1.感じるままを感じてもいい。感情には正しいとか間違いということはない。感情はただあるだけである。誰も人がどう感じるべきかを教えることはできない。感情について話すことは、良いことであり必要なことだ。 2.欲しいものを欲しがってもいい。欲さなければならないことや、望んではならないことなどない。自分の活力に触れたならば、大きく成長したくなる。 3.見え、聞こえることを見聞きしていい。見聞きしたものはなんでも、自分が実際に見聞きしたとおりのものなのだ。 4.いっぱい楽しんだり、遊ぶのはいいことだし、また、そうする必要がある。 5.真実を語ることは重要なことである。歪められた考え(“すべてか無か”思考、破滅化、過度の一般化、読心術、etc.)をしりぞけて現実をあるがままに見ることは、人生の苦痛をやわらげる。 6.ときには限界を知って、満足を先のばしにすることは大切である。これもまた人生の苦痛をやわらげる。 7.バランスのとれた責任感を発達させることは重要である。それは自分の行動の結果を受けとめることと、他人の行為の結果を引き受けないことを意味する。 8.失敗してもいい。失敗は教師である。失敗は学ぶことを手助けしてくれる。 9.自分自身と同じように、他者の感情、要求、望みもまた、尊敬され尊重されるべきである。 10.問題があってもいい。それは解決される必要がある。葛藤があってもいい。それは解決を必要としている。
ジョン・ブラッドショー 『インナーチャイルド』(NHK出版)第10章をもとに作成
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■4603 / inTopicNo.1)  私がACとなった家庭
  
□投稿者/ ひよこ -(2006/01/09(Mon) 17:02:25)
    カルトの様な家庭というのはこんな感じです。
    長いのですが、よかったら読んでください。

    家庭環境

    電車も通らない、バスも1日2便だけの、車なしではとても生活できない田舎
    密集した人家、近所通しのプライベートがなく、鍵もかからない家

    祖父 自己中心的、怒鳴る、子供(孫)への暴力がある
    祖母 基本的に祖父に従うが、時には自分の意見を通せる人
       温厚、社交的

    父  ワーカホリックで祖父にとってはいい息子、祖父の言いなり
    母  精神的に未熟で主体性がない

    私  母をかわいそうだと思いつつも、母が嫌う祖母を好きでジレンマを抱える
    弟  私より母になついていたので、私よりは母に可愛がられていた

    祖父の自己中心的で横暴な考えに嫁に来た母は完全に怯えていました。全ての基準を祖父が怒らないことに合わせました。父は母の相談役になることもなく、仕事にばかり精を出していて、私は父より伯父さんの顔をよく知っているぐらいでした。

    幼稚園〜小学校低学年

    私たち子供が病気、怪我をすることが全て母親の責任だと、祖父が怒鳴るので、母は追いつめられ、入退院を繰り返していたようです。怯えきっていて、私たちが具合悪いだけで母はぴりぴりするようになりました。私は、病気でも元気なふりをして幼稚園や学校に通わなくてはならなくなり、具合が悪いと言うと、母から泣きそうな声で怒鳴られました。私は自分の体調が悪くとも隠す様になり、死にそうになるまで病院に行くことができず、実際に死にかけたりしました。今でもどのくらい具合が悪くなったら病院に行けばいいのか分かりません。
    父は私たち子供二人が入院していても、仕事があるからとお見舞いにも来ませんでした。

    家での会話はテレビ(相撲、時代劇、アニメ)の感想と、欲しいおもちゃと、食事の内容についてしか話せませんでした。人の話になると、空気がぴりぴりしだすので、話さない方がいいと感じていました。幼稚園の友達の話もあまりできませんでした。祖父は私が家の外で遊ぶことをよしとしていませんでしたから、友達のこともよく思っていないようでした。母も祖父を怖がっていたので、私をかばうことはしませんでした。

    私は幼稚園の頃から、母のことをかわいそうだと思い、自分が我慢すれば母は怒られなくてすむ、と思っていたのでなんとか黙って耐えていました。しかし母は私を自分の延長のように考えていて、やりたくもないピアノを習わされたり、私の意見等聞かず、何もかも決めました。反発すると「お前はおかしい、損だ」と叱られました。母は精神的に弱く、入院していることが多かった為か、私は小さい頃ほとんどを祖母と過していました。私にとっては優しくて、一緒にあそんでくれるいいおばあちゃんでしたが、母はずっと祖母が自分のことを馬鹿にしていると思っていたらしく、祖母を嫌っていました。母は自己評価が低く、被害妄想も激しい人でした。祖母と楽しくしている私が憎らしかったらしく、八つ当たりや嫌がらせの言葉を何度も聞かされました。「お前はババァそっくりで気味が悪い」等です。

