Top >>Read Me >>回復の方法論(3)-1
3) 過去のメッセージを検証・解毒する - その1・「家族愛神話」の外へ出る勇気 イノセンスの承認――「自分のせいではなかったのだ」と知ること・承認されること
AC(アダルトチルドレン)とは「子どもの頃の親との関係に起因する生きづらさの問題を抱えている、という自覚にいたった人」と定義されますが、このことがとくに、従来どおりの「親孝行」や「あたたかい家族」といった価値観のもとで「今ある社会のそれなりの居場所におさまり、“大人”として期待されている通りにふるまう」という形での「自立」をもっぱらよしとする人々の、反発の的になったものでした。 いわく、アダルトチルドレンなんて騒ぐ奴らはただ、何でもかんでも親のせいにして「自分で努力して人生を切り開く」ことを怠け、「今の自分」への責任から目をそむけているダメ人間だ、と。 しかしACでなくても、自分では自分自身や現実を変える努力を何もせずに、もっぱら過去や他人や変えようもない環境に「今のこんなはずじゃない自分」を正当化してくれる理由を求め、一種の「被害者」ポジションにあぐらをかいている人というのはよくいます。「あんたたち子どもさえいなければ、私はとっくに離婚してマシな人生送っている」「女はいいよな。遠慮も責任感もなく仕事を休めて」「私はどうせ年寄りだからね」etc.…。 誤解されやすいのですが、そういった「何もしないで被害者ポジションにあぐらをかいていることの正当化」と、AC概念でいう「親のせいにすること」とは、微妙に、そして決定的に違います。 それは、ACの生きづらさの問題というのがまず、機能不全の家族の中で自分というものを否定されてきたこと(あからさまに虐待されたり「お前なんか産まなきゃよかった」と言われたり、また明白なメッセージでなくとも、あるがままの自分ではない親の期待どおりの「いい子」でいるときだけしか自分の存在が許されない、といった暗黙の否定などさまざまです)、そしてその結果として、「人の顔色をうかがう」「権威者に媚びながら恨みを溜め込んでている」といったような人間関係の持ち方が身についてしまったことである、ということと大いに関連があります。 俗に“ACの特徴”とよく言われる、そうしたいわゆる「子どもらしくないひねこび方」「卑屈さ」「オドオドした感じ」「人間関係の下手さ」などは、従来、「性格の問題」としてもっぱらお説教で片付けられてきました。昔からよくある「好感を持たれる人になるために」といったたぐいの人間関係のハウツーものを見ても、そういった人間関係の持ち方は「悪い性格・ソンな性格」のためである、だから「悪い性格を直せばいい」、といった言い方が主流でした。 それはまた、「親の側」にとってみれば、じつに好都合な論理でもありました。 「私たちがこんなにも苦労して、必死に尽くしてお前を育ててきたのに、なんでこんな子に育ってしまったんだ」→「それはお前の性格のせいだ」、お前がネクラで卑屈で依怙地な性格だからだ、嘘つきで小ずるい性格だからだ、要するにお前の存在・性質自体が悪い、劣った、いびつなものであるせいだ、私たち親の側にまったく落ち度はない、という論理です。極言すればそういうことですが、自分自身が健全な自己愛に乏しく自己正当化の激しい機能不全の親、また子どもに対して明らかな虐待をはたらいている親ほど、このような論理に寄りかかります。「親の私にまったく落ち度はない」「これは“しつけ”なんだ」「性的虐待じゃなくて“スキンシップ”なんだ、娘を性的対象として見てはいない」etc.…。 そしてこの論理は子どもの側にとっては、つきつめていくと、「お前が悪いのはお前が悪いせい、お前が落ちこぼれで暗くいじけているのはお前が落ちこぼれで暗くいじけているせいなんだ」、という、どこにも逃げ場のない循環論法、一方的な「こんな悪い、劣った私に生まれついてしまった責任」として、子ども一人にのしかかってくる仕組みになっています。はなはだしきは、性的虐待のような事実があっても、「親に対してそんな嘘を言い立てるなんて、恩知らずな、頭のおかしい娘だ」などと一方的に“気狂い”=異常者・無能力者扱いされることによって、被害者である子ども一人が人格を否定されたまま、事実が「すべては病人のたわごと」として闇に葬られたりしています。 「自分の性質・性格が悪いせいだ」→「その悪い性質・性格を改善すればいい」、というのは一見したところ筋が通った理屈に見えますが、このような親の自己正当化が背後にあるとき、それはどこまでも出口のない「自分いじめ」の形をとらざるを得ません。どんなに「性格を改善し」ようと、背後にある親の自己正当化が消えてなくなるわけではないからです。 (昭和61年“いじめ自殺”事件の)鹿川君の作文は、「これまでは怠けていた」、「わるかった」、「このままじゃだめです」といった反省がやたらと目につき、これからは「態度を大いに改め」、「性格を改善して」という抱負でしめくくられていることが多いのです。