1.感じるままを感じてもいい。感情には正しいとか間違いということはない。感情はただあるだけである。誰も人がどう感じるべきかを教えることはできない。感情について話すことは、良いことであり必要なことだ。 2.欲しいものを欲しがってもいい。欲さなければならないことや、望んではならないことなどない。自分の活力に触れたならば、大きく成長したくなる。 3.見え、聞こえることを見聞きしていい。見聞きしたものはなんでも、自分が実際に見聞きしたとおりのものなのだ。 4.いっぱい楽しんだり、遊ぶのはいいことだし、また、そうする必要がある。 5.真実を語ることは重要なことである。歪められた考え(“すべてか無か”思考、破滅化、過度の一般化、読心術、etc.)をしりぞけて現実をあるがままに見ることは、人生の苦痛をやわらげる。 6.ときには限界を知って、満足を先のばしにすることは大切である。これもまた人生の苦痛をやわらげる。 7.バランスのとれた責任感を発達させることは重要である。それは自分の行動の結果を受けとめることと、他人の行為の結果を引き受けないことを意味する。 8.失敗してもいい。失敗は教師である。失敗は学ぶことを手助けしてくれる。 9.自分自身と同じように、他者の感情、要求、望みもまた、尊敬され尊重されるべきである。 10.問題があってもいい。それは解決される必要がある。葛藤があってもいい。それは解決を必要としている。
ジョン・ブラッドショー 『インナーチャイルド』(NHK出版)第10章をもとに作成
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■6024 / inTopicNo.1)  Re[5]: Reすこしご意見伺いたく
  
□投稿者/ フー [MAIL] -(2007/06/06(Wed) 12:09:43)
    courageさん こんばんは。

    お返事が遅くなってしまいました。


    > フーさんも同じでしたか。
    > 私もつい、母にどうやったら理解してもらえるだろうか、という事に苦心したものでした。今では半分諦めています。ACということは話してはいないのですが、
    > 言ったところで「わかんない」と聞く耳をもたないこと、目に見えてますから。


    なかなかわかってもらうのは難しいですね。
    ただ話しをしたことに意味が無かったわけではなくて、いままで隠していたことを言ったことによる自分の変化と、そのときの親の反応、わかってくれるかもしれないという淡い期待がうちくだかれることによる自分の気持ちの変化、には意味があったような気がします。親がわかるかどうかそんなに重要なことではないかもしれません。

    >
    > 私、もしかしてたら勘違いしてたかもしれません。
    > たとえ機能不全家庭に育ったとしても、
    > 自分がACだという自覚がなければ、その人はACとは言えないんでしたね。
    > (違いましたっけ・・・)

    いえいえ勘違いではないですよ。自覚してなくてもACの人はACです。


    > どこかで目にしただけのうろ覚えなんですが、
    > 「日本の家庭の多くは”機能不全状態”なのでは?」という文献を読んだんですよ。これを曲解してたようです。ごめんなさい。

    それも正しいと思います。ほとんどの家庭で”機能不全状態”があるのは確かだと思うし、ほとんどの人がAC的な要素は持っていると思います。
    私の書き方が中途半端でした。自分と同じ程度のという前提で書きましたのでちょっとわかりにくかったと思いますが、
    「自分の苦しみを無視してまで、人にみとめられようと一生懸命にやる」ような人の割合で自分はACと書きました。



    > 昨今の育児・教育問題を見ていると、そうも言っていられないような気もします。

    私も強くそう思ったことがあります。幼稚園の現場とかをみて、とても不自然さを感じたことがあります。
    もっと多くの人がACの問題に理解をもってくれるといいのにと思います。


    > 自分の本当に好きな物を確認する作業、ひとつ提案させて下さい。
    > デパートでもスーパーでも、
    > とにかくいっぱい物が展示してあるところに行ってみて下さい。
    > そこで、
    > 「もし自分が10万円(大金ならいくらでも)自由に買い物できるとしたら、
    >  一番最初にどの売り場に行くだろうか?」
    > というのをやってみます。
    > 何も考えないで、とにかく直感です。
    > そんなことを何度もやってみると、自分が何を見たくてその売り場に行くか分かるし、つまりはその売り場のものが大好きなんですよ。
    >
    > 効果はあるか分かりませんが、私はいつもこれをやって、
    > まっさきに向かった売り場で安心するんです。
    > 「やっぱり、私ってこれが好きなんだよなあ」って。
    >
    > もし、お時間があったら、やってみてはいかがでしょうか。


    それは、とても良い方法ですね。私も無目的にデパートとか歩き回ってみることがあります。残念ながら今は興味を持てるものがほとんどなくて、何をするでもなく帰ってきてしまうのですが、すこしづつでも自分の活力を育てていこうと思います。
    どうもありがとうございました。
引用返信 削除キー/
■5971 / inTopicNo.2)  Re[4]: Reすこしご意見伺いたく
□投稿者/ courage -(2007/05/22(Tue) 00:34:05)
    フーさん、こんばんは。お返事が遅くなってすみません。

    > 母にも自身の問題をわかってもらおうと一生懸命になった時期もありました。
    > なかなかむつかしいですね。今はもう自分の問題の解決に全力を傾けようと思っています。

    フーさんも同じでしたか。
    私もつい、母にどうやったら理解してもらえるだろうか、という事に苦心したものでした。今では半分諦めています。ACということは話してはいないのですが、
    言ったところで「わかんない」と聞く耳をもたないこと、目に見えてますから。

    フーさんの人生はフーさんが幸せに生きるために用意された時間なんです。
    フーさんご自身のことに全力をかけるのが、私も良いのでは、と思います。

    >>ですが、ACでない人というものもなかなかいないような気もするんです。
    >
    > そうなんですか。程度の問題かもしれないんですが、自分の感覚だと自分と同程度のACは100人中2〜3人くらいかなという感触なんです。この人ACじゃないなと思う人はいるんですが、親しくなる手がかりっていうのがまだどうもわからないんですね。
    >
    > >ACであることをきちんと自覚して向き合っている方を探すのも良いかと私は思います。
    >
    > というひとに私は出会ったことがないんですよ。ネット以外では。

    私、もしかしてたら勘違いしてたかもしれません。
    たとえ機能不全家庭に育ったとしても、
    自分がACだという自覚がなければ、その人はACとは言えないんでしたね。
    (違いましたっけ・・・)

    どこかで目にしただけのうろ覚えなんですが、
    「日本の家庭の多くは”機能不全状態”なのでは?」という文献を読んだんですよ。これを曲解してたようです。ごめんなさい。

    と、なるとやはりAC(ときちんと自覚されている)という方はそうそういないのかも・・・。
    まあ、たとえ機能不全家庭に育ったとしても、当の本人が行き詰まりを感じていなければ問題無いのかもしれませんが・・・。
    昨今の育児・教育問題を見ていると、そうも言っていられないような気もします。


    >>まず簡単なこと・仕事から始める。これは失敗しても大きな損害にならないことなどです。そこから、少しずつハードルをあげていくしかないのでしょうか。
    >
    > そうですね。自分が今思っているのは、自分自身、どうありたいのか、何がすきなのか、というのが見えていない(まだ抑圧されたインナーチャイルドが解放されていない)、それが見えてきたら、目標をもって仕事に取り組みたいと考えています。