    母と祖母のどちらをとればいいのか、私はこのジレンマに苦しみました。祖母が亡くなった今でも苦しい思い出になっています。弟は母になついていたので、あまりひどいことは言われなかったようで、それは救いでした。

    母はついに家にいることが苦痛になり、家族に黙って実家に帰ってしまいました。祖父に命令されてようやく父が母を連れ帰り、大人達で家族会議をしていました。私は離婚するのだろうと思いましたが、離婚ではなく、別居の話でした。

    つづく
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■4604 / inTopicNo.2)  私がACとなった家庭2
□投稿者/ ひよこ -(2006/01/09(Mon) 17:55:42)
    小学校高学年〜中学

    別居の理由は近所と折り合いが合わないというものでした。本当のことは言えないのでそういう嘘をついて別居しました。

    別居にあたって私たち子供は転校はしませんでしたが、別の部落から通うことになりました。今までクラスの中でもその部落の子とは付き合いがなかったのですが、嫌でもつき合わなくてはならなくなりました。登下校等、よそ者の私には苦痛でしかありませんでした。よそ者というだけでいじめの対象です。

    登下校を一緒にする子の母親が、部落でもクラスでも支配力のある人だったので、母は私に今までの友人との付き合いを削らせてでも、その子とつき合う様に言いました。
    休みの日はその子に遊びの誘いの電話をする様に強制され、半ばいじめられていた私は嫌だと言うのですが、母は顔を真っ赤にして「そのぐらいのことできないのか!情けない。」と延々怒鳴り続けるので、泣き泣き母に従いました。誘いは悉く断られました。私は自分が崩壊しそうなのを感じていました。私は人脈確保の道具でしかないのだな、と思いました。活発だった弟も存在感のないおとなしい子になっていきました。

    苦しいけれど、卒業して中学に行けば、嫌いな友人ともつき合わなくていいと思うと、なんとか生きていくことができました。しかし、小学校卒業まででも、私の意思は全く尊重されず、母のため、家のため生きていたのは確かです。

    つづく
引用返信 削除キー/
■4605 / inTopicNo.3)  私がACとなった家庭3
□投稿者/ ひよこ -(2006/01/09(Mon) 18:10:02)
    中学生時代

    中学に進学し、一人で登下校できる様になったので、気楽になりました。部活にも入らず、気楽に過していた気分の明るい時期でした。しかし平安は長くは続きませんでした。

    2年の時、祖父が急逝しました。私はもう世界が終わったと感じました。あの自己中心的な祖父を除いては、色々と敵の多い我が家の柱をつとめる人がいません。案の定祖父の葬式では近所の人たちがでしゃばり、わがままを言って位牌や葬式の段取りを全て高い金額で進めてしまいました。父にはなす術がなかったのです。私はうまく制することのできない父を歯がゆく思いました。母も多くの人たちに気圧されて気がふれたようになり、私を乗せた車で暴走運転するなど、危険な状態でした。

    次の日も次の日も母はイライラし、私たちを怒鳴りつけ、人々をののしり、父の親戚との間でトラブルを起こし、私も気が違ってしまいそうでした。

    そんな中、祖母だけが冷静にしており、問題の解決にも当たらないのを、私もおかしいと思いました。やはり母が言う通り、祖母が悪かったのだと思う様になりました。しかし、問題が起こったのは、今よく考えてみると、ほとんどが母の被害妄想が原因でした。

    私もその頃には母の言動に洗脳されていたのです。

    つづく

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■4606 / inTopicNo.4)  Re[2]: 私がACとなった家庭3
□投稿者/ SILVER7 [MAIL] -(2006/01/09(Mon) 23:08:04)
    No4605に返信(ひよこさんの記事)
     ひよこさん、読んでいます。 ぜひ、続けてください。