だが、そのような反省や抱負が現実に実を結んだことがあるとは思えません。自虐の一形式なのです。その「私が悪いのは私が悪いせいなんだ」に対して、「それは本当はあなたのせいではないんじゃないか? そのような、どこにも逃げ場がない仕組みになっている“責任”を背負って自分を責める必要はないのではないか」という見方を示すのがAC概念なのだと思います。 「親子関係」もまた「人間関係」ですが、考えてみれば、「人間関係」などというものは、そこに2人以上の人間がいてはじめて成立するものです。「一個人の性格」だけで人間関係が決まったりはしないし、そもそも“生まれつきの性格”などというものがあるのか、あったとしてもそれだけを一生引きずって生きていかねばならないのか、ということも、きわめてあやしげなものです。 誰だって、相手に親切にされればうれしくなります。自分の話を聞いてもらえたり、同じ話題や考えで盛り上がることができたときには、明るくなるものです。逆に、相手にわけもなく拒絶されたり、中傷されたり、あるいは暴力を受けたりすれば落ち込むし、その相手ばかりか人間一般に対しても明るく接しようという気分がしばらくしおれてしまう。それは健康な人間なら当然の反応です。 もし虐待され辱められつづけるような環境の中で、それこそまるで“できる営業マン”の見本みたいな“明るく快活”な態度とスマイルで24時間過ごしていられるような人がいるとすれば、それはよほどの例外的な強い心をもった聖人か、そうでなければ周囲の環境に対して永遠に心を閉ざし狂気の世界へいってしまった人であると思います。彼の快活さも笑顔も、きっと誰に向けられたものでもなく、現実世界の何ものとも文脈のつながりをもたない、狂人の笑顔でしかないはずです。 あるいはそれはアウシュビッツの強制収容所でのように、「快活に笑って健康に見えなければ、ガス室への“選別”を受けてしまう」からそうしているのかもしれません。飢えて骸骨のような頬へガラス片で指を切りつけた血で頬紅を描き、看守の前で死にものぐるいで快活そうに笑って跳ね回ってみせる囚人のように――それこそはヒーロー(優等生)型やクラン(道化師)型のACの姿に他ならないでしょう――その笑顔をほんとうにあるがままよく見るなら、その奥には、ぞっとするような声のない悲鳴が聞こえるはずです。 不愉快な気分でいる人やいつも自己正当化を押しつけてくる人、暴力的な人の前で萎縮するのは、人間として当り前の健康な反応です。それは自分が子どもで、大人の前であればなおさらのことです。 私たちが「ネクラ」で「依怙地」で「頭がおかしい」、「弱い、ダメな人間」である“証拠”としてあげつらわれてきたことの多くは、自分の心を守って生き延びるための健康な反応でした。 あるいは――ソクラテスは「人間は悪いとわかっていながら悪をなす動物だ」、とも言いましたが、たとえば引きこもったり、暴力などで人間関係を自分から壊したり、リストカットの傷や過食症の吐きダコを作ったり、シンナーや薬物に溺れたりすることが「自分を害すること、可能性を狭めてしまうこと」=「悪いこと」だとは、ふつうの知能をもった人間なら幼児にだって分かります。問題を抱えた当事者にだって分かっています。「悪い、バカなことだと分かっていて」、そうまでしてその行動から抜けられないとき、その背後にあるものは、まさに「悪い、バカなことで自分を傷つけようという意図」、親の「すべて子どものお前が悪い」という脚本にしたがっての“「自分いじめ」の衝動”ではないでしょうか? 私たちは「頭のおかしい、劣った、悪い種」などでは決してなかったのです。むしろ、必死で今日まで生き延びてきたサバイバー(生存者)であった。なぜなら、「親と子」の関係では権力をもっているのは親の側であり、選択肢がないのはかならず子どもの側なのだから。 そうであるなら、「お前が悪い」という親の言うとおりに「態度を改め」「性格を改善し」ようともけっして脱出できないしくみになっている「自分いじめ」をそろそろやめようではないか。それは対等な合意のもとで契約したわけでもない、いわれのない負債で骨がらみにされているようなものなのだから。判断能力のないうちに詐欺まがいに押しつけられた負債に対して、「私にはそんなものを払う義務はない」とハッキリ宣言するのは、少しも社会正義に反してはいません。 「それは、親たちよ、あなたたちのせい、すなわち、あなたたちの問題だ」――あなたたち自身の欲求不満、偽善、愚かさ、自己正当化、嗜癖、虐待、etc.…そしてその結果として子どもであった私たちが「問題を抱えた子ども」として生きてきたこと。だから、「親の私に落ち度はない、すべて子どもの“悪い性格”のせい」というあなたたちの脚本にしたがって自分いじめをする義務は私にはない。――「…だから私はもはや、あなたたちの問題を引き受けない」、そう宣言するのが、AC概念なのだと思います。 「親の加害性を認識すること」と「親へのおねだりに執着すること」は、ぜんぜん別のことです。 