    ううむ。まさに、自分が自分のことを信じることができていない状態なんですよね。自分が好きだと思っていた物が、実は本当は好きじゃないのかもしれない。
    私もこのおかげで、自分の進路を見失いかけてしまいました。
    でも、本当に全くもって大嫌いな物を、いくら何でも”好き”だとは言ってないと思うんですよ。
    自分が”好き”だと思う対象は、やっぱり”好き”なんじゃないでしょうか。
    私はそう確認することで、
    「あ、やっぱり私はこれが好きだったんだな」って自分を信じることが出来たような気がします。

    自分の本当に好きな物を確認する作業、ひとつ提案させて下さい。
    デパートでもスーパーでも、
    とにかくいっぱい物が展示してあるところに行ってみて下さい。
    そこで、
    「もし自分が10万円(大金ならいくらでも)自由に買い物できるとしたら、
     一番最初にどの売り場に行くだろうか?」
    というのをやってみます。
    何も考えないで、とにかく直感です。
    そんなことを何度もやってみると、自分が何を見たくてその売り場に行くか分かるし、つまりはその売り場のものが大好きなんですよ。

    効果はあるか分かりませんが、私はいつもこれをやって、
    まっさきに向かった売り場で安心するんです。
    「やっぱり、私ってこれが好きなんだよなあ」って。

    もし、お時間があったら、やってみてはいかがでしょうか。
引用返信 削除キー/
■5960 / inTopicNo.3)  Re[8]: 横レスでございます
□投稿者/ フー [MAIL] -(2007/05/17(Thu) 00:09:46)
    はなぽんさんこんばんわ。
    > 横レス失礼します

    歓迎いたします。


    > このくだりを拝見し、私見を述べさせていただきたくなりました。
    > 私はACですが、ACの特性を含めた、私自身の過去と、私という人間の有り様を、自分の意思で「選びなおす」という方法もあると思います。

    確かにそうですね。しばらくこれを読んで自分の状態を再認識してみました。

    > 強制的にACであることと、回復の荒波を全部乗り越えて、自分で選びなおしたACであることは、まったく異なる境地であると思っています。
    > 自分を抑えて人のために尽くすことも、そうすることで自分が苦しい面もあり、楽しい面もある。自分の行動に相手が反応することで、自分の周りが変化する。そういったことを考えて、AC的に行動することが、自分のためにいいときもある。AC的に行動する選択肢をもっているぶん、選択の幅が広がる。


    社会では自分を抑えて他者につくさなければいけないこともある。
    ようするにこれがAdultであるということなんですよね。

    ACとAdultの違いは、ACは過去のルールに支配されてChildを抑圧してAdultしているのに対して、Adultはきちんと自分のChildをもちつつ、どう行動するかバランスは自分で選択できるということですね。

    確かに自分はAdultな部分まで必要以上に捨て去ろうとしていたかもしれません。

    ただ自分のChildの部分をきちんと自覚できていれば、Adultとのバランスをとることができると思うんです。しかし自分のChildの部分がきちんと再現できていないためにAdultとACとの区別が実際にはきちんとつけられないというのが現状であるようです。

引用返信 削除キー/
■5959 / inTopicNo.4)  Re[3]: Reすこしご意見伺いたく
□投稿者/ フー [MAIL] -(2007/05/16(Wed) 23:46:37)
    courageさん こんばんわ 返信ありがとうございます。

    同じように感じている方がいらっしゃって、私も心強く感じます。


    > 私の母はもう還暦を過ぎていますが、フーさんのように自分ときちんと向き合っているようには、残念ながら思えません。私は母自身もACだと思っています。

    母にも自身の問題をわかってもらおうと一生懸命になった時期もありました。
    なかなかむつかしいですね。今はもう自分の問題の解決に全力を傾けようと思っています。

    >、だけどその人といるとより楽しい時間が過ごせる”ことを目指されてはいかがでしょうか。

    そうなんです。結局それが欠けていると強くかんじます。


    >
    > ですが、ACでない人というものもなかなかいないような気もするんです。

    そうなんですか。程度の問題かもしれないんですが、自分の感覚だと自分と同程度のACは100人中2〜3人くらいかなという感触なんです。この人ACじゃないなと思う人はいるんですが、親しくなる手がかりっていうのがまだどうもわからないんですね。

    >ACであることをきちんと自覚して向き合っている方を探すのも良いかと私は思います。

    というひとに私は出会ったことがないんですよ。ネット以外では。


    > まず簡単なこと・仕事から始める。これは失敗しても大きな損害にならないことなどです。そこから、少しずつハードルをあげていくしかないのでしょうか。

    そうですね。自分が今思っているのは、自分自身、どうありたいのか、何がすきなのか、というのが見えていない(まだ抑圧されたインナーチャイルドが解放されていない)、それが見えてきたら、目標をもって仕事に取り組みたいと考えています。
引用返信 削除キー/
■5948 / inTopicNo.5)  Re[2]: Reすこしご意見伺いたく
□投稿者/ courage -(2007/05/15(Tue) 20:54:59)
    初めまして、フーさん。
    どうやら、私はフーさんとは同年代では無いようですが、僭越ながら若輩者としてご意見させて頂きます。

    実は、私もフーさんと全く同じ状況に陥っています。家族はバラバラになり、失業し、失恋し、地に落ちた状況の中でACと自覚し、若干引きこもり状態になっています。

    フーさんが素晴らしいなあ、と思うことがあります。
    それは、ご自身の生き辛さにきちんと向き合っていらっしゃること。
    私の母はもう還暦を過ぎていますが、フーさんのように自分ときちんと向き合っているようには、残念ながら思えません。私は母自身もACだと思っています。
    それが連鎖して、私や私の兄弟の人生にまで影響を及ぼしていると私は考えます。

    年齢なんて関係ありません。自分自身の人生をきちんと生きよう。
    それがたとえ死の直前であっても、気づけたのなら意味があると思います。

    > ・今後はACでない人との付き合いがとても重要だと思っています。しかしそういう人との親密さというのが感覚的に理解できないのです。共依存的な親密さしか知らない自分には。

    > ・もっとわからないのが愛。今まで愛と思っていたのが、実は相手の弱みを見つけてそこに寄生しようとしていただけだった。本当の愛がわかってきた。という方いらっしゃれば是非伺がってみたいのえす。

    私も同感です。
    共依存的な親密さ=自分は一人でいられない故に誰かと親密になりたい、
    と私は捉えているのですが、
    まずは、”自分は一人でも寂しさを受け入れて生きていられる、だけどその人といるとより楽しい時間が過ごせる”ことを目指されてはいかがでしょうか。
    そのためには、自分と相手の境界をはっきりさせる。

    失恋してしまった私がいうのもなんですが、誰かを愛することも基本は同じなのではないかと思います。

    ですが、ACでない人というものもなかなかいないような気もするんです。がっかりさせてしまったら申し訳無いのですが、ACであることをきちんと自覚して向き合っている方を探すのも良いかと私は思います。

