HN 蔦吉(つたきち)
性別
世代 団塊ジュニア
住んでいる場所 関西
職業 社内通訳・翻訳者
読書傾向 哲学、心理、精神分析、社会学、フェミニズム関連など。小説はヘッセ、ドストエフスキー、トーマス・マンなど。エンターテインメントなら英国ミステリー、スパイ小説なんかが好き。マンガもよく読みます。手塚治虫、萩尾望都、竹宮惠子など70年代のわりと濃いストーリーの作品が好き。
好きな音楽 クラシック音楽全般。特にJ.S.バッハがお気に入り。カザルス『無伴奏チェロ組曲』CDは宝物。シャンソン(エディット・ピアフLOVE)、フレンチポップス、ラテン、映画音楽なども。ロックやソウルミュージックなんかも、70年代のものが結構好きです。
心の師匠 シモーヌ・ド・ボーヴォワール(哲学者)、マレーネ・ディートリヒ(女優)
ACを自覚したきっかけ 物心ついたときから、「かわいくて勉強もよくできてスポーツもできて明るくて誰からも好かれる女の子」っていう「理想どおりの子供」に自分のアイデンティティ賭けちゃってる母親の“人生すごろくの駒”にされてる、みたいな自覚があった。「理想どおりの子供」の規格から外れたら「なんでアンタはそんな暗い、依怙地な、いじけた子なの!」みたいに母親からネチネチいじめられたのはしょっちゅうだったし。机や落書きノートを覗き見するのも「お母さんには見る権利があります!」だもんね(苦笑)。

体罰(もっぱら平手打ち)アリの家族だったんだけど、中学辺りで私が母の身長越してしまうと、母が父に告げ口という形で「私を殴る役」を頼むようになって。「男と女のあり方」みたいなのについてすごく葛藤した。「性的対象としての“女”であることをパスしたい」みたいな半ば無意識の動機もあって、中3の受験期から10年近くコンパルシブ・イーター(強迫摂食、食物嗜癖。過食しても吐かない方ね)だった。

それでも田舎の公立進学校で受験のこと以外ほとんど何も考えなくていいし情報も入ってこない環境の高校時代まではどうにか「適応」のワクに収まってたのだけど、大学入って下宿生活始めて「受験」の目標がなくなったとたんに、都市部へ出たカルチャーショックも手伝って、朝まったく起きられなくなり、いわゆる大学不登校に。下宿に引きこもって手当たり次第に哲学・心理学・精神分析関係の本を読みながら、「親の「条件つきの愛情」にからめ取られている自分」をはっきりと自覚し始めた。

大学を結局中退することにして、「外の世界に出てゆくために何かしなきゃ」みたいな焦りでもって始めたダイエットをきっかけに一時期、過食嘔吐の習慣にハマってしまい、摂食障害のための自助グループに出るようになってから、一連のAC本ブームなどで「アダルトチルドレン」という言葉を知ったのが数年前。
このHPを立ち上げた動機 まず自分が色んなミーティング会場にあまり顔を出せなくなっているもんだから、自分のためのミーティングに代わるものとして、ってのがあった。ACという言葉を知った直後の「私は親にハメられた!」みたいな熱い時期(笑)は過ぎたのだけど、でもやっぱり「ACであること」は私の中でおざなりにはできない、さまざまな問題提起をはらんでいると思うから。

そしてこれも結局自分のためなのかもしれないけど、もしACが「親に情緒的にからめ取られている」がために、親への幻想的絆を抱きつづけているがために、トラウマの悪循環から脱け出せなくなっているのだとしたら…だったら「親を本気で切り捨てても生きていけるんだ」っていう道を示すこと、そのための知恵を出し合って発信していくこと、極端な話「親はなくても子は育つ」ような世の中を本気で作ってしまうことが、「虐待→トラウマ→被害者意識と親への無意識のおねだり→トラウマ」みたいなACの悪循環を断ち切る道なんじゃないかと思う。

内田春菊『ファザーファッカー』の最後のシーンで主人公が突然「そうだ、私はここにいなくてもいいんだ」とひらめいて、性的虐待を繰り返す養父とそれに手を貸す母の家をとび出していくのがすごく印象的だったんだけど、つまりそういうひらめきが、自分みたいな「なまじいいとこの中流家庭」で隠微な「やさしい暴力」に晒されているACにもきっと必要なんだと思う。そのために、「そんなことできるわけがない」って思ってることも実際にやってみよう、「親に対して何てことを…」って押さえてきた自分の中の考えもありのまま口に出してみよう、そしてそれを世の中に対して発信してみよう。

…そんなことを思って、私はこのHPを立ち上げました。
ACとしての座右の銘 「悔しかったら、不幸になっちゃ駄目だ」

――マンガ『ぼくの地球を守って』(日渡早紀・白泉社) 
学校でいじめられた戦災孤児シオンに対する養父ラズロの台詞