「それは、親たちよ、あなたたちのせいだ。…だからああしてちょうだい、こうしてちょうだい、ワタシをおんぶして」 なのではなく、 「それは、親たちよ、あなたたちのせいだ。…だから私は、あなたたちの問題を背負い込むこと、この終わりのない不幸のドラマ、自分いじめの家族ドラマの役を、降りさせていただきます」 という最初の宣言をすること、それがACの自覚なのだと思います。 そして一見逆説的に見えますが、「親のせいにする」こと――「親の論理」を親に投げ返すことによってはじめて、私たちは本当の意味で、「自分自身の自由と責任において自分を変える」ということが、可能になるのではないかと思うのです。 「ジリツ」「ジコセキニン」なんて、実はそれほど自明なことではない――「自分の人生に責任を持つ」とは、元々自分に責任などないところに「あえて」責任を引き受ける、というひとつの決断である
ここで、ふだん私たちがなんの気なしに口にしている「責任」とは何なのか、ということを理解するために、2001年の大阪池田市・児童殺傷事件によせて社会学者・大澤真幸氏が朝日新聞夕刊に寄稿した『試練にさらされる「責任」概念』という論評はたいへん示唆に富んでいるのではないかと思います。全文は雑誌『批評空間』のウェブサイト『批評空間・アーカイヴ』にありますので、興味のある方はぜひ読んでみてください。 まず理解すべきことは、責任概念は、ある根本的な「不可能性」、ある深い逆説をこそ基礎にして機能しているということだ。たとえば、現在の日本人に、何らかの意味での戦争責任があるとしよう。このような立場を支持することは、大半の日本人にとって、自らに原因がないことの責任を引き受けることを意味するだろう。無論、戦争責任については、意見も分かれよう。だが、さらに進んで、次のような場合はどうか。ある犯罪者の犯罪行為の起源に、彼(女)が幼児期に受けた虐待があると証明されてしまったと仮定してみるのだ。もし原因と見なせない者に責任がないとすれば、こうしたケースでは、責任が失われてしまう。だが、それでも、われわれは、この犯罪者に行為の責任を帰すべきではないか。
そうであるとすれば、責任とは、自らが原因ではありえない出来事に関して(も)、さながら自らが原因であったかのように自己帰属させることを含意しているはずである。つまり、あえて極論すれば、(原因という意味での)責任を担えないことに関して、責任を担うことができなければ、責任概念は一般的に失われてしまうのである。 ――大澤真幸 『試練にさらされる「責任」概念』 (朝日新聞 2001年6月23日夕刊)より 記事で取り上げられた児童殺傷事件のような凶悪事件の加害者に、過去に親から虐待されていたトラウマがあり、それが犯罪行為の起源だったと分かったら…? 「トラウマがなんだ、甘えるな!親のせいにするな!自分の人生に責任を持て!」とお説教するのは簡単です。しかし、その「責任」とは、本当に加害者一人だけの責任だと言い切れるのでしょうか。「責任を持つ」とは、やってしまった過失に対して後始末をする、ということでもありますが、加害者一人が刑務所に入るなり賠償金を払うなりするだけで事件のすべての「責任」は本当に果たされて帳消しになるのか? 加害者をこんなふうに育てた虐待親の責任は? そしてその虐待を気づかずに放置していた隣近所や社会の責任は? …「加害者の責任」はいいけれど、なぜ加害者が罰せられるだけで、それら周囲の責任もまた「不問」になったみたいな顔ができるのか? またたとえば戦後に生まれた私たちが「戦争責任」という言葉をつきつけられたら…?優等生的な答えとして「はい、日本人として戦争責任があると思います」と言うことは簡単ですが、本音では「そんな、その頃まだオレ生まれてなかったじゃん!何でオレに?どーしろっての?」となるのが当然だと思います。だって、こういう戦争の加害行為があったのは、自分が生まれるよりはるか昔に戦争の開戦を決断した日本の政治家がいたわけで、その政治家だって100パーセント自分の悪意と愚かさから戦争への道を決断したわけではなく、金融恐慌なり国際社会での孤立なり、「戦争しかない」と思い込まざるをえないような状況があったわけで、そういう状況をつくり出した人間の責任というものがこれまたどこかにあって…と。 つまり、世の中の誰かが責任をとらなければならないとされる物事はみんな、その直接の起源をさぐっていけば、無限に遠い昔や遠い彼方まで遡及していかざるをえない。人間はみな、まったく自分に責任もないし頼んだわけでもない状態で、さまざまな過去からの不条理のただ中へある日突然放り出されるように、この世に生まれてくるわけです。生まれた時点で、私たちにはなんの罪も責任もなかったのです。 そしてその、もともと責任など無かったところにあえて、「私に責任はないけれど、よし、私はあえて、この責任を自分のものであるかのように引き受けようではないか」という決断をすること――そのような逆説を通ってはじめて本当に「責任」概念が生まれる、と大澤氏は述べています。