引用返信 削除キー/
■4608 / inTopicNo.5)  私も読んでいますよ
□投稿者/ だりあ -(2006/01/10(Tue) 14:12:00)
    ひよこさんへ
    どんどん吐き出してくださいね。ちゃんと読みますから。
引用返信 削除キー/
■4609 / inTopicNo.6)  私がACとなった家庭4
□投稿者/ ひよこ -(2006/01/10(Tue) 15:44:55)
    高校時代1

    何とかゴタゴタが落ち着き、私は高校に進学しました。私が勉強しているときは母は色々言わないし、中学ではいつもトップレベルの成績をとっていたので、進学校に進むことになりました。私は普通科ではなく、他の高校の職業科に進みたかったのですが、母と教師に説得されて進学校に行きました。今思うと、なぜ自分の筋を通さなかったのか、自分を情けなく思います。

    高校に進学できたのはよいものの、母の被害妄想は日に日にひどくなりました。父は祖父が亡くなってからというもの、祖母が一人暮らししている実家で食事をとるようになりました。母はそのことを怒っていましたし、私も洗脳されていたので、よくは思いませんでした。父は我が家に帰っても会話もなく、私たちからきつい視線を受けるのでどんどん家にいる時間が減っていきました。悪循環です。

    母は言うこと全てが愚痴、人の悪口になり、私の容姿、言動全てにケチをつけるようになりました。弟は透明人間のようにゲームばかりする子になっていきました。
    父が帰ってきた時に、私が父のことを(母が普段言うように)なじると、「お父さんに謝れ!誰のおかげでご飯が食べれるんだ!」と怒鳴られるので、私は何が善悪なのか分かりませんでした。ノートには死にたい死にたい、と書くようになりました。山月記の李徴のようにトラになってしまいたかったです。

    そのうち、母は統合失調症のような行動をとり始めました。多分そうだったと思いますが、その時は精神病の知識等ありません。父も家を避けていましたから、気づかなかったと思います。「みんながうちの悪口を言っている」「盗聴器がしかけられているから探せ」「カーテンを閉めてからドアを開けるんだぞ」というようなことを言い始めました。少しでも家の中が外部から見える様な状態になると激怒しました。

    私は母の前で、死んでやる!と言いましたが、「勝手にしろ。だけど、弟がどうなるか考えてからにしろよな」と弟の方を見て言いました。私は何もできませんでした。当時、ネットがあれば、、、。と悔やみます。
    母の妄想から発していた命令に戦々恐々と従っていた自分が哀れです。

    そんな折、祖母が他界しました。一週間昏睡の後、亡くなりました。
    母は自分の嫌いな人間のことを「早く死ねばいい」と常日頃言うのですが、亡くなると、ころっと態度を変えるのです。祖母の時もそうでした。
引用返信 削除キー/
■4610 / inTopicNo.7)  私がACとなった家庭5
□投稿者/ ひよこ -(2006/01/10(Tue) 16:04:40)
    高校時代2

    祖母が昏睡状態になり、もう助からないと医者から言われると、母は祖母の日記を読み始めました。そこには母の悪口等一言も書いてありませんでした。それを読んだ母はボロボロ泣いて、「自分が悪かった、何もしてやれなかった、一人暮らしさせてしまって、本当にかわいそうなことをした」と言いました。

    私は、おばあさんから解放される母のことを思って、「(おばあさんが亡くなって)良かったね。」と声をかけようとしていたのです。先制パンチをくらいました。お母さんは改心したのに、私はおばあさんが死んでよかったと思う人間なのだ。裏切られたという気持ちと、自分のあさましさに絶望しました。
    私の気持ちはおいてけぼりにされました。

    祖母が亡くなると、父の様子も変になりました。葬式の最中、姿が消えてしまったのです。母は私たち子供にこう言いました。「どこかで自殺しているかもしれないから早く探せ」。私たちはドアを開けたら首を吊っている父がいるのではないかと恐れながらも父を捜しました。どこにもいませんでした。母は思い立った様に車に乗り、どこかへ行きました。帰ってきた時には靴もはかず、泥だらけになった父を連れていました。父は「俺の居場所がない、俺の居場所がない」と泣いていました。父は別居先の私たちの家に裸足で歩いて行っていたのです。2キロはあります。私はおかしくなってしまえる父を羨ましく思いました。父は精神科にかかることもなく、葬式はなんとか終わり、私たちは祖父母が住んでいた家、つまり別居前の家に戻ると、そこで暮らすことになりました。

