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私たちの物語 - 引きこもり・回避行動・過去ログ No.1
メッセージ数:20件

<20> ネコ ■2003年08月16日 土曜日 13時06分06秒
怖い。ここから出るのが怖い。
いい歳をして恥ずかしいけど、まともに生きていけない。
<19> WINNIE ■2003年08月02日 土曜日 01時07分22秒
お盆とお正月がすごく負担です。
兄夫婦が実家に来るからです。
私は2人と会いたくないです。
家族ごっこはしたくないです。

毎回、私のつらさを少しずつ母に訴えてきた。
でも、母には通じない。
誰とも会わないで、安心して引きこもりたい。
<18> サクラ ■2003年07月30日 水曜日 22時05分15秒
去年の春に2回目の一人暮らしを決行致しました。
が、秋には実家に戻ってきました。
原因は、隣人である(そのまた周囲もでしたが)♂大学生が、私のプライベートを大声でベランダ越しに、そのまた隣人(同級生と思われる)に話しているのです。
カーテンの色「着替える時は緑のカーテン閉めるよ」、ケータイでの会話の内容(彼氏がいるらしいとか)、「いまはビデオ観てるよ。ガチャンガチャンて音するもん」などなど。
壁を蹴られたり、暴言を吐かれたりもしました。
人間不信になりました。
ノイローゼでした。
ACを知る前でしたので。対処の仕様が解からず、ただでさえ干渉されるのが耐えられなくて、旅行用の耳栓をしたり、TVはすべてヘッドホンでした。
そんな彼は某医学大学の学生でした。医者ってなんでしょうね。医師免許より人間性で資格を与えて欲しいと切実でした。

いまも実家なのでACdぶり返しですが。昔より大人のいやらしさを学び、少しは生きやすくなってるのかなぁ。
サマージャンボ当てて誰もいない山奥に家建てて、回復したいと思ってます。
<17> maasan ■2003年07月02日 水曜日 20時24分24秒
仕事が不定期なため、その仕事が終わると、家に閉じこもってしまう。今日は支払いがあったため、がんばって家を出た。引きこもりモードに入るとそれが楽に感じてしまう。とおにかく人にあうのが億劫だし、人前に自分をさらすのがいやなのだ。
<16> 南 ■2003年05月02日 金曜日 11時35分41秒
もう7年半・・・。誰も助けてくれなかった。
もうどうすればわからない。
小さい時からずっと一人ぼっちだった。
<15> みらい ■2003年03月12日 水曜日 17時16分51秒
私には、逃げ出してしまう癖がある。

