1.感じるままを感じてもいい。感情には正しいとか間違いということはない。感情はただあるだけである。誰も人がどう感じるべきかを教えることはできない。感情について話すことは、良いことであり必要なことだ。 2.欲しいものを欲しがってもいい。欲さなければならないことや、望んではならないことなどない。自分の活力に触れたならば、大きく成長したくなる。 3.見え、聞こえることを見聞きしていい。見聞きしたものはなんでも、自分が実際に見聞きしたとおりのものなのだ。 4.いっぱい楽しんだり、遊ぶのはいいことだし、また、そうする必要がある。 5.真実を語ることは重要なことである。歪められた考え(“すべてか無か”思考、破滅化、過度の一般化、読心術、etc.)をしりぞけて現実をあるがままに見ることは、人生の苦痛をやわらげる。 6.ときには限界を知って、満足を先のばしにすることは大切である。これもまた人生の苦痛をやわらげる。 7.バランスのとれた責任感を発達させることは重要である。それは自分の行動の結果を受けとめることと、他人の行為の結果を引き受けないことを意味する。 8.失敗してもいい。失敗は教師である。失敗は学ぶことを手助けしてくれる。 9.自分自身と同じように、他者の感情、要求、望みもまた、尊敬され尊重されるべきである。 10.問題があってもいい。それは解決される必要がある。葛藤があってもいい。それは解決を必要としている。
ジョン・ブラッドショー 『インナーチャイルド』(NHK出版)第10章をもとに作成
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■5889
/ inTopicNo.1)
これからどうしていけば?
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■
□投稿者/ フー
[MAIL]
-(2007/04/30(Mon) 00:18:58)
僕はもともと生真面目でがんばりやな人でした。でもなぜか毎日がとてもつらかった。しかしアダルトチルドレンという概念を知ることで、その疑問がとけたのが、5年前。結局人にいかに認められるかというのが自分の行動規範だったんですね。それを知ってから少しづつ自分の共依存的な行動はやめ、自分の感覚にしたがって行動することを覚え始めている。仕事もやめた。したくないことはやめた。付き合いたくない人とも縁をきった。
そうこうしてわかったこと。結局やりたいことがない。楽しいことってなに?
うれしいことってなに?長年にわたる自分の生き方の中で、すっかり生きる活力が失われてしまっているんだと思う。人とも話したくないし。人とのつながりに何の関心もわかない。気持ちの上では、やりがいあることをしたいし、楽しい事だってしたい。でも実際はやりたいことないし、元気もわかない。こんな自分は回復できるんでしょうか。回復するために何をすればいいんでしょうか?寝てすごせる時間があればひたすら寝ているばかりの毎日。このままでいいんだろうか?それとも何か行動したほうがいいんだろうか。これも回復するためのステップと思えばいいんだろうか?
引用返信
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■5890
/ inTopicNo.2)
Re[1]: これからどうしていけば?
▲
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□投稿者/ 1234
-(2007/04/30(Mon) 10:10:07)
そういう状態って、回復プロセスの終盤くらいだったでしょうかね。
自分も3年くらい引き篭もりましたよ。何もする気が起きなくて将来に不安があったけど、
ACの本には、それは回復プロセスにとって必要な時期と書かれていて安心しました。
とりあえず素直な気持ちに従って行動したら、何もかも無くなってゼロになっちゃったんですよね。
それは充電期間と割り切って、何もしたくないと思う気持ちも、自分に素直になった結果と思って
何もしない方がいいですよ。
そういう状態に身を置ける人って、ACの中の人でも幸せだと思うんですよね。行動したくなくても
行動せざるおえない人だっていますし、そうした結果、ACからの回復が長引いちゃったり。。
正常に主体性や自尊心が芽生え始めた成果が今なんですから、自分から何かをしようと思うまで
フワフワ漂ってればいいと思います。
自分のケースですけど、この充電期間が終わって働きに出たんですけど、また引き篭もった時期が
あるんですよね。
将来の不安からちょっと焦ってて、働きに出たんですが、一番最後の小さなトラウマが残ってたんですよね。
焦ると自分では自覚していないトラウマが残ってたりする場合もあるんで、”急がば回れ”の気持ちで
今の時間を大切にされた方がいいです。
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■5891
/ inTopicNo.3)
Re[2]: これからどうしていけば?
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□投稿者/ フー
[MAIL]
-(2007/04/30(Mon) 16:30:26)
レスほんとにありがとうございます!!この状況を人に伝えるのはとても困難だと思っていたので、同じような経験をされたかたがいらっしゃったというのはとても勇気付けられました。自分ではあえて何もしない(必要)があるような感じがしているものの、見ればただの怠け者にしか見えないでしょうから、やはり焦る気持ちもあり不安でした。
こんなふうにふわふわしているあいだに少しづついろんなことが見えてきていると感じています。
・やりたくないことやめたらゼロになっちゃったって!いままでがんばってきたことってなんだったの?俺っていままで何してきたの?やりたいことも楽しみ方もしらない。
・人に対してありのままの自分でいようと、飾ったり、かっこつけたりすることをやめたら、あれ?僕ってどんなひとでいればいいの?人前にだせる自分の人格がないよ。困った。
・今でもやっぱり共依存的な人とかかわりやすい。今までそれが親密さだと思っていたんだな。でも心からそいつと付き合いたいと思っているかというと実はそんなことないんです。ここは心を鬼にして縁を切ろう。でもそういう人と縁を切っていくとほんとに僕って友達いないんだな。人との絆って何?
・今まで関係してきた人たち、よくしてくれた人たち、一緒にがんばった人たち、この人たちを今までずっと欺いてきてたような漠然とした罪悪感と恥を感じています。文字通りあわせる顔がない。
> 正常に主体性や自尊心が芽生え始めた成果が今なんですから、自分から何かをしようと思うまで
> フワフワ漂ってればいいと思います。
こんな自分でもどうにかなる。それを信じて、いましばらくこうしていようと思います。
引用返信
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■5892
/ inTopicNo.4)
Re[1]: これからどうしていけば?
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□投稿者/ K太郎
-(2007/04/30(Mon) 16:51:47)
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No5889
に返信(フーさんの記事)
> 僕はもともと生真面目でがんばりやな人でした。でもなぜか毎日がとてもつらかった。しかしアダルトチルドレンという概念を知ることで、その疑問がとけたのが、5年前。結局人にいかに認められるかというのが自分の行動規範だったんですね。それを知ってから少しづつ自分の共依存的な行動はやめ、自分の感覚にしたがって行動することを覚え始めている。仕事もやめた。したくないことはやめた。付き合いたくない人とも縁をきった。
> そうこうしてわかったこと。結局やりたいことがない。楽しいことってなに?
