1.感じるままを感じてもいい。感情には正しいとか間違いということはない。感情はただあるだけである。誰も人がどう感じるべきかを教えることはできない。感情について話すことは、良いことであり必要なことだ。 2.欲しいものを欲しがってもいい。欲さなければならないことや、望んではならないことなどない。自分の活力に触れたならば、大きく成長したくなる。 3.見え、聞こえることを見聞きしていい。見聞きしたものはなんでも、自分が実際に見聞きしたとおりのものなのだ。 4.いっぱい楽しんだり、遊ぶのはいいことだし、また、そうする必要がある。 5.真実を語ることは重要なことである。歪められた考え(“すべてか無か”思考、破滅化、過度の一般化、読心術、etc.)をしりぞけて現実をあるがままに見ることは、人生の苦痛をやわらげる。 6.ときには限界を知って、満足を先のばしにすることは大切である。これもまた人生の苦痛をやわらげる。 7.バランスのとれた責任感を発達させることは重要である。それは自分の行動の結果を受けとめることと、他人の行為の結果を引き受けないことを意味する。 8.失敗してもいい。失敗は教師である。失敗は学ぶことを手助けしてくれる。 9.自分自身と同じように、他者の感情、要求、望みもまた、尊敬され尊重されるべきである。 10.問題があってもいい。それは解決される必要がある。葛藤があってもいい。それは解決を必要としている。
ジョン・ブラッドショー 『インナーチャイルド』(NHK出版)第10章をもとに作成
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■3191
/ inTopicNo.1)
中間報告
▼
■
□投稿者/ はなぽん
-(2005/04/07(Thu) 11:01:35)
2005/04/07(Thu) 16:18:10 編集(投稿者)
親との対決後のことを総括してみようかなと思います。
親との対決で、両親も少しは「わかってくれたのかな」と思っていたのですが、そうではありませんでした。両親は、対決のとき、あえて地雷を踏まないように気を使っていただけだったようです。
その後、電話がよくかかってくるようになりましたが、相変わらず、無神経な言葉遣いで話しています。親戚の近況を話す言葉も、「馬鹿にしている」「笑いものにしている」ような言い方ですし、「耳に翻訳機がついている」ように、私の言葉を勝手に解釈していて、言葉が伝わらないのも昔のままです。
両親の特徴として、「言葉遣いに無神経」と「言葉が足りない」の2点が際立っています。前者は、うけを狙っているようにも見えますし、後者は、言ってしまったら負けるとでも思っているのか、もしくは、言わなくてもわかってもらえるとでも思っているのか、と感じます。
私は、というと、冷めた頭で、そういう両親を眺めています。
笑えない冗談には笑わなくてもいいんだと思って、笑わなくなりました。
言われたことを断りたい時、拒否の言葉が通じていないときには、何回も繰り返し拒否してもいいんだと思って、拒否するようになりました。
愚痴に対しては、聞いたことを覚えていたり、慰めてあげたりとかはしてあげなくてもいいんだと思って、ただ聞き流そうと努力しています。そうすると、話が短く終わる傾向があります。
でも、電話は不意打ちのように、いつかかってくるかわかりませんから、時々、コントロールされそうになります。私が話をしたくない時だってあります。そういう時は、イライラして、誠実に受け答えができなかったりします。冷静に、短く切り上げてほしいといえないのです。この辺は、まだ、「修行が足りない」部分ではあります。怒りを小出しに表現することもできていませんし。
親以外に対しては、例えば「新聞の勧誘」。
昔は、セールスの人との会話さえ億劫で、「来なくなればいいのに」とか「何回もことわっているんだからあきらめてくれればいいのに」と思い、必要以上に不機嫌に対応したり、「断る」ことに罪悪感を感じて、その後ずーっと反省やらなにやらで嫌な気分になっていました。
でも、最近は、「私は新聞はいらないから断ってもいいんだ」と思えるようになり、「何回でもおいで。そのたびに断るよ」と言う気持ちです。
セールスの人は仕事でやっているんだから、私が断っても、それは、彼にとってはたくさんの中の一人に過ぎない、と思えるようになり、罪悪感も減りました。
玄関越しに、顔も見ないでお断りするのだからセールスの人が私のことを「嫌なやつだ」と思うかどうかなんて、意味のないことだ、と思えるようになり、淡々と、すぱっと断るようになりました。
