1.感じるままを感じてもいい。感情には正しいとか間違いということはない。感情はただあるだけである。誰も人がどう感じるべきかを教えることはできない。感情について話すことは、良いことであり必要なことだ。 2.欲しいものを欲しがってもいい。欲さなければならないことや、望んではならないことなどない。自分の活力に触れたならば、大きく成長したくなる。 3.見え、聞こえることを見聞きしていい。見聞きしたものはなんでも、自分が実際に見聞きしたとおりのものなのだ。 4.いっぱい楽しんだり、遊ぶのはいいことだし、また、そうする必要がある。 5.真実を語ることは重要なことである。歪められた考え(“すべてか無か”思考、破滅化、過度の一般化、読心術、etc.)をしりぞけて現実をあるがままに見ることは、人生の苦痛をやわらげる。 6.ときには限界を知って、満足を先のばしにすることは大切である。これもまた人生の苦痛をやわらげる。 7.バランスのとれた責任感を発達させることは重要である。それは自分の行動の結果を受けとめることと、他人の行為の結果を引き受けないことを意味する。 8.失敗してもいい。失敗は教師である。失敗は学ぶことを手助けしてくれる。 9.自分自身と同じように、他者の感情、要求、望みもまた、尊敬され尊重されるべきである。 10.問題があってもいい。それは解決される必要がある。葛藤があってもいい。それは解決を必要としている。
ジョン・ブラッドショー 『インナーチャイルド』(NHK出版)第10章をもとに作成
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/ inTopicNo.21)
思いやりの表現
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□投稿者/ クラゲ
-(2004/11/16(Tue) 00:35:04)
こんにちは。
あのー、どなたか思い当たることがあったらお聞かせいただきたいのですが…。
たとえば友人とやりとりをするとき、何かに関して「ありがとう」とか「思いやりを感じました」とか、
あるいは「ちょっと落ち込み気味」なんて感情をちらっと表したとします。
で、それに関して相手は何にも反応をしめさない。
それで日常の具体的なことなんかをつらつら話す。
相手との関係とか状況その他でいろいろ変わってはくるのでしょうが、私はあまりに頻繁に、複数の人から、
どうして感情の部分を無視されるのかがわからないのです。
その理由について、想像はいくつかしてきました。
照れるとか?
感情を出してしまうと自分がくずれるかもしれないから?
感情的なことがきらい?
共感がない?
この場合の相手の立場の気持ちがわかる気がする、という方がいらっしゃれば、見解を聞かせていただけないでしょうか?
人間関係って相対的なものなので自分の感情が不安定だったときはしょうがなかったと思えるのですが、
以前のようなやりとりをようやっと再開した今、また不安定になる前に抱いた疑問にもどってしまったのです。
落胆するというのは私が相手に多くを望みすぎているという証拠。
その部分の調整を試みようと思う反面、また心を閉じようとしている自分が何割かいます。
やさしく穏やかな気持ちでいる自分でいると、いつも踏みにじられるようにさえ思えて。
…これは被害者意識だとは思うのですが、正直なところです。
私は友人を選びまちがえているのでしょうか?
期待はもたないようにしているつもりなんですが、どうしてこうも思いやりをことばにできないのか本当にわかりません。
よろしくお願いします。
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