僕は社会から最初にドロップアウトしてしまったのが今から20年くらい前です。
でも本当の最初は中学の終わりでした。
人の何倍も勉強していたのに突然全く勉強できなくなったのでした。
親や先生など周りの人から認められたくて異常な努力をしていたのがもう限界が来てしまったのでした。
自分として生きている実感がない焦燥感にいつも駆られていました。
自分らしく生きるぞとドロップアウトして自由なフリをして生きてみても、
逆につらさが増すばかりでした。
何をしてもどこに行っても自分が嘘くさくて何もできなくなるのです。
全部フリ・・・自分に対してすら何かが好きなフリをしている自分
僕はこれが好きなんだって思い込もうとしている自分の嘘くささ・・・
本当の自分を求めてフーさんのようにいろいろなものを捨てたり、捨てられたりしていったら、玉ねぎの皮むいていったみたいに何もなくなってしまいました。
最終的にはひどい鬱と引篭もりのような生活。
> うれしいことってなに?長年にわたる自分の生き方の中で、すっかり生きる活力が失われてしまっているんだと思う。人とも話したくないし。人とのつながりに何の関心もわかない。気持ちの上では、やりがいあることをしたいし、楽しい事だってしたい。でも実際はやりたいことないし、元気もわかない。こんな自分は回復できるんでしょうか。回復するために何をすればいいんでしょうか?寝てすごせる時間があればひたすら寝ているばかりの毎日。このままでいいんだろうか?それとも何か行動したほうがいいんだろうか。これも回復するためのステップと思えばいいんだろうか?
ほんの1年くらい前までフーさんのような状態に僕もすっかり陥っていました。
そのときはもういなくなることしか考えられませんでした。
でも今はそれが回復のプロセスだったんだと確信を持てる気がします。
今でもどうしても周りの人の感情や目を気にしたり、それに影響を強く受けながらしか生きられない僕がいますが、
そうせざるを得ない状況が続くとすっかり自分が疲れきっていることに気がつきます。
そんなときには独りで静かにしてエネルギーが回復するのを待ってあげるしかないと思えるようになりました。
フーさんこれまでがんばってがんばって来たからきっと疲れきっているのではないかと思いました。
もしかしたら今一番やりたいことは休むということかもしれませんね。
どんなことでもそればかりいつまでもできないように自然はできているような気がします。
十分に休んで、エネルギーが溜まってきたらちゃんと何かが向こうから自然にやってくるということもあるのではないかと思います。
僕の場合はACということを学び、ここのサイトに書き込みをしたことそのものがそんな意欲の復活のひとつでした。
人の目や評価をよりどころとした生き方しかしらない僕にとって
自分として生きるということはどうして良いかわからず、
それはむしろ厳しいことのように感じていました。
でも、やっぱり自分自身として生きることをもうあきらめたくはありません。
そんな中で
「たとえ自分がどうであれ絶対に自分のことを責めない。」
僕は自分とこんな約束をしてこのことヒトツを思い起こすようにしてます。
フーさんの書き込みに絡めて自分のことを語らせていただいてありがとうございました。
フーさんが自分として生きていこうとしていること僕は心から応援します。
引用返信
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■5893
/ inTopicNo.5)
Reすこしご意見伺いたく
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□投稿者/ フー
[MAIL]
-(2007/04/30(Mon) 22:40:52)
1234さん k太郎さん 返信どうもありがとうございます。
私の状況をつたない言葉で書き込んでみたのですが、理解してくださる方がいらっしゃったことにとても安心しました。
私がACから真剣に回復しようと決心してから、5年くらいになりますが、今お話したような状況です。そして今思っているのは、問題はこれからです。ゼロになってしまった後、どのように自分を再構築していくのかという。
ずっと思っていましたが、私の現在のプロセスをすでに通られている方々と意見交換させていただけませんでしょうか。
私の人生も折り返し地点をすぎ、残りの人生を少しでもよいものにしたいと思っています。もう後戻りもしたくないし、回り道もできるだけ避けたいのです。
具体的にお話してみたいことは、次のようなことです。
・今後はACでない人との付き合いがとても重要だと思っています。しかしそういう人との親密さというのが感覚的に理解できないのです。共依存的な親密さしか知らない自分には。
・もっとわからないのが愛。今まで愛と思っていたのが、実は相手の弱みを見つけてそこに寄生しようとしていただけだった。本当の愛がわかってきた。という方いらっしゃれば是非伺がってみたいのえす。
・今僕は仕事をしていません。それをする元気がないのもありますが、今新たに何か仕事を真剣にやっても、がんばりやの自分はまた新たな玉葱の皮をつけていくことになりそうな気がします。それじゃせっかくゼロになった意味がないのです。同じことを繰り返すだけです。そんな風にならないタイミングってあるんでしょうか。
・ACの本には、回復が進めばワンダーチャイルドがあらわれて・・・ということがかかれていたりしますが、実際にはゼロになったあと、再構築段階にとどまっている方が多いような気がします。具体的にそういう方いらっしゃるんでしょうか?
周りにACについてお話できる人がいないこともあり、なにかご意見いただけないかと、まことに勝手ながら書かせていただきました。
引用返信
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■5894
/ inTopicNo.6)
Re[2]: これからどうしていけば?
