Top過去ログ一覧
私たちの物語 - 学校・受験・過去ログ No.12
メッセージ数:240件

<240> aya ■2005年05月26日 木曜日 22時43分01秒
辛い場所 顔色を伺う場所 行かなくてはいけない場所
体型と容姿が人並み以上ならちやほやされ、
それか成績がずば抜けなければ、運動がものすごくできなきゃ
いきていけない・確実に居場所が確保できない
そんなところ。
今大学生だけど、入学式当日過食発症して
もうそれ以来ホントに楽しかったことない。
というか、小さいころから心からたのしかったことなんかない。
だっていつも、条件付じゃなきゃ私を認めてはくれないし、楽しい時間はかならず
終わり二度と訪れない・とぼんやり考えていたので。
誰も信用できないし、でも生きるためにはだまして自分にうそつきながらも
淡々と日々の中で演じるしかないんだと思ってきた。
同級生も教師も、いつだってみんな敵だった・・・
そんな毎日。
<239> ふうせん ■2005年05月20日 金曜日 06時30分41秒
学生になって、初めて一人暮らしを始めた時の、何とも言えない開放感!
淋しくなんて、全然無かった。ホント気持ち良かった。
ホームシックになってGWになると速攻で家族に会いに帰省した友達が、信じられなかった。みんなに愛された友人思いの子だった。

親が死んだら、私は泣くのかなあ
泣かない気がする。

<238> アーネスト ■2005年05月19日 木曜日 01時51分35秒
最近、良い思いでもちらほら思い出すので、書いておく。
小学校の思い出というと遠足の前日にお菓子を買いに行くことだった。まだ近所に駄菓子屋があって、普段は行かないだけに一層楽しかった。それこそ何軒か回って、半日ぐらいかけて選らんでたな。途中で食べてしまったり(笑)。 後、高学年になると友達だけで某遊園地に行った。2年連続くらいで行ったかな。友達同士で出かけた思い出ってなかったけどあったんだ。なんか嬉しかった。
<237> アーネスト ■2005年05月18日 水曜日 18時12分10秒
≪生き方の棚卸し1≫(少しカテから外れるかもです)

まだ一応、学生の身である自分にとって学校生活は幼少期よりも密接に結びついている。このことは自分的にはかなり容量を持った記憶だし,それは10歳の自分と同質の傷を受けた体験だった。(さっき買い物に行っている最中に,ふと今なら話せるかも,と思ったのだ)。それはこの4,5年分厚い否認の膜に覆われていた。それでは書いてみる。

この際、隠しても無駄だから書く。俺は大学1年の秋にラクロス部に入った。その名前も知らないスポーツを始めたのは,みなが大学から始めるスポーツだったから。妙な自信があった。自分でもやればできると思ったのだろう。それまでの6年間は陸上部,中距離。中学では区大会800M優勝、高校では国体の旗持ちもやった。スポーツというものが純粋に好きだったわけではないが,中高の6年間を振り返る時、部活をしていた記憶しかない。

とにかくそういう経緯で始めた。2年に上がる前に母が死んだ。ここが自分では非常に重要なところ。今まで部活をする自分を誉めてくれた母親が死んだから俺はその「誉め手」を母以外に求めるしかなかった。それがKだった。

細かい棚卸しは除々にやるが,とにかくKは自分の母代わりになった。飯を奢らせ,酒を奢らせ,時には女を紹介させた。その内にチーム改革の話しが持ち上がった。正直やりたくなかったが「母」の命令には逆らえない。

時がたち、「再び」母に「捨てられる」危険を感じた自分は逃げた。この時点でトラウマを追体験した。と,同時に逃げたことを後悔し恥じた。なぜ恥じただろう?それは中学から続いてきた一つの「生き方」=勝つこと、逃げないことだけを信条にしたパワーゲームから降りたからだ。今まで得てきた承認の歴史を捨てることになるからだ。部屋で1人、自分の背後にいる≪承認を勝ち取ってきた≫と思ってきた教師、同輩、後輩、先輩、親、社会、地域の人、競技場で会った役員、すべての人に嘲られているような気分に陥った。「お前はだめだ!」、「お前は負け犬だ」、「お前は途中で逃げたくずだ」そう思っていた。