    > ・今僕は仕事をしていません。それをする元気がないのもありますが、今新たに何か仕事を真剣にやっても、がんばりやの自分はまた新たな玉葱の皮をつけていくことになりそうな気がします。それじゃせっかくゼロになった意味がないのです。同じことを繰り返すだけです。そんな風にならないタイミングってあるんでしょうか。
    >
    ・・・難しいですよね。
    私も、また頑張りすぎて倒れることを繰り返しそうですし。
    正直なところ、私はアルバイトすることさえも怖くなっています。
    これは訓練しかないのでしょうか。
    まず簡単なこと・仕事から始める。これは失敗しても大きな損害にならないことなどです。そこから、少しずつハードルをあげていくしかないのでしょうか。
    環境が許される限り、何度でもチャレンジするしかないと私は思っています。
    失敗は悪い事じゃないですし、寧ろ失敗しない人・事の方が怖いですよ。
    一段一段、螺旋階段を上っていくようなイメージで、前に向かわれたらいかがでしょうか。

    分かりづらい文章で恐縮ですが、私の経験が何かしらお役に立てれば光栄です。
引用返信 削除キー/
■5942 / inTopicNo.6)  横レスでございます
□投稿者/ はなぽん -(2007/05/14(Mon) 22:08:30)
    横レス失礼します

    >
    >> かねがね、ACへの対処で思っていることですが、ACの特性、特徴を、マイナス要素と捉えているところはありませんか?
    >
    > これは面白いご指摘です。私自身はACの特性や特徴は社会全体としてみると、創造性や、芸術性、活力につながっている面が多々あると思っており、むしろ私はプラス要素と捉えてもいるからです。会社の中では、ACの(自分を抑えて、人に認められるために身を尽くすという特性)は、歓迎される特性でもあるし、できる人間という評価を得ている人にACと思われる人が多くいましたし、私自身会社生活を送る上でACの特性は大きくプラス要素として働いていました。
    >
    > ただ、自分が苦しい。自分が幸せでないなら意味がない。残りの人生を幸せに生きるために、このプラス要素は捨てるほうを選びました。

    このくだりを拝見し、私見を述べさせていただきたくなりました。
    私はACですが、ACの特性を含めた、私自身の過去と、私という人間の有り様を、自分の意思で「選びなおす」という方法もあると思います。

    あんな親の元に生まれ、あんなふうに育てられ、嫌な思いもたくさんあったけど、ACに気づき、たくさん泣いて怒って、素の自分の姿に気づき、自分の頭で考えて
    見た結果、ACである自分も、捨てたもんじゃない。これでいいんだ。という感じです。

    強制的にACであることと、回復の荒波を全部乗り越えて、自分で選びなおしたACであることは、まったく異なる境地であると思っています。

    自分を抑えて人のために尽くすことも、そうすることで自分が苦しい面もあり、楽しい面もある。自分の行動に相手が反応することで、自分の周りが変化する。そういったことを考えて、AC的に行動することが、自分のためにいいときもある。AC的に行動する選択肢をもっているぶん、選択の幅が広がる。

    こんなことを思っています。


引用返信 削除キー/
■5941 / inTopicNo.7)  Re[6]: これからどうしていけば?
□投稿者/ フー [MAIL] -(2007/05/14(Mon) 00:13:15)
    SILVER7さん。すいません。ちょっと返信おそくなりました>

    >  かねがね、ACへの対処で思っていることですが、ACの特性、特徴を、マイナス要素と捉えているところはありませんか?

    これは面白いご指摘です。私自身はACの特性や特徴は社会全体としてみると、創造性や、芸術性、活力につながっている面が多々あると思っており、むしろ私はプラス要素と捉えてもいるからです。会社の中では、ACの(自分を抑えて、人に認められるために身を尽くすという特性)は、歓迎される特性でもあるし、できる人間という評価を得ている人にACと思われる人が多くいましたし、私自身会社生活を送る上でACの特性は大きくプラス要素として働いていました。

    ただ、自分が苦しい。自分が幸せでないなら意味がない。残りの人生を幸せに生きるために、このプラス要素は捨てるほうを選びました。


    >
    >  そのときは、基準はどこになっているかと言えば、「世間並み」ということになっているのではないでしょうか?


    私自身は「ACでない人は世間並み」「ACは世間並みでない」というふうにはとらえておりませんで、自分が幸せであるなら世間並みでも世間から逸脱していてもそれは問題でないと考えています。

    >  そうではなくて、「自分の感覚、感情、思考、行動を創っていく」という、創造作業と認識すると、趣(おもむき)は、全然違ったものになるのではないでしょうか?

    そうですね。実際はこの段階になかなか移れていないのが現状です。

    >  フーさん、今まで、古い衣を脱ぐことをしてこられたのだから、すなわち、ACという窮屈さからの脱却が主眼だったのではないでしょうか?


    今までの自分は「苦しくても負けちゃだめだ」と考え頑張っていましたが、
    そうじゃなくて、自分には苦しいことから開放される権利があると、考えを変えたのです。苦しい状態では本当に自己実現することは困難だと考えました。




    >  しかしながら、頭で考えるよりも感覚で感じるようにしてきたと書かれていたところを、もうチョイ視点を変えられると、「新しい自分を創っていく作業」に、することができるのではないでしょうか?

    「新しい自分を創っていく作業」というのが、実際具体的になかなか出てこないというのがありますね。
    苦しさというのからはかなり開放されました。しかし何かをすることに対してそれを拒絶する倦怠感のようなものが根強く胸のなかにあります。時間が解決してくれるのか、まだ脱ぎ足りないものがあるのか?という感じです。


引用返信 削除キー/
■5912 / inTopicNo.8)  Re[5]: これからどうしていけば?
□投稿者/ SILVER7 [MAIL] -(2007/05/05(Sat) 00:25:39)
    2007/05/05(Sat) 08:45:23 編集(投稿者)

     フーさん、「まごうことなき」とは言いません。 「まごうかたなき」です。 どうしてかは、知りませんが・・・・。


    > 私の場合今ではかなり共依存的な行動は取り去ってきていて、そういう意味での問題はかなりなくなってきているのですが、

     かねがね、ACへの対処で思っていることですが、ACの特性、特徴を、マイナス要素と捉えているところはありませんか?

     そのときは、基準はどこになっているかと言えば、「世間並み」ということになっているのではないでしょうか?

     もし、そうだとすると、いつまで経っても、「自分」を発見することはできないのではないでしょうか?

     なぜなら、「世間並み」という基準から見ると、ACは「世間並み」ではないわけですから、否定的存在ということになるわけで、それは、すなわち、自ら「自己否定」の枠の中に、自分を押し込めることになるのではないでしょうか?
     そうして、永遠に「追いつき、追い越せ」で、「世間並みに」なっていかなければならないと、いうことになるのではないでしょうか?


     別の表現をすると、ACという「苦しさからの脱却」を目指していると、同じように、永遠の「追いつき、追い越せレース」を続けなければならなくなるのではないでしょうか?
     そうではなくて、「自分の感覚、感情、思考、行動を創っていく」という、創造作業と認識すると、趣(おもむき)は、全然違ったものになるのではないでしょうか?


