このサイトの主旨

確認しておきたいことは、このサイトは基本的にACの問題から回復するためのサイトである、ということです。

したがって、ACの問題から回復する気のない人、本当はぜんぜん回復したくない人、「ACであるワタシ」を見せびらかしたいだけの人、不幸自慢していつまでも「かわいそう!」と構ってもらいたいだけの人、得意げに精神系・クスリ系などのダークな話をしてみたいだけの人、等々はどこかヨソへ…と言ってしまいそうなんですが、管理人もオノレの回復の軌跡をふり返ってみれば、「自分はACで、被害者であって…」という自覚だけでもう手一杯の無気力状態で、眠るか、泣くか、グチるか、親に直接間接の当てつけを行なうか、ともかく何ひとつ生産的なことをしていなかった時期というのがたしかにあります。

そして現在自分のいる地点から過去を見てみると、やはりそういうハタ目には非生産的な時期でさえも、何かしらの必要に駆られて自分はそれを選択していたのであり、その“非生産的であること”を「とことんやってシッカリ通り抜ける」以外にそこから次のステップへ踏み出す道はなかった、そんな気がするのです。

精神科医の斎藤学氏は摂食障害の人々に「しっかり食べよう。必要ならしっかり吐こう」という言葉を送りましたが、しっかり過食し、しっかり嗜癖して、しっかり引きこもって、しっかり手首切って、しっかり「被害者の自分」に酔って…必要ならしっかりプロセスを経験して通り抜ける、というのがいちばん正しい道であるような気がします(さすがにDVとか家庭内暴力・虐待とか共依存とか、他人を巻き込むものは「しっかり」やれ、というのはアレですが)。

ただ自分のいろいろな時期にしっかり通り抜けるべき課題があるように、他人にも人生のいろいろな時期があり、それぞれにちがった課題を持って生きているのだ、ということを心に留め、それぞれの課題を歩んでいる他の人々を尊重する、ということは大切です。

個人個人のどういう態度が「本当はACの問題から回復したくない態度」なのかは非常に微妙です。とくに私たちACは、子供の頃から自分を押し殺したり傷つけたり幼児返りしたりして他人を操作することでしか人間関係に適応しようがなかった人々、互いを本当に尊重した対等なコミュニケーションを学びそこねてきた人々である、と言うこともできます。ACの問題から回復するために来たはずの場所で、無意識のうちに昔からの病んだ適応のパターンをまた繰り返してしまうこともあるでしょう。

回復の途上での「一歩後退」は誰にでもあることです。だからあれもこれも「回復を妨げる態度」なんじゃないか、と神経質になる必要はないと思います。たのしく、気楽に構えて、でも「ここはACの問題から回復するための場所」という基本的ポリシーだけは忘れない、くらいの気持ちでご利用していただければと思います。


サイトでの主な活動

このサイトのメインコンテンツである『私たちの物語』では、テーマ別に今自分が感じていることを手記にして投稿できます。いわばテーマを決めたネットミーティングです。自分の話したいテーマがリストにない場合、「新しくこういうテーマを設けてほしい」という旨をメールでお知らせくだされば、検討の上追加します。

出さない手紙』では、過去や現在の身近な人々へ、言いたくても言えなかったこと(あるいは今言えないこと)を“投函されない手紙”として言葉に表してみます。現在の自分として書いてもいいし、過去の、気持ちを言いたくても言えなかった事件が起こった時点の自分になりきって書いてもかまいません。また、自分の「出さない手紙」が後で「出した手紙」になってしまっても、それはいっこうにかまいません(笑)。

『私たちの物語』『出さない手紙』ともに、自分が問題を抱えたACであると自覚する本人のみが投稿できます。また、同じ問題を抱えたACとだけ分かち合いたい、AC以外閲覧してほしくない、という場合は、ACオンリーをお使いください(※ACオンリーコンテンツの利用登録が必要)。

投稿については、回数制限といったものは特にありません。何かふと心に引っかかるものを思い出したとき、静かに自分の内面を見つめて言葉に表し、いつでも気軽に投稿してください。