どこかで私たちそれぞれ、「よし、あえてこれを私の責任として引き受けようではないか」という決断をしないかぎり、人間にとってこの世はたんなる不条理のカオスでしかない。 まず最初に、「自分にはなんの罪も責任もなかった」ということを、心底認められなければならない。それはどう考えても、本当にそうなのです。 そして、「私に責任はないけれど、あえて」という、一種の虚構を引き受けることから、私たちが理解している「責任」は始まります。 「納得して、あえて選び取る」ことと、「納得いかないままに押しつけられる」こととでは、大きく違います。 家族がなくたって生きていける!――「神話」の奴隷であることをやめる
ACとは親の物理的・心理的暴力などによるストレスの多い生育環境に過剰適応して生きてきて、その結果成人してからも、ストレスフルな家族の外面を保たせるための暗黙のルールに縛られて、生きづらさを感じている人々である、と一般に定義されます。ACの出身家族では、それぞれが嗜癖の問題や、人に仕える以外の生き方を知らない共依存的な生き方の問題などを抱えていて、互いがパワーゲームや他人の境界線への侵入によって互いの問題に油を注いでいるといった、まるで問題の歯車がかみ合わさって誰もそこから降りられなくしているような力関係がみられます。 このような機能不全家族全員を縛っている「暗黙のルール」といったものがたくさんありますが、そのルールの“原則”を簡潔に言うと、「幸せになってはいけない。家族の不幸から一人だけ“足抜け”するのは許さない」ということに尽きるでしょう。家族全員が「ワタシはアナタ、アナタはワタシ」というように個人の境界線(バウンダリー)があいまいな団子状態で、互いの不幸を互いの責任にし合って(「誰が食わせてやってると思っているんだ」「あんたたち子供がいなけりゃ、とっくに離婚してるけど」「一生親にとり憑いて責任を償わせてやる」…etc.)、互いに不幸な家族の「人柱」となっていることでかろうじて「家族の一体感」を保っている状態です。それはしばしば就職・結婚などで家を離れてもリモートコントロールのように私たちACを縛りつづける「終わりのない家族ドラマの脚本」であり、「不幸のプログラム」です。 だとしたら、まず「そんな家族、続けている意味はあるの?」と疑ってみることだと思います。 誰もが互いのせいで不幸に陥っていて、それなのに「家族だから」というだけで誰もそこから抜け出せない。そんな家族、続けている意味があるのでしょうか。 続けている理由は何? 「家族だから」。 …家族だとなんで足抜けしちゃいけないの? 家族って何? 「血縁と愛情で結ばれた集団」。 …愛情って何? 「相手の幸福を願い、貢献すること」。 …で、あなたは今、幸福になっている? ……??? ひょっとしたら、どうして「家族」抜きで生きてちゃいけないの?と聞かれれば、「家族は神聖だから」、なんで神聖なの?「うるさい!神聖だから神聖なんだ!」…という無限ループに陥るかもしれません。ならば、その神聖さの依って来たるところは何なのでしょうか? その「家族がある」という神聖さにあずからないかぎり、人間は幸せになれないのでしょうか? 出稼ぎ労働や不況の果てにホームレスになったり、孤児として生まれついたりした人々は「家族がない」というだけで幸せにはなれないのでしょうか? 「そんなかわいそうな人たちも、きっと家族を持てば…」じゃあ家族を持つまでその人たちは不幸でいなさい、ということでしょうか? その人たちが不幸でいなければならないような、何か悪いことをしたのでしょうか? どうでしょう。「家族は神聖だから神聖なんだ」という思考法は思考停止以外の何物でもないことがわかると思います。本当に神聖で力のあるものなら、どうして「口ごたえするな、逆らうな、考えるな」というような批判封じ込め・思考停止のベールによって自分自身の権威を守ろうとする必要があるのでしょうか? こう言ったからといって何も今すぐに家族制度を全部ブッつぶせ!というわけでもないし、「家族」がないと幸せになれないという「家族神話」を信じてきた私たちがまったく愚かで間違っていた、というのでもありません。それは言ってみれば、「おとぎ話」であった――古代人や子どもが、太陽と月が空にかかる理由、洪水や雷が起こる理由、人が死ぬ理由を説明するために、持っているほんのわずかな知恵で世界を解釈するために、編み出した「フィクション」であった――と思うのです。人間はまったく秩序も法則もない世界に耐えられるものではありません。つたない、間違った説明であっても、ともかく世界を説明し、秩序づけるものを求めるものです。それは「村人をいけにえとして捧げることによって洪水を止めることができる」というものであったかもしれないし、私たちACにとっては「ともかくもこの家族が崩壊することなく、変わることなく不幸のドラマを演じつづけていれば、もっと恐ろしい世界の破滅に直面しなくてすむ」ということであったかもしれません。 