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私たちの物語 - 学校・受験・過去ログ No.17
メッセージ数:339件

<339> 黎 ■2006年10月02日 月曜日 21時11分14秒
あのひとに受け入れられないことを
悲しく、苦しく思う気持ちを、
死にたい気持ちを否定しない。
叩きつけられた悪意の言葉に
最後の気力さえ奪われた。
鋭い硝子の空気を呼吸して、
声にさえならない。
血まみれの喉から振り絞った言葉は、
とうとうあのひとに届かなかった。

茨の海の向こうには、あるという。
虹色の光振りそそぎ、
豊かに笑顔満つる国があるという。
ただ、歩いて行けば。
痛みに耐えて歩いて行けば。
耐え切れず座り込もうとも。
耐え切れず横たわろうとも。

ともに歩んだであろう、君。
その何百の傷に口づけよう。
涙枯れ果てた瞼に。
血を吐いた唇に。
かきむしって汚れた指先に。

誓おう。
あたしは茨の海を歩いていくと。
本当にあるのか知らない、
幻かもしれない笑顔満つる国めざして。


<338> アーネスト ■2006年09月27日 水曜日 22時07分41秒
人間関係のカテで書こうか迷ったが、こちらで。

昔通った塾では、かなり、多分、どう贔屓目に見ても、ひどい目にあった。証人がいるから。周りの人間が特別にタフだったのか、どうなのかよくわからないが、まぁそれはさておき。客観的に見て、あれだけ辞めていく人間がいたのだから、まぁ正常な神経の持ち主ならやめるのだろう。

僕はある教科が苦手だった。授業を聞いていてもわからない。確かに自分の努力も足りなかった。ただそこじゃないと思うんだ。結果、身についた僕の感じ方、姿勢、行動パターンについて考えたいんだ。

僕はそこで質問をしなければならなかった。質問をしなくて席を変えられたこともある。確かに僕は、わからないまま質問しないことがあった。それは確かに問題だと思っている。そのことで怒られたことも当然だと思っている。問題なのはなぜああいう暴力や、言葉で矯正されなければならなかったのかということだ。その結果、僕がその教科において努力したり自分の弱点を探っていくようになったかと言えば、むしろ逆効果だったように思う。

ゆっくり立ち止まって、考えることもできなかった。その場で態度が改められることは確かにあった。そういう意味の教育的効果はあった。でも、長い目で見たらやはり僕はダメージを受けたと思う。自分で考えることをしなかったし、とにかく質問するか、全くしないかのどちらかになった。

今でもその質問する状態と、まったくしなくなる両方の症状が交互に現れる。いろんな段階があるのだ。まず「わからないことが果たして恥ずかしいことなのか、そうでないのか」という基本的な命題があり、次に質問するのは恥なのか恥でないのかという命題がある。多分、前者はNOだろう。後者は、僕はよく失敗した。周りの雰囲気を読めずに質問したことがあった。ただ中学のころはまた別でもある。多分、的を得た質問をすることが、いまでは両者にとって、大事なのだろうと思う。正しい質問のしかた、などというものは存在しないだろうが、また完璧にやろうとしすぎるのはよくないが、冷静に考えていれば、まったく基礎知識がない状態で質問しても、意味がない。そういうときは勉強不足でといえばいいのだろうが。

ただここでまた問題がある。僕はやっぱりわからない=恥という感覚がある。中学のころ、質問してそのもっと前のことがわかっていないということがよくあった。えぇ、そこは小学校レベルだろうと思われるのも怖かったんだろうか。とにかくできなかった。質問しても、わからんかった。やはり自分に問題がある。
<337> ゆっちゃま ■2006年09月23日 土曜日 23時22分27秒
僕の母はアルコール依存症です。今グループに参加しています。僕は学校でもつまらなく、どうでもよくなってしまう
<336> k ■2006年07月27日 木曜日 04時41分31秒
教室で、髪を抜き続けた。
なぜ、誰もおかしいと気づかない?
助けてほしかったよ・・・。
<335> よい子 ■2006年07月12日 水曜日 01時39分30秒
中学校のときの担任。ある日突然知能検査の結果。私の知能指数が50しかないのでびっくりした。と先生がいった。クラス全員の前で
後もう一人130の人がだれだれさんだといった。
知能指数が一番の人と一番びりの人を公表したのだ。
それで就職するとき知能検査のないところ探して応募した。公務員試験も適性検査があるのであきらめた。それから数十年たって精神科にかかったとき知能検査受けたら平均値より上だった
<334> U ■2006年07月03日 月曜日 01時36分43秒
最悪だった12歳の頃。

