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私たちの物語 - 暴力・虐待・過去ログ No.9
メッセージ数:180件

<180> 埴輪 ■2005年09月17日 土曜日 19時29分13秒
殺るか殺られるか、だった
選べなかった
ただ耐えるしかなかった
痛くなどないと感じて
強い自分を感じて
時間が過ぎるのを待った
心の中では決して服従するまいと誓った
だけど刃向かえば殺されると思った
それから私は
誰に対しても表面的な服従をすることになっていった
<179> エリカ ■2005年09月09日 金曜日 16時32分15秒
このアザ、一生付き合うの?
このキズ、一生付き合うの?
この思い、一生付き合うの?
この、この、この・・・・付き合うの?
私は、
「普通の家族が欲しい」
<178> 黎 ■2005年08月30日 火曜日 20時43分32秒
いい大人なのだけど。

「あなたが傷ついたならいいんだけど…」
「他人様を傷つけたなんてことになったら…」

お願いだから、世間よりもあたしが大事だと
嘘ついて。

いい大人なんだけど。
<177> 樺山かなり ■2005年08月23日 火曜日 14時02分08秒
父は、「自分は虐待をしていない」と言う。
更に「叩く時も加減して叩いた」と付け加えた。
しかし、私は叩くだけでない暴力を沢山知っている。
例えば、やくざ言葉で「殺してやる」と脅迫したり大事にしているものを壊したりを繰り返している。
たわいもないこと、たとえば「風呂に入れ」と言っても聞かない私を傍らにある本で殴ったり夜更かししているときに「早く寝ろ」と言って無理矢理電気を消したりする。暴力を振るわれる。
それが小学生から成人するまで続いた。
こんなことが当たり前にあったので、すでに体に沁みついたのか私の子どもにも同じようなことをしかける、思いとどまる、実行の繰り返しだ。
<176> 柊 ■2005年08月12日 金曜日 01時12分21秒
フラバ注意!



時々、思い出す。
母から「あんたが死んでくれたらせいせいする」と何度も言われたことを。
隣の部屋で母が父に「もう、あの子は殺してしまったらいいねん」って言って脅してたことを。(でも、きっと殺せないだろうなぁとも思ったけど。)
母が包丁を持って追いかけてきて脅してきたこと。
その当時13〜14才で一番反抗がひどかった時期でした。両親が悩んでたのもわかってた。私が反抗すればするほど親は団結してたのでその時期、夫婦喧嘩がなかったし。
親がしてきたことは虐待なのに、私はずっとずっと”反抗して親を困らせてた私が悪い”と思って心の奥にしまっておいて、なかったことのようにしてずっと生きてきたのに子供が生まれて子育てをするようになって、何度も何度も思い出す…思い出したくないのに、子供に対して同じ台詞を吐いてしまいそうで怖くて仕方がありません…
<175> アーネスト ■2005年08月11日 木曜日 15時40分51秒
僕ら兄弟は喧嘩することを許されてこなかった。こともないか。書いてて思い出した。まず思いつくのは僕が3,4歳頃のことで,クリスマスの時に新聞に入ってくるたくさんの玩具屋の広告。それを取り合った。うーん,あんまり覚えていないけど,やったらやりっぱなしか,どっちかに譲る感じだったかな。あんま覚えていない。でもわりにすっきり仲直りっていう感じではなかったかもしれない。

後は6歳の頃、まだ今の家に越してばかりの時に某雑誌の付録を取り合って,俺がトイレに閉じこもった兄を出すために,トイレのドアを蹴った。ドアは見事に板が割れた。新築だったのに(苦笑)。ただどういう解決だったのかが思い出せない。「お兄ちゃんなんだから」って兄の方が抑圧されたのか,なんなのか。ただこう,あまりお互いの意思が尊重されたっていう思い出はないかな。どっちも大事にされてない。

割りとうちはやったらやりっぱなしていう喧嘩に関しては,放任だったな。
<174> アーネスト ■2005年08月11日 木曜日 15時32分50秒
暴力とは少し違うかな?