    母は祖父母をおいて出て行ったのに、また戻ってそこで暮らす自分たちを近所の人があまりいい目で見ていないと思っていました。私にもその意識は十分染み付いていました。しかし、母を縛っていた祖父母は亡くなってしまい、母だけはすっきりしたようで、統合失調症のような症状もなくなりました。私もすでに人間不信になり、こそこそと暮らす様になりました。なんとか勉強だけはしていたので、大学に進学しました。本当は海外留学したかったのですが、母に完全に反対されていたので、できませんでした。自我のない自分を恥じます。
引用返信 削除キー/
■4611 / inTopicNo.8)  私がACとなった家庭6
□投稿者/ ひよこ -(2006/01/10(Tue) 16:16:21)
    大学時代1

    大学は母のコントロールから逃れられなかったのでしょう、自分から地元の大学を選びました。一応やりたいことを勉強できる大学でしたが、実学ではないため、あまり職業的な技術は身に付きません。もう先のことまで考える力が私には残っていませんでした。地元とはいえ、下宿することになりました。一人暮らしを始め、サークルにも入りました。しかし、もう十分おかしな家庭で育った私はすぐにおかしな人間関係を作ってしまいました。母の様な人につかまってしまったのです。

    その人はサークルの先輩で男性でしたが、ことあるごとに人の悪口をいいます。私はその愚痴を聞いて、私の中だけにとどめ、被害が広まらない様にしなければと考えました。そんな人間関係しか知らなかったのです。
    私は初めての一人暮らし、勉強、バイト生活に疲れきり、そのサークル活動がおろそかになることがありました。でも、他のサークル員より真面目に頑張っていました。特にサークル内の人間関係を穏やかに保つのでも必死でした。とにかく争いごとをおさめることに全力をつくしました。しかし私の努力は認められませんでした。苦言を呈され、完全にうつになっていた私は自律神経失調症で休学しました。
    大学の全ての仲間を失った様な気になりました。自分を責めて責めて、もう意識もほとんgなくなり、食事もできず、実家に戻りました。
引用返信 削除キー/
■4612 / inTopicNo.9)   私がACとなった家庭7
□投稿者/ ひよこ -(2006/01/10(Tue) 16:41:36)
    大学時代2

    一ヶ月間の安静を命じられた私を、母は始めこそ大事にしてくれましたが、時間が経つにつれて、だらしない、甘えていると言い始めました。辛かったけれど、どうにもなりませんでした。同じ頃、父の姉が胃がんの末期で苦しんでいました。父にとっては大事な姉だったのですが、母は彼女をとても嫌っていました。県外にいて、離婚していて旦那もいないため、生活は苦しかったようで、父はお金を貸していることがあったようです。彼女の性格も、お金を貸していることも母は嫌がっていました。

    母は末期の彼女に借金があることを恐れていました。彼女が亡くなったら父が借金を肩代わりしなくてはならないと思ったのです。父は財産放棄すれば大丈夫だと母を説得したのですが、母は自分がだまされていると感じ、父に何度も詰め寄りました。実の姉が危篤なのに、お金のことだけを何度も何度も詰め寄る母に父は心底疲れているようでした。私も見ていて疲れました。療養どころではありませんでした。

    そんなおり、父が運転する車に同席しました。私は父が強迫的に運転するのを危ないと思っていたのですが、私は事故防止するどころか一緒に事故にあってしまいました。車は駄目になり、私は頸椎捻挫、父は無傷でしたが、精神的には限界だったでしょう。ついに一ヶ月有給をとり、精神科に通いました。
    それまでにも父は何度か事故を起こしていたのですが警察には言わず、
    お金を盗られたりしていました。父はワーカホリックなので家にいる自分が惨めで仕方ないようでした。余計に調子をくずしてしまったようです。

    父の姉が亡くなり、借金の問題も片付いて、私の安静期間も終わりました。しかし、私は大学生活に戻れる様な状態ではありませんでした。だらだらと実家で精神科に通い寝込む日々でした。母はついに怒りました。「甘えてる!そんなんじゃ就職できない!お前は教師になると思っていたのに!今頑張らないでどうする?」