小学5,6年の担任はイヤな女を絵に描いたような教師だった。
自分の意見に従う子供は露骨にえこひいきして可愛がり、反対するものに対しては陰湿に言葉で嫌味を言う。
そいつの事が大嫌いでいつも反対派の先頭にいた僕は、目の敵もいいところ。

社会科見学で最高裁に行った時に吐かれた
「お前みたいのが、大人になってからこういうとこで裁かれるんだ」
という暴言はいまでも覚えてる。

それまで居心地の良かった学校が、一転して行きたくない場所に変わった。

家の中も父親と母親の不仲がピークに達している時期で、ひどく情緒不安定になっていった。
学校の中でも問題を起こす事が多くなって、毎日のように担任に呼び出されて説教と嫌味を言われ続けた。

そして、ある日の体育の時間前、いつものように一人だけ呼び出される。
また何か説教でも言われるんだろうと思っていたら、担任の口から出たのはこんな言葉だった。

「クラスのみんながお前の事何て言ってるか、知ってるか?
みんな、お前がわがままだからもう関わりたくないって言ってるよ。」

確かに、その頃の僕は自分勝手でわがままにやってる自覚はあった。
けど、みんなと仲良くやっていけてると思っていた。
それが(恐らく見捨てられ不安を抱えていたから)この言葉を言われた瞬間に自分の中で何かが崩れた。

(みんな表面上は笑ってるけど、ホントは僕の事なんか好きじゃないのかも知れない)

そう思ったら、自分の救われる場所がどこにも見出せなくて涙が止まらなかった。
何かを言い返す気力もなく、泣きじゃくりながら外に出たのでクラスメートもびっくりしていた。

そしてその日から、周りの人間が信じられなくなった。
目の前では笑っていても、裏では自分の事を嘲っているのではないかという疑念が頭の中から離れなくなった。
同時に自分をそんな状態にした担任が憎くてたまらなかった。

自分の心をこんなにも傷つけた担任を信頼して、野放しにしている学校自体が敵に見えた。
まるで自分1人が学校全体を相手に戦争しているような、冷たい怒りと憎しみに満ちた心。
誰1人味方がいないと思う絶望感。
悲壮感と自暴自棄で荒れていく心。

それはいつしか自分自身の世界観の根底になっていった。。。


これが最低で最悪だった12歳の思い出。
<333> アーネスト ■2006年06月18日 日曜日 20時49分58秒
中学時代を回想して、思い出したことを紙に書こうと思っているが、しんどいなぁ・・・・一言でいうと不快(unpleasant)。僕、昨日、初めて知ったんだ。恐れっていうのは不快な感情なんだって。充実した時期だから(たぶん12歳から15歳っていうのは一番充実というか安定していた時期だと思う。そんなことないかな?)なおさら不快なんて思いたくないんだけど、充実してたからこそ、「不快だった」って思うことが、自分のなかで事実を覆すことがなおさら不快なんだよね。
<332> こくーん ■2006年06月03日 土曜日 20時00分13秒
大学に入った時、メンタルヘルスのアンケートがあった。
新入生のスクリーニング検査だろう。
いろいろ考えすぎる私は、まんまとその検査にひっかかり、学校の心理学の先生との面談をすることになった。

□誰かに操られていると感じることがある。

この質問にイエスと答えたのが原因なのは、自分でも気づいていた。
先生からの質問もコレについて集中した。
私は答えた。
私たちは社会の枠の中に居て、社会のルールに則って生きています。
自分にやりたいことがあっても、置かれた条件によって制限されることもある。…それを『誰かに操られている気がする』と解釈してしまったのです。
というようなことを。
そういうことなら、と先生は私を放免してくれた。
それ以後卒業まで、そこからお呼びがかかることはなかった。