10歳の頃に兄が部屋に入ってきて,いきなり私の胸倉を掴んで胸や鎖骨や腹のあたりを殴った。兄のことを信じていたから,辛かった,精神的に。これって普通のこと?何の前触れも無く殴られるのは普通のこと?いや普通じゃない。誰も助けてくれなかった。部屋に入ったら本棚が倒されていたこともあった。兄貴が実際に私がいる隣りの部屋で本棚を倒したり,真夜中に私に聞こえる声で「死ね」と口ずさんだ事もあった。私に向けていったのかそうでないのかは別にして,聞く人の身になぜなれないのだろう? 暴力というのは,小さかった自分にとっては,圧倒的な支配力を持っていた。辛いと訴えることもできない。なんの太刀打ちもできない。防御もできない。ただ受けつづけるだけ。誰かが「それはあなたのせいじゃない,あなたは悪くなかった。あなたは罪悪感を持たなくて良い」と言ってくれたら,どんなに救われただろう? だから今でも兄が怖い。何を考えているのかわからないから。そして,いつ癇癪を起こすのかわからないから。

去年の今ごろ,階下に行くと2週間に一辺、プレステのコントローラーが粉々になって床に散らばっていたり,植木が倒されていたり,テレビのリモコンが壊されていたり,簡易物干し竿が破壊されたり,俺の目覚し時計が壊されたり......色々あった。それが隣りの家で起こるのならまだ我慢できる。それが私の≪隣りの部屋≫で怒るのだからたまったものではない。例え怒り、暴力が自分に向けられたものではないと分かっていても,壁一枚挟んだ至近距離で,怒りが爆発し,物が壊されるのを聞いている気持ちを兄に理解してほしい。

