1.感じるままを感じてもいい。感情には正しいとか間違いということはない。感情はただあるだけである。誰も人がどう感じるべきかを教えることはできない。感情について話すことは、良いことであり必要なことだ。 2.欲しいものを欲しがってもいい。欲さなければならないことや、望んではならないことなどない。自分の活力に触れたならば、大きく成長したくなる。 3.見え、聞こえることを見聞きしていい。見聞きしたものはなんでも、自分が実際に見聞きしたとおりのものなのだ。 4.いっぱい楽しんだり、遊ぶのはいいことだし、また、そうする必要がある。 5.真実を語ることは重要なことである。歪められた考え(“すべてか無か”思考、破滅化、過度の一般化、読心術、etc.)をしりぞけて現実をあるがままに見ることは、人生の苦痛をやわらげる。 6.ときには限界を知って、満足を先のばしにすることは大切である。これもまた人生の苦痛をやわらげる。 7.バランスのとれた責任感を発達させることは重要である。それは自分の行動の結果を受けとめることと、他人の行為の結果を引き受けないことを意味する。 8.失敗してもいい。失敗は教師である。失敗は学ぶことを手助けしてくれる。 9.自分自身と同じように、他者の感情、要求、望みもまた、尊敬され尊重されるべきである。 10.問題があってもいい。それは解決される必要がある。葛藤があってもいい。それは解決を必要としている。
ジョン・ブラッドショー 『インナーチャイルド』(NHK出版)第10章をもとに作成
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■27981
/ inTopicNo.1)
二階席にて
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□投稿者/ アラタ
-(2011/11/12(Sat) 01:07:53)
二週間ほど祖母宅。おちつきあり
精神科で父親に対しての誤解を解く。
婦人センター、法テラス。
でも話していて彼らより私のほうが弁が立つ印象。
矛盾やあいまいさが気持ち悪い。
紙にいろいろ書いた精神療法が続く。
さてどうしよう。
祖母宅でネット繋げられれば話は早い。
だれかに相談、ではなく
きちんと発言に責任とってくれる人とガチで話せるのはいい。
ただACについては精神医学領域にいる立場からは
なんとも言及できない、と。
はてさて。
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■27982
/ inTopicNo.2)
つづき
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□投稿者/ アラタ
-(2011/11/17(Thu) 23:16:46)
良くなって見ると分かる
「混乱している」と。
なるべく性格に、解ることだけ。
解ったつもりにならない。なんとなく言い含んだりしない。
「それは○○と言うことですか?○○だからですか?
なら先生には何を相談すれば良いのですか?あなたの持つ機能は?」
そんなことを以前思っていても嫌われる、と思っていえなかった。
言ってもいいのか、頭の中でうろうろ考えて通院できなかった。
でも、それを話してみようと思い、
「予約取るだけで安心してしまう。なかなか疲れていけない。」
「嫌われたらどうしようと思って話せない。」
「本当はいけないのかもしれないけど先生と話したい。」
と本当に思っていることを話した。
そこから、面接だけでは時間が足りないのでメモを書いて渡すことに。
「まず、要約できないと思うのでまだやらなくていい。
書くことはいいことだから、何でも書いて。」
と吐き出すことの許可をくれた。
当然、何なら言っていいのかとか、先生の診断とか、ものすごくストレスになることがおおい。そこは我慢でもなんでもなく、そこにストレスやいたみを感じる事から目をそらさずに、「なんか変だ」を表現する。多分こうだろう、と不正解を言わず、いえることだけ言う。
8月からはじめて4ヶ月目。3日で10枚程度が20枚30枚
あっというまにぶあついファイル一冊に。
やめないとめない、何を見たかどう感じたかも全部書く。
話がこまかいことでアスペルガーや強迫神経症を疑われたが、違う。
苦しいからもがく。違和感があるから吐き出す。
そしてついさっき、「あれ?」と思うことがおきたのだ。
あれとあれがつながった。これとこれはこういうことか、と。
私は頭の中のネットワークを完全に広げすぎたので各々膨大だが、
その分、だまされない。すべて解き明かしたから。
これはおおきいかもしれない。
ついさっきまで改めて回復すると、自分が喪失したものの大きさに
愕然としていたのだが、不思議だ。
わたしが在籍していたのは一部の方にはごぞんじのとおり心理学科だ。
でも、心理を学ぶのは自分がなにかの当事者だとすると
新しい魔の扉を開けてしまうことになりかねない。
かかわらなくて良かったはずの扉の閉じ方をマスターしないかぎり、
不安はついてまわる。
わたしは、国語力があればこの問題はもっと現実的に改善する。と思う。
人目を忍んで通院することでまたストレスをためたり、そうする必要もすくなくなるかもしれない。もっと言えば、小論文。問いを立てる。問題提起。自分とつながる。そこではまだ答えを出さなくていい。きっかけをつかむだけでいい。
認知行動療法というものを完全に把握はしていないけれど
おそらくそんな他人に与えられた課題よりも自分でこんなことになやんでてこうおもってるよって書くことは、「自分で課題にとりくんでるぜ」「うそいつわりご機嫌取りなんてないぜ」という感じでいろいろなものごとにつながるツールとなりうるかもしれない。
アラタさんにとって「書くこと」は特別なことのようだね、といわれた。
そのおかげで面接ではもやもやしていえなかった
違います、なぜなら・・・という話や、もしかしたらこういう誤解をしてるんじゃ?とか、というか拾い読みばっかで話聞いてないだろ!!という怒りなど言って、自ら話の方向を軌道修正している。
長いエアポケットからぬけだしつつある。
ながすぎる「しゃっくり」のようなものだろうか。
もうはいりませんように!
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■27983
/ inTopicNo.3)
つづき
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□投稿者/ アラタ
-(2011/11/27(Sun) 02:50:32)
理解されにくい「AC」の概念等は
このサイトの利用案内や定義のページを印刷して渡した。
そこに自分の言葉を書き足した。これで大体は解ってもらえると思う。
「今まで」の自分について。
これでもう、自分の問題について「AC」という隠れ蓑を使うことは出来なくなる。
ある意味、「AC」という概念に守られてきたのもある。
ちょっとした言葉に敏感であったり。感覚を言葉に直したり。
なかなか色とりどりの世界。
自分が健康診断で何の問題も無いとき、
「ドクターストップ」が入る人がうらやましい
だってマラソンしなくてすむじゃん・・・みたいな、
へんなさびしさと怖さを感じる。
ACのファクターを外せば、「今までどおり」の事は我侭、身の丈を知れ
・・・な言動になる。多分、これが「ふつう」なんだ。
もう行ったりきたりしませんように。
その必要が無いように、そういう概念が誤解されないように、
恨みをぶつけるのではなく、「うおのめ」「いぼ」見たいに
かかると大変だけど抜けるとまあ安心してよし、なものであること。
・・・を伝えられれば良いな。
さて、自分の話に戻ろう。
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