なぜ、どうして?
わからない。

ただ、怖くて、怖くて、怖くて、怖くて。

あと一歩のところで、逃げ出してしまう。
そして、あとで思う。
あんなに頑張ったのに、あんなに努力したのに、どうして? と。

後悔しても、もう遅い。
また一からやり直しだ。

積んでは崩し、積んでは崩し、自信も経験も信頼も、そのままただ積み上げてゆくことができない。
<14> りょうた ■2003年03月09日 日曜日 04時03分28秒
もう何年も太陽を見てない
今も空に太陽はありますか?
僕の空にあるのは月と星だけです…。
<13> ちかこ ■2003年02月28日 金曜日 04時01分21秒
私は2度目のひきこもり。
自分の好きなものに囲まれて、心が落ち着いていて
なんにも考えなくて、肌を通して感じられることがある。
すごく不安を感じることがある。
なにか悩みがあるってわけじゃないような気がする。
考えると考えすぎる。
よく分からなくなっちゃった。
<12> catwings(空飛び猫) ■2003年02月20日 木曜日 18時55分49秒
このままずーーーっと家の中で引きこもって暮らしたい。
家族以外は誰とも連絡を取らずに。
周りの人から変な人と思われたって構わない。
再び社会に出たとき、甘えきった人間だって思われたって構わない。
精神科の先生に呆れられ、見捨てられ、叱られたって構わない。
(引きこもり、精神科をドクターショッピングをし続ける私を叱ってくれた先生ありがとう。先生に感謝し少々憎みこそすれ、私は再び社会に出る気はありません。)
今の親の世話になる状況がずっと続くとは思ってないけど。
自分でも甘えすぎてるって思うけれど。
どうしょうもないぐるぐる人生。
ぐるぐる回ってどこにいく?
<11> まふまるばふ ■2003年01月24日 金曜日 10時45分38秒
窓をカーテンでふさぐ
 俺は窓は多い部屋が好きだ。入り口とベランダ以外に光が差し込まない長方形の箱家には住めない。通路側の窓も寒波でもない限り開けることが多かったのだが、今は南側の窓をカーテンで完全にふさいでいる。以前の職場の人が宗教の勧誘にきたり、時々誰か来る。ある人は煙草4本売ってくれ、煙草一箱貸してくれ必ず返す。
ろくでなしばかり来る。
 ドアをノックされるのがいやなので 窓にカーテンをしたらピタリとノックされることはなくなった。誰にも侵入されることのない状態がつくられると出るのがいやになるのどうしてだ。ラジオのスイッチに30cm手が届かないと、ものさしをさがしてスイッチを押す自分。パチンコに出かけるのは悪い動機ではない。
 離人感を今の充実感を味わうということで克服はできないのだろうか?例えばパチンコホールに行くと店員のお姉さんに「調子どうですか?」明るい笑顔で話し掛けられると舞い上がるほどに嬉しく 離人感がすっとんで現実的になっちゃっているのだ。明るく元気が良く押し付けがましくない。三拍子そろっているのだ。
女には信じられないような魔力があるということも知っていて損はない。そこが男と女の不思議なところなのだ。俺も見た目むすっとしないで爽やかな印象をもたれるように努力しようっと。

かくれんぼ鬼のままにて老いたれば 誰を捜しにくる村祭り 
<10> 蔦吉 ■2003年01月23日 木曜日 10時38分24秒
10年以上自分の人生につきまとってきた食物嗜癖をやっとこさ通り抜けたあとで、新たに見えてきた問題として、いま「時間」と「お金」ってものにすごく関心があるんだけど。

なんか自分の引きこもり状態ってのをふり返って――というか、今でも引きこもり状態に陥ることはあるんだけど――まるで「時間の拒食症」みたいだな、ってふと思った。

「あり余る食べ物に囲まれていながらそれを口に入れることができない、飽食の中の飢餓」…ってのはどこかで読んだ、拒食症を表現したフレーズだけど、自分の引きこもり状態を表わすなら、「あり余る時間を盗み取って篭城しながらその“時間”を生きることができない、むなしい永遠の夏休み」かもしれない、ってふと思った。
<9> マフマルバフ ■2003年01月09日 木曜日 01時08分35秒
1960年代
 60年安保の学生運動の激動の頃「デモに行く奴は豚だ」と言い「デモをやるより、まず親子問題を超克したらどうだ。まず家への疑いから始めることが、君の国家論ではないか」ち言った人がいる「それが寺山さんの扇動ですか。すると寺山さんの歌も扇動ですか」「そうさ。扇動でない詩など存在するものか」

「海を知らぬ少女の前に 麦藁帽のわれは両手をひろげていたり」

「この夏の心を予約するように 贈られている麦わら帽子」

1970年3月24日、東京都文京区にある講談社6階の講堂で「力石徹告別式」という前代未聞の葬儀が、本物の坊さんの読経が流れるなか、厳かに執り行なわれた。会場の中央には「特別リング」が設けられ、正面の舞台には巨大な力石徹の額が飾られている。原作者の・・、作画家の・・・、全国から集まってきた700人のファンたちが合唱するなか、テン・カウントの忌鐘が鳴った。寺山起草の力石への弔辞が詠まれ、ボクサースタイルで尾藤イサオが寺や作詞の「明日のジョー」を歌った。寺山は虚構の人間の死さえも舞台化して見せたが、「誰が力石を殺したか」という一文にこう書いている。「力石はスーパーマンでも同時代の英雄でもなく、要するにスラムのゲリラだった矢吹丈のえがいた仮想的、幻想の体制権力だったのである。・・・力石は死んだのではなく、見失われたのであり、それは70年代の時代感情の憎憎しいまでの的確な反映であるというほかはないだろう」これは東由多加がアイデアをだして実現させたものである。
寺山の家でのすすめのせいでもなかろうがその後 地方の過疎化という社会問題を抱えるに至った。しかし、そのような社会学以前のもんだいとして、寺山が放ってきた言葉は、将来の日本においても未だ効力を失わないであろう。なぜなら、日本の青少年の「離乳」の必要性は、経済社会の発展とともに今後の問題として強く立ちはだかっているからである。
<8> りん ■2003年01月06日 月曜日 08時46分01秒
こわかったんだ