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□投稿者/ フー
[MAIL]
-(2007/04/30(Mon) 22:51:17)
K太郎さん。レス本当にありがとうございます。
まさに玉葱の皮をむいていったらなにもなくなった。というのはまさに私と同じ状況です。
まことにぶしつけなお願いではあるのですが、私と同じようなプロセスを経た方としてご質問をさせていただきたいのですが、「すこしご意見伺いたく」という題で別途書き込みをしております。何かご意見いただければ幸いです。
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■5895
/ inTopicNo.7)
Re[2]: Reすこしご意見伺いたく
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□投稿者/ 1234
-(2007/04/30(Mon) 23:51:48)
例えば今の何もしたくないという状況を分かり易い例でいえば、まだ家族以外の社会と
接していない幼い子供と同じようなものだと思うんですよね。
親が子供に向かって”働きに行け”と言われて、嫌がるのと同じことだと思います。
自分の経験だと全てをリセットした後、普通に反抗期を迎えましたし、子供の時に
買えなかったものが欲しくなったりもしましたし、本当に子供時代をもう一度やり直した
ような状態を経験しました。
じゃあ、子供としてこの先、人との距離感や愛を学ぶにはどうするかと言うと、色んな社会と
接していきながら、少しずつ学ぶしか無いと思うんですよね。
そればっかりは人から明確な答えを教えられるものでも無いし、文字だけのコミュニティーだけでは
伝えたいことも伝えられないと思います。
仮にフーさんに何かをアドバイスしようとしても、それはフーさんを取り巻く社会環境によって
どうにでも変化していくものですから、明確な答えなんて無いと思いますよ。
とりあえず自分に無理をかけない大切さ、何もしない必要性を、ACの概念によって学んでる
最中なんですから、再び過去と同じような頑張り屋になるってことは無いと思いますけどね。
白いキャンパスに色を塗るのは自分で、綺麗な風景を見れば、綺麗な色に染まりますし、
汚い風景を見れば、汚い色に染まりますし、まぁそういうもんだと思います>今の状態
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■5896
/ inTopicNo.8)
Re[2]: Reすこしご意見伺いたく
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□投稿者/ ちひろ
-(2007/05/01(Tue) 10:58:09)
フーさん、はじめまして。
私も、平均寿命で言うところの人生の折り返し点を迎えました。
古い自分が壊れたのが3年前。
壊れて初めて、ACという概念に出会い自分の生きづらさのわけを知りました。
再構築・・・してこれたのかどうかは、わかりません。
私が壊れたのと同時進行で、私の家庭も壊れました。
子どもを奪われ、家を追い出されて、ひとり、専業主婦だった地点から逆に社会に出て働かざるを得なくなりました。
家に引きこもっていた時間は短いですが、自分の古い鎧が壊れ、虚しさに囚われている時間は、古い痛みと現実の傷を見つめざるを得なくて・・・。
混乱していました。
ただ泣いていました。
生きるの、死ぬの・・・と考えていた時期かもしれません。
生きる為に働いてお金を稼がないといけない。
たまねぎの皮が剥けた状態・・・古い鎧がはがされた弱弱しいおぼつかない状態で、自分を守るには新たな鎧を身に着けないと、外の人間関係に入ることができません。
その鎧はもろくて透明。ひとり部屋に戻るとすぐ崩れてしまいます。
まさに、幼い子ども状態のまま、生活の為に身体を引きずるように、仕方なく仕事をしに行っていたような気がします。
私が選んだのは介護の仕事です。
介護される人は、人生の終焉を迎えた死に近い人々です。
病院のベッドで寝たきりの死にゆく人々、一度は死に瀕したけれどリハビリで生きなおしの努力をしている人々・・・との出会いが、少なからず私の「生きること」に影響を与えました。
そういう人たちは、自分を飾ることをしません。ありのままに最も近い姿で接してくれます。
そういう人たちと向き合うことは、ある意味しんどく、ある意味癒されました。
自分より体が衰え、生きる力が残りわずかな人たちが、一言「弱い」と言えないことを知りました。
業として関わっているので、その人たちとの親密さを築くのに、ある程度の境界線が引けているのかもしれません。
その人たちの望むことに応えることで、笑顔になれる。相手も私も「快」の感情が得られる。
人間らしさとは何かを常につきつけられてきたことで、最近になって、自分の中で抑圧され怯え続けていた子ども心が、変化してきたような気がします。
・・・と言うよりは、明るく明朗で、自由に遊んだり好奇心を持ったり、ときにいたずらしたり・・・という子どもの心が芽生えてきたような感じなのです。
その子ども心は「遊ぼうよ!」という誘いをします。自分も笑いたいし、相手にも一緒に笑って欲しい、サービス精神に長けています。
相手の人間的成長を信じ、認め、リスペクトすることが、愛なのではないかな・・・と思います。
同時に、自分の成長を信じ、認めること。
自分を否定したままでは、相手の成長を認めることはできないように思います。
虚しさに囚われていても、どこか、心のわずか一部分で感じることができたなら、少しずつ、「喜び」や「快」が自由な子どもの心を呼び覚ましてくれます。
人間関係依存の私は、やはり人との関わりの中で、自分の成長を信じるようになったような気がします。
まだまだ・・・うまく境界線を引けませんし、普通の人たちのようにドライになれない自分がいます。
介護される人よりも、同じ職場の同僚たちとの人間関係に悩みます。
それでいいのだ、これしか私にはできない、と思えるようになってきました。
今でも何かしら鎧を着ていないと仕事には行けないと思います。
けれど、それはそのとき必要な鎧。
大人として、社会人としてのマナーをわきまえ、仕事上子どもの心を守ったり、遊びたがる子ども心を抑制したりするのに必要なのだろうと感じます。
私も壊れていたときは、答えが欲しくて本を読み漁りました。
いまはほとんど読まなくなりました・・・。実際に体験することでしか、自分のものにはならないと思っています。
自分のことを、思いのままに書いてしまいました。
わかりづらくまとまりのない長文、失礼いたしました。
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■5897
/ inTopicNo.9)
Re[2]: Reすこしご意見伺いたく
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□投稿者/ K太郎
-(2007/05/01(Tue) 14:43:53)
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No5893
に返信(フーさんの記事)
フーさんこんにちは
> 1234さん k太郎さん 返信どうもありがとうございます。
> 私の状況をつたない言葉で書き込んでみたのですが、理解してくださる方がいらっしゃったことにとても安心しました。
> 私がACから真剣に回復しようと決心してから、5年くらいになりますが、今お話したような状況です。そして今思っているのは、問題はこれからです。ゼロになってしまった後、どのように自分を再構築していくのかという。
> ずっと思っていましたが、私の現在のプロセスをすでに通られている方々と意見交換させていただけませんでしょうか。
僕の方にもこうしてお話できることが助けになっていますので、
ありがたいと思っています。
> 私の人生も折り返し地点をすぎ、残りの人生を少しでもよいものにしたいと思っています。もう後戻りもしたくないし、回り道もできるだけ避けたいのです。
僕は、47歳です。
生きにくさに苦しんで、
交流分析などから始まって、心理学や宗教的なことも含めていろいろともがき続けて20年以上が経ちました。
いくつかのグループワークなどにも参加したりしてきました。
ACという言葉に出あったのがほんの2年くらい前です。
僕の場合は今になってやっと見えてきたものがたくさんあることを実感しています。
本当に大人になるのがあまりに遅い自分が情けなくてしょうがなかったのですが、
今は少し開き直れて新しい発見をすることを喜びと感じるようになってきました。
そんな中で若いころから触れてきたものの深い意味を再発見したりしています。