ひょっとしたら、私たちはいまだなお、「完璧ないい子」「学年で1番の○○くん」でいることによってだけ家族の崩壊が防げると思っているのかもしれません。シンナーや覚せい剤や、あるいは摂食障害、鬱や引きこもりや心身症状で「いつまでもジリツできない、まともに世の中に自分の居場所を作れない子ども」を演じていることによってだけ、そんな無力な子どもにしか自尊心のなぐさめを見いだせない孤独な母親(あるいは父親)が自分たちの真の問題に直面してパニック状態になってしまうことをようやく防いでいるのかもしれません。小さい頃にそれしか選択肢がなく信じ込まされた「家族」のおとぎ話を守るために、自分自身の人生と幸福という、高価に過ぎる「いけにえ」を支払いつづけているのかもしれません。 しかし、いつまでも子ども時代に教え込まれたおとぎ話・神話だけを唯一の現実として信じていることは、偽善や嘘の上塗りを生み出します。まったくその本質や正当性を検証し考えることをゆるさず、ただ「バチが当たるぞ、たたりがあるぞ、きっと不幸になるぞ」という脅しでもってこちらをつなぎ止めようとするものに隷属してしまうことは、恐怖と無力感を生み出し、その恐怖と無力感からのがれるための新たな隷属、そしてまた新たな恐怖と無力感…という無限ループの罠にはまってしまうことになります。 正体のよく分からない「神の怒り」「たたり」「今よりもっと恐ろしい破滅」への恐怖にしばられたまま思考停止しているというのは何も宗教に限らず、現代でさえ人間社会にしばしば見受けられることではないかと思います。しかし「たたり」や「バチ」が影響を及ぼすのは、その神話だけが現実と信じ恐れおののいている人間の上だけで、神話の一歩外側に出て、恐怖にとらわれず冷静に物事の本質を問う人間には案外、その神話のたたりの「魔力」はもはや何の効き目もおよぼさなかったりするものです。 昔、唐の丹霞(たんか)禅師が都のある寺に泊まったときのことである。その夜はひどく寒かったので、丹霞は祭壇から木の仏像を下ろしてきて、火にくべてしまった。寺の住職はこれを見て怒りのあまり叫んだ。もしこの「家族こそは神聖なり、家族の外に救いなし」という「家族教」「親教」の“神の怒り”を恐れているなら、「その怒りに触れて“大変なことになる”って、どんな“大変なことになる”の?」と具体的にリストアップしてみるといいと思います。しばしば具体的な恐ろしいことなんか何もなかったりするものです。ひょっとしたら、あるかもしれない。たとえば今の虐待的な家族を捨てるとしたら?「家族と縁を切って、孤独になること」…では、「孤独になる」という問題を解決するための、他の解決策は?「友達に助けを求めること」「同じような人の自助グループにつながること」「いつでも相談できる良いカウンセラーを持つこと」etc.…たいてい、「他の解決策は?」と探してみれば、見つかるものです。 互いを不幸の中に縛りあっている形ばかりの「家族」を捨ててしまったって、何も恐ろしいことなんか起こらない。管理人はそう思います。それでもし仮に何かその人が不幸になったとしても、何か別の解決策がたいてい見つかるものだし、またその人に対し「不幸だ、不幸だ、きっと彼(彼女)には家族がないからなんだ!」と理由づけをわめきちらして何かをしたような気になったまま、その人に何も助けの手をさしのべようとしない世の中の方がよほど病んでいる、そう思います。 まず、私たちがすべきことは、自分自身を愛し、なんぴとにも自分を虐待することを許さない勇気をもつことだと思います。 それからでないと、ひとりの人間としてのどんな真の愛情も家族愛も、けっして私たちの中から生まれてくることはないのではないでしょうか。 「家族」にとらわれず、自分自身を守る勇気を
「そんな家族、続けてたって意味ないじゃん!」…しかし、「でも、私がいなくなったらアル中のあの人はどうなるの?」「引きこもりのあの子はどうなるの」「摂食障害の娘は」「不愉快な性格の上に年老いて誰にも相手にされなくなってしまった孤独な母は」…etc.。親や家族への怒りと同時に、「自分の力で親や家族を変えられるかも…」というかすかな望みや愛着も捨て切れない、というのはよくあることだと思います。自分の力で自分以外の誰かを思いどおりに変えられる、そして自分と他人の境界線もなく幸福に融合していられる…というおぼろげな、そうして根の深い願望です。 それは人間としてこの世に生まれてきた私たちにとっては、ある意味、逃れられない宿命のようなものだと思います。旧約聖書の楽園を逐われるアダムとイブの話などはそれを象徴的に表していますが、「この世に自分というものがいる」という意識すらなく、自分と世界とがなんの違和感も境界線もなく融け合っていた幸福な記憶を持っているものなのだと思います。その世界の中に戻りたい、というかなわぬ思いを、人間は死ぬまで自分の人生とともに運んでゆくのかもしれません。