知らない世界に

ハバタクノガ

怖かったんだ

きっと

<7> 蔦吉 ■2002年12月23日 月曜日 10時21分39秒
どうも昔から、私には「“責任”というものがこわくてしかたがない」という気分があったように思う。

こんなことを言うのは、じつはこの間、新しい翻訳会社のトライアル(要するに、フリーの翻訳者として登録するための採用テストのことね)を請求しておきながら、わざわざ(無意識にせよ)意図的としか思えないほど余計なことに手を回してぐずぐずと翻訳作業を先延ばしにして、結局間に合わず落としてしまう、ということをやってしまったからなんだけども。

前にも「自分の時間がどこか自分のことと思えないんだけど、その自分の時間を切り売りしたりすすんで拘束されたりすることに対するわけの分からない嫌悪感がある」って言ったことがあるけれど…なんて言うか、「ここまでしないと“許してもらえない”世の中」っていうものに対する恐怖で一歩も動けなくなる感じ。「許してもらえる」ための基準をクリアしなければ、ただただ「最低の嘘つき、社会のクズ」呼ばわりされるだけで、クリアしたならしたで、年金生活者にでもなるまで、あるいは死ぬまで、「社会のクズ」の側に落伍しないために、次々と迫ってくる「“許してもらえる”ための条件」をクリアしていかなきゃならない、そういう永遠の刑罰みたいな「社会」ってもののイメージがたしかに私の片隅にある。

「ここまでしないと“許してもらえない”のか」ってイメージを何かに対して最初に抱いたのは、たしか小学生の頃だったと思う。妹と一緒に母親と話していて、何かの拍子に「住宅ローン」という「家を買うための“借金”」の話になったんだった。母が「担保」という「お金を返せなかったときに銀行がとり上げるもの」と、「保証人」という「(借りた人が)お金を返せなくなって逃げてしまったりしたときに、代わりにお金を払わなくちゃいけない人」について私たち姉妹に教えて、「だからお父さんがお金返さずに逃げたりしたら、△△さん(父の職場の同僚で、たしか住宅ローンだったか何だったかの保証人を引き受けてくれていたらしい)に全部迷惑が行って、二度と友達になってもらえないのよ」と言ったとき、私の頭の中には「「最低の嘘つき、社会のクズ」の側に転落してしまった自分のお父さん」のイメージが浮かんで、なんだかやるせないような気分になったものだった。

それはまあ、泣こうが喚こうが「それが世の中のしくみ」、って言っちゃあそれまでなんだけども。
何が言いたいかっていうと、その「世の中のしくみ」というものが、担保とか保証人みたいな通常のリスクに対する一定のセーフティネットとか、ギブ&テイクの社会関係ってものが、社会に放り出された人間をただただ容赦なく監視し、しぼり取り、懲罰する装置であるかのような、そんなイメージが私のどこかにあるのだ。