何やってるんだろうってずっと思ってましたが、
ある意味では無駄なものはなかったのかも知れないとも思えるようになってきたような気がしてます。
>
> 具体的にお話してみたいことは、次のようなことです。
>
> ・今後はACでない人との付き合いがとても重要だと思っています。しかしそういう人との親密さというのが感覚的に理解できないのです。共依存的な親密さしか知らない自分には。
僕はある意味、ACだと見ればほとんどの人がACではないかとも思えます。
このことは斎藤学先生が書いていたことですが、この社会自体が基本的に共依存的になりたっているような気がします。
だから、世間のいろいろな親密さというのもある意味、共依存的なものが含まれているんじゃないかと思えるのです。
僕が自覚できたことは、人はみんな孤独であたりまえだということでした。
それは、他の人の心の世界が完全に分かりあうことなどないからです。
僕は孤独を感じると、それは孤立していることだと勘違いしていました。
孤立が怖くて誰かにしがみつこうとしたり、異常に深く触れ合おうとしたりしてました。
孤独であることが前提になると、
ただ挨拶をするだけでもそれも親密さなのかなあと思えるようになりました。
お店のお客さんと店員さんの関係でもそうした一部だけで触れるのも立派な人間関係かと思えるようになってきました。
もちろん自分の心のデリケートな部分まで分かち合えるような関係はより素敵なことであるのはもちろんですが、立場や関係でいろいろなレベルや距離の親密さがあっていいような気がしています。
> ・もっとわからないのが愛。今まで愛と思っていたのが、実は相手の弱みを見つけてそこに寄生しようとしていただけだった。本当の愛がわかってきた。という方いらっしゃれば是非伺がってみたいのえす。
>
本当の愛って何なんでしょうね。
確かに愛だと思っていたものが、執着に過ぎなかったということは良くあることですよね。
愛は人の中にあるというよりも
人と人の間に働くもののような気がします。
誰かが誰かを愛するのではなく
誰かと誰かの間に愛が働く
マザーテレサさんはそれをキリストと言っていたんですよね。
そして弱っている人に手を差し伸べることはその人のために何かをしてあげるのではなくて、
そのことによってマザーテレサさんもキリストから愛を受けていたんですね。
手を差し伸べる人も手を差し伸べてもらう人も両方がその間に生まれる愛によって救われていくということですね。
そしたら愛は僕がどうこうするものではないということになります。
先の話ではないですが、そうすると愛はどこにでも出現する可能性があるんですね。
トイレ掃除のおばさんと交わすほんの一言と笑顔の一瞬の出会いの中にでも・・・
> ・今僕は仕事をしていません。それをする元気がないのもありますが、今新たに何か仕事を真剣にやっても、がんばりやの自分はまた新たな玉葱の皮をつけていくことになりそうな気がします。それじゃせっかくゼロになった意味がないのです。同じことを繰り返すだけです。そんな風にならないタイミングってあるんでしょうか。
>
僕はまだACからの回復途上(本当は回復ではなくて永遠の成長プロセスだと思ってます。)でなんともいえませんが、
玉ねぎは以前の玉ねぎのままだけどそれが違って見えてくるような気がします。
禅の言葉で言えば「空手還郷」のようなイメージでしょうか。
結局やっていることは以前と大して変わらないのに
自分の感じ方が違ってきて見えるものも違ってくるようなことかなと思っています。
そして自分の生きてきた道はやっぱり自分が好きで歩んできたものだったような気持ちが少し僕の中で起きています。
もちろんばっさり捨ててしまったものもありますが、
> ・ACの本には、回復が進めばワンダーチャイルドがあらわれて・・・ということがかかれていたりしますが、実際にはゼロになったあと、再構築段階にとどまっている方が多いような気がします。具体的にそういう方いらっしゃるんでしょうか?
>
僕は頭でこういうときには何を感じるべき何を考えるべきみたいな
べき論ばかりで本当に小さい時から生きていました。
小学校のときに先生に「何を感じた?」と質問されて自分が全く真っ白で何を感じているのか自分でぜんぜん分からないという独特の感覚に襲われたことを思い出します。
やっと、自分が感じることを認めることそれを外に表現することが少しづつできるようになってきました。
そんな中で本当に面白いと思うことを飽きてしまってかまわないから自分にやってみることを許しています。
一方で嫌いでもやらなければならないことはちゃんと自分にやらせるようにしています。
いずれにしても子供が成長するのと同じで段階というのはあると思います。
そのタイミングというのはハッキリとわかりませんが、
それも自分の中からなんとなく見えてくるのかもしれませんね。
ACの回復についてここの管理人さんのまとめの中にもありますが、
何かとても賢いものが自分の中に働いているということを仮定して信頼してあげることも必要なことなんだと僕は思っています。
それはさっきの愛の話に通じることかもしれません。
とっても長々と僕の思うところを書かせていただきました。
こんな機会をもらえてありがたい限りです。
引用返信
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■5898
/ inTopicNo.10)
Re[3]: Reすこしご意見伺いたく
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□投稿者/ フー
[MAIL]
-(2007/05/01(Tue) 22:48:52)
K太郎さん こんばんわ
>
> 僕は、47歳です。
私は46です。ちょうど同じくらいですね。
> ACという言葉に出あったのがほんの2年くらい前です。
私もいろんな心理学の本やら、カウンセリングやら受けましたが、堂々めぐり。
5年ほど前ACという言葉にであってから、やっと実質的な回復への道をたどったと実感しています。
> だから、世間のいろいろな親密さというのもある意味、共依存的なものが含まれているんじゃないかと思えるのです。
そうですね。親密さ、愛というのの大部分が共依存と混同されているのが事実です。そこでなおさら、そうでないものというのを実感したいとも思っています。
>
> 僕が自覚できたことは、人はみんな孤独であたりまえだということでした。
あ、それは僕も思いました。つまり今まで自立していなかったんだと。ACでない人は一人であるということをしっかり受け止めているということが。
> ただ挨拶をするだけでもそれも親密さなのかなあと思えるようになりました。
しらない人とちょっとつまらない雑談をすることが楽しかったり。
そんなに深く知り合う必要なんかないんだと
確かにそう感じることが少しづつ出てきたようにも思えます。
> 本当の愛って何なんでしょうね。
> 確かに愛だと思っていたものが、執着に過ぎなかったということは良くあることですよね。
> 愛は人の中にあるというよりも
> 人と人の間に働くもののような気がします。
> 誰かが誰かを愛するのではなく
> 誰かと誰かの間に愛が働く
> マザーテレサさんはそれをキリストと言っていたんですよね。
そうですねー。私が疑問に思っているのはもっと具体的にいわゆる男女間の愛というもので、いったんは親から自立した男と女が再度結ばれて(依存しあって)、親に依存するしかない子供を作って、という以上それは本質的にきわめて共依存的行為であって、共依存ではない恋愛ってそもそも存在するの?ということなんです。つまりACでない人の恋愛というのがさっぱり理解できない。私が感じる恋愛感情というのが常に共依存的でありきわめて危険であることが今では自覚できるようになりましたが、ではそうでないものって何?これはACでない人に聞いても、多分AC自体が理解できないだろうし、ACの人は共依存=愛だからこれもまた理解されないしいうことでして。K太郎さんのおっしゃっているその愛がこの場合にもあてはまるのか否か、具体例があるのかそれともあくまで観念的なお話なのか。(ちょっと立ち入ってしまって大変失礼なのですが差し障りない範囲でお聞かせねがえれば)、
> そして自分の生きてきた道はやっぱり自分が好きで歩んできたものだったような気持ちが少し僕の中で起きています。
あー、そういうふうにはあまり感じたことがなかったです。今後そんなふうに考えられるようになるのかな。
> やっと、自分が感じることを認めることそれを外に表現することが少しづつできるようになってきました。
> そんな中で本当に面白いと思うことを飽きてしまってかまわないから自分にやってみることを許しています。
いま手放しでほんとに面白いと思えだり好きだと思えることっておありでしょうか?