     その作業は、決して平坦であるとは思いません。 なぜなら、「古い自分」が、大きくあるからです。 「古い、しかし、身につけている感覚、感情、思考、行動パターン」とは異なる、「(まごうかたなき)自分の、感覚、感情、思考、行動」を、わが手にしていく作業だと、思います。 これは、私の例で言えば、それまで持っていなかったわけですから、ゼロから、創っていったということです。 自分が感じる感覚、感情、思考、行動を、「これは、確かに自分のものか?」と問いかけながらね。


     フーさん、今まで、古い衣を脱ぐことをしてこられたのだから、すなわち、ACという窮屈さからの脱却が主眼だったのではないでしょうか?
     しかしながら、頭で考えるよりも感覚で感じるようにしてきたと書かれていたところを、もうチョイ視点を変えられると、「新しい自分を創っていく作業」に、することができるのではないでしょうか?


     どうでしょうか?

引用返信 削除キー/
■5910 / inTopicNo.9)  Re[4]: これからどうしていけば?
□投稿者/ フー [MAIL] -(2007/05/04(Fri) 22:42:42)
    SILVER7さん返信ありがとうございます。

    なるほど共依存と自覚した瞬間、まごう事なき自分を発見されたということですね。私が周りにいる共依存の人を観察して思うことがあります。

    私よりもっと共依存的な人がいますが、大変だなあと思う一方その中には、自分というのがあるなあ。その弱い自分を懸命に身につけた殻で保護しているなあ。と感じるのです。

    私の場合今ではかなり共依存的な行動は取り去ってきていて、そういう意味での問題はかなりなくなってきているのですが、これがまごうことなき自分だといえるものがないのです。育てる以前に、それを発見しないといけないようなのです。

    同じACの人でもこういった違いがあるのかなあと感じています。




    >
引用返信 削除キー/
■5907 / inTopicNo.10)  Re[3]: これからどうしていけば?
□投稿者/ SILVER7 [MAIL] -(2007/05/04(Fri) 00:15:21)
    2007/05/04(Fri) 21:49:17 編集(投稿者)

     私の場合は、共依存を自覚したときが、自分を見出したときでした。
     共依存の相手は、おふくろ。
     私は、いい歳になっていましたから、おふくろからは精神的に独立していて、1人の人間が1人の人間に願うこととして、おふくろに、まともなというか、ましな人間になって欲しいと思っていました。 一方、子としての務めはやっていこうとも、思っていましたね。
     だから、誕生日プレゼントにプチ・ディナー、セットしたり、おふくろの好みの色の服とかも買ったりしていました。
     しかし、おふくろの性質(たち)の悪さは、一向に直らなかったですね。 私を、自分のいいように使うことも(あちこち行く運転手にね)使いたい放題だったですね。 私を車の中で2時間ぐらい待たせても、平気な顔でしたね。 「どうせ、何もしていないんだから(仕事していなかったときですね)」とか、「私の仕事を手伝うことが、何不服か!?(私は、意義ある仕事をしているのに・・・)」とか、ぬけぬけと、言っていましたね。
     私は、一応、それは認めていましたので、拒否することは無かったんですね。

     ACを知って7年近く経っていましたね、共依存を自覚したのは。 ACを知ったときから、自分がそうであることは、すぐわかりましたが、自分が共依存しているとは、露思っていませんでした。
     しかしながら、斎藤クリニックに行っている人の話をよく聞いていたんですが、その頃、共依存がいろんなところで観られること、意識はしていなくてもそうなっていることが多いんだという話しを、よく聞いていました。
     他人(ひと)事だと思っていたんですが、ハッと気がついたんですね。 私がおふくろにしていることは、「期待しているんだ」、「求めているんだ」と。 それは、アルコール依存症者のパートナーが相手に求めていることと変わりないんだ(!)、「良かれかしと求めているんだ」、「何とかよくなって欲しいと思っている、その思いとおんなじじゃないか!」と、思ったんです。
     「あっ、これ、共依存だ」、と、思ったんです。 そういう形で依存している、もたれあいになっている、と、思ったんです。 そう、思うと同時でした。 そう、思ったときに、私の気持ちがおふくろから離れたんですね。 そのとき、私は、心のなかで、いや、心のなかに、まるで生れ落ちたばかりのような赤子の姿を見たんですね。 その赤子は、たとえて言えば、自分そのものだと、思いました。 今まで、見ていなかったんだ、と、思いました。 幾10年生きてきていましたが、そんな、誰にも頼らない姿では、生きていなかったんだ、今は何も知らない赤子の姿だけど・・・、と、思いました。 幾10年、どっぷり、依存に浸かっていたんだ(!)、と、情けなくも、しかし、その現実というか実際を、否定する何物も持っていないことも、無条件にわかりました。

     これが、私が、「まごうかたなき自分」を発見した経緯です。


     事実だけ、書いてみました。 参考になりますでしょうか?

引用返信 削除キー/
■5906 / inTopicNo.11)  Re[5]: Reすこしご意見伺いたく
□投稿者/ フー [MAIL] -(2007/05/03(Thu) 04:05:51)
    ちひろさん。こんばんわ。

    ぶしつけな質問にもかかわらず回答いただけありがとうございます。

    > 喪失した虚しさと悲しみと寂しさは、どうしようもなく残っています。
    > けれど、主婦の頃のほうがよかったというような後悔は、不思議とありません。

    あるべき方向というか必要なことだったということなのですね。安心しました。(表現が適切でないかもしれませんが。)



    >
    > お金を稼ぐだけならば、もっと体力的に楽な職種もあったでしょう。
    > けれど、私には「死」を意識したあのときから、「生きること」をとことん見つめ直すことが必要だったのかもしれません。
    > やはり、必然的に福祉の仕事に就いたのだと思います。


    やはり人生の中でどういう仕事をえらぶかというのは大切なことですね。生き方を左右するというか、そんなふうに思いました。


    > この機会に、自分の体験を振り返って書かせていただきました。
    > 言葉で表現して伝えるのは難しいですね。
    > 拙い文章でわかりづらいかと思いますが、長文を読んでいただいてありがとうございました。

    いえ、お話くださってありがとうございました。私のプロセスとは大きく異なりますがこういう形で解決に向かっているかたもいらっしゃるんだといろいろ考えさせられました。

    私も、回復に向けて時々書き込みをするかと思います。思うところがございましたらまたよろしくお願いいたします。
引用返信 削除キー/
■5905 / inTopicNo.12)  Re[2]: これからどうしていけば?
□投稿者/ フー [MAIL] -(2007/05/03(Thu) 03:07:31)
    SILVER7さん 返信ありがとうございます。

    >  一生懸命こしらえていた衣を脱いでいくと、何も無くなるのは、当たり前ですね。
    >  自分が何者でもないということに直面しておられるようですね。 それどころか、自分のなかに、何事かをなそうという気力さえ見出すことができないことにも、直面しておられるのでしょうか?

    それこそ玉葱の皮でした。皮をとって中身だと思ったら、よくよく見ると皮で、それも取ったら皮で、自分が好きだと思っていたことが実はそうではなかった。



    >  ほんまもんの「私・自分」には、まだ、出会っておられないのでしょうか?

