当然今日はここからだ。
私は4年前にリストラ→「仕事命」の親父に散々詰られる&母親は無力→(当時の私は今と違って反抗する気力もないほど精神的に追い詰められていた為)終いには指先が震えて何事にも私はビクビクするほどの神経症となる(今の私からじゃ想像できないかもしれないが)→「このままじゃほんとに自分は狂ってしまう」→電話の声の直感だけで運良く私は今のカウンセラーに出逢い、少し安定してから複数の自助にも繋がって現在に至るわけだが、自分がACと気付いた当初「あの(歪な)婆さんなら(私のことを)虐待してもおかしくないな」と私は軽〜く思っていたのだが、それが月日を重ねカウンセリングのTFT療法の効果か、先月私は自室で一人夕飯食いながら何気なくTVを観ていると、画面では最近「包帯クラブ」を出した天道荒太氏のベストセラー「永遠の仔」の紹介がされていて、それを聞いた時瞬時に「虐待? 虐待? 私は祖母に虐待された!?」という声が内面奥深くから上がってきて、私は予期せず号泣してしまい、同時に手にしていた食べ掛けの丼をぶん投げたい衝動に駆られた(瞬間的幼児退行)が、大人の私は腹が減っていたのと後片付けが面倒という意識が働いてそれは免れた(思ったより冷静?)。そして泣きながら私は「何で泣くんだ? 俺が虐待された? 事実? 祖母に?」そう自ら内面に問いかけても答えは返ってこなかったが、私は泣いている自分が怖かった、まるで虐待された自分を認めるようで。 当然、内面から突き動かされるまま、翌日仕事帰りに私は地元の図書館(このような時でもセコイのが私らしい)で「永遠の仔」(上・下)を借りた。その本自体は以前読書とは無縁だった私でも「確か結構売れた本だったよなぁ」ぐらいは知っていたが、内容までは知らなかった、というか興味なかった(文化的側面が貧し過ぎた私)。 そうした私にでも印象に残るあの表紙・・・・・まさか後年自分が読むはめになるとは・・・・・こうして突き動かされて私が本を読むのは、私がACという言葉を知った東ちずる著「私がなぜカウンセリングにかかったか」以来で、故に私は運命というか必然性を感じざるを得ない。それもインナーチャイルドのお陰か。 寄り道せず家に着いて直ぐ本を開く。最初から内面を「ぐわん ぐわん」と揺さぶられる私。以後何度も私は同書に(正確には「湧き上がる己の感情」に)「あなたはどうなんですか? こういう気持ちじゃありませんでしたか?」と衝きつけられ、最初の場面は、自らも虐待された有沢が(周囲の声を振り切って)病院の中庭の木に廃棄のマットを立て(犯人に見立て)て、そこに被害に遭って恐怖から声(怒りの感情)を出せなくなり能面と化した顔の少年が(有沢の真剣な気持ちが伝わって)石を何回も投げるうちにやっと「バカヤロー」と自らの怒りを吐き出し顔をぐちゃぐちゃにした場面。 私は号泣してしまった。そして泣きながら私は(自分の過去に重ね合わせ)羨ましく思った「自分が傷付いた(感情鈍磨)時に誰か大人が、当然できれば親が、気付いてその場で自分の怒りを吐き出させてくれていたら、感情を出すのを促してくれていたら、私は乖離するまでには至らなかったんじゃないか? こんなに辛い思いをしなくても済んだんじゃないか?」って。そう思ったら私は余計に涙が出てきた。
わかるだろうか、辛いのに辛いと言えない、寂しいのに寂しいと感じない、感情が凍結し、もはや泣くことすら選択肢にない子供の痛みが・・・・・それでも子供は生きるため何らかのサインを出している。わかってほしくて、気付いてほしくて・・・・・だからわかってほしい子供の痛みを。愛されなくちゃ活きられないんだよ子供は。
私は何度も泣き腫らした。数ページ進んでは泣き、また数ページ進んでは泣き、ずっとその繰り返しで一気に読むのは今の私には辛過ぎた。
なんで? なんでこうまで私は泣くのか? 泣かざるを得ないのか?