近所づきあいでは、昔は、誘われたら断ってはいけない。なぜなら、もう二度と誘ってくれなくなるから。もしくは、付き合いづらいやつだと思われるから。もしくは、「友達は大事に」しなくてはいけないから。。。などとがんじがらめに自分を縛りつけ、苦しくなって、「友達なんていないほうが楽だわ」と、付き合い自体を拒否していました。
最近は、相手は相手の思いがあって誘ってくる。それと、私の思いがうまく同調したら誘いに乗ればいい。私の都合で同調できなければ、断ってもいい。それで付き合いが消滅するならそれだけの相手なのだ、と思うようになり、断っても続く近所づきあいができる相手が、友達に発展するのかなぁと考えています。
でも、断るときの言葉遣いが大切だなぁと思います。
「ごめん」とか「悪いけど・・・」とかは、謝る必要が無いと感じるときでも使ったほうがいい、とか、「また今度遊んでね」は、決して次回のお約束ではなく、好意の表明なんだな、とか、面倒なときに息子をダシに断るのは「うそも方便」とか。相手を傷つけないソフトな断り方を習得するのは、近所づきあいを円滑にすると言う目的のためには必須条件なのだな、と思います。
思えば、両親の言葉は鋭い刃物のようにずばっとくるんです。同じことを言うにも言い方によっては好意をこめることも、悪意を込めることもできる。そういう言葉遣いに無神経なくせに、自分の好意を信じてほしがるのです。
また、常に笑いを取ることが正義らしく、母方の親戚一同、誰かをこき下ろすことで笑えるのです。
私は、これから、言葉遣いを勉強する必要があるのです。両親のやり方をまねしてはいけないのです。
こうして、私が、記憶の中の親に刷り込まれた考え方や行動の鎖を一本一本断ち切っていくにつれ、「自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の頭で考えて行動する」ということが少しづつ増えてきて、昔の自分がいかに思考停止していたかに愕然とします。
正確に言えば、「親から許される範囲」の中でしか物を考えていなかった、ということです。
今の私の感覚は、私の皮膚の外側の世界すべてに対して、「私」が立ち向かっているような感じです。肉食獣が、縄張りを作って、その縄張りを守りながら生きているのと似ています。私一人だけが自分です。一匹の大人の人間として、亭主というもう一匹の人間と協力しながら、家という縄張りを作って、それを守って、その中で子供を育てているのです。
そういう立場にあることを自覚すると、おのずと社会に対して「責任」をとろうと言う感覚が生まれてきます。「社会」は「群れ」ですから、反社会的な行動をとることは、「群れ」から追い出されることを意味します。
例えば、「ルール」ですが、以前の私なら、「ルールはルールだから、守らなくてはいけない。」と、思考停止していました。でも、今はちょっと違います。
みんなが当たり前にやることに対して、ルールは必要ないですよね。
例えば、「花がむずむずしたらくしゃみをすること」というルールは無いです。
で、誰かに思いっきりくしゃみを顔にかけられた人がいた場合、それが「不快」と感じる。そういう人が大多数なら、「くしゃみをするときには顔を横に向けましょう」というルールができるわけです。
ルールがあるということは、ルールに従わない人がいるということで、従わない人は嫌われたり、「群れ」からはじかれたりする。
では、自分がその「群れ」つまりは日本国の中で生きていこうとするならば、日本国の中のルールを学び、守ることで、構成員として認められることを、自らの意思で選び取ろうという感覚が、私の中に生まれてきているのです。私の家族の中でしか通用しないルールではなく、世間一般の平均値としてのルールを学んでいきたいのです。
そういう風になって、改めて両親に目を向けると、「できれば付き合いたくない嫌なやつら」ですが、「そういう一匹の大人」という風にも受け取れます。
彼らが何をしても、それは、私の皮膚の外側のことですし、私の精神についても、皮膚のようなものが出来上がりつつあることを感じています。それは、両親の言葉を受け入れるかどうかは自分で決める、という意思や、いやみや当てこすりに対しては、怒りなどの自分の感情を感じることができるということです。彼らの言葉に従おうと従うまいと、私の行動は私が決める、と言う感覚です。
そういう両親と「あえて」付き合うことを私の意志として選ぶかどうか、まだ、答えを出す時期ではなさそうです。もうすこし、様子を見ます。
私自身についても、まだ、ゆれることがあったり、新しく気づくことがあったりと、道の途中であることに変わりはありません。