    「わからない。」が今の答えです。でも実感、確信がない以上出会ってないのだと思います。


    >
    >
    >  中也の詩の中になんかありましたが、新しい酒は新しいかわごろもに入れなければならないそうですから、古いかわごろもを破棄して、新しいかわごろもを手に入れなければならないのかもしれませんね。 だから、フーさん、これからかもしれませんね。
    >
    >  続く書き込みで聞きたいとおっしゃっている、
    >  ACでない人との付き合い、
    >  ほんとうの愛、
    >  仕事をしていくタイミング、
    >  ワンダーチャイルドを見出した人
    > のなかでは、一番最後が、私は当てはまるのかもしれません。 ただし、私はあまり本を読んでいませんので、ワンダーチャイルドということばも不正確にしか知りません。 ちひろさんが書いておられる、生き生きした子どものことでしょうね。 また、インナーアダルトの成長とも関連してくるのではないでしょうか?
    >
    >  簡単に記しますと、「人それぞれ」ではないでしょうか?
    >  上記のお尋ねのことみんな。


    ちょっと私の質問のしかたが説明不足でもありました。もちろん人それぞれ違うのでそれが私に当てはまるわけではないのですが、それぞれの方の経験をお聞きしてみたいと思ったのです。
    皆さんがご指摘されるように、自分なりにいろんな経験をしてつかんでいかなけれがならないというのは確かなことです。一方、自分の経験から学ぶには、あまりに人生って短いな。ということです。職業もそんなにいろいろ経験するには限界があります。不必要な廻り道もしてしまうかもしれません。いろんな方の経験やご意見をお聞きし、今後の参考にしてみたいのです。

    >  チョロッチョロッと、ほかの書き込みでも書いていますが、私は、「まごうかたなき自分」を見出したときが、ほんとうの意味での生まれ変わりのときでした。

    私にはいまそういったものが見出せていないのですが、その瞬間ってどのようにおとずれたのでしょうか?なぜそれが「まごうかたなき自分」であると確信がもてたのでしょうか?

    私に必要な次の段階はそれを見出すことだとおもうのですが、そこに至るまでに大切なことというか、どういったことをしたとかそういったことはおありなのでしょうか?
    よかったらお聞かせねがえませんでしょうか?





引用返信 削除キー/
■5904 / inTopicNo.13)  Re[5]: Reすこしご意見伺いたく
□投稿者/ フー [MAIL] -(2007/05/03(Thu) 02:23:38)
    K太郎さん こんにちわ。

    K太郎さんの現在を詳しく教えていただいてどうもありがとうございます。
    私は他人との距離感がまだ感覚的にわからず、いまは必要以上に依存することを避けたり、恐れたりしているのかもしれません。多分感覚的にわからないから、頭でっかちな思考ばかりしているんだなと自分で思ってしまいます。

    しかし、K太郎さんの現在の状況をお聞きすると、いつかはそういった境地になれるかもしれないと、とても希望を与えていただいたような気がします。

    まだまだわからないことがたくさんなので、これからも、たまに新たに書き込みをするかと思います。もし見かけたらなにか意見していただけれはうれしいです。今回は、どうもありがとうございました。



引用返信 削除キー/
■5903 / inTopicNo.14)  Re[4]: Reすこしご意見伺いたく
□投稿者/ ちひろ -(2007/05/02(Wed) 21:10:08)
    フーさん、こんばんは。

    > 長々と引きこもっている自分「あ僕って甘いのかな、恥ずかしいな」です。

    そんなことはないと思います。
    他人の生き様と比較することはないですし、フーさんはいま、いまの状況と時間が必要なのではないでしょうか(表現の仕方がよくないかもしれませんが)。


    > ACという概念に出会い今までの状況が壊れた結果としていまがある。
    > そうなった結果に後悔っておありでしょうか。その過程はつらかったに違いありませんが、今のほうが専業主婦であった昔よりよいと感じておられるでしょうか。

    自分が壊れたときは、私の心の中は後悔と自責の念で押しつぶされそうでした。
    人生の選択を誤った、とそのとき思ったんです。
    世間並みに結婚して、子どもを生んで、母親として子どもを養育し、家庭を守っていく・・・・それが「普通のしあわせ」と思い込んできたのに、そういう「役割」に自分を押し込めてきたことに気づいたんです。

    結婚生活の段階では、自分の役割を果たしていくのに、「自分」がなかったように思います。
    「自分」をどこかに置き去りにしたまま、良妻賢母でありたいと自分をコントロールすることに、いつもどこか自分が犠牲になっているような虚しさと、「何か変だ」という違和感を感じてきたのです。
    私はいい母親でいられませんでした。
    子どもに対して自分のとる態度は、私が子どもの頃母親にされてきた高圧的な態度と重なりました。
    子どもを目の前にすると、どうしても自分を抑制しがたく、自分の奥底から出てくる強いうねりのようなものが自分を圧倒して動かしました。

    主婦だった頃は、「かくあるべき役割に徹するように自分を仕向けなければならない」牢獄にいるような感じでした。
    そうして、あの修羅場を迎えて、子ども達も、安定した生活もすべてを失いました。
    喪失した虚しさと悲しみと寂しさは、どうしようもなく残っています。
    けれど、主婦の頃のほうがよかったというような後悔は、不思議とありません。


    > もし介護の仕事を選んでなかったとしたらどうだったでしょう?あ、質問の意味がわかりにくいかもしれません。それは、ACからの脱却回復過程でどういう人と出会う、あるいはかかわりあうのがよいのかという私自身の身の振り方につながっているからですけど、福祉関係の仕事であったからこその現在の境地とお感じなのか、それともそういうことではないのか。

    私が一番どん底のうつ状態に陥ったとき、いつも「死」を意識していました。
    その状況のときに、答えが欲しくて、いろいろな本を読み漁ったのです。
    たまたま、日本人カメラマンによるマザー・テレサについての著書に触れました。
    単純に、死にゆく人のための家をつくったマザーに触発されました。
    死ぬ前に、この手足がまだ動くのならば、自分にも何かできるかもしれないと思いました。
    死ぬ気があるのなら、自ら死を選ぶ前に、死に近い人々の手足になってあげたいと。
    だから、どん底の状態で薬の力を借りながらヘルパー2級の受講をしました。
    あの頃の自分の心境を思うと、介護の仕事以外を選ぶことはなかったと思います。
    受講始めてから数ヶ月後、ヘルパーを取得する直前に、私は家庭から切り捨てられました。

    お金を稼ぐだけならば、もっと体力的に楽な職種もあったでしょう。
    けれど、私には「死」を意識したあのときから、「生きること」をとことん見つめ直すことが必要だったのかもしれません。
    やはり、必然的に福祉の仕事に就いたのだと思います。


    > まだ変わらなきゃ、とお感じでしょうか。つまり生き辛さの度合いが当時と現在はどの程度変化されたのかと。

    変わりたい・・とは思ってきましたが、まだ変わらなきゃ、という気持ちはありません。
    望む・望まないにかかわらず、変わるべくして変わっていくのだろうと思います。おそらく、これからも。
    生き辛さの度合い・・・難しいですが、他人や世間の評価を徐々にですが気にしなくなってきたことで、楽になってきたのかもしれません。
    親に認められたい、こんな私では何と思われるだろう、という思いが未だにありますが、そのやり方でずっと生きてきた結果、私は壊れ、たくさんのものを失ったわけです。
    もうそのコントロール下に居ても、私のなかの「自分」はしあわせを感じられないと、嫌というほど確認したのです。


    この機会に、自分の体験を振り返って書かせていただきました。
    言葉で表現して伝えるのは難しいですね。
    拙い文章でわかりづらいかと思いますが、長文を読んでいただいてありがとうございました。