でも、『誰かの思惑や他人の感情に制限されて、自分らしく生きられない』という主張を含む私の答えは、今思えば、ACなのだ。
あの時、もう少し気づいてもらえたら…なんて、少し思ったりする。
もちろん、そんなの無理だったに違いない…とも思う。
私は、お得意の営業用の笑顔で、ハキハキと答えていたから。
あの頃は、それが可能だったのだ。
<331> 廉 ■2006年05月30日 火曜日 23時00分36秒
小学校4年生の時の担任の先生。

先生は猫背で陰気な私のことに「老人」というあだ名をつけ、「お達者クラブ」「老人ホーム」などと呼んでいました。
私はそれが本当に嫌だった。
先生に直接「嫌だから止めてください」と伝えたにも関わらず、先生は私を老人と呼び続け、それはクラスメイトたちにも伝播し、私はその1年間、ずっと老人、おばあちゃんと呼び続けられました。

自殺すればそれが本当に本当に嫌だったということを思い知らせることが出来るだろうか、と考えたこともあります。

それでも私は実行できなかった。

母はその担任を高く評価していました。
いい先生だ、生徒の気持ちを掴む魅力を持っている、と。

私は母の云うことを信じました。
あの頃は母の云うことは世界で一番正しいこと、でした。
自分の感情は誤り、母の云うことが正解。

今になって思います。
私は本当に嫌だった。
嫌で嫌で仕方なかった。

本当に、嫌だった。
<330> くるみ ■2006年05月25日 木曜日 19時55分06秒
小学校に入って最初の図化工作の時間、クレヨンで絵を描いた。

先生は言った。
「顔は丸、体は三角、手足は線で描きましょう。」
「顔は肌色で塗りましょう。」

…先生って、大真面目な顔して、ウソいうんだね。
先生、それは人間じゃないよ。そんな人間、見たことないよ。

私は、先生の指示に従わず、自分の思う人間を描いた。
そしたら、頭のオカシイ子、変な子、って扱いをされた。

先生の思う人間像を私に押し付けないでよ。
私は何と思われようと、私の思う人間を描くよ。
<329> いいみ ■2006年05月24日 水曜日 03時52分29秒
先輩がいた。
いつも笑っていてくれた。どんなに泣いた後でも先輩がいれば笑うことができた。
寂しいことは今でも多いし、傷ついた心はいつかこの家に置いていかなきゃならない。でもこの学校、この部室にだけは幸せだけを残していきたい。先輩がそうしたように。
だからがんばります。あなたのように。笑えるように。
<328> 埴輪 ■2006年05月19日 金曜日 09時51分58秒
それなのに顧問は、
自分の面子の話。
陸上部の顧問と、仲悪かったから。
ああああああああああ損したなあ!!!
<327> 埴輪 ■2006年05月19日 金曜日 09時49分52秒
いや、別にどっちでもよかった。
やっぱり球技のほうが面白いと思うよ。
そうじゃないんだよなあ。顧問に、
「お前がどうしても行きたいっつーなら止めないが」
と言われたこと。
違うんだよ先生。
辛かったんだよ。何のために毎日練習してるのか
役に立たないのに何で試合に行かなきゃいけないのか
役に立たないのに、相手にされていないのに、何で所属する意味があるのか。
がんばっているのに虚しかった。
だから突き放されたように感じて、もうどうでもよくなってしまった。
陸上をやりたかったわけじゃないんだ。
<326> 埴輪 ■2006年05月19日 金曜日 01時49分56秒
私は傷ついているんだろうか。
いじめらしいいじめを体験したわけではないが
あるといえばあれがまさにそうだ。

部活の先輩が誰一人口を利いてくれなかったこと。
私がペアになるとあからさまにいやな顔をする。
でもお前のどこそこが気に入らないから直してくれなんてことは言わないんだ。
ただ、話しかけてもこっちを見ないし、チームに分かれろといっても
なんとなく入れないようにしている。
失敗すると舌打とか。ため息とか。
私、あやまっているのに。
ああ、S原先輩のあのきたない顔は忘れない。私にあからさまにいやな顔を見せた。
思えば同級生だって助けてはくれなかった。
私は、だから辞めたかったのに。
得意な長距離走へ行きたかったのに
結局顧問の面子がつぶれるとか言うのを言われ、気にしてしまった。
私は何がしたかったんだ。
あんなとこいやだった。3年続けて何になった??
得意な陸上で見返してやればよかったのに!
辞めたら経歴に傷がつくと思ってた。
そんなことない。いやいや続けたって何にもならない。
そんなことより早く見切りをつけて好きなことする時間に当てればよかった。
中学時代のちょっとした失敗が何だというのだ。
思い切って失敗すればよかった!!
何を守るものがあったって言うんだ。
あんなもの、守ってなんになった??
顧問の面子守ったって、高校の推薦落ちたじゃねーか!