いままで、ここでお世話になった方々へ、感謝の気持ちを込めて、中間報告とさせていただきます。長い文章を読んでくださってありがとうございました。
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■3192
/ inTopicNo.2)
Re[1]: 中間報告
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□投稿者/ いろは
-(2005/04/07(Thu) 19:26:11)
はなぽんさん、こんにちは。。。
読ませていただきました。ちょうど同じころここにきていろいろあった中、
同士といったらちょっとあやしいかもしれませんが
共に歩むものとしてうれしい気持ちで読んでいました。
私も今、ようやく自分と自分以外の人との境界線を感じることができるように
だいぶなってきたと思います。きっとはなぽんさんの表現されている新聞勧誘を
断ることができるというのにとても似ていると思います。自分以外の人の気持ちは
その人の大事な思いなのだからそれを尊重するためにもその人に立ち入ってはいけないと自分に言い聞かせ続けそれがやっと定着してきています。
はなぽんさんもご両親に大分苦戦されているようですね。
本当に彼らを変えられないのなら自分がと思っていましたが
日に日に成長していく私の中に両親の持っている価値観が微塵もないことが
わかりました。私もはなぽんさんと一緒でもっとも嫌いなタイプです。
ちょっと目からうろこだったのが親も大人の中のひとりとして考えると
おっしゃられた部分。私にはそういう風にはなかなか感じられなかったのですが
もしかしたらそこから両親との関係を見つめなおせるのかもしれないと
思いました。
私も言葉って不思議だなと思うんです。うちの両親も同じ表現をするにも
もっとも憎たらしい言い方をするタイプなんです。それで笑いをとろうと
するのも同じかも。。。でも私はできれば同じ表現をするならいい方で
しゃべりたいと思っています。自分育ての中の課題でもあります。
でもなかなか難しいですよね。
また続きを楽しみにしています。ありがとうございました。
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■3193
/ inTopicNo.3)
Re[1]: 中間報告
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□投稿者/ 柊
-(2005/04/07(Thu) 19:32:06)
2005/04/08(Fri) 08:59:17 編集(投稿者)
2005/04/08(Fri) 08:59:13 編集(投稿者)
はなぽんさん、こんばんわ。
私も色々迷ってる道の途中で、毎日揺れてます…
私の場合は親に対して今は悲しみでいっぱいです。
いっぱい、悲しんでその後どうしようか考えようと
思ってます。
縁を切ってしまいたいような、それをして果たして
私は回復できるのかな?とか。
私もまだまだ答えが出ません。
はなぽんさんが書かれてるルールのことですが、
私自身、難しいなぁと感じてるこの頃です。。。
くしゃみの例は不快に思う人のほうが多いので
わかりやすいんですが、
例えば、くしゃみを顔にかけられても我慢する人の
ほうが多かった場合、多いほうのルールに従うなら
「我慢」になってしまいますよね?
自分の周りを見渡しても自分と同じく「イヤだ」って
いえる人のほうが少ない気がします。
なので、「我慢」をする人のほうが多いからみんな内心
「不快」なんだけど、「我慢」が暗黙のルールになって
しまってるときがあるんです…
「それはおかしいよ。」って言える人が増えるとまた
我慢しなくていいルールができてくるんでしょうね…
引用返信
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■3199
/ inTopicNo.4)
Re[2]: 中間報告
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□投稿者/ はなぽん
-(2005/04/08(Fri) 10:42:05)
>
> はなぽんさんが書かれてるルールのことですが、
> 私自身、難しいなぁと感じてるこの頃です。。。
> くしゃみの例は不快に思う人のほうが多いので
> わかりやすいんですが、
> 例えば、くしゃみを顔にかけられても我慢する人の
> ほうが多かった場合、多いほうのルールに従うなら
> 「我慢」になってしまいますよね?