今思えば、俺は誰のことも考えていなかった。ただ母を捜していただけだった。それに気付いたのはつい最近。責任ある人間を裏切った。優しくしてくれた人間を裏切った。どれだけスキルがあるか、どれだけ筋肉があるか。頭の中それだけ。そうやって異性だって落とせると思っていた。そこには愛も思いやりもない。汚い生き方。粘着質で、頑固で融通の利かない、苦しく寒々しく、悲しく不幸な生き方。人間味のカケラもない。ロボットですらない。一体、心の篭もった「ありがとう」を何回いえただろう?自分の大切な人達を何度、省みただろう?これじゃ人が去っていっても当然だ。

もっと酷かったのは自分が退部の事実を否認し続けたこと。去年の10月くらいまでしつづけたこと。俺は負けていない、俺は逃げていない。そうやって他大学の連中にも迷惑をかけた。人の目と評価を気にしつづけ、裏で人を罵り、自己評価をがた落ちさせた。寝坊で某女子大の合同シンカンもすっぽかした。練習も休んだ。全ては生き方の延長でしかなかった。組織や責任など、頭になかった。あるつもりでいつも自分のエゴだった。(とりあえず今はここまで)
<236> こくーん ■2005年05月14日 土曜日 03時51分28秒
小学校・中学校(1年)といわゆる『大人しくて内向的』な性格で、どちらかと言うといじめられる方だった。運動神経が鈍かったことも原因だろう。
中1の時は、友達がいじめられているのをかばったことと、妙に正義感が強かったことが原因だったように思う。だが、不思議なことに辛かった覚えはあまりない。いじめにあっているという自覚はあった。でも、その事柄について、ピントを外していたように思う。その代わり、体調は崩しがちだった。
ただ、はっきりと覚えていること。中1の三者面談で私がいじめられているようだ、と先生が母に伝えたとき、
『この子は辛いことを私には話そうとしないんですよ』と言ったこと。
そうなのだ。私は心の中を母に言わなくなっていた。この時には既に。多分、今でもそうだ。私の醜い心の内を見られたくないと思っている。母だけでなく、他人にも。だが一方で全てを受け入れて欲しいとも思っている。矛盾。

中2。両親が離婚して、引っ越して、私の性格は少し変わった。父が決定的にいなくなったことで、自分が『男』になる必要があると感じたのかもしれない。実際、その後、しばらくして女であることを拒否していた時期がある。
高校。冬の時代。集団の中で生活することが息苦しくなった。
…もう、あんな集団で生活することはないのだろう。
今考えると、よく毎日毎日、大人数の中にいられたものだと思う。理不尽とすら思う。でも、学校が嫌い…と言い切れないのは、得るものもあったからなのだと思う。少なくとも勉強は嫌いではなかったし、人との関わりも経験したからこそ、の苦悩なのだろう。
(何を書いているかわからなくなってしまいました。ごめんなさい)
<235> アーネスト ■2005年05月10日 火曜日 12時10分05秒
小学校1年の時、クラスに,極端に無口で誰とも話せないような女の子がいた。
どういう経緯で(もしかしたら先生から頼まれたのかもしれないが)そうなったのか知らないが,いつの間にかそのコの世話役というか遊び相手になっていて,よく家まで一緒に帰ったり,ついていったりした。 だとすると自分はもうこの頃すでに、世話役という役割を背負い込んでいたのかな?そう思うとぞっとする。
<234> アーネスト ■2005年05月08日 日曜日 21時55分11秒
教師の決まり文句「やるときはやる」,「けじめ」,「切り替え」,「両立」いつもわかっているつもりで,わかっちゃいなかった。
<233> スナフキン ■2005年05月03日 火曜日 16時46分50秒
あれは小学4年の時、バレーボール部に友達と入ろうとして、
学校の帰りが遅くなるので親に聞いてみた。