思い出したくなかった。
いじめなんて経験しなかったと思ってた。
私はこれを封印しない。
向き合ってく。
<325> エゴ ■2006年05月12日 金曜日 12時25分22秒
記事:324修正  いじめ続ける子も作っていた> いじめられ続ける子も既にいたのに
<324> エゴ ■2006年05月12日 金曜日 10時04分52秒
小学校高学年で塾へいきいじめという物を本当に知る、小学校でも変化、リダー転校、転校、転入生、先生変わる、大人社会やテレビや受験ストレスで皆なんか変わる。自分も劣化度高め。
良い社会をあの時失った気分になちゃった、それまであれ以来、小3頃から自分も自分が関わらなければ壊れないって傷つけない、腐らせないって信じてたから知れなかった、知ろうともしなかった、気づけても知れない人間だから、動かない。自分からは基本的にNG 相手から声かけられれば遊ぶ、普段は、イスに座って机の上で眠っているようで頭伏せながら実は色々考え事。 
間違いに気づいた時点ではもうどうしようもないと思った、力ないし退いて自分の居場所、既にないけど譲のみ、意味ないけどね、傲慢だし、あの後どうなったかよく分からないし。
でも、自分に関係なく世の中も動く、人も変わる、自分もその一部だけど、知りたいなら、気づきたいんなら、踏まえたいんなら、きづけないし、わからないし、力が無い、付け焼き刃的行為が嫌なら努力しないとね、もう嫌なんだ、自分が何かに依存するのも他の事も。