私は手放しで・・・というのがまだありません。すべてのことにまだ疑問府がついてしまいます。もしおありならいつぐらいからそう思えるようになったのでしょうか。
いろいろ質問してしまってすいません。一つ一つのお話が今後の参考になるといいますか、とても助かります。
引用返信
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■5899
/ inTopicNo.11)
Re[3]: Reすこしご意見伺いたく
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■
□投稿者/ フー
[MAIL]
-(2007/05/01(Tue) 23:50:22)
ちひろさん 返信ありがとうございます。
読んでまずふっと思ったのが状況が許すとはいえ、長々と引きこもっている自分「あ僕って甘いのかな、恥ずかしいな」です。
いくつかお尋ねしてよろしいでしょうか。
ACという概念に出会い今までの状況が壊れた結果としていまがある。
そうなった結果に後悔っておありでしょうか。その過程はつらかったに違いありませんが、今のほうが専業主婦であった昔よりよいと感じておられるでしょうか。
> そういう人たちは、自分を飾ることをしません。ありのままに最も近い姿で接してくれます。
> そういう人たちと向き合うことは、ある意味しんどく、ある意味癒されました
> いまはほとんど読まなくなりました・・・。実際に体験することでしか、自分のものにはならないと思っています。
は含蓄のある言葉です。介護の仕事を自身の成長の糧にしておられる。
もし介護の仕事を選んでなかったとしたらどうだったでしょう?あ、質問の意味がわかりにくいかもしれません。それは、ACからの脱却回復過程でどういう人と出会う、あるいはかかわりあうのがよいのかという私自身の身の振り方につながっているからですけど、福祉関係の仕事であったからこその現在の境地とお感じなのか、それともそういうことではないのか。
まだ変わらなきゃ、とお感じでしょうか。つまり生き辛さの度合いが当時と現在はどの程度変化されたのかと。
ぶしつけな質問で申し訳ありません。でも単純にお聞きしてみたいと感じたことを書かせていただきました。
引用返信
削除キー/
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削除
■5900
/ inTopicNo.12)
Re[3]: Reすこしご意見伺いたく
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□投稿者/ フー
[MAIL]
-(2007/05/02(Wed) 00:15:18)
■
No5895
に返信(1234さんの記事)
> 例えば今の何もしたくないという状況を分かり易い例でいえば、まだ家族以外の社会と
> 接していない幼い子供と同じようなものだと思うんですよね。
確かに。。昔と違うのは親がいない子供ってとこですね。モデルにすべき親がいないから、そのモデルを求めている。といったところでしょうか。
>
> じゃあ、子供としてこの先、人との距離感や愛を学ぶにはどうするかと言うと、色んな社会と
> 接していきながら、少しずつ学ぶしか無いと思うんですよね。
確かにそうですね。確かに社会のなかではモデルにできる人、できない人、反面教師いろんな人がいます。このサイトにもいろんな人がいらっしゃるのでどのような体験をなさったかなど、いろいろお話も聞いてみたいとも思っています。
引用返信
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■5901
/ inTopicNo.13)
Re[1]: これからどうしていけば?
▲
▼
■
□投稿者/ SILVER7
[MAIL]
-(2007/05/02(Wed) 01:26:23)
2007/05/02(Wed) 16:18:16 編集(投稿者)
2007/05/02(Wed) 11:10:42 編集(投稿者)
私も、一言。
一生懸命こしらえていた衣を脱いでいくと、何も無くなるのは、当たり前ですね。
自分が何者でもないということに直面しておられるようですね。 それどころか、自分のなかに、何事かをなそうという気力さえ見出すことができないことにも、直面しておられるのでしょうか?
私も経験がありますから、私の思ったところで言えば、かなりな恐怖でしたね。
ほんまもんの「私・自分」には、まだ、出会っておられないのでしょうか?
こしらえ物ではない、誰かや何かがあって存在しているように見える、形だけの「自分」ではなくて、生身の、血の出る、人には渡すことができない「自分」を、まだ、見出しておられないのでしょうか?
中也の詩の中になんかありましたが、新しい酒は新しいかわごろもに入れなければならないそうですから、古いかわごろもを破棄して、新しいかわごろもを手に入れなければならないのかもしれませんね。 だから、フーさん、これからかもしれませんね。
続く書き込みで聞きたいとおっしゃっている、
ACでない人との付き合い、
ほんとうの愛、
仕事をしていくタイミング、
ワンダーチャイルドを見出した人
のなかでは、一番最後が、私は当てはまるのかもしれません。 ただし、私はあまり本を読んでいませんので、ワンダーチャイルドということばも不正確にしか知りません。 ちひろさんが書いておられる、生き生きした子どものことでしょうね。 また、インナーアダルトの成長とも関連してくるのではないでしょうか?
簡単に記しますと、「人それぞれ」ではないでしょうか?
