一人の人間であるということを、つねに心に留めておいてください。


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