「突き指でもしたらどうするの、ピアノを習ってるからバレーはしないほうがいい」と言われた。

母は私をピアノの先生にしたかった。
それは母の夢だったからだ。

ピアノをしている友達だってバレーをしていた。
私がいくら言っても母は駄目だった。
小学生の私にとって、親の反対を押し切ってまですることはできなかった。

ピアノも私は好きではなかった。
習い続けるのも実際は苦痛だった。
毎日練習をせず、行くちょっと前だけ練習していく。
そんな感じなので、後から来る子にどんどん抜かされる。

でも母は、すごく勘違いをしていた。
私が音楽大学に行くことを高校に入ってからも言っていた。
ピアノは中学の頃にやめていたのにだ。

私はそろばんも習いたかった。
それも駄目。
5年生になったある日から「今日から**ちゃんと同じ塾に通いなさい。申し込みはしたから。」
私は行かないと反論したが、お金を払ってもったいないから行けとのこと。

子供に相談も無く、自分の考えだけでする。
子供はお人形。
親の言いなり。
自分のしたい事もできない。

小学生時代から、いやもっと小さいときから自分の感情は無視されてきた。
親の思いどうりに動けと。

私は自分の感情を表現できない、おとなしい、居るか居ないかわからない子供になってしまっていた。
学校でも目立ちたくない。
その他大勢の中で注目もされたくない、そんな子になっていた。
<232> アーネスト ■2005年04月28日 木曜日 22時18分21秒
思い出した。忘れもしない。中学2年の時、「真面目だから」という理由だけで,会計監査に推された。多数決で,拒否する勇気も無く,渋々受諾。

新年度の委員挨拶がテレビ朝会で行なわれ,強張った顔で挨拶をした。トラウマというよりは,今の自分と比べてみた時に,そこにとてつもない落差が生まれ、愕然とするのだ。あるいは自分の変わりぶり,芯の無さに怖くなるのだ。

その挨拶で先輩に言われたこともショックだった。「暗いとか,顔が長い(笑)」とか,顔が強張っているとか言われた。

役員の仕事もたった一つ。年度末の決算で,帳尻が合ったということを報告するだけ。そのためだけの委員。わけわからん。やって嬉しかったんだか,悲しかったんだか。今、同じ状況に立ったら間違いなく断わっている。
<231> こくーん ■2005年04月28日 木曜日 03時13分41秒
生きていくのが怖くなったのは高校生の頃。
『嫌』なのではなく『怖い』、という感情だった。
急に足元が崩れていくような感覚を持った。世の中はわからないこと、曖昧なことばかりだと思った。こんな心もとない世界でどうして皆、毎日楽しそうにニコニコ暮らせるのかわからなくなった。どうして明日を、1年後を、3年後を、10年後を、必ず来るものと感じられるのか理解できなくなった。
そんなことを考えていたから、目の前の事に意識が向かなかった。どこか虚ろだった。そんな状態で学校生活に溶け込めるはずがなかった。相変わらず優等生ではいたけれど、それはそうでありさえすれば、大人(親)との摩擦が避けられるからだった。それに伴い生じる同級生との摩擦は、多分どこか見下すような感覚で無視していたんだと思う。自分には人に見えないものが見えているのだと心のどこかで思っていた。
今は当時の自分こそ盲目だったようにも感じる。
<230> アーネスト ■2005年04月22日 金曜日 19時33分16秒
今、思い出した。
大学に合格した時、父と,母と私が団欒していて「僕が行く大学でお母さんは不満はないの?」と聴いたら「無いわよ。お父さんもお母さんも大学のランクにはこだわらないわ」。思いだしただけで,気持ち悪くなる。なんでそんな先回りして親に気遣ってんだろう?今じゃ考えられない。
<229> アーネスト ■2005年04月22日 金曜日 18時46分32秒
表面的な模倣は結局,表面的な変化で終わる。例えばあるアーティストの音楽を真似たければ,その人のルーツミュージックを探っていくように,根元にある精神性を真似てみる。それは一般的には影響された,ということになるのだろうが。