たとえば、「そんな甘えは社会人になったら通用しない」とか、「会社で、お客様の前でそんなことは通用しない」とかいう決まり文句も。「いやな人間にもペコペコ頭を下げて、汗水たらして働いて…」そこまで我慢するのもお前ら子どものためなんだ、食いぶちの、学費のためにここまで我慢してやってるんだ…そうやって“学生気分”も人生の楽しみも理想もすべて放棄して「社会人」の居場所に収まっていることだけがエライのだといわんばかりにお説教垂れる親たちを見て育った子どもたちが、引きこもりになるのは当然の論理的帰結じゃないだろうか? ただでさえ選択権もなくこの世のこの家族の中に存在させられて、「食わせてやってるんだ」と大きな顔されて肩身が狭いうえに、食わせてもらって学費出してもらって学校から社会へ出ていくのが、「社会人」「企業の即戦力」とか言う、幸せについての思考も停止した、我慢我慢の運命が待ってるだけの一個の歯車として買い叩かれるためだとしたら…そんな希望のない人生、そうしてその希望のなさの理由を「お前ら子どものため」で何も知らない子どもの上に丸投げして済ますようないぎたない人生、そんな人生イヤだけど自殺するほどの覇気もない、ってんなら、引きこもってダラダラ生きるくらいしかない、って子どもが感じたとしても不思議じゃない。
べつに会社や社会で苦労したり時には気に入らない人間に頭下げたりすることが悪いのではないけれど、自分の身ひとつの幸福について考えることくらい怠けるなよ? そしてそれを子どものせいにするなよ? みたいな。