    私は近所から隠され、引きこもって生活しました。療養すら認めてもらえず、世間の目も怖くなり、隠れて生きねばならない自分に気が狂いそうでした。ついに私は当時交際中だった今の夫に夜中に迎えにきてもらい、家出しました。
    それまで彼には家のことはあまり話しませんでしたが、家でのことを話すとその異常さを分かってもらえました。いったんは家族で話し合うということですぐに実家に戻ったのですが、全く話し合いにならず、また逃げました。
    色々暴言を浴びましたが、私は1年間休学し、夫のアパートに住み、できるアルバイトをやって生活費と学費を稼ぐことにしました。
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■4613 / inTopicNo.10)  私がACとなった家庭8
□投稿者/ ひよこ -(2006/01/10(Tue) 16:57:49)
    大学時代3

    私は父の車に同乗中事故にあいましたが、一年間の休学中にその後遺症が出てきました。救急車を呼ぶ程の頭痛、ふらつき、手のしびれ、めまい(これは後々単なるムチウチではなく、髄液の漏れということが分かるが、それが分かるのはそれから数年も後のこと)などです。
    こんな痛い思いをして生きるぐらいなら死んだ方がいいと思いました。今の夫にも散々迷惑をかけました。そして数ヶ月入院することになりました。ヤブだったのか、そんなに入院しても何も改善しませんでした。ただ、痛み止めは打ってもらえます。入院中、来年卒業できる様にと、卒論の構想を考え始めました。単位は足りるので、卒論さえできれば卒業できます。

    退院後しばらく経ち、卒業するために下宿に戻りました。学費は無理でしたが、生活費は自分のバイト代から出しました。親の顔も見たくありませんでした。郵便局への振込も止めてもらいました。担当教官の理解も得られ、卒論も無事書き終わり、なんとか卒業できることになりました。ひどい後遺症はまだ続いていましたが、原因不明で苦しい毎日でした。就職活動もやりましたが、身体が思う様にならず、なんとか生きて行くので精一杯でした。身体の痛みと人間不信の中、今になると、よくやっていたな、と思います。
引用返信 削除キー/
■4614 / inTopicNo.11)  私がACとなった家庭9
□投稿者/ ひよこ -(2006/01/10(Tue) 17:12:35)
    もう私がACとなった家庭からは抜け出したのですが、このタイトルで続けさせてください。

    大学卒業後1

    大学を卒業してから、一年間、今の夫のところに世話になるのも気がひけ、私のかつての女友達が職を辞したこともあり、一緒に住もうということになりました。私には地元から出て長期間暮らす初めての機会でした。
    私はそこでパートの仕事をみつけ、一年間働きました。一緒に暮らす女友達も前々から不器用だと思っていたのですが、彼女もACだということが分かりました。

    私がACという言葉を知ったのは、書き忘れましたが、大学時代、自宅療養を命じられた時、パソコンで「自殺」を検索していて見つけました。私はACだったと知った時、これは正に自分のことだ、こんな人が他にもいるのか、私だけが悪かったのではないのだ、しかし今まで何をやっていたのだろう?と嬉しさや悲しさなどでは説明できない色々な感情が一気に押し寄せました。
    しかし、それを知ることによって親から離れる決心がついたのです。

    私も彼女も約一年間の同居の中で親に対する怒りを話し合い、また苦痛を共に分け合うこともできました。二人の中でパワーゲームが始まることがあっても、その感情を理解して対処できるよう努力しました。ACについても少ない稼ぎから本を買って勉強しました。彼女もようやく自分の家庭がおかしいと認める様になり、ふっきれたようなことを言っていました。この生活は傍目から見ると変ですが、二人にとってはいい結果になりました。
引用返信 削除キー/
■4615 / inTopicNo.12)   私がACとなった家庭10
□投稿者/ ひよこ -(2006/01/10(Tue) 17:42:07)
    大学卒業後2

    一年間、私は地元から離れて暮らしました。
    しかし、事故の後遺症が良くなったわけではなく、依然苦しんでいました。そんな折、現在の夫が髄液が漏れると私のような症状が出るという情報を新聞で見つけ、色々調べてくれ、地元に帰ったらその治療ができる病院に行こうと言ってくれました。

    女友達も就職が決まったり、すぐ辞めたり、波乱万丈でしたが、彼女は派遣で働いて行くことになりました。

    一年後私は地元にもどり、現在の夫と暮らし始めました。親の所には行かないと決めたものの、同棲していることを親に告げないのは心苦しく、しかし、結婚はしたくないと昔から思っていたので、私はうつっぽくなりました。