それは彼らの叫びが「傷付けられた子供の感情そのまま」だからだ。そしてそれは何らかの原因で乖離していた、小さくて弱くて誰かに守ってほしかった私が、本来なら感じるはずの感情であり、吐き出さねばならなかった感情でもあるからだ。だから重なる彼らの寂しさと私の寂しさが。だから共感し強震するのだ。 これもすべてカウンセラーのおかげだ。前に何度も書いたが、私がこうして心を開けたのも、数回目のカウンセリング時にカウンセラーに「Kさん(私)感情を出してもいいんですよ」と言われ、無意識に私の中に堰き止めていたものが決壊し、私は止め処なく号泣してしまった。泣きながら「なんで(こんなよくある言葉で)私は泣くんだろう? (これが本で読んでも自分で経験したことがなかったので意味がわからなかった)『ありのまま受け入れられる』ってこと!?」そう思ったら私は余計に涙が加速した。それだけ私は心の奥深い、意識の届かない場所で「こんな私でも大丈夫? お願いだからありのまま受け止めてよ」と叫んでいたわけで、そうした自分の声(インナーチャイルドの傷ついたままの心)に私は今まで気が付かなかった、下手したら一生気付かずに同じ過ちを何度も何度も繰り返して毒親の完全なるコピーと化していただろう。 そしてこれからの私は「今は亡き祖母による虐待が事実なのか? それとも私の思い込みなのか?」はっきりさせるため、より一層内面からの声に傾聴し傷付いたインナーチャイルドに安心してもらえるよう、彼が2,3才の頃に何かあったのならば必ずそこに立ち戻って、ゆっくりでもいいから嘆いていこうと思う。それが「傷付いた彼の感情に寄り添う」第一歩だ。 先日の自助グループでも私はこの話を「現時点では定かでないが」と前置きした上で話そうとしたが、「虐待された自分」を想像しようとすると内面の震えが止まらず、ほとんど嗚咽交じりで開放できなかった。結果自分の番以降ずっと私は押し殺して泣いていた。正直自分でも恥ずかしかったが、「でもこれがインナーチャイルドの感情だから小細工はいらない。彼が泣きたいのなら泣き疲れるまで泣かせておこう」と思い、私は泣き続けた。お陰で帰りの車中私は何か暖かいような感じがして「泣いたままで正解だった」と思った。それも自助グループの仲間が聞きっ放しの姿勢で私の感情を受け入れてくれたからでもある。
それにしても何かある私の奥底に。それが祖母による虐待かどうかはこれからカウンセラーの力を借りてはっきりさせるが、そこに「精神崩壊を防ぐため本能的に乖離しなければ生き残れなかった」何かがあるのはこれではっきりした。 正直私は怖い。というか、自分のトラウマと向き合おうとして怖くない人はまずいないだろう。その衝撃を心理的外傷を、意識の上で覚えていたら生きられないから無意識に仕舞い込んだのであって、そのてん頭では受け止めようと思っているが、実際自分で受け止められるかは全く自信がない。ショックから私がしばらく鬱になるのは仕方ない・当然だとしても「そのまま立ち直れないんじゃないか」という不安が大いにある。一方で(とりあえずその疑いに関してだけは)思い込みだけだったのなら、以前の自分の痛みにさえ気付けなかった感情鈍磨から、自分では未経験の痛みを持つ人の痛みを察せられるようになった自分を認めてあげたい。
今日私はこちらにお邪魔する前1時間ほど催眠療法を検索していたわけだが、素人が調べた感じでは催眠療法も今やってもらっているTFT療法も狙いは同じみたいなので、私はこのまま今のカウンセラーにお世話になるだろう。料金も相場と比べたら割安だし、信頼関係もそのままだし、これからどんなことがあっても(今までの経験蓄積から)受け止めてもらえるだろう安心感がある。
先は永いや。短くとも私の今年前半はこのような低空飛行が続きそうなので、カウンセリングと自助グループでちょこちょこ心の栄養を補給しながら覚悟して行くしかないやね、インナーチャイルドの痛みと共に。
最後に、私の痛みを聴いてくれてありがとうございました。
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