いくつかの、覚えていてほしいこと

…というとなんだかエッラソーな感じがしないでもないんですが(笑)、要するに投稿や発言にあたって、こんなことに気をつけたらイイんじゃないか、というようなことです。

◆「私」を主語にして話そう◆

ここは問題を抱えていると自覚するAC本人が自分たちの問題を語り合うための場所です。

まず、「息子が引きこもりで」「姉が過食症で」「友人がアル中で」悩んでるんですけど、彼(彼女)はきっとACだから何とか助けたいと思いまして…というふうに、自分以外の他人の問題を持ってくるのはご遠慮ください。

ひとつには、問題を抱えたAC本人同士が自分の気持ちを分かち合う場で、いきなり自分一人「ACじゃありません、ワタシは救助者でございます」的なスタンスの人が入ってこられると、腹を割って自分に誠実に話そうという雰囲気が壊されてしまうからです。多くのACは、救助の名を借りた心への侵入、幼児扱いという「やさしい暴力」に晒されてきた人々でもあるのです。

またACは自己評価が低い分、人間関係において「必要とされる必要」に駆られやすい人々であるとも言われます。誰か自分よりひどい状態の人を哀れみ、救助する役割を演じることによって「自分は必要とされている」という束の間の安心感を得ようとする傾向があるからです。しかもほとんどの場合その「救助」は、「必要とされている私」のポジションから追い出されたくないという無意識の欲求から、救助される側を(そして救助者の役割を演じる自分をも)いつまでも病んだ依存状態に結びつけておこうとするものである、ということが分かっています(共依存)。

自分を包み隠したい欲求から「あの人が〜」「この人は〜」と他人の話ばかりしていないかどうか、自分を見つめ直してみてください。

◆言いっぱなし、聞きっぱなし◆
他の人の問題に対し、具体的な介入・アドバイス等はしないこと。多くのACミーティングでの原則です。私たちは精神医療や心理療法の専門家ではありません。自助グループで求められることは、ただ仲間の話に耳を傾け、共感することです。

(もしあなたが医療・心理療法の専門家であったとしても、この場所では対等な仲間の一人として、個人の問題への介入はしないということを守ってください。個々のACは必要と判断したならば自分の責任においてそういった専門家のサービスも利用します。)

またACの多くは自己評価の低さを包み隠すために「救助者」の役割にしがみつき、それが一層問題を悪化させる傾向があることから、そういった事態を防ぐための知恵のひとつでもあります。

 まだ回復の進んでいない早過ぎる段階で、セルフヘルプ・グループのなかの特定の人々とだけ近すぎる関係をつくることは、危険なことでもあります。
 正規のミーティングの後のフェローシップで特定の相手に自分の過去の体験を話すという場合が時に見られますが、トラウマ体験を話すことによって生じる退行(子ども返り)への強烈な欲求と、過度な依存願望は、その話を聞くもう一人のアダルト・チルドレンの共依存性を刺激し、彼の回復を停止させます。話す人と聞く人とは共依存関係に陥り、いずれその関係は破綻して話し手、聞き手ともに新たなトラウマを経験します。
―――斎藤学『アダルト・チルドレンと家族』 学陽書房

このサイトがきっかけでAC同士が個人的に知り合いになった場合も、自己責任においてそういったことに十分注意してください。

◆批評や批判、お説教はしない◆
そういったもので問題が解決するなら、私たちACはとっくの昔に一人残らず何の問題もない超健全な精神の持ち主になっていたことでしょう(笑)。

ACに向かって「何でもかんでも親のせいにして…」とお説教に走りたがるのは、どちらかというと「自分はACでない」という人の方が多いと思いますが、ここで確認しておきたいのは、このサイトを利用するACの人々とは、すでに自分の責任において社会生活を営んでいる大人であることを前提にしている、ということです。社会的な態度として見た場合、一人前の大人、それも見ず知らずの監督責任も何もあるわけでない他人に対していきなりお説教を始めるというのは、はた迷惑なエゴの押しつけ以外の何物でもありません。

また「親にひどい仕打ちを受けた」「親を怨んでいる」といった個々人の感情それ自体には、良いも悪いもありません。感情を行動に移した段階で、やっていいことと悪いことが存在します。

このサイトはAC同士が自分の内面に集中し、抑えつけてきた感情を回復するためのサイトです。内面で感じていることに関して互いに率直であるために、この場所では感情に対する世間並みの価値判断はしない、ということを守ってください。