> 自分の周りを見渡しても自分と同じく「イヤだ」って
> いえる人のほうが少ない気がします。
> なので、「我慢」をする人のほうが多いからみんな内心
> 「不快」なんだけど、「我慢」が暗黙のルールになって
> しまってるときがあるんです…
> 「それはおかしいよ。」って言える人が増えるとまた
> 我慢しなくていいルールができてくるんでしょうね…
「いやだ」と言うか、「我慢」をするか、やんわりと不快を表現するか、状況に応じて、相手に応じて、自分が決める、というのが理想であるように思います。
「我慢」が暗黙のルールだなぁと感じたら、それは、判断材料のひとつですよね。
そのなかで、あえて、反対意見を述べるかどうか、自分は何を目的にそれをするのか、とりあえず黙っておくか、などなど。
それを、両親とは関係なく、自分の頭の中で考えてみる。
頭の中は自由ですし、相手に読まれることは無いですから。
それをどのように表現するか、もしくはしないかで、相手の反応も変わるのですよね。
まぁ、むずかしいです。私も、花粉にやられた脳みそで考えるのは、とっても苦痛です。
でも、ACじゃない人たちも、そうやって、世間と折り合いをつけているのかなぁと思います。
だからこそ、安らげる場所を大切にしたいですよね
引用返信
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■3200
/ inTopicNo.5)
Re[2]: 中間報告
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□投稿者/ はなぽん
-(2005/04/08(Fri) 10:49:12)
> はなぽんさんもご両親に大分苦戦されているようですね。
> 本当に彼らを変えられないのなら自分がと思っていましたが
> 日に日に成長していく私の中に両親の持っている価値観が微塵もないことが
> わかりました。私もはなぽんさんと一緒でもっとも嫌いなタイプです。
> ちょっと目からうろこだったのが親も大人の中のひとりとして考えると
> おっしゃられた部分。私にはそういう風にはなかなか感じられなかったのですが
> もしかしたらそこから両親との関係を見つめなおせるのかもしれないと
> 思いました。
>
親だから、近い存在ではありますが、私ではない別の人。
そう思ったら、彼らも、彼らのなわばりを持つ、群れの長ではあります。
別居中なので、特に「別の群れ」の意識が強く、そう思うようになりました。
敵対するなら、私が体を張って戦うぞ。私には守りたいものがあるんだ!
彼らの言葉は、私を侵食しない。
なぜなら、彼らの言葉は、私の言葉ではないから。
なんて、自分に言い聞かせてもいます。
いろはさんと一緒に回復していることが、うれしいです。
ありがとうございました。
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■3207
/ inTopicNo.6)
Re[1]: 中間報告
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□投稿者/ いつか
-(2005/04/08(Fri) 18:43:45)
はなぽんさん、はじめまして。
親との対決。とても勉強になり、また同じような考えに出会えて勇気がでます。
家の親も、知り合いなどを馬鹿にして良く盛り上がっていて嫌でした。
病気になった親戚を笑っていた。
はなぽんさんのここまでこられた道のりは、とても大変なことだったのでしょう。
私の場合は、まだまだ対決ではなく、ケンカだな、なんて思いました。
親から許された範囲でしか、物を考えられなかった。
ずっしりときました。私もそうでした。
そこから、何が自分に必要か、考えていくこと。
いろいろなことに気がついて、変えていく事。
はなぽんさんの書いてある事で、そう気がつきました。
そうして親と別れていく事が、本当の意味で親との対決なのでは?
などと考えています。
私は、初めてカウンセラーさんに会って何も話せない自分とであったばかりです。
はなぽんさんのように、成長できる日を夢見てゆっくり生きたいと思います。
まとまらなくて、すみません。
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■3225
/ inTopicNo.7)
Re[2]: 中間報告
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□投稿者/ はなぽん
-(2005/04/09(Sat) 19:53:50)
> 私の場合は、まだまだ対決ではなく、ケンカだな、なんて思いました。
私も、けんかから始まりました。「けんかをしたら、もうお終いだ」という思い込みがあったので、(母の考え方です)決死の覚悟でけんかしました。親が怖かったですし。
でも、けんかと仲直りを繰り返すほうが、健全なような気がします。
けんかもできない仲なんて。
けんかは大事ですよね。
> 親から許された範囲でしか、物を考えられなかった。
> ずっしりときました。私もそうでした。
> そこから、何が自分に必要か、考えていくこと。
> いろいろなことに気がついて、変えていく事。
> はなぽんさんの書いてある事で、そう気がつきました。
>
> そうして親と別れていく事が、本当の意味で親との対決なのでは?
> などと考えています。
はい。親と別れること。それが、反抗期の最終局面なのではないかと思います。
別れた上で、新しく付き合い方を模索していくものなのかなぁと感じています。
私は亭主をカウンセラーにしてしまいましたが、自分の気持ちの根っこの部分を言葉で表現するのは大変でした。
すぐに、表面的なことにとらわれて、強がりの言葉や、自分を正当化する言葉を使ってしまい、「本当はこう思っているんだよ」っていうところをまっすぐに表現できませんでした。
道のりは長いですが、自分に正直であれば、本当につらいのは一年ぐらいです。
一緒にがんばりましょう。
ありがとうございました。
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