それはひょっとしたら、「意志の力で完全に克服」することなどできるものではない「夢」なのかもしれません。 しかし、どこかで思い切らなくては、どこかで現実と向き合い、踏ん切りをつけなくては、「夢」はただ、ますますひどくなる醜悪な現実から目をそむけるための阿片にすぎなくなってゆく、というのも事実です。 いつか今の家族が一心同体の幸せな家族に変わる日が訪れるはず、いつか親が自分のためのいい親に変わってくれるはず、いつかあの人が優しくなってくれるはず…その夢にしがみついてきた今までの人生の「損益計算」と、冷静に向き合ってみる必要があるのではないでしょうか。 いつか家族がマトモになってくれるはずと信じて、何百万円ギャンブルの借金の肩代わりをしてきたか。暴力をふるう夫・恋人がいつか優しくなってくれるはずと信じて、べつの楽しい人生もあったかもしれない何年間を、恐怖と屈辱の生活に耐えてきたか。「親が悪い」と言いつつもひそかに親を「よい親」に変えることの魅力から離れられず、一体何年間を引きこもり、恨みと罪悪感・自虐の環の中に自分を閉じ込めてきたか。その間に失った健康(ストレスからくる潰瘍、暴力によるケガ、外に出られないために悪化した虫歯、etc.…)、金銭的な損失(家族の尻ぬぐいのためのお金、働けない生活の経済的損失、現実を忘れるために嗜癖についやしたお金、etc.…)、社会的スキルの損失(仕事のキャリア、外に出て色々な人と交流する機会、etc.…)、そして、「いつか」ではない「今・ここ」を楽しむことができたはずの人生の時間…。 「家族を救いたい」と思うことが悪いと言っているのではありません。しかしたとえば、消防士にとって「火災現場の被害者を救うこと」は「被害者と一緒に炎の中で心中すること」ではありません。被害者の苦しみを思うどんなうるわしい心情からであろうと、もし消防士がそのような行動をとったとすれば、プロ失格であり、単なる「救助失敗」ということです。救助のプロは(あるいは通りすがりの素人であろうとも、おおよそ救助に成功しようと思うなら)、まず自分の身の安全を確保してから救助作業に入るものです。 「家族を救うこと=病んだ家族に人身御供のように巻き添えになること」ではないはずです。 「自分の世界を持つこと」「“社会”と出会うこと」の効用――“まぼろしの鎖につながれたサーカスの象”を解き放つための下準備
ACの自覚を持って、いま現在なお生きづらさや嗜癖・精神的症状・引きこもりなどの問題のただ中にいる、という人にとっては、自分の機能不全家族というのが圧倒的な力で自分を追いかけてくる“牢獄”のように感じられることと思います。それは家にいる/家を離れている、あるいは金銭的に自活している/親に頼っている、という外面的な“自立/依存”の区別とは関係なく、「心理的に親のコントロール下にある」、という意味においてです。 その苦しみはよく、「サーカスの象」のたとえ話で表現されます。 象というのはむろん、サーカスのテントを引き倒すことができるくらいに大きくて力の強い動物なわけですが、この象をどうやって逃げも暴れもしないようにおとなしく飼いならしておくのか。 それにはまず、象を赤ちゃんの頃に飼い始めます。大人の野生の象だと、もう暴れることもテントを引き倒すことも知っているので危険きわまりない。暴れるだけの力も身体の大きさも、「“暴れる”という選択肢があること」も知らない赤ちゃんの象を、まず重い鎖につないで飼い始めます。象があちこち動き回ろうとすると、鎖につながれて動けない。しばらく繰り返すうちに、赤ちゃん象は「自分はここから動けない」ことを学習します。 そしてそのことを学習しきってしまったら、あとは重い鎖は要らないのです。重い鎖を軽い鎖に変え、縄に変え、布切れに変え、細いひもに変え…ついに象の足を縛るものが何もなくなってしまっても、「自分はここから動けない。自分の足には鎖がついていて、それを引きちぎって逃げる力は自分にはない」という思い込みがガッチリと出来上がってしまった象は、サーカスのテントを引き倒せるほどの巨大な体をもつ大人になっても、もう逃げようとしないのです。あるいは地震や災害やサーカス団員の不注意で檻の扉が開き、外へフラフラとさまよい出るチャンスがあっても、途方に暮れてサーカスのテントへと戻ってくるかもしれません。彼にとっては、生まれてこのかたサーカスのテントだけが「世界すべて」であり、その外にもっと広い世界が広がっていて、そこで生きていけないこともないんだ、という「知識」がないからです。 悲しい話ですが、そういった「学習」というのは恐ろしいものです。ACの場合でも、無意識にしみついた「機能不全家庭で学習してしまった思い込み」が自覚されないままだと、無理矢理がむしゃらに外面的な“自立”を果たそうとしても、その“自立”が成功しそうになったとたん理由のわからない不安感に襲われて、スタートラインに逆戻りしてしまう、といったことを繰り返したりします(管理人にも憶えがあります。