また話が脱線した。
そう、何ていうか…「社会」ってところはただ制度と秩序と正しさだけが黙々と要求されて執行される、心の休まるヒマなんかない場所、っていうイメージがあるのだ。そして、秩序とか正しさを遂行する能力によって選別されたりハネられたりすることのない居場所が欲しいという欲求も、私の中にはたしかにあるように思う。
「やるべきことをダラダラ先延ばしにする」ってのは、その心安まる居場所がどこにも見つからないゆえの、秩序と正しさを容赦なく要求してくる社会ってものに対する、私の無意識のサボタージュなのかもしれない。
<6> マフマルバフ ■2002年09月11日 水曜日 03時54分35秒
社会常識 3
社会常識2では職場の人間関係の悪化を具体的に整理していこうとした時 複雑な人間関係だなぐらいの取り組みだったのですが 事務職のある女性の言動を思い出しているうちにふいに○○高校の卒業証明提出の件を・・・少少のたうちまわりました その件を通して私は忘れていた過去へ一気に引き戻されたのです 当時それが混乱を複雑にした トラウマにつながる思い出の対応すらしらなかった そして昨日また思い出して 数年前の職場の状況が鮮明に浮かび 考えるのをやめた 気持ちを落ち着けて冷静に整理し 高校のあの時のことでこんなに混乱するのだろうと結論した 罪悪感に苛まれるところだった 私の場合 この誰とも関係をもたない状況下では トラウマからくる症状はあまりないです 苦しみも以前とは比べ物にならないほどいいです。しかし フラッシュバックはないが突然思い出させるような言動 関係があると 鮮明な記憶が出る前に他のことを考えるようにしています
以前はその鮮明な記憶が「何打これは」と動揺しまくっていたわけです
<5> マフマルバフ ■2002年09月10日 火曜日 01時58分14秒
社会常識 2
何かと過去は厄介なものだ やはり知らぬ間に過去を否定してきたからこういう混乱が生じるのだろうか それなりにやりくりしているつもりだったが いきなり卒業証書の証明のこぴーを提出してくれ あれで最終的に混乱していった 会社の嫌がらせとしたら効果があった そう言われたとき 激しく動揺して何とかごまかそうとした そこが自分でもわからないところであった 必死に何かごまかそうとした 慌てた 脈絡なく他人に過去の証明を求められるのは初めてでもあったし 会社側の要求を深読みしすぎた 現実の対応で精一杯であったのだ 最近の過去を振り返ると錯綜して整理できなかったが やっと少し分かった ・・・・ここら辺の問題をよく理解していきたい。俺はそう思う。・・・糸口はつかめたか・・・。
<4> マフマルバフ ■2002年08月28日 水曜日 00時56分07秒
社会常識
こうやって知恵を振り絞って書いている事態は悪くないと思います 強迫的になることがいけない 目標をなくしているときはそういうものとは縁がない 今は静かな日々をおくれている事に感謝していますが 暗中模索 少し隙をみせると蠢くみみずのような暗闇は私の日常の中にいます 孤独ではいませんから どうしても人とかかわる部分でミミズのような男や女は出てきます あっ暗闇だな しつこい奴やなと名前をつけて 確かに落ち着いて対応してます
<3> マフマルバフ ■2002年08月21日 水曜日 03時40分07秒
現実の問題と親の愛情
今年の夏は親元から何の連絡もなくほっとしている 見えない鎖から徐々に解放されている 母親が存命していたらこうはいかなかっただろう母親の不幸は 死ぬほど嫌いな父親と別離できなかったことだろう その不満を子供に向けていることには無頓着であった 子供をこれでもかと虐待しておきながら子供が成人して後 しつこく私はあなたの母親です と子供に承認を求めるような言動は子供をさらに苦しめ自立の意欲と力を奪い取ることにしかならない 良識のある子供ほど苦しむだろう こういうことはACを自覚する人がどんどん社会に向けて意見をいっていかなければならないと思うのです。某新聞に・・・どの親も子供のことを考えている・・・・・このレベルで問題の解決をはかろうとしているのが社会の現実だ。
親は自分のことしか考えていないから問題は後を絶たないのです 解決したいなら夫婦間の溝の深さを測ったほうが良い 中の悪い夫婦の家に帰っても問題は解決しないだろう 成人してからではどうにもならない 子供の自立の努力を信じて何もしないことが最善だろう 経済的援助は必要最低してもよいと思う。
子供の権利条約は批准され履行されているのだろうか 政治的背景が根本的に欠けていることもあるだろう。
今夜も夜遅くまで起きてしまった 俺の不眠はどうしたら治るンゃ おせーて。 
<2> マフマルバフ ■2002年08月17日 土曜日 00時45分24秒
生活保護受給者の弱い立場
これまで自分の悩みと立場をどう克服し「生きていったらいいのか」そればかりを考えて来たので世間の問題には疎い私でした いきなりアフガン難民に発想がいったりします 新聞ラジオだけでは足元に気づきません 報道しませんから 現実的視点では近所の公園のプーちゃんの人数を目でみているぐらい 地方の都市部でルンペンやればいいのにと考えたのだが 現代日本では反感を買うのだろうな それもさせない社会を私も理解した てって的に管理されているのだ 息苦しいはずだ
それはともかく 誰も助けてはくれない社会で自分がどう生きたらよいのか苦悶の日々を過ごしてきましたが・・男と女ではこの辺の事情が違ってくる でも さらに困窮した事情がある人たち 今後増加していくだろう 私には何もできない もはや日本国内難民救助の立法と視点が必要なのだ 笑い事ではない。 
<1> パヴァロッティ ■2002年07月29日 月曜日 18時20分11秒
自立と社会常識
1994年の秋に母がアポなしで私のアパートに来たことがある。対面で話すのはこれが初めてであり こじれたものがさらにこじれていくようでやりきれない思いをしたことがあります。当時職場の状況は流動的で環境も上司も変わり どうしたらよいのか悩みこんでおりました。家族の心配事が現実の問題と入れ替わるように侵入してくることが困りました。自閉的傾向が目立ち始め2年後母は鬼籍に入りましたが その前後から私は会話すらうっとうしく話さなくなりました。何がどう苦しいのか説明不能状態。翌年 発狂しかかりで自助グループに参加できて助かりました。しかし職場では人間関係が悪化し上司を罵り立場がまずいものとなりました。生きる労働賃金このようなことが優先項目ではなくなり意欲は低下しました。00年の頃はまだ自力で何とかしようとあがいていましたが今はすっかりどうしていいのかわからなくなっています。トラウマ等一連の問題はだいぶ整理して考えることができるようになっています。声楽は楽しくて今も続いています。だいぶ落ち着いて声が出せるようになっています。一人があまり苦にならなくなっている。抑制した食生活も嫌ではない。しかし 社会に出るのが嫌になってきている 関係をもつことが少しやですね。一人のほうが気楽な時もあるし 海辺のぼろい家かりて中古のぼろい車で外出する程度の生活にあこがれます。近所づきあいをどうするのか?うーん。仕事は?うーん 以前のトラウマに気づかない頃のじぶんにもどっているような感じです。これではいかんなと考えています。

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This script written by Shintaro Wakayama.