    夫はそれをよくないと思い、うちの親と話をつけてきてくれ、結婚することになりました。夫の両親にも私の様な半死半生の女が嫁では困るだろうと、恐れ多かったのですが、夫の母親も色々悩みを抱えた時期がある人で、父親はおおらかな人なので責められることもなく結婚しました。本当にありがたいです。

    その後病院に行き、治療も受け、前よりはましになり、パートですが仕事にも行ける様になり、自分のことを少しづつ受け入れ、許すことがでるようになってきました。

    今も悩みがありますが、自分本位で恐れ多い悩みです。まずは完全な健康を手に入れること、子供を産みたくないのを夫は理解してくれたが、夫の両親は理解してくれるだろうか?とか、私が本当にしたいことはなんだろう?どんな職種がいいのだろう?という甘えた悩みです。個人的な小さな悩みですよね。もっと自己を確立していかなければなりません。

    こんなちっぽけな私の願いは世界中の苦しみを身近なところから救える人間になりたいというものです。このように苦しんできて、自分を許せる様になってから仏教やキリスト教に触れると格段と理解が進んだことに気づきました。

    今の日本には世界愛が足りません。私の家庭では教わることのないものでした。今現在の日本の家庭ではたいてい自分優先で、人より上、人より上の教育を行なっていると思います。人を足蹴にしたうえでの、人より上です。

    こんなことでは日本が滅びます。
    私たちACには何かできると思うのですが、どうしたらいいのか、悩む毎日です。
    まず行動だと思うので、行動範囲は広げて行きます。
    そして、恥ずかしがらず、自分の経験を語れたら、と思います。

    しかし親のコントロールからは完全に脱してはいませんので、まだまだ皆さんにお世話になると思います。

    SILVER7さん、だりあさん、私の体験を読んでくださいまして、ありがとうございます。感謝します。
引用返信 削除キー/
■4617 / inTopicNo.13)  弟のこと
□投稿者/ ひよこ -(2006/01/10(Tue) 18:23:48)
    心配していた弟ですが、彼も色々悩み、学生でいるあいだ下宿先で引きこもったりしていましたが、無事就職が決まりました。
    親元を離れての就職です。私は、親とは絶縁状態ですが、彼とは連絡をとっています。
    彼は私ほど親との間に葛藤を感じていませんが、過去の記憶がほとんどないそうです。

    彼とは今後も協力して生きていける兄弟でありたいと思います。
    そのためにもこれからは素直な自分でいたいと思います。
引用返信 削除キー/
■4623 / inTopicNo.14)  これからはもっと幸せになりますように。
□投稿者/ だりあ -(2006/01/12(Thu) 16:46:47)
    ずっと実家が辛くて、大変だったでしょうね。
    私もそうでした。部屋に鍵をつけないと安心できなかったのですが、親に反対され、足音にビクビクしながら生きていました。

    ひよこさんも、今安心出来る場所がみつかって良かったですね。
    (私は独り暮らしですので、親は中には入れていません。)
    実家には大切な用事がある時だけでいいのですよ。(葬式とかくらいね...笑)

    ひよこさんは旦那さんの御両親に甘えてよいと思いますよ。
    まだ、親の呪縛はあると思いますが、話し合うよりもひよこさんの人生を歩いていってくださいね。きっと大丈夫です。支えてくれる人達がいるのですから、ゆっくりとね、幸せになりましょう。


引用返信 削除キー/
■4626 / inTopicNo.15)  ありがとうございます
□投稿者/ ひよこ -(2006/01/13(Fri) 16:15:22)
    だりあさん、私の長ーい話を読んでくださって、ありがとうございました。
    このように、今までの人生をまとめたのは初めてです。こんな私にも、結構な歴史があったのだな、と自分でびっくりしました。

    だりあさんも、辛い思いをされてきたのですね。お葬式ぐらいに帰ればよいと割り切るのまでは相当ご苦労されたと思います。私も、罪悪感をもたずにそのように思えたらいいのですが、まだまだ自分の感情に振り回されております。以前は母と私の意思の境目がなくて恐ろしかったのですが、いまは100パーセントではないにしろ、切って考えられるようになりました。

    この文章を書く時、途中で挫折しそうになったのですが、SILVER7さんとだりあさんから、読んでいる、というレスをいただけたので続けることができました。

    ほんとうに、ほんとうに、読んでいただいて気分が楽になりました。
    ありがとうございました。多謝。
引用返信 削除キー/



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