◆「癒してあげたい」は傲慢でないといえるか?◆
「あなたの気持ちは全部分かるよ」「かわいそうだったね」…安易ななぐさめの言葉は必ず反発を招きます。そこには必ずといっていいほど、「かわいそうな人たちをなぐさめてあげているワタシ」、つまりは「かわいそうな人たち」より一段上に立っているワタシというナルシシズムと、その「かわいそうな人たち」を幼児扱いする心があるからです。

このサイトの基本理念はACに対する同情や憐憫ではなく、AC自身による互いのエンパワメント(empowerment:力を与えること)です。

「自分はACじゃないけれど、苦しんでいる人たちを癒してあげたい」というにわかカウンセラーさん、自称癒し系さんの書き込みなども心の問題系のサイトで時々見かけますが、これもハッキリ言って悩みを抱えた当事者の神経を逆撫ですることおびただしいものです(いや、ホントに…)。

職業であれ非職業であれ、本当に他人を精神的に援助するというのは大変な仕事です。専門的な訓練(「いのちの電話」のボランティア相談員でさえ、2年間の訓練期間があります)と覚悟と忍耐力、謙虚さ、また職業ならばそれでお金を貰っているに相応しいプロ意識があって初めて、良質な援助者になれるのです。ためしに自殺防止電話相談のボランティア説明会などがあれば出かけてみられることをお勧めします。過去にあった相談のモザイクとはいえ「こんな相談が入ってきます」と聞かされるそれに静かに耳を傾け、援助者としてきちんと受け止める、ただそれだけのことがどれだけエネルギーの要る重い仕事であるか。体験した後にはもう二度と軽々しく「人を癒してあげたい」などと言えなくなること請け合いです。

◆「理論武装」を脱ぎ捨ててみよう◆
理論武装というか、やたらと小難しい専門用語ですね(笑)。「フロイトの『精神分析学』によれば…」「DSM-IIIでは…」「私のこれこれの感情は臨床用語でカセクシスと呼ばれるもので…」等々。

管理人の経験から言うと、ACミーティングで自分がこういう話し方をしている時というのは大抵、普通の人になじみの薄い専門用語を並べ立てて周囲を「無知・下俗」として突き放すことによって、なにか触れられたくない部分を回避しようとしている時です。自分を打ち明けるのでなく、自分の周りと自分自身に対して壁をつくるための言葉、といってもいいと思います。

アダルトチャイルドが悩みを回避するもう一つの方法は、頭デッカチになることです。…(中略)…一つのドアには「天国」という表示が、、もう一つのドアには「天国についての講義」という表示が貼られています。共依存にあるアダルトチャイルドは、「天国についての講義」と表示されたドアの前に列をつくって並んでいます。
―――ジョン・ブラッドショー『インナーチャイルド』 新里里春訳 NHK出版

話したくないことがある時は無理に「どこまでも正直に」話す必要はありません。「今日はここまで」と今の時点での自分の限界を設定してみるのも大切なことです。そのことについて誰もあなたを馬鹿にしたり非難したりする権利はありません。

◆内面の現実を尊重しよう◆
人の投稿したものを読んでいるうちに、「何だこいつ、子供の頃のそんな取るに足らないようなことを根に持って」「悲劇の主人公を気取りやがって」「自己愛が鼻につく。だからウザいって言われんだよ」という気持ちが頭をもたげてくることもあるでしょう

しかし投稿の中に書いてあることは投稿した人の心の中で起こった現実なのだ、ということを忘れないでください。自分から見れば「取るに足らないようなこと」でも人によって、それまで育ってきた条件の違いやタイミングの悪さのせいで、大きく傷つく出来事にもなりえたのだ、ということです。

育ってきた環境や回復の段階は人それぞれ違います。聞き手に要求されることは、話し手を操作したり変えたりしようとせず、話し手の「回復する力」を100パーセント信じて静かに見守る目をもつことです。

また、これは自分自身の「内面の現実」についても言えることです。そこにあるものが「怒り」であろうと「不適切な感情」であろうと否認したりせずに、何かの必然性を持って浮かび上がってきたものとして、自分のできる範囲で、誠実な言葉で表現してみてください。これは私たちACの多くが早いうちから取り込んできて内面化してしまった、私たちの生きる力に対する親の不信のまなざしに、打ち勝つスキルを身につけるためでもあります。