兄は「いかった時は制御ができなくなる」と言っていた。制御が利かない状態はなんとなく想像できる。ただ私にはどうしようもない。病院にいけ,とも言えないしカウンセリングを受けろ、とも言えない。
<173> 柊 ■2005年07月30日 土曜日 17時33分57秒
母は父の暴力が多かった頃、時々狂った人のようになってた。発狂していておかしくなったのかと思わせるほど。そして、狂った母を見て余計に父親の怒りが爆発してた。頭がおかしくなったと思われる妻を正気に戻すためにまた殴ってた。父はよく「お前は精神病院に行け」「お前はノイローゼや」ってよく言ってた。でも、母は絶対にいかなかった。私もなぜ母がいかないのか子供の頃からなんとなくわかってた。なぜなら母は「気ちがいのフリ」をして身を守ろうとしてたんだと思う。精神病院に行かなければいけないのは父親も一緒なのに…父は子供たちに手を上げることはほとんどなかった。弟は父から殴られたことは一度もない。私はあるけど、母ほどひどくはない。その代わり、母は私と弟に毎日のように殴り続けてた。布団たたきで太ももが蚯蚓腫れになるまで叩き続け、弟をベランダにくくりつけて叩き続け…
特に父がいるときに、母は子供たちを怒り続けてた。いつも決まって父が「お前は気ちがいや」「お前のしつけが悪いから」とよく言ってた。
身体的暴力は中学でとまったけど、その後は言葉の暴力が激しくなっていった。それもターゲットは私一人に絞られていった。弟が思春期に入ると両親は弟のことを「腫れ物」を触るように扱うようになった。なぜなら「報復」が怖いから。若い男の腕力に勝てないと感じたんだと思う。私からの「報復」を恐れることはなかった。なぜなら「やさしい娘」だと思ってたからだと思う。いつも欠かさず両親の誕生日や父の日、母の日には贈り物をしてたのは私だけだったし。反抗しながらも、結局は親の言いなりになってくれる都合のよい子供だった私のことを両親はさらに都合よく動いてくれる子供として期待して、親に逆らうと痛い目に遭うってことを暴力で私に示し続けてきてたと思う…
大人になってから時々両親は「娘がもう一人いたらなぁ。。女の子はやっぱりええわ」ってよく言ってた。それを聞いて私は両親から愛されてたと勘違いしてたから、今思えばお笑い。私が役に立たないから、もう一人女の子がいたらその子に期待できたのに。っていう意味だと気がつくのに何年かかったことか…私にもし妹とか姉がいたら、言葉の暴力は私一人に集中しなかったのかな?とか考えたけど、いや違うだろうな。どっちにしても私一人に集中してたと思う。多分、どっちかが親の思い通りに動いて反抗もしない可愛がってもらえる娘が出来上がってると思うから。弟がそうだもの。私にとっては弟だったから逆によかったのかもしれない。異性って思うことで、差別されても性別が違うんだって思うことで自分を納得させられる。これが同性の姉妹間の比較だったら私はかなり惨めな思いをしなければいけなかったと思う…
<172> 柊 ■2005年07月30日 土曜日 17時12分01秒
小学校ぐらいから何度も母から聞かされた話。「お母さんは絶対にお酒を飲まない人と結婚しようと思ってお父さんを選んだ。あとは背広を着て仕事に行く人もよかった」と。その理由が「父親(祖父)がお酒を飲むといつも暴れて母親(祖母)を殴ってたからなー」でした。「父親はお酒を飲まないととってもやさしくていい父親だったのに」ってよく言ってました。
なのに、何でお酒も飲まない暴力を振るう父となんか結婚したんだろう…ずっと疑問だったけど、今考えれば母はお酒が全て悪いと思ってからなんだろうな。お酒を飲まない人と結婚さえすれば暴力がない家庭を築けると思ったのかもしれない。母は最近「よく父親が暴れると布団の中にもぐって静かになるまでずっと耐えてた」って話をしてくる。その話は本当にここ最近になって母から聞くようになった。
<171> 柊 ■2005年07月30日 土曜日 10時22分16秒
男の人の大声がとにかく苦手です。
あと、格闘技を見るのも苦手です。プロレスなんてとてもじゃないけど見るに耐えないです。
<170> 柊 ■2005年07月29日 金曜日 09時16分06秒
子供に安全な場所を提供するのが義務のはずの父親の存在自体が私にとっては安全ではなかったので、父親がいるってだけで憂鬱な日々を何十年もすごしてきました。一番、古い記憶では3歳ごろ父から母が殴られてる間私は座卓で卵かけご飯を食べてました。見ないようにして自分だけ私は関係ないですよって感じでご飯を食べた思い出があります。自分で自分の安全な場所を作ろうとしてたのかもしれない。その癖はずっと抜けきれない…
<169> いつか ■2005年07月24日 日曜日 23時26分24秒
私はなにもしていないのに。
それは違うよ、気がついていないだけ。
許してくれ、、、それも虐待。
ごめんねっていってそのまま。
許さなくっていいよって付け加えて。
親も、そこまで私を傷つけたとは知らないのだ。
だから、虐待は、精神的な虐待は解りにくいんだ。
あなたの為を思ってるんだ、本当に。

あたしは、周りの人を虐待してきた。
認める。
<168> いつか ■2005年07月14日 木曜日 20時51分01秒
そんなに傷つけるつもりはなかったのよ。
何にもしていないわよ。
ホラね、無意識に虐待はおこるんだよ。
絶対認めないし。
そして、それは私も気をつけなくてはならないこと。
知らないうちに傷つけている。
<167> 真名 ■2005年07月11日 月曜日 14時58分08秒
自分を本当に憎いと思うときがあって、ナイフを手首に向けてしまう。
私と兄を憎しみを込めて叩いた母に似ている。
ヒステリックで根性悪の母の顔が浮かぶ。
正に、鬼。
あぁ、やだ。
あぁ、やだ。
<166> レイン ■2005年07月06日 水曜日 11時06分18秒
暴力から精神的な虐待に移行し始めたのは、多分中学時代からだと思う。もっとも、生まれたときから、見捨てられていた。最近、あるビデオを借りてきて繰り返し見た。精神科に入院した主人公は、言葉にして心を吐き出すことによって立ち直っていく。長女も、いっしょに観たいと言ったのでいっしょに見た。気がつくと「私もこんな風にして立ち直れるものならそうなりたい」と思うようになっていた。親戚も弟も、そして私も夫も、もうあの親には近寄ろうとはしない。・・・・昨日、父が、入院したと言って、夫の職場に電話があったらしい。親戚のH子叔母はそのことを知らされていなかったと、昨日、言っていたから、無難な返事を返しておいた、と夫が言った。「怖いから、行かないよ。」と私は返答した。「怖い」それだけの理由で、お見舞いに行かない。別に倒れたわけじゃないんだから、元気になって帰ってくるでしょ、と。