引用返信 削除キー/
■5902 / inTopicNo.15)  Re[4]: Reすこしご意見伺いたく
□投稿者/ K太郎 -(2007/05/02(Wed) 13:47:23)
    No5898に返信(フーさんの記事)
    フーさんこんにちは

    フーさんは46歳ですか、本当にほぼ同じ年齢ですね。
    失礼ながらこのような歳で
    僕と同じようにのた打ち回っている方がいてくださると
    正直安心できます。
    それだけでも救いです。

    フーさんのご質問への答えになるかどうかわかりませんが、
    勝手なことを書かせてください。

    僕はこの春に再婚をしました。
    お互いに立派なACであり、離婚経験者です。
    何を隠そう、出会いはここのBBSだったのです。
    社会的にはとても弱いもの同士ですが、
    お互いがACを自覚しあっているので、
    「おまえは何でそうなんだ?」とか「あなたはなんでそうなの?」という言葉は僕らの家庭では全くの死語です。
    お互いに無理することなく自分らしくいられてとてもありがたいです。
    いろいろな問題にぶつかっても(ほとんどは子供からもたらされる感じですが)
    それはどういうことだろうとか
    その原因となった子供の時の経験を話しあったり一緒に探求することができます。
    もちろん時には独りになりたくなってふさぎこんでしまうこともありますが、
    それもお互いにその気持ちがわかるのでその時間を尊重しあうことができています。
    一方で
    お互いにとっても依存しあっているということを自覚しています。
    お互いにとって人生の中ではじめて手にした自分が自分でいても
    責められず、馬鹿にされず、疎まれることのない安全な場所だからです。
    ここで甘えたり依存し安心感を得ているので社会にも少しづつ積極的に関わることができるようになっている気がします。
    決してノロケを書きたいわけではありません。
    ACを自覚している者どうしだからこそ
    相手が相手のままであることを尊重することを前提にして
    共に生きることができているんだと思っています。
    相手の言葉をできるだけ相手の枠組みで受け止めようとしたり
    “自分”はこう感じる、このように思うというように
    Iメッセージで語るといったような
    グループワークで学んだこともとても生きている気がします。

    ACだから本当の親密さを持てないということではなく
    ACだからこそ本当の親密さを持つことができるということもある気がしています。
    キイポイントは自覚だと思います。
    自分がこれは相手に依存していると自覚しているときにはそれほど問題にならないような気がします。
    自覚せず無意識のうちに自分の何かを相手に投影するような形で起こる共依存(これは甘えあうという意味では全くないですよね)は、病的であったり破壊的なものにつながることがあると思います。

    僕のカウンセラーの先生が言っていたのですが、
    一時的にでも依存せずに回復なんてあり得ないということです。
    いつまでも依存しっぱなしすることが問題であって
    依存すること自体は人間にとってあたりまえのことだと。
    小さな子供が親に依存するのはあたり前なんですね。
    その中で成長が起こり、そして自立していこうとする衝動が育っていくんですね。
    小さな子供の時に大人のように振るまうようにさせたり依存させてあげなかったりするとその人はACになるし
    大きくなっていっても自立させずに親に依存するように仕向けられることでもまともに成熟できずACになってしまいます。
    これまで経験しなかったところに出て行くとき不安を感じて先生や甘えられる相手に依存することは悪いことではないような気がします。

    僕も頭をめぐらして考えてばかりでしたが、
    それは子供の時に正しいことをしなければ正しくふるまわなければといつも自分を追い立てていたことにつながっています。
    中は他の子より幼稚なのに表面は気が利いたことを話す大人びた子供でした。
    今でもつい正しい生き方
    正しいACからの回復の道なんて思ってしまうところがあるのですが、
    きっと神様からみたら小さな小さな子供に過ぎない自分
    子供が育つのに最初から賢くそつなく生きることができないように
    とにかく生きてみる、生きるということの中でたくさん失敗しながら人の目ではなく自分の目で生きることができるようになっていくしかないのかと思い始めました。

    とても長くなってしまったし
    つい熱い思いを込めて書いてしまった気がして少し気恥ずかしいです。
    好きなことについては書きたいことも少しあるのですが、
    また別の機会があればということにしておきます。
    フーさんありがとうございます。
引用返信 削除キー/
■5901 / inTopicNo.16)  Re[1]: これからどうしていけば?
□投稿者/ SILVER7 [MAIL] -(2007/05/02(Wed) 01:26:23)
    2007/05/02(Wed) 16:18:16 編集(投稿者)
    2007/05/02(Wed) 11:10:42 編集(投稿者)

     私も、一言。

     一生懸命こしらえていた衣を脱いでいくと、何も無くなるのは、当たり前ですね。
     自分が何者でもないということに直面しておられるようですね。 それどころか、自分のなかに、何事かをなそうという気力さえ見出すことができないことにも、直面しておられるのでしょうか?

     私も経験がありますから、私の思ったところで言えば、かなりな恐怖でしたね。

     ほんまもんの「私・自分」には、まだ、出会っておられないのでしょうか?
     こしらえ物ではない、誰かや何かがあって存在しているように見える、形だけの「自分」ではなくて、生身の、血の出る、人には渡すことができない「自分」を、まだ、見出しておられないのでしょうか?


     中也の詩の中になんかありましたが、新しい酒は新しいかわごろもに入れなければならないそうですから、古いかわごろもを破棄して、新しいかわごろもを手に入れなければならないのかもしれませんね。 だから、フーさん、これからかもしれませんね。

     続く書き込みで聞きたいとおっしゃっている、
     ACでない人との付き合い、
     ほんとうの愛、
     仕事をしていくタイミング、
     ワンダーチャイルドを見出した人
    のなかでは、一番最後が、私は当てはまるのかもしれません。 ただし、私はあまり本を読んでいませんので、ワンダーチャイルドということばも不正確にしか知りません。 ちひろさんが書いておられる、生き生きした子どものことでしょうね。 また、インナーアダルトの成長とも関連してくるのではないでしょうか?

     簡単に記しますと、「人それぞれ」ではないでしょうか?
     上記のお尋ねのことみんな。

     ほんまもんの「自分」を見出したら、その自分が、取捨選択していくように、思います。 私の場合は、そうなっています。

     チョロッチョロッと、ほかの書き込みでも書いていますが、私は、「まごうかたなき自分」を見出したときが、ほんとうの意味での生まれ変わりのときでした。
     それからは、その「自分」を、何人(なんびと)にも渡そうなんて、思いもできなかったし、無力な、何も知らない赤子のようでしたが、だいじにだいじに育てました。
     初めは、その子の意思なんか無視して、「周りに合わせよう」とする、旧来の動き方を排して、生まれ出たというか見出したばかりのその子を守ることがメインでした。
     次に、その子の感覚を感じ取るようにしました。 これ、案外、難しかったですね。 何も知らない、それこそ無垢の赤ん坊でしたから、何にも持っていないわけです。 しかし、そんな子でも、現実の中にいると、実際に見聞きし触れ、味わうわけですね。 私は追体験していきました。

     やがて、幼児期から学童期、少年期と幾何級数的速度で進行して、4年目に、意識的に、現実の社会へ1歩踏み出しました。 その時点では、社会的な自信というのはゼロでした。 それでも、それまで育ててきた「自分」の人となりで対処してみようと思ったのです。 それこそ、かつて社会で動いていた自分ではなくてです。