上記のお尋ねのことみんな。
ほんまもんの「自分」を見出したら、その自分が、取捨選択していくように、思います。 私の場合は、そうなっています。
チョロッチョロッと、ほかの書き込みでも書いていますが、私は、「まごうかたなき自分」を見出したときが、ほんとうの意味での生まれ変わりのときでした。
それからは、その「自分」を、何人(なんびと)にも渡そうなんて、思いもできなかったし、無力な、何も知らない赤子のようでしたが、だいじにだいじに育てました。
初めは、その子の意思なんか無視して、「周りに合わせよう」とする、旧来の動き方を排して、生まれ出たというか見出したばかりのその子を守ることがメインでした。
次に、その子の感覚を感じ取るようにしました。 これ、案外、難しかったですね。 何も知らない、それこそ無垢の赤ん坊でしたから、何にも持っていないわけです。 しかし、そんな子でも、現実の中にいると、実際に見聞きし触れ、味わうわけですね。 私は追体験していきました。
やがて、幼児期から学童期、少年期と幾何級数的速度で進行して、4年目に、意識的に、現実の社会へ1歩踏み出しました。 その時点では、社会的な自信というのはゼロでした。 それでも、それまで育ててきた「自分」の人となりで対処してみようと思ったのです。 それこそ、かつて社会で動いていた自分ではなくてです。
今、社会へ踏み出して2年目です。
どこかで書きましたが、かつてとは違って、偽善者であることが、たいへん少なくなっています。 こしらえあげたものではありませんからね。
普通の人と、普通に話しています。 この4月から、公民館活動のような卓球に参加しているのですが、別に、こだわりなく話していて、かつてあったような、一言一句が気になるようなことは、皆無と言ってもいいぐらいです。
私は独り者ですから、相手がいませんが、今からだったら、背伸びも縮こまりもせずに、そのまま相手も見るでしょうし、私も、取り繕うことはないだろうと、思います。
仕事は、責任持ってやりぬくことが求められますから、それができそうになったら、何か、始めます。 そこへ向かう気持ちの萌芽が出てきています。
とは言っても、1日中活動していることは、まだありません。外へ出たときとかを除いて。 夜更かしが禍して、昼間、十分には動けないことが、まだ、日常なのです。
しかし、これも、具体的に、そして意識的に、少しづつ早く寝るようになっており、したがって、昼間動くことが多くなってきています。
私はかつて、「何者かであらねばならぬ」との思いを消し去ることができませんでした。 そして、その「あるべき姿」から自分を見る見方を、どうしても払拭できませんでした。 その結果は、自分が卑小に思えて、反面、すごいあせる気持ち、それこそ幾何級数的なスピードで、周りに追いつかなければ、世間に追いつかなければと、思っていました。
いまは、それがありません。「何者かで」ではなくて、「自分がこうだから、これができるだろうか、あれができるだろうか」と、実力どおりに動こうとしているように思います。
長い一言になりました。 申し訳ありません。
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■5902
/ inTopicNo.14)
Re[4]: Reすこしご意見伺いたく
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□投稿者/ K太郎
-(2007/05/02(Wed) 13:47:23)
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No5898
に返信(フーさんの記事)
フーさんこんにちは
フーさんは46歳ですか、本当にほぼ同じ年齢ですね。
失礼ながらこのような歳で
僕と同じようにのた打ち回っている方がいてくださると
正直安心できます。
それだけでも救いです。
フーさんのご質問への答えになるかどうかわかりませんが、
勝手なことを書かせてください。
僕はこの春に再婚をしました。
お互いに立派なACであり、離婚経験者です。
何を隠そう、出会いはここのBBSだったのです。
社会的にはとても弱いもの同士ですが、
お互いがACを自覚しあっているので、
「おまえは何でそうなんだ?」とか「あなたはなんでそうなの?」という言葉は僕らの家庭では全くの死語です。
お互いに無理することなく自分らしくいられてとてもありがたいです。
いろいろな問題にぶつかっても(ほとんどは子供からもたらされる感じですが)
それはどういうことだろうとか
その原因となった子供の時の経験を話しあったり一緒に探求することができます。
もちろん時には独りになりたくなってふさぎこんでしまうこともありますが、
それもお互いにその気持ちがわかるのでその時間を尊重しあうことができています。
一方で
お互いにとっても依存しあっているということを自覚しています。
お互いにとって人生の中ではじめて手にした自分が自分でいても
責められず、馬鹿にされず、疎まれることのない安全な場所だからです。
ここで甘えたり依存し安心感を得ているので社会にも少しづつ積極的に関わることができるようになっている気がします。
決してノロケを書きたいわけではありません。
ACを自覚している者どうしだからこそ
相手が相手のままであることを尊重することを前提にして
共に生きることができているんだと思っています。
相手の言葉をできるだけ相手の枠組みで受け止めようとしたり
“自分”はこう感じる、このように思うというように
Iメッセージで語るといったような
グループワークで学んだこともとても生きている気がします。
ACだから本当の親密さを持てないということではなく
ACだからこそ本当の親密さを持つことができるということもある気がしています。
キイポイントは自覚だと思います。
自分がこれは相手に依存していると自覚しているときにはそれほど問題にならないような気がします。
自覚せず無意識のうちに自分の何かを相手に投影するような形で起こる共依存(これは甘えあうという意味では全くないですよね)は、病的であったり破壊的なものにつながることがあると思います。
僕のカウンセラーの先生が言っていたのですが、
一時的にでも依存せずに回復なんてあり得ないということです。
いつまでも依存しっぱなしすることが問題であって
依存すること自体は人間にとってあたりまえのことだと。
小さな子供が親に依存するのはあたり前なんですね。
その中で成長が起こり、そして自立していこうとする衝動が育っていくんですね。
小さな子供の時に大人のように振るまうようにさせたり依存させてあげなかったりするとその人はACになるし
大きくなっていっても自立させずに親に依存するように仕向けられることでもまともに成熟できずACになってしまいます。
これまで経験しなかったところに出て行くとき不安を感じて先生や甘えられる相手に依存することは悪いことではないような気がします。
僕も頭をめぐらして考えてばかりでしたが、
それは子供の時に正しいことをしなければ正しくふるまわなければといつも自分を追い立てていたことにつながっています。
中は他の子より幼稚なのに表面は気が利いたことを話す大人びた子供でした。
今でもつい正しい生き方
正しいACからの回復の道なんて思ってしまうところがあるのですが、
きっと神様からみたら小さな小さな子供に過ぎない自分
子供が育つのに最初から賢くそつなく生きることができないように
とにかく生きてみる、生きるということの中でたくさん失敗しながら人の目ではなく自分の目で生きることができるようになっていくしかないのかと思い始めました。
とても長くなってしまったし
つい熱い思いを込めて書いてしまった気がして少し気恥ずかしいです。
好きなことについては書きたいことも少しあるのですが、
また別の機会があればということにしておきます。
フーさんありがとうございます。
