私はやっとわかった。 このコーナーで前回私が書いた文章に対して「自分はほんとは何が言いたかったのか?」 それは「命の尊さ」だ。 自分で言っても照れを感じるが、正月に、某国営放送の朝の連ドラ(沖縄舞台のやつ)の総集編で、本土から来た男の子が不治の病でなくなる場面で自分が涙した時、浮かんできた言葉だ。 自分はその時「あっ、俺は『馬鹿ップルの事件』でほんとはこれを言いたかったんだ!」って気付いた。 だけど3,4日前の自分の脳みそにはその「大事な言葉」に蜘蛛の巣がかかっていた。 画面上の男の子の境遇に対して、自分が居たたまれない感情が起こり、その涙が私の心の蜘蛛の巣を振り払ったのであろう。 なんであれ、相手の辛い姿を見るのは辛い。 どうしても自分の無意識の「忘れたかった痛み」が引っ張り出される。 逆を言えば、そういうところを刺激されるから私は共感?できるのかもしれない。 私は今まで「子供を育てる」をそのまま疑いこともせず、ただ「子供を育てる、情緒を育てる」ぐらいにしか捉えられなかった。 だけど、その番組のお陰で私は「子供を育てるってことは命を育てるってことなんだぁ」と照れもなく、自分で妙に納得してしまった。 私の意識の闇の部分でもまだ「子供をものと捉えている」ところがあるのかもしれない。 だから私のインナーチャイルドは「子供に対してそんな認識じゃまだまだでしょ」ってサインを、思考の浅い私に送ってきたのかもしれない。 私の認識では、確かに「子供を育てる」という表現よりは「命を育てる」という表現・認識のほうが言葉的にも、責任という意味においても私の中で「重み」を増す。 私は未だ未婚で独身だが、「(仮にだが)自分が精神的にも経済的にも親になる前にやるべきこと、やらなくちゃいけないことは、今の自分が想像つかないほどいっぱいあるんだぁ」ってのだけはわかった。 今の自分が「はい、あなたの子ですよ〜」といきなり明日から親になったらどうなるか? 私は恐ろしくて想像したくない。 自分の生まれてきた子に対して申し訳ない。 お父さんは弱虫で、ずっと(お父さんが)小さい頃に感じていた痛み「寂しさ」、トラウマ?から無意識に逃げてきたし、今もまだ全部は怖くて、その「寂しさ」を一つづつ自分で認めるのが辛くて、こうしてもがいている最中なんだ。 そんな自分の思い出したくもない「寂しさ」と向き合えないような人が、どうやって、これからいろいろ遭遇するであろう「我が子の痛み」と向き合えるのであろう。 私が自虐的に「茨の道」を選択するのも、こうしたところが少なからず影響しているのかもしれない。 「こどもにはなんの罪もないんだ。それをわかってあげれない親こそが問題なんだ」 相手の痛みや感情を想像する力。 それが今の私には一番欠けている。
|