◆まとまらないものは、まとまらないままに◆
どうしても私たちは何か書くというと、小学校のときの作文以来の起承転結があって最後は「とてもかんどうしました」「もっとがんばろうとおもいます」的な「いい言葉」で締めくくる、というようなパターンに自分の体験を押し込めてしまいがちです。

それはそういうパターンが自分や他人が読んだときに一番「ストーリーとして収まりがいい」からでもあるのですが、人生って結構そういうものでもないし、そうそう都合よく「めでたしめでたし」の大団円になったりもしない。むしろそういう「めでたしめでたし」って、誰にとってめでたいワケ?っていうと、ああしなさいこうしなさいと権力をもって指図してくる立場の親や先生だったり、あるいはなんとなくぼんやりとした「世間の大多数」にとって「物語として波風立たせず都合がいい」ということにすぎなかったりするものです。

あまりにも主旨に外れたものや、故意に閲覧者の特定の誰かを傷つけるもの、あるいは人の問題に介入してエゴを押しつける投稿などは認めませんが、それ以外なら、自分の心の感じたままを自由に書いてください。それが尻切れトンボであっても、まとまらない呟きであってもかまいません。

◆匿名性を守る◆
ひとつの理由は、インターネットという開かれた場所で今まで心の奥にしまっていた話をすることの、安全性を確保するためです。普段ネットの世界で使っているのとは別のハンドルネームを使用してもいいと思います。

ただし「通りすがり」「名無しさん」「匿名」「A」「あ」といったような、いかにも捨てハンドル(冷やかしなどの目的で、1回きりで捨てるつもりでいい加減に考えたハンドルネーム)っぽい名前は、安全な場の雰囲気が壊れるモトなのでおやめください。

また、自分の心の問題ということから、プライバシーに深く関わる話をする場面も出てくると思います。その際も、具体的な人物の名前や住所、会社名、病院名、グループ名などは必ず特定できないように伏せてください。

自分にトラウマを与えた人々に対する怨みの感情を否定するものではありませんが、ここはあくまで自分の内面ということに焦点を当てて話し合う場です。ネット上で怨みの感情を安易に行動化して「吊るし上げ」のようなことをするのは不毛であるばかりか、インターネットというメディアの性質上、周囲の人々にも恐ろしい勢いで迷惑が波及するものだということを忘れないでください。

◆安全な場の雰囲気づくり◆
このサイトが私たちACにとって安心して自分の感情と経験を分かち合える場であり続けられるよう、他人(サイト利用者であれ、外部の人間であれ)への誹謗中傷は固く慎んでください。

なにも「ここではいつも他人の悪口なんか思いもよらない聖人君子のようなイイコちゃんで居なさい」というわけではないのですが。誹謗中傷か冗談の範囲内かの判断基準のひとつには「からかっている対象の他人と同時に、自分をも笑う余裕があるかどうか」ということがあります。自分たちだけが正義、とばかりに一緒になって誰かを槍玉に挙げて噂話や悪口を繰り返しているような雰囲気を持ち込まないでください。

また、だからと言って明らかに人を不愉快な気分にするレベルまで好き放題に「からかい」、「これは冗談だもんねー、わしは自分のことを笑う余裕があるもんねー、道化師だもんねー、ホラホラ何とか言ってみろ」と居直るのは、「冗談」ではなくただの「雰囲気の読み違え」であり、「笑えない、下手くそな冗談の押しつけ」です。回復の段階や、その時の感情の状態によってもユーモアの許容範囲は人それぞれ違います。場の雰囲気をよく読んで、他の人が笑えないような嫌がらせめいた冗談は慎んでください。

悪意からか、それともただの勘違いさんかを問わず、このサイトの中で明らかに安全な場の雰囲気を壊すような行動を繰り返していて「こいつヤバイな」と思う人を見かけたら相手にせず、まず管理人にメールで相談してください。その際、これこれこういう不愉快な書き込みがあった、不適切なメールを送ってきた、などの迷惑行為の内容もできるだけ具体的に教えてください。明らかに迷惑行為と管理人が判断した場合、メールで注意(該当者の連絡先が分からない場合はBBSで連絡)→警告→アクセス拒否、の順で対応いたします。