人生を無駄にした。あの人たちに振り回されて、あやうく「社会的に抹殺される」ところだった。あの人たちに加担する人たちにも、近寄れない。傍観者は犯罪者と同じ。私が、まだ、親を必要としているとでも思っているのだろうか。「愛する気持ち」を分かち合おうとして何度、罠にはまったことか。

そのたびに、大切な友達を失った。ましてや「子ども」など、どうして連れて行けようか・・・・この「てん末」がどうなるのか、私は知らない。あの人たちの周りに不気味な渦があり沈黙がある・・・・
<165> キーコ ■2005年07月02日 土曜日 18時59分49秒
目に見えない「暴力」は、ほんとうに 自覚するのが難しい。
 今まで、「おかしい?」と、思い続けてきたこと、
「変だなぁ〜?」と思って、どうしても 納得できなかったことが、明らかになり始めています。

渦中にいるときには、直感と、身体症状になって現れていました。
それでも、「恐怖」と「不安」で、冷静に 判断出来る状態には、とてもなれませんでした。
<164> NAC NAC ■2005年07月01日 金曜日 23時44分07秒
昨今の少年事件(特に親殺し)を観てて、頭じゃ「(正当防衛は別として)基本的に相手を傷付けるのはいけないこと」とわかっていても、何故か「自分を虐げた親を殺せるなんて羨ましい(というか、それに近い感情)」とか「自分もその子の立場だったら同じことをしていたかもしれない(生育環境の悲惨さから絶対に親に危害を加えなかったとは言い切れない)」と同情・共感してしまう自分。

なぜ?

共通点は「あるがまま受け入れてくれなかった親への怒り」だ。違うのは殺せるか殺せないか(現段階でまだ殺していないも含む)の違いだけで、怒りに飲み込まれると理性なんてあっという間に吹き飛ぶ。

「あるがまま」
言葉で言うのは簡単だが、非言語的に伝える・伝わるってのは難しい。愛されて育った人はそれが当たり前で出来るので問題ないのだろうが、愛されずに育った人は経験がないので辞書を読んでもピンとこず「それってどういうこと?」いくら考えてもわからない。
かく言う私はもちろん後者だが、私の場合カウンセラーに通い始めて、初めて「あるがままとはどういうことなのか?」体感できるようになった。そしてその反面「自分は親からあるがまま受け入れてもらえなかった」こともよ〜くわかった。
私はカウンセラーに無条件(これが大事だ)に受け入れてもらっていると感じるから信頼関係を壊さないよう自分の責任に努めるが、自分の親は「感情を出すな。親の言うことさえ聞いてりゃいいんだ」と陰に陽に圧力を掛けてきたので、私は親と会話を通しての理解→信頼関係を築いてこれなかった。というか、そもそも我が家には昔から親子間の会話自体がなく、また親自体がそうした家族間の信頼関係を経験してこなかったのだから、当たり前って言えば当たり前のことだ。
そうした生育環境のもと私は社会人になっても「信頼」や「責任」がどういうことなのか?さっぱり身についていなかったのだから、トラブル続きも当たり前。「何が原因なのか?」もわからない・思いつかないほど私はおかしな人間だったし、すべて愛されてこなかったことが様々な悪循環を生み出した結果だ。