     今、社会へ踏み出して2年目です。
     どこかで書きましたが、かつてとは違って、偽善者であることが、たいへん少なくなっています。 こしらえあげたものではありませんからね。
     普通の人と、普通に話しています。 この4月から、公民館活動のような卓球に参加しているのですが、別に、こだわりなく話していて、かつてあったような、一言一句が気になるようなことは、皆無と言ってもいいぐらいです。

     私は独り者ですから、相手がいませんが、今からだったら、背伸びも縮こまりもせずに、そのまま相手も見るでしょうし、私も、取り繕うことはないだろうと、思います。

     仕事は、責任持ってやりぬくことが求められますから、それができそうになったら、何か、始めます。 そこへ向かう気持ちの萌芽が出てきています。

     とは言っても、1日中活動していることは、まだありません。外へ出たときとかを除いて。 夜更かしが禍して、昼間、十分には動けないことが、まだ、日常なのです。
     しかし、これも、具体的に、そして意識的に、少しづつ早く寝るようになっており、したがって、昼間動くことが多くなってきています。

     私はかつて、「何者かであらねばならぬ」との思いを消し去ることができませんでした。 そして、その「あるべき姿」から自分を見る見方を、どうしても払拭できませんでした。 その結果は、自分が卑小に思えて、反面、すごいあせる気持ち、それこそ幾何級数的なスピードで、周りに追いつかなければ、世間に追いつかなければと、思っていました。
     いまは、それがありません。「何者かで」ではなくて、「自分がこうだから、これができるだろうか、あれができるだろうか」と、実力どおりに動こうとしているように思います。


     長い一言になりました。 申し訳ありません。

引用返信 削除キー/
■5900 / inTopicNo.17)  Re[3]: Reすこしご意見伺いたく
□投稿者/ フー [MAIL] -(2007/05/02(Wed) 00:15:18)
    No5895に返信(1234さんの記事)
    > 例えば今の何もしたくないという状況を分かり易い例でいえば、まだ家族以外の社会と
    > 接していない幼い子供と同じようなものだと思うんですよね。

    確かに。。昔と違うのは親がいない子供ってとこですね。モデルにすべき親がいないから、そのモデルを求めている。といったところでしょうか。

    >

    > じゃあ、子供としてこの先、人との距離感や愛を学ぶにはどうするかと言うと、色んな社会と
    > 接していきながら、少しずつ学ぶしか無いと思うんですよね。


    確かにそうですね。確かに社会のなかではモデルにできる人、できない人、反面教師いろんな人がいます。このサイトにもいろんな人がいらっしゃるのでどのような体験をなさったかなど、いろいろお話も聞いてみたいとも思っています。
引用返信 削除キー/
■5899 / inTopicNo.18)  Re[3]: Reすこしご意見伺いたく
□投稿者/ フー [MAIL] -(2007/05/01(Tue) 23:50:22)
    ちひろさん 返信ありがとうございます。

    読んでまずふっと思ったのが状況が許すとはいえ、長々と引きこもっている自分「あ僕って甘いのかな、恥ずかしいな」です。

    いくつかお尋ねしてよろしいでしょうか。

    ACという概念に出会い今までの状況が壊れた結果としていまがある。
    そうなった結果に後悔っておありでしょうか。その過程はつらかったに違いありませんが、今のほうが専業主婦であった昔よりよいと感じておられるでしょうか。


    > そういう人たちは、自分を飾ることをしません。ありのままに最も近い姿で接してくれます。
    > そういう人たちと向き合うことは、ある意味しんどく、ある意味癒されました
    > いまはほとんど読まなくなりました・・・。実際に体験することでしか、自分のものにはならないと思っています。

    は含蓄のある言葉です。介護の仕事を自身の成長の糧にしておられる。
    もし介護の仕事を選んでなかったとしたらどうだったでしょう?あ、質問の意味がわかりにくいかもしれません。それは、ACからの脱却回復過程でどういう人と出会う、あるいはかかわりあうのがよいのかという私自身の身の振り方につながっているからですけど、福祉関係の仕事であったからこその現在の境地とお感じなのか、それともそういうことではないのか。

    まだ変わらなきゃ、とお感じでしょうか。つまり生き辛さの度合いが当時と現在はどの程度変化されたのかと。

    ぶしつけな質問で申し訳ありません。でも単純にお聞きしてみたいと感じたことを書かせていただきました。










引用返信 削除キー/
■5898 / inTopicNo.19)  Re[3]: Reすこしご意見伺いたく
□投稿者/ フー [MAIL] -(2007/05/01(Tue) 22:48:52)
    K太郎さん こんばんわ
    >
    > 僕は、47歳です。

    私は46です。ちょうど同じくらいですね。

    > ACという言葉に出あったのがほんの2年くらい前です。

    私もいろんな心理学の本やら、カウンセリングやら受けましたが、堂々めぐり。
    5年ほど前ACという言葉にであってから、やっと実質的な回復への道をたどったと実感しています。

    > だから、世間のいろいろな親密さというのもある意味、共依存的なものが含まれているんじゃないかと思えるのです。

    そうですね。親密さ、愛というのの大部分が共依存と混同されているのが事実です。そこでなおさら、そうでないものというのを実感したいとも思っています。
    >
    > 僕が自覚できたことは、人はみんな孤独であたりまえだということでした。

    あ、それは僕も思いました。つまり今まで自立していなかったんだと。ACでない人は一人であるということをしっかり受け止めているということが。

    > ただ挨拶をするだけでもそれも親密さなのかなあと思えるようになりました。

    しらない人とちょっとつまらない雑談をすることが楽しかったり。
    そんなに深く知り合う必要なんかないんだと
    確かにそう感じることが少しづつ出てきたようにも思えます。


    > 本当の愛って何なんでしょうね。
    > 確かに愛だと思っていたものが、執着に過ぎなかったということは良くあることですよね。
    > 愛は人の中にあるというよりも
    > 人と人の間に働くもののような気がします。
    > 誰かが誰かを愛するのではなく
    > 誰かと誰かの間に愛が働く
    > マザーテレサさんはそれをキリストと言っていたんですよね。


    そうですねー。私が疑問に思っているのはもっと具体的にいわゆる男女間の愛というもので、いったんは親から自立した男と女が再度結ばれて(依存しあって)、親に依存するしかない子供を作って、という以上それは本質的にきわめて共依存的行為であって、共依存ではない恋愛ってそもそも存在するの?ということなんです。つまりACでない人の恋愛というのがさっぱり理解できない。私が感じる恋愛感情というのが常に共依存的でありきわめて危険であることが今では自覚できるようになりましたが、ではそうでないものって何?これはACでない人に聞いても、多分AC自体が理解できないだろうし、ACの人は共依存=愛だからこれもまた理解されないしいうことでして。K太郎さんのおっしゃっているその愛がこの場合にもあてはまるのか否か、具体例があるのかそれともあくまで観念的なお話なのか。(ちょっと立ち入ってしまって大変失礼なのですが差し障りない範囲でお聞かせねがえれば)、




    > そして自分の生きてきた道はやっぱり自分が好きで歩んできたものだったような気持ちが少し僕の中で起きています。

    あー、そういうふうにはあまり感じたことがなかったです。今後そんなふうに考えられるようになるのかな。


    > やっと、自分が感じることを認めることそれを外に表現することが少しづつできるようになってきました。
    > そんな中で本当に面白いと思うことを飽きてしまってかまわないから自分にやってみることを許しています。