◆あなたには「NO」と言う権利がある◆
このサイトに限らず、いついかなる場面でも、あなたには自分の価値観に合わないもの、やりたくないこと、嫌なもの、「何となくヤバイな」と思うものについて、NOと言う権利があります。

多くのACはこの当たり前のことを信じられるようになるまでに多大な苦労を経てきた人々であると思います。ごく幼い頃から自分の本当の欲求に合わないものに「NO」を言おうとすると、「そんな言い方は非常にオトモダチをなくすわよ?」「なんでアンタはそんな依怙地なしゃべり方しかできないの」「切り口上でお母さんの気持ちを傷つけて…」「何言っとるだぁ!権利権利と西洋かぶれしやがって」…といった(NOと言われた内容に対して理屈で正当に対決せず、主に言葉尻などをとらえて子供をあげつらい、辱める)巧妙な言葉や、あるいは体罰をはじめとした虐待や、「見捨てる」という脅しや、議論とは関係ないところへの一方的な当てこすりなどによって心を操作され、「本当の自分の欲求は何かまちがった、恥ずかしいものである」という感覚を植えつけられてきたからです。

管理人もまた、この思い込みから脱出するのに多大な年月を要したACの一人です。「子供に口ごたえする権利はない」「親の金で養ってもらっている人間は、親に不当な仕打ちを受けても不快感すら表してはならない」「お前のような小太りで煤けた田舎娘にはナンパやセクハラが嫌だと騒ぎ立てる資格すらない」…といった内面化された声に打ち勝ってみると、これらの声が、自分に保証されている権利を自分からすすんで放棄させるためのいかに巧妙な罠だったかということが、改めて分かるものです。

話が個人的な方向へ逸れてしまいましたが、どうぞいつでも、たとえ「何となくイヤな予感がする」というだけの理由であっても、自分の価値観に反するものやイヤなものに対して、あなたは理由を明示せずにNOと言う権利があるのだ、ということを覚えておいてください。それはこのサイト内での誰かからの不適切な接触や要求に対してもだし、またこのサイト自体の雰囲気が合わないと感じたら、あなたにはいつでもサイトから離れる権利があり、また一旦離れてから戻ってくる権利も保証されている、ということでもあります。

◆自分の感覚を信頼しよう◆
ACとは「親(あるいは養育者)のエゴあるいは未熟さによって、自分の生きる力への不信感を植えつけられた人々」である、と定義することも可能なのではないかと思います。その最もおぞましいパターンのひとつは子どもへの性的虐待でしょう。犠牲者である子どもは虐待が行なわれた後も「誰にも言うな。訴えたって子どもの言うことなんか誰も信じないぞ」「おまえが色気づきやがったから(だから虐待に及んだのは“不可抗力”なのだ、という言い訳)」といった卑劣で巧妙な加害者の心理操作によって、最もショッキングな出来事に対する自分のあるがままの感覚さえも否定され、自分の現実把握能力に対する不信を植えつけられます。

『The Gift of Fear』の著者、ギャヴィン・D・ベッカーによれば、私たちが「理由はわからないけどなんとなくイヤな感じ…」「虫の知らせ(gut feeling)ってやつだと思うけど…」と言っている理屈で説明できない「直観」というものの正体は、私たちの脳と感覚器官が言葉(理屈)で意識しないうちに自分を取り囲む世界についての膨大な情報を読み取り、生物としての生き残りのために安全か危険かを識別するパターン認識作業を繰り返している成果なのだそうです。またこの直観が曇らされるのは、私たちの脳が間違った情報(理屈)でオーバーロードしているときである、とも言っています。

また摂食障害や食物嗜癖から回復した人なら経験的に知っていると思いますが、食欲と体重というのは「お腹が空いた(どこかでカロリーなり栄養素なりが不足している)から食べる」「お腹いっぱいになった(その時点で必要な分は補給完了した)から食べるのをやめる」というきわめてシンプルなメカニズムであり、気をつけて自分の身体の声に耳を傾けていれば、人間の身体というのはちゃんと健康を維持する(生物としてより長く生き残る)のに適正な体重の範囲内で安定するものです(育ってきた環境のなかで食べ物が「盗むべき愛情」や「怒りやさびしさを消すためのクスリ」といった意味づけを与えられ、「その一口がブタになる」「やせていなければ愛されない」といった余計な情報で心がオーバーロードさせられて、私たちは本来の身体のメカニズムを聞き取ることができなくなっていました)。