できることなら私は親に対して怒りたくもないし憎みたくもないが、そういう感情を持たざるを得ない過去が私にあったのは紛れもない事実なのだから仕方ない。
そうして突発的な暴力を防ぐのは適正な感情放出と、「受け入れられる」経験を多くすることなんだろうな。受け入れられれば相手も受け入れるようになるし。
<163> ジェミニ ■2005年06月26日 日曜日 00時49分41秒
「別に他人の痛みなんてどうでもいい」なんて言葉がふつうにでてくるのが私の最大の問題か?
どうせなら「やられた奴にはやり返す」「通り魔的には行動しない」の方がいいかも。
 最近お袋がむかついてくる。確かにものすごく立派なお袋だけど。「どんなことがあっても暴力を振るうな」だと。確かに私の八つ当たりに関してならその通りだ。でも明らかにいじめられているのにその論理を真に受けた俺はどうなるのだ?この場合、武器を使わないと身を守れない事もあるだろう。中学時代の俺はまさにそれ。こないだ「あなたが暴力を振るう姿だけは見たくない。もし相手が殴ってきても黙って殴られなさい」だと?俺が八つ当たりしたならわかる。でもそれは可笑しい。結局ある種のただの自己愛じゃないか。正当防衛もするなどと。
 中途半端に自分もできない性善説を「家庭」の中だけでもっともらしくいいやがって。
 明らかに思春期の俺は「発育不良」。でも医者に相談することもなく、誰にも相談せず、結局ほったらかし。普通の親なら「この子こんなひ弱で大丈夫かしら」と考えるはず。それすら無かった。両親ともに。
 少なくともこの点に関しては明らかにうちの両親は異常。日々の生活や会社の経営で、そこまで目が回らなかったのかも知れぬが。
 親父に至っては論外。確かに仕事は立派。それなりに相談にも乗る。でも肝心なところはいつも逃げる。一般論しか言わない。多分俺もそんな男になりそう。
 
<162> ジェミニ ■2005年06月25日 土曜日 23時59分22秒
 いったん物事がうまくいかないと、暴力を振るいたくなります。しかもこの傾向は小学生や幼稚園のころから全く変わりません。つい2時間ぐらい前、いまは薬を飲んで楽になったものの、下手をすると道具を使って人を殴りまくってしまいそうでした。だから大急ぎで家に帰って薬を飲みました。空想の中では最近刃物や金槌を使いたいと思うことしばしばです。
多分ガキの頃に「適度な喧嘩の仕方」を心と体で学んでいないのは致命傷でしょう。「アタマ」で無しに。今更少年期に戻れやしねー。別に他人の痛みなんてどうでもいいけど。ただ、てめーの損得勘定ぐらいは冷静になればすぐ出来る。
「期待水準」が満たせないと暴力に走りたくなるのが酷いのは、やっぱりプチACですかね?物心ついたときには、そんなに競争意識を親から言われることはなかった。むしろ八つ当たりに対しては当然お袋から怒られた。「成績が悪い」ことで、親に怒られたことは一度もない。この点はバランスは取れすぎているくらい。
 ただ、親父はガキの問題には内心確実に「逃げていた」。今でもそう。だから、当然母親に頼る。マザコンにならざるを得ない。
161、へ。他人の苦しみがわかるから逆にやりたくなるものです。ふつうやらないのは「世間」が怖いから。俺だって、権力と腕っ節があれば適当な奴選んで自殺の一歩手前までいじめてやりたい。でも両方ないし。だから社会性身につけるしかない。
<161> ふうせん ■2005年05月26日 木曜日 05時26分59秒
何ですぐ殴るの?
私を殴っても解決しないよ
私を馬鹿にしないで
私だって傷つくよ
痛いよ
苦しいよ
何でわからないの?
何で人の痛みや苦しみがわからないの?
何でそんな酷いことが平気で出来るの?

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This script written by Shintaro Wakayama.