中学の連中、斬りつけるな、火傷負わせるな、ちょっかいだすな、仲の良い人と普通に暮らしたい。何で廊下にあったサバンナが教室に移動してくる、寝てる姿勢のやつにけがさせて楽しいか?
火傷させた人、あんたらの知識はどこから仕入れる? 道具は使いようだが発想は凄いが所詮使い方が悪事だけとはチンピラ連中だな。
斬りつけたやつ、顔に切り傷つけたやつ、自分の権利として問題にしても良かったが面倒事が嫌いな性格で助かったね。そのまんま、人生つぶせたよ、その後わびもせず増長して不愉快〜。
いじめ・ふざけてた奴ら最低、ルーレットよりもまるで肉食獣、はぐれてたり気の抜いてる奴襲ってなにが楽しい? お前ら動物以下だ。陰険にもず〜〜〜〜っと、いじめ続ける子も作っていたのにたらんのか? 先生なんていないも同然、いや学級崩壊決定。どちらかといえば先生から助け求められていた用だが、無理無理、力ないし、人間不信の固まりだから、疲れるの面倒。
ちょっかい出して来た人、はは良かったね、もし法律という枷なければ、あれでは済まさなかったよ。 通り魔的なちょっかいでこっちが嫌っているのに何回もして来たんだから、
思えば暴行罪で訴えれば良かった、本当は重傷負わせたかった、面倒は嫌い、早く終わらせたかったから、動けなくするか、2度としたくないと思わせるまでしたかった、骨折る、失明。手加減してまだ怒り残ってるボコボコにはしたけど全然足りないの分かってる、反省しても無理そうだから無視させもらったけど。もしあなたとあったら、すっごく蔑むでしょうね、心の中で。
<323> イグアス ■2006年05月10日 水曜日 16時12分51秒
小学校低・中学年のとき、給食の時間になるとなぜか嘔吐していました。
先生、お母さん、知っていたはずなのになぜ助けてくれなかったのですか?
よく覚えています。自分の机の上におかれた給食を目にした途端、我慢できなくなり急いでトイレに駆け込んで個室の壁にまで飛ぶほど激しく嘔吐したことを。
いつの間にか給食で嘔吐しなくなりましたが、いつかの家庭訪問のときケロリとあなたたちは話していましたよね。「最近給食の時間吐かなくなりましたねぇ」と。まるでなんでもない話のように。
なぜあのとき、私は給食の時間いつも吐き気を催していたのか理由がわからない。あれは一体なんだったのだろう。
<322> なきむしっこ(FB注意) ■2006年05月09日 火曜日 15時02分37秒
16歳だったという高校時代に援助交際をしていた女性が書いた半自叙伝がある。
そこの文章でこんなくだりがある「私は相手が乗っかってきたときに意識をとばした、お産のように数を数えて・・・気が付いたら相手は終わらせていた」
それから「スゴイ生き方」という学校でいじめにあい、自分を傷つけることでしか生きられなかった著者の本の中でもこういうくだりもある。「私は学校の中で感情を殺すことを覚えた、いじめでの同級生の視線やばかにされている自分を背中から見ている感じにする、「嫌いだから死んで欲しい」といじめる人たちに囲まれても笑っていた」
私もリスカしたわけでもない、援助交際したわけでもない。でも同じように意識をとばす感覚分かるの。現実をどうにかやりすごすために体裁を整えるために、私もいじめで負った心の痛みや恐怖「がんになってしまうんではないか」という思い込み(自分でも当時から子どもじみた思い込みだって分かってた)
そういう余裕のない生活、恐怖や不安や私よりも上に自然と立ってしまう、もしくは立とうとする女の子たちに過去のいじめまでエスカレートした事の繰り返しが行われるのではないか、そういう風な「いじめられる子」役にずっと刻印付けられるんではないかの恐怖の中で、学校では息をいい感じに吸えなくなってしまった。家に帰ると戻る。
 でも学校を辞めることで貼られるだろうレッテルも恐くて、しかも家族がもともと世間と迎合していて、遊び感覚のあるもうすでに(ばかにするくせに)大人扱いを私にするうちに家族では学校に行かなくなるなんておくびにも出せなかった。
 私はただこんな不安定な学校環境(いついじめ役に付かされるか分からない、いつ人の言葉や時には暴力(これはあまりなかったけども)が私の心に一生消えないくらいの衝撃を与えるか分からなかったから)で自分を本当に守りたくて、絶対に「素」の喜んでいる自分とか見せたくなかったから、本当の自分を評価されることもばかにされることも私には恐ろしかった、きっとそれによって私の心はこなごなに砕かれて、そういう姿を見て、自分の弱点をもっと周りの子どもに突かれるだろう事を小学校で、家(まだ手加減はあるけども)分かりきっていたから。だから、私は自分を守るために、自分で自分がいやだと思うことで頭をいっぱいにする方法を思いついた。信じていた神様にがんになりたいです。って祈った。エイズにもなりたいって祈った。テレビでの殺人事件をやったのは私です。って心でそういう自分を傷つけることでいっぱいにした。外目には分からないでしょう?腕に傷はないから。不登校しているわけではないから。普通のふりして、自分の中では自分は現実に参加なんてしていなかった。勉強しているふり、テストうけるふり。学校楽しんでいるふり。部活しているふり。そして心の中は過去のあなたたちが喜んでしていたように自分を傷つけた。私が傷つくことで大喜びしていた家族や学校の同級生のしていたことを私は自分で自分にしたの。きっと私は夢の世界に逃げるよりもえらいと思った。辛いことしているからきっとえらいと思った。逃げるなって母親から言われていたから、逃げていないと思った。過去のいじめを自分の中で再現しているから。がんになりたいです。白血病になりたいです。私がOOOOOOちゃんを殺しました。私はレイプされたいです。そう全部自分がその時最大に恐れていることを神様に祈るの。そうやって成長してきた。勿論分かってた。もう一人の自分はそんな自分に怯えた、汚く思ってた、自分はこの世の誰よりも汚い人間で、本当にそう犯罪に巻き込まれるべき人間だと思ってた。
 でも私は家族の前で普通の学生を降りられない、学校の大変な業務をこなしている先生の負担にはなりたくなくて。大変そうな家庭環境の子どもに対しても。私だって子どもなのに!!!そう思ってた。上からこの場がうまく収まっているかを確認するのをやめられなかった。だからやっぱり反抗期もなかった。自分でデータで平均的に起きる17歳で無理やりガス抜かないと死んでしまいそうだったから起こしたけども。
<321> なきむしっこ ■2006年05月07日 日曜日 18時58分11秒
 学校に23歳の時教育実習に行った。私が大人になっている事を見せ付けるために行きました。
 でも実際の私は小学校5年生のままでとまったままで、心の底から現実と交流できない私は「普通」の仮面をはりつけたまま・・・大きくなったのでした。
だから時はとまったままだった。誰も私の中に入ってこれなかった。心の中には絶対に入らせなかった。とても焦っていた。このままでは大人になって何もかも達観したような期待されるよく「ドラマ」であるようなよく先生が「昔はお前こうだったよな〜」って言うようなそんな人物になれないではないか。
だから焦って彼氏を作ろうとした。彼氏さえいれば経験さえしていれば私は立派な大人になれる。そう思った。自分だけのとりで、しかも誰からも認められる形の、がただほしかった。
教育実習に行ってやった事は意識をとばしながら、生徒の前で自分の恥さらしをした事、ドラマがかった事をした事。子どもの真面目さを感じたこと。大切な生徒にあったこと。