    いま手放しでほんとに面白いと思えだり好きだと思えることっておありでしょうか?
    私は手放しで・・・というのがまだありません。すべてのことにまだ疑問府がついてしまいます。もしおありならいつぐらいからそう思えるようになったのでしょうか。

    いろいろ質問してしまってすいません。一つ一つのお話が今後の参考になるといいますか、とても助かります。
引用返信 削除キー/
■5897 / inTopicNo.20)  Re[2]: Reすこしご意見伺いたく
□投稿者/ K太郎 -(2007/05/01(Tue) 14:43:53)
    No5893に返信(フーさんの記事)
    フーさんこんにちは

    > 1234さん k太郎さん 返信どうもありがとうございます。
    > 私の状況をつたない言葉で書き込んでみたのですが、理解してくださる方がいらっしゃったことにとても安心しました。
     
    > 私がACから真剣に回復しようと決心してから、5年くらいになりますが、今お話したような状況です。そして今思っているのは、問題はこれからです。ゼロになってしまった後、どのように自分を再構築していくのかという。
    > ずっと思っていましたが、私の現在のプロセスをすでに通られている方々と意見交換させていただけませんでしょうか。

    僕の方にもこうしてお話できることが助けになっていますので、
    ありがたいと思っています。

    > 私の人生も折り返し地点をすぎ、残りの人生を少しでもよいものにしたいと思っています。もう後戻りもしたくないし、回り道もできるだけ避けたいのです。

    僕は、47歳です。
    生きにくさに苦しんで、
    交流分析などから始まって、心理学や宗教的なことも含めていろいろともがき続けて20年以上が経ちました。
    いくつかのグループワークなどにも参加したりしてきました。
    ACという言葉に出あったのがほんの2年くらい前です。
    僕の場合は今になってやっと見えてきたものがたくさんあることを実感しています。
    本当に大人になるのがあまりに遅い自分が情けなくてしょうがなかったのですが、
    今は少し開き直れて新しい発見をすることを喜びと感じるようになってきました。
    そんな中で若いころから触れてきたものの深い意味を再発見したりしています。
    何やってるんだろうってずっと思ってましたが、
    ある意味では無駄なものはなかったのかも知れないとも思えるようになってきたような気がしてます。


    >
    > 具体的にお話してみたいことは、次のようなことです。
    >
    > ・今後はACでない人との付き合いがとても重要だと思っています。しかしそういう人との親密さというのが感覚的に理解できないのです。共依存的な親密さしか知らない自分には。

    僕はある意味、ACだと見ればほとんどの人がACではないかとも思えます。
    このことは斎藤学先生が書いていたことですが、この社会自体が基本的に共依存的になりたっているような気がします。
    だから、世間のいろいろな親密さというのもある意味、共依存的なものが含まれているんじゃないかと思えるのです。

    僕が自覚できたことは、人はみんな孤独であたりまえだということでした。
    それは、他の人の心の世界が完全に分かりあうことなどないからです。
    僕は孤独を感じると、それは孤立していることだと勘違いしていました。
    孤立が怖くて誰かにしがみつこうとしたり、異常に深く触れ合おうとしたりしてました。
    孤独であることが前提になると、
    ただ挨拶をするだけでもそれも親密さなのかなあと思えるようになりました。
    お店のお客さんと店員さんの関係でもそうした一部だけで触れるのも立派な人間関係かと思えるようになってきました。
    もちろん自分の心のデリケートな部分まで分かち合えるような関係はより素敵なことであるのはもちろんですが、立場や関係でいろいろなレベルや距離の親密さがあっていいような気がしています。

    > ・もっとわからないのが愛。今まで愛と思っていたのが、実は相手の弱みを見つけてそこに寄生しようとしていただけだった。本当の愛がわかってきた。という方いらっしゃれば是非伺がってみたいのえす。
    >
    本当の愛って何なんでしょうね。
    確かに愛だと思っていたものが、執着に過ぎなかったということは良くあることですよね。
    愛は人の中にあるというよりも
    人と人の間に働くもののような気がします。
    誰かが誰かを愛するのではなく
    誰かと誰かの間に愛が働く
    マザーテレサさんはそれをキリストと言っていたんですよね。
    そして弱っている人に手を差し伸べることはその人のために何かをしてあげるのではなくて、
    そのことによってマザーテレサさんもキリストから愛を受けていたんですね。
    手を差し伸べる人も手を差し伸べてもらう人も両方がその間に生まれる愛によって救われていくということですね。
    そしたら愛は僕がどうこうするものではないということになります。
    先の話ではないですが、そうすると愛はどこにでも出現する可能性があるんですね。
    トイレ掃除のおばさんと交わすほんの一言と笑顔の一瞬の出会いの中にでも・・・

    > ・今僕は仕事をしていません。それをする元気がないのもありますが、今新たに何か仕事を真剣にやっても、がんばりやの自分はまた新たな玉葱の皮をつけていくことになりそうな気がします。それじゃせっかくゼロになった意味がないのです。同じことを繰り返すだけです。そんな風にならないタイミングってあるんでしょうか。
    >

    僕はまだACからの回復途上(本当は回復ではなくて永遠の成長プロセスだと思ってます。)でなんともいえませんが、
    玉ねぎは以前の玉ねぎのままだけどそれが違って見えてくるような気がします。
    禅の言葉で言えば「空手還郷」のようなイメージでしょうか。
    結局やっていることは以前と大して変わらないのに
    自分の感じ方が違ってきて見えるものも違ってくるようなことかなと思っています。
    そして自分の生きてきた道はやっぱり自分が好きで歩んできたものだったような気持ちが少し僕の中で起きています。
    もちろんばっさり捨ててしまったものもありますが、

    > ・ACの本には、回復が進めばワンダーチャイルドがあらわれて・・・ということがかかれていたりしますが、実際にはゼロになったあと、再構築段階にとどまっている方が多いような気がします。具体的にそういう方いらっしゃるんでしょうか?
    >
    僕は頭でこういうときには何を感じるべき何を考えるべきみたいな
    べき論ばかりで本当に小さい時から生きていました。
    小学校のときに先生に「何を感じた?」と質問されて自分が全く真っ白で何を感じているのか自分でぜんぜん分からないという独特の感覚に襲われたことを思い出します。
    やっと、自分が感じることを認めることそれを外に表現することが少しづつできるようになってきました。
    そんな中で本当に面白いと思うことを飽きてしまってかまわないから自分にやってみることを許しています。
    一方で嫌いでもやらなければならないことはちゃんと自分にやらせるようにしています。
    いずれにしても子供が成長するのと同じで段階というのはあると思います。
    そのタイミングというのはハッキリとわかりませんが、
    それも自分の中からなんとなく見えてくるのかもしれませんね。
    ACの回復についてここの管理人さんのまとめの中にもありますが、
    何かとても賢いものが自分の中に働いているということを仮定して信頼してあげることも必要なことなんだと僕は思っています。
    それはさっきの愛の話に通じることかもしれません。

    とっても長々と僕の思うところを書かせていただきました。
    こんな機会をもらえてありがたい限りです。

引用返信 削除キー/

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