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■5903
/ inTopicNo.15)
Re[4]: Reすこしご意見伺いたく
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□投稿者/ ちひろ
-(2007/05/02(Wed) 21:10:08)
フーさん、こんばんは。
> 長々と引きこもっている自分「あ僕って甘いのかな、恥ずかしいな」です。
そんなことはないと思います。
他人の生き様と比較することはないですし、フーさんはいま、いまの状況と時間が必要なのではないでしょうか(表現の仕方がよくないかもしれませんが)。
> ACという概念に出会い今までの状況が壊れた結果としていまがある。
> そうなった結果に後悔っておありでしょうか。その過程はつらかったに違いありませんが、今のほうが専業主婦であった昔よりよいと感じておられるでしょうか。
自分が壊れたときは、私の心の中は後悔と自責の念で押しつぶされそうでした。
人生の選択を誤った、とそのとき思ったんです。
世間並みに結婚して、子どもを生んで、母親として子どもを養育し、家庭を守っていく・・・・それが「普通のしあわせ」と思い込んできたのに、そういう「役割」に自分を押し込めてきたことに気づいたんです。
結婚生活の段階では、自分の役割を果たしていくのに、「自分」がなかったように思います。
「自分」をどこかに置き去りにしたまま、良妻賢母でありたいと自分をコントロールすることに、いつもどこか自分が犠牲になっているような虚しさと、「何か変だ」という違和感を感じてきたのです。
私はいい母親でいられませんでした。
子どもに対して自分のとる態度は、私が子どもの頃母親にされてきた高圧的な態度と重なりました。
子どもを目の前にすると、どうしても自分を抑制しがたく、自分の奥底から出てくる強いうねりのようなものが自分を圧倒して動かしました。
主婦だった頃は、「かくあるべき役割に徹するように自分を仕向けなければならない」牢獄にいるような感じでした。
そうして、あの修羅場を迎えて、子ども達も、安定した生活もすべてを失いました。
喪失した虚しさと悲しみと寂しさは、どうしようもなく残っています。
けれど、主婦の頃のほうがよかったというような後悔は、不思議とありません。
> もし介護の仕事を選んでなかったとしたらどうだったでしょう?あ、質問の意味がわかりにくいかもしれません。それは、ACからの脱却回復過程でどういう人と出会う、あるいはかかわりあうのがよいのかという私自身の身の振り方につながっているからですけど、福祉関係の仕事であったからこその現在の境地とお感じなのか、それともそういうことではないのか。
私が一番どん底のうつ状態に陥ったとき、いつも「死」を意識していました。
その状況のときに、答えが欲しくて、いろいろな本を読み漁ったのです。
たまたま、日本人カメラマンによるマザー・テレサについての著書に触れました。
単純に、死にゆく人のための家をつくったマザーに触発されました。
死ぬ前に、この手足がまだ動くのならば、自分にも何かできるかもしれないと思いました。
死ぬ気があるのなら、自ら死を選ぶ前に、死に近い人々の手足になってあげたいと。
だから、どん底の状態で薬の力を借りながらヘルパー2級の受講をしました。
あの頃の自分の心境を思うと、介護の仕事以外を選ぶことはなかったと思います。
受講始めてから数ヶ月後、ヘルパーを取得する直前に、私は家庭から切り捨てられました。
お金を稼ぐだけならば、もっと体力的に楽な職種もあったでしょう。
けれど、私には「死」を意識したあのときから、「生きること」をとことん見つめ直すことが必要だったのかもしれません。
やはり、必然的に福祉の仕事に就いたのだと思います。
> まだ変わらなきゃ、とお感じでしょうか。つまり生き辛さの度合いが当時と現在はどの程度変化されたのかと。
変わりたい・・とは思ってきましたが、まだ変わらなきゃ、という気持ちはありません。
望む・望まないにかかわらず、変わるべくして変わっていくのだろうと思います。おそらく、これからも。
生き辛さの度合い・・・難しいですが、他人や世間の評価を徐々にですが気にしなくなってきたことで、楽になってきたのかもしれません。
親に認められたい、こんな私では何と思われるだろう、という思いが未だにありますが、そのやり方でずっと生きてきた結果、私は壊れ、たくさんのものを失ったわけです。
もうそのコントロール下に居ても、私のなかの「自分」はしあわせを感じられないと、嫌というほど確認したのです。
この機会に、自分の体験を振り返って書かせていただきました。
言葉で表現して伝えるのは難しいですね。
拙い文章でわかりづらいかと思いますが、長文を読んでいただいてありがとうございました。
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■5904
/ inTopicNo.16)
Re[5]: Reすこしご意見伺いたく
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□投稿者/ フー
[MAIL]
-(2007/05/03(Thu) 02:23:38)
K太郎さん こんにちわ。
K太郎さんの現在を詳しく教えていただいてどうもありがとうございます。
私は他人との距離感がまだ感覚的にわからず、いまは必要以上に依存することを避けたり、恐れたりしているのかもしれません。多分感覚的にわからないから、頭でっかちな思考ばかりしているんだなと自分で思ってしまいます。
しかし、K太郎さんの現在の状況をお聞きすると、いつかはそういった境地になれるかもしれないと、とても希望を与えていただいたような気がします。
まだまだわからないことがたくさんなので、これからも、たまに新たに書き込みをするかと思います。もし見かけたらなにか意見していただけれはうれしいです。今回は、どうもありがとうございました。
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■5905
/ inTopicNo.17)
Re[2]: これからどうしていけば?
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□投稿者/ フー
[MAIL]
-(2007/05/03(Thu) 03:07:31)
SILVER7さん 返信ありがとうございます。
> 一生懸命こしらえていた衣を脱いでいくと、何も無くなるのは、当たり前ですね。
> 自分が何者でもないということに直面しておられるようですね。 それどころか、自分のなかに、何事かをなそうという気力さえ見出すことができないことにも、直面しておられるのでしょうか?
それこそ玉葱の皮でした。皮をとって中身だと思ったら、よくよく見ると皮で、それも取ったら皮で、自分が好きだと思っていたことが実はそうではなかった。
> ほんまもんの「私・自分」には、まだ、出会っておられないのでしょうか?
「わからない。」が今の答えです。でも実感、確信がない以上出会ってないのだと思います。
>
>
> 中也の詩の中になんかありましたが、新しい酒は新しいかわごろもに入れなければならないそうですから、古いかわごろもを破棄して、新しいかわごろもを手に入れなければならないのかもしれませんね。 だから、フーさん、これからかもしれませんね。
>
> 続く書き込みで聞きたいとおっしゃっている、
> ACでない人との付き合い、
> ほんとうの愛、
> 仕事をしていくタイミング、
> ワンダーチャイルドを見出した人
> のなかでは、一番最後が、私は当てはまるのかもしれません。 ただし、私はあまり本を読んでいませんので、ワンダーチャイルドということばも不正確にしか知りません。 ちひろさんが書いておられる、生き生きした子どものことでしょうね。 また、インナーアダルトの成長とも関連してくるのではないでしょうか?