このように、本来私たちにはひとりひとり、人間という生き物として、ちゃんと生きていく力が備わっています。が、社会的生物である人間のやっかいなところは、それに対する他者の信頼の視線がないかぎり「生きる力」さえも発揮され伸ばされることはない、という点であると思います(私たちACの場合は大概、信頼をもって見守る視線がまったく無かった(ネグレクト)か、「なんでアンタはそんな要領が悪いの!」「またしょうもない物ばかり買ってきて!」といったような声で心がオーバーロードさせられていた(過干渉)かのどちらかであると思います)。

以上のようなことから、このサイトでは、利用者は自分の回復・成長する力を信頼すると同時に、他の人々の回復・成長する力を互いに信頼しう、というポリシーを取っています。それは「分析解釈、お説教、アドバイス等の介入はしない」というサイトの原則でもありますが、それ以外の小さなこと、たとえばBBS等でどこまでメールアドレス等の自分の情報を開示していいか、個人的に知り合いになってもいい人間は誰か、自分のことを話してもいい相手は誰か、といったようなことも、どうかしっかり自分の内なる声に耳を傾けてください。

◆「調子狂いそうなとき」は素直に休もう◆
私たちはACであると同時に学生だったり職業人だったりする一生活者でもあります。そしてACの問題からの回復についても、それぞれちがったステップにいて、ちがった課題をこなしています。

異なる回復の段階にいる人同士でうまくコミュニケーションできることも多いですが、相手に合わせようとして自分が何だか調子がおかしくなったり、抑うつ的になってしまったりすることも時々あります。そういうときはどうぞ無理せず相手から距離を取ってみてください。BBSなどでレスを求められたとしても、無理に応じる必要はありません。

◆インターネットは回復の道具のひとつにすぎない◆
ACについてまだ誤解している世間の人々に迎合し「自分はACなんかじゃない、そんな「何でも親のせいにしている、くだらない連中」じゃない」とACである自分を否定するのもしんどいですが、ネット上にACとしての自分の居場所を守ろうとするあまり「ACの私」のネット人格を作り過ぎてしまうのもまたしんどいものだと思います(「ACの私」に限らず、ネット人格を演じ過ぎているといつか息切れしてしまうものです)。

ここは私たちの居場所のひとつではありますが、ここだけが私たちに残された居場所のすべてではありません。

特にインターネットというのは、とてつもなく広大でアクセスの自由度が高いけれど、また自分とその周りの「同好の士」で構成される小さなコミュニティを世界のすべてであるかのように勘違いしてしまいやすい、合わせ鏡のようなメディアでもあります。ネット世界で「ACの私」を売りにして、不幸自慢やコミュニティ同士のネット喧嘩や内輪誉めのようなことばかりしているとしたら本当に不毛なことです。

さらに言えば、「ACの私」を売りにすることによって(ネットという合わせ鏡のような世界であろうと)初めてなにがしかの居場所を得たと思い込んでしまい、ネット世界でACとして注目され居場所を保証されつづけるためにACの症状を固定化してしまうとしたら本末転倒なことです。

ACだからといって、いつでも本に書いてあるACの条件のとおりに自分に自信がなく抑鬱的な顔をしている必要もないと思います。むしろ私たちの抱えている色々な問題から回復して快適な社会生活を営むようになった時、「あたし? ACだよ」「いやぁ、俺ACなんだけどさ」と何の気負いもなく爽やかに言えるようになれば――「親を告発するなんて…」というタブーからも自由になり、しかももはやそれが人生リセット・子ども返りの幻想ではなく、(子供も含めた)人間というものに対し本当に謙虚で誠実でありつづけるためのキーワードになれば――その時こそ私たちは、自分たちの親が決してできなかったこと、(直接の自分の子孫であるとないとを問わず)ACの不幸の世代間連鎖を食い止めるという大事業を達成したことになる、と。管理人は、そう信じています。


…色々と前置きが長くなりましたが、どうぞあまり固くならず、気楽に構えて。立場も回復の段階もそれぞれ違う他人への想像力とユーモアの心を持って、楽しくご利用ください。
『ACの問題が当てはまる方へ』 Previous<< | >>Next 『禁止事項』