同じ職場でのアルバイト生活が1年くらいして自活することがうまくいきかけたとたん、自分でも理由のわからない無断欠勤を繰り返すようになったり、あるいは自分のキャリアや将来を開いてくれるはずの資格試験などに、信じがたい、ほとんどワザととしか思えないような“不注意”で願書を出し忘れたり、たかだか1分遅刻しそうになって棄権したり、というようなことです)。あるいは外面的な自立に成功しても、いつのまにかその生活の内実が「飛び出してきたはずの機能不全家庭のそっくりコピー」になっていたりします。物理的には親から離れても、心理的には機能不全家庭へ「舞い戻って」しまっているのです。 これを打ち破るには、やはり「再学習」が必要です。人生には機能不全家庭のこのセットメニューしかない、という無意識に刷り込まれた思い込みからの「脱洗脳」です。学習されて身についたことなら、再学習でくつがえすことができます。 基本的な戦略としては「家族の外に、家族の知らない、あるいは家族の意のままにならない、自分の世界を持つこと」です。 いちばん簡単ですぐ実行できる方法は、「秘密を持つ」こと、親に何か隠しごとをすることです。社会学者・上野千鶴子氏の『サヨナラ、学校化社会』という本があるのですが、大学へ来るまでずっとお母さんに支配されつづけて自分というものがない、と悩む女子学生に対し、上野氏は「あなた、まず何でもいいから、あなたのお母さんに対して隠しごとをしてごらんなさい。秘密を持ちなさい」とアドバイスしています。読書でも趣味でも、新しい勉強でも、何でもいいのです。親の知らない世界を持つことは、「他人の意のままに左右されたりしない、自分の意思をもった一人の人間」という自己イメージ(自分で自分自身に対して抱いているイメージ)を強めてくれます。 そしてさらにいいのは、家族の外の「社会」とかかわり合うことだと思います。 とは言っても、ここで言う「社会」とは、多くの人が連想する学校や企業・職場だけのことではありません。むしろ、機能不全家庭で苦しんできたACに対し「虐待だなんて、大げさに騒ぎたてて甘えてるだけなんじゃないの?」「まぁまぁ、親御さんの気持ちも察してやりなさいよ」と、“家族愛神話”を押しつけてきたり、「もっとさぁ、オトナになろうよ」という意味不明なお説教(翻訳すれば、「オトナであること」=「周囲の大多数が少しでも反感を持つような自己主張や面倒くさい波風を立てずにおとなしくしていること」のようですが)でもってまったく無関心、「みんなと同じでいること」か、そうでなければ「飲ミュニケーション」のような自己主張も意味もないバカ騒ぎでしか一体感を保てないような企業社会は(わが国のすべての企業や職場がそうだ、とは言いませんが)果たして「大人の社会」と呼べるのだろうか、と思うことがあります。そこには「異なった個人を均質な型にはめ込む」という努力だけは滅多やたらにあっても、「世の中にはいろんな境遇の人間がいることを認める」「自分と異質なものの存在を認める」「そして面倒くさがらず異質なものを理解しようとする」「理解できないこと、自分の領分ではないことについては、手放して距離を取る」という、ほんとうの大人同士の人間関係に必要な努力が欠けているからです。 逆にそんな世間で孤立感を覚えた人たちの一部は、その孤独からの“癒し”を求めて、「あるがままのあなたを100パーセント受け入れて、抱っこして、癒してあげよう」というようなことを謳う団体や個人になだれを打っていきます。それは怪しげな宗教団体や自己啓発セミナーの類に限らず、医者やセラピストであったり、ワークショップであったり、コミューンのような場所であったり、友人や恋人といった個人であったりと色々なわけですが、多くのケースでそのような人間関係は幻滅やトラウマ・症状の悪化に行き着いているように思います。それは、私たちがすでに判断能力のある大人であり、誰も私たちの“本当はこうあるはずだった、やさしいお父さん・お母さん”の代わりにはなりえない、という現実があるからです。 あるいは、たといDNAのつながった親であろうとも、元々「あるがままの私を100パーセント受け入れてくれる他人など、世界のどこにもいない」のが真実なのだ、と言った方がいいかもしれません。 よく言う「あるがままの自分」というのは、ときに失敗したり、不運に見舞われたり、人と比べられてヘコんだりすることがあっても、「自分はかけがえのない、大切な人間なのだ」と心の奥底で安定した信念を持ちつづけることができるという、自分自身の「内なる感覚」のことだと思います。それは何も“親の愛”によってしか与えられないものでもないし、自分で育てていくことが十分可能だと思います。 むしろ「誰か100パーセント私のすべてを受け入れて、抱っこして。そうしたらたぶん自分で自分を愛せるようになるから」と、決して得られない幻想を自分の外側にむなしく追い求めることによって、私たちはいつまでも底に穴のあいた茶碗をかかえて他人の愛や注目や抱っこを物乞いする“愛情乞食”、他人のお情けで生きる被支配者の位置に自分を貶めてしまうでしょう。 