>
> 簡単に記しますと、「人それぞれ」ではないでしょうか?
> 上記のお尋ねのことみんな。
ちょっと私の質問のしかたが説明不足でもありました。もちろん人それぞれ違うのでそれが私に当てはまるわけではないのですが、それぞれの方の経験をお聞きしてみたいと思ったのです。
皆さんがご指摘されるように、自分なりにいろんな経験をしてつかんでいかなけれがならないというのは確かなことです。一方、自分の経験から学ぶには、あまりに人生って短いな。ということです。職業もそんなにいろいろ経験するには限界があります。不必要な廻り道もしてしまうかもしれません。いろんな方の経験やご意見をお聞きし、今後の参考にしてみたいのです。
> チョロッチョロッと、ほかの書き込みでも書いていますが、私は、「まごうかたなき自分」を見出したときが、ほんとうの意味での生まれ変わりのときでした。
私にはいまそういったものが見出せていないのですが、その瞬間ってどのようにおとずれたのでしょうか?なぜそれが「まごうかたなき自分」であると確信がもてたのでしょうか?
私に必要な次の段階はそれを見出すことだとおもうのですが、そこに至るまでに大切なことというか、どういったことをしたとかそういったことはおありなのでしょうか?
よかったらお聞かせねがえませんでしょうか?
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■5906
/ inTopicNo.18)
Re[5]: Reすこしご意見伺いたく
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□投稿者/ フー
[MAIL]
-(2007/05/03(Thu) 04:05:51)
ちひろさん。こんばんわ。
ぶしつけな質問にもかかわらず回答いただけありがとうございます。
> 喪失した虚しさと悲しみと寂しさは、どうしようもなく残っています。
> けれど、主婦の頃のほうがよかったというような後悔は、不思議とありません。
あるべき方向というか必要なことだったということなのですね。安心しました。(表現が適切でないかもしれませんが。)
>
> お金を稼ぐだけならば、もっと体力的に楽な職種もあったでしょう。
> けれど、私には「死」を意識したあのときから、「生きること」をとことん見つめ直すことが必要だったのかもしれません。
> やはり、必然的に福祉の仕事に就いたのだと思います。
やはり人生の中でどういう仕事をえらぶかというのは大切なことですね。生き方を左右するというか、そんなふうに思いました。
> この機会に、自分の体験を振り返って書かせていただきました。
> 言葉で表現して伝えるのは難しいですね。
> 拙い文章でわかりづらいかと思いますが、長文を読んでいただいてありがとうございました。
いえ、お話くださってありがとうございました。私のプロセスとは大きく異なりますがこういう形で解決に向かっているかたもいらっしゃるんだといろいろ考えさせられました。
私も、回復に向けて時々書き込みをするかと思います。思うところがございましたらまたよろしくお願いいたします。
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■5907
/ inTopicNo.19)
Re[3]: これからどうしていけば?
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□投稿者/ SILVER7
[MAIL]
-(2007/05/04(Fri) 00:15:21)
2007/05/04(Fri) 21:49:17 編集(投稿者)
私の場合は、共依存を自覚したときが、自分を見出したときでした。
共依存の相手は、おふくろ。
私は、いい歳になっていましたから、おふくろからは精神的に独立していて、1人の人間が1人の人間に願うこととして、おふくろに、まともなというか、ましな人間になって欲しいと思っていました。 一方、子としての務めはやっていこうとも、思っていましたね。
だから、誕生日プレゼントにプチ・ディナー、セットしたり、おふくろの好みの色の服とかも買ったりしていました。
しかし、おふくろの性質(たち)の悪さは、一向に直らなかったですね。 私を、自分のいいように使うことも(あちこち行く運転手にね)使いたい放題だったですね。 私を車の中で2時間ぐらい待たせても、平気な顔でしたね。 「どうせ、何もしていないんだから(仕事していなかったときですね)」とか、「私の仕事を手伝うことが、何不服か!?(私は、意義ある仕事をしているのに・・・)」とか、ぬけぬけと、言っていましたね。
私は、一応、それは認めていましたので、拒否することは無かったんですね。
ACを知って7年近く経っていましたね、共依存を自覚したのは。 ACを知ったときから、自分がそうであることは、すぐわかりましたが、自分が共依存しているとは、露思っていませんでした。
しかしながら、斎藤クリニックに行っている人の話をよく聞いていたんですが、その頃、共依存がいろんなところで観られること、意識はしていなくてもそうなっていることが多いんだという話しを、よく聞いていました。
他人(ひと)事だと思っていたんですが、ハッと気がついたんですね。 私がおふくろにしていることは、「期待しているんだ」、「求めているんだ」と。 それは、アルコール依存症者のパートナーが相手に求めていることと変わりないんだ(!)、「良かれかしと求めているんだ」、「何とかよくなって欲しいと思っている、その思いとおんなじじゃないか!」と、思ったんです。
「あっ、これ、共依存だ」、と、思ったんです。 そういう形で依存している、もたれあいになっている、と、思ったんです。 そう、思うと同時でした。 そう、思ったときに、私の気持ちがおふくろから離れたんですね。 そのとき、私は、心のなかで、いや、心のなかに、まるで生れ落ちたばかりのような赤子の姿を見たんですね。 その赤子は、たとえて言えば、自分そのものだと、思いました。 今まで、見ていなかったんだ、と、思いました。 幾10年生きてきていましたが、そんな、誰にも頼らない姿では、生きていなかったんだ、今は何も知らない赤子の姿だけど・・・、と、思いました。 幾10年、どっぷり、依存に浸かっていたんだ(!)、と、情けなくも、しかし、その現実というか実際を、否定する何物も持っていないことも、無条件にわかりました。
これが、私が、「まごうかたなき自分」を発見した経緯です。
事実だけ、書いてみました。 参考になりますでしょうか?
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■5910
/ inTopicNo.20)
Re[4]: これからどうしていけば?
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□投稿者/ フー
[MAIL]
-(2007/05/04(Fri) 22:42:42)
SILVER7さん返信ありがとうございます。
なるほど共依存と自覚した瞬間、まごう事なき自分を発見されたということですね。私が周りにいる共依存の人を観察して思うことがあります。
私よりもっと共依存的な人がいますが、大変だなあと思う一方その中には、自分というのがあるなあ。その弱い自分を懸命に身につけた殻で保護しているなあ。と感じるのです。
私の場合今ではかなり共依存的な行動は取り去ってきていて、そういう意味での問題はかなりなくなってきているのですが、これがまごうことなき自分だといえるものがないのです。育てる以前に、それを発見しないといけないようなのです。
同じACの人でもこういった違いがあるのかなあと感じています。
>
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