でも緊張する日には子どもに殺意を向けてしまうのではないかと思った。自分の事が恐かった。
 子どもに何されても怒らなかった。そして何もかもさせて、笑ってみていた。この子は何するんだろう?って無責任に放置していた。
 昔の家族とかぶった。母親も父親も変なときに親ぶっているくせに普段は無責任に笑いながら私を見ている、見下している。
私も人が困っている様子を楽しんで見ていた。そして思い出したの。彼氏が私を門を飛び越えるのを手伝ったときも、彼氏のすべっているようすに笑っていた事。よくばかにしては笑っていた。現実をまげては何そんな解釈してんの?ばかじゃねえの。って笑っていた。笑っていたんじゃなくてあざ笑っていたの。ずっと子どもの時にされてきた事あざけり、ばかにし、心の中に自分を傷つける装置を作って自分を守ろうとした日々。

学校。毎日息を殺していた。先生の期待をすべて読み取ろうとしていた。もうだめになりそうだった小学校56年のとき、私は「この先生の目には変な子一大事な子と思われないように、もう少しだけ頑張って」って自分に励ました。あと少しあと少しだからあと少しあと少ししたら休める。大人になれる。ここを卒業できて、もうこの子に会わない。もう少ししたらクラスが換わる。だから耐えて。そう自分にずーっと言い聞かせて、ついに高校できれたのよね。
でもそれでもなまりのような思い足取りで2時間の電車にのって高校へ通った。父も母も私の無気力に「何かやれよ!!!!!」と怒鳴ったんだっけ。なまけていると思って。私はただ休みたかった。もう限界だった、フツウちゃんをするのは。人の期待、思惑通り生きるのは。それなのに私は冷静さを捨てられない。多分やろうと思えばもう自分の本当の心なんてとっくに捨てていたから、演技できたかも。3年間適当に青春して、夢見つけたふりして、大学親が私の学力はこれくらいと見くびっているライン以上の早稲田とか受けて落ちたフリして。すべて演技だった。すべてフリだった。私本当の私はいじめで人からの中傷で死んでいた。多分。死んでいたと思う。というか諦めていた。ふりだけでうちの家族の中でいきていけた。すべて決まっていてとくに驚くことも真剣にいきることもない日々。真剣にいきれば笑われるだけで、その張り詰めた背中を突き落とされるだけだったから。
 私は教育実習に行って、全員の前で昔コンプレックスがあって・・・なんて話したら全員シーンとなってしまった。頭おかしい人扱いされた。私はそういう人に合わせてしまうみたい。あの場所にはもう帰りたくない。人を傷つけそうで、でもそんな事するくらいなら自分を傷つけようと振舞えば、結局うまくいかなかった場所にしかならなかった。でも人を傷つけなければそういう衝動を持たなければ生きられないのが私で、だから今自分を傷つけようとして許しをこうている。
教育実習。母親の「私はあんたのカウンセラー役だよ」っていう言葉も、演技でしか生きられなかった日々もあるのに今でも私は自分を大丈夫だと思っている。何もかも分かっている冷静で。そして「いい家族」だと思っている。虐待受けていないもの、性的虐待も受けていないもの。ただもたれかけられたこととピエロだったことと、いつも姉にひどい言葉浴びせられていたことと、笑いものだったこと、学校では奴隷だったこと。だけ。
教育実習での事はもう忘れたい。

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This script written by Shintaro Wakayama.