そしてまたそのような人間関係は、「あなたを抱っこしてすべてを受け入れてあげよう」とオファーする“保護者役”の側の人間にとっても、すべてを愛と善意のもとにやってあげているのだ、という“免罪符”を手にすることによって、ナルシスティックな支配欲に溺れて“被保護者”側の人間を支配し引きずり回してしまいやすい関係でもあります。食べ吐きしなかったら、リストカットしなかったら“ごほうび”に抱っこしてあげるよ、カフェに連れてってあげるよ、と公私混同し、患者をすっかりコントロールと指示とごほうびを待つだけの赤ちゃんに仕立て上げてしまっている医者やセラピストの話もしばしば聞かれます。あるいはセラピストによる「無償の愛の行為」と称した強制猥褻事件(「摂食障害治療センター」主宰者逮捕事件)など、「常識では考えられない」ような行動がエスカレートしていくケースもあります。「これは無償の愛なんだ」「オレの善意が分からないのか!」という“絶対の善”のエクスキューズを手にしてしまうと、人間、その時点でどんな批判も耳に入らなくなってしまうからです。 いささか前置きが長くなりましたが、「社会」とは元来そういった、自己をたたきつぶして機械的にそこに順応することだけを要求する場所であってはならないし、“あるがままの私”がもうどんな他人や世界との違和感も苦痛も経験することなく救って守ってもらえるような救世主がいる場所では決してありえない、ということです。どちらも、人間同士が本当に個人としてかかわり合えていない、という点では変わらないからです。 人間が個人同士としてかかわり合う、ということは、「わたし」は決して「あなた」や「他人」にはなりえないし、逆もまたそうである、という事実を腹の底から知ることから始まるのだと思います。たとえ親子であっても、人は他人になりえない以上、何がその人にとって100パーセントいいことなのかなど、少なくともその人本人以外の他人には決してわかるはずがない、ということです。あるいは、「他人には他人の都合と事情がある」ということでもあります。 それは何も臆病や対人恐怖から“悟りすまして”いるのではなく、どんな人も、家族愛神話やどんな他の幻想をもってこようとも決して逃れられない、人間の本質的な孤独であると思うのです。 「何もそんな切り口上な」「水くさいじゃないか」「家族は一心同体なんだし」…と、家族愛神話にしがみつきたがる人々は言うかもしれません。しかし、「子や孫に囲まれて畳の上で大往生…」という、家族愛神話の最高の夢とされている夢に固執する老人の現実が、「自分の思いどおりに動いてくれない」子供たちや嫁や孫に不平不満と恨みばかりを溜め込み、老齢で弱って篭りがちになることと相乗して「子や孫が邪険にする」「嫁にいじめられる」と被害者意識をつのらせ、「どうせ私のような年寄りは…」と病院待合室の誰もが聞き飽きた一人芝居を繰り返しているか、あるいは財産でもあれば、遺言の遺産分与のさじ加減で墓の中から子・孫や嫁たちを反目し合わせコントロールすることにむなしい情熱を燃やしている…というのはおなじみの風景です。 むしろそのような幻想を排して、「この世で、ひとりの人間である」ということの逃れられない本質的な孤独を腹の底からかみしめることによってはじめて、同じようにこの世に放り出された存在である他人の孤独を知り、また、「自分はけっして他人になりえない」ことをわきまえた、「他人」への本当の思いやりや優しさが生まれてくるのではないか。そう思うのです。 「…どうしても逃れられない悲しみなら 抱えていくしかないんと ちゃいますやろか?」 「社会」とはもともとそのような、「同じ人間という存在であること」と「他人であること」の両方をわきまえた個人同士がかかわっていく場であるべきではないかと思います。日本はムラ社会だからそのような個人主義が育ちようがない、という人もいますが、そんなこともないと思います。「甘え」という言葉は日本語にしかないといいますが、「けじめ」という言葉もまた、日本語特有です。「同じ人間であること」と「他人であること」のバランスの中で推し量られる「甘え」と「けじめ」のバランスこそが、本当の「マナー」とか「礼儀作法」と呼ばれるものではないかと思います。 そのような「社会の顔」をもつことによって、いままで圧倒的な力でのしかかってきた機能不全家庭を、つき放して距離をおいた目で見ることができるようになります。世の中には家族以外のいろいろな他人がいて、みなそれぞれに違ったバックグラウンドや考えを持っていて、それでもみんな生きているんだ、自分の機能不全家庭の「不幸のセットメニュー」の中だけでしか生きてはいけないことなんてないんだ、という知識が、身体で感じられる「生きた知識」となること、それは機能不全家庭で植えつけられてしまった“まぼろしの鎖”を打ち破るための大きな力となるはずです。 | |