高校、大学と,自分が嫌いで(そう,確かに嫌いだった。しかしそれは自分ではなく,他人に受容されない存在としての自分が嫌いだったのだ)何回も仮面を,摩り替えてきた。

中学卒業時には「もっと明るく,もっと友達を作ろう」と思って高校に入った。入学当初は無理して明るい馬鹿キャラを演じた。母にも友達が増えた,と報告していた(記憶にはないが母からの,そういったプレッシャーがあったのだと思う)。しかし卒業してみれば,結局薄っぺらな人間関係しかできていなかった。

そして,また(なんで,気付かないんだろう)「もっと明るく,もっと友達を」と思って大学へ。そして今度はもっと酷い形で人間関係が終わった。
<228> アーネスト ■2005年04月21日 木曜日 18時55分49秒
高校の修学旅行の写真を見てたら「自分って幼ねぇ〜」と思った。子どもみたいにはしゃいでいる姿が母とかぶった。「少年っぽい」とか「子どもの心を忘れない,とかそういった肯定的な意味じゃない,幼稚とか稚拙という言葉がしっくりくる。その背後にはいつも親という監督者がいる。どこに行こうが,ずーっとその影響力はついてくる。
<227> アーネスト ■2005年04月11日 月曜日 14時48分26秒
丁度、鬱を発病して期末テストの単位修得のために,ひーひー言っている頃に救済措置を出してもらい御世話になった先生にばったり出くわした。3年前の話しだしもう自分のこと忘れているかなーと思ったら,覚えていてくれて「元気になった?」って効かれた。本当に嬉しかった。
<226> アーネスト ■2005年04月10日 日曜日 10時42分20秒
音楽、美術,作文など作業、実技系の科目が苦手だった。自分という人間がよく分かっていないから,何を創ったり書いたりすればいいのか,わからないのだ。そして何回も書き直す。昔から人一倍,作業に時間がかかった。人が2で終わらすところを自分は10やっていた。決して努力しているとかそういう意味ではなく,ただ時間がかかるのだ。今でこそ,自分の考えを文章にすることができるようになってきたが,昔は自分の中が空っぽだったから、何を書けばいいのかわからなかった。修学旅行の感想文なんかも,無理して「〜に感動しました」とか「〜が印象に残りました」とか「〜を,今後の生活に役立てたい」とか,自分の言葉じゃなくて,当り障りのないものを選んでいた。そもそも「修学旅行に行ったら,感動しなきゃいけない」と無理に思い込んでいた。
<225> こくーん ■2005年04月08日 金曜日 05時57分58秒
高校1年生の時、英語の授業で詩を書いた。
自分が欲しいもの、好きなものなどを単語1つでタイトルにしたのだが、その時私が選んだ単語は『存在』だった。
当時、既に、私は自分の『存在』を失っていた。少なくとも、そう思っていた。それは今でも変わらない。そうであるとすれば、人生の半分近くを、私は自分の存在を認識できないままでいる、ということだ。
<224> いろは ■2005年04月02日 土曜日 00時59分00秒
大学生になります。3年生です。卒業できるかな?
<223> ふうせん ■2005年04月01日 金曜日 06時40分39秒
学校生活については、小学四年生からの記憶しかない。それまでのことは霧の中の様にぼんやりしている。クラスに親しくしている友達がいなかったからだろうか。担任からいつも消極的と言われていた。地味で目立たない生徒だったに違いない。いじめには遭ってなかったけど、意地悪な男の子に、消しゴムを取られたり給食に虫を入れられたりしてたから、学校が大嫌いだったことを思い出した。それでも生きていた実感がない。少なくとも楽しかった記憶が全然ない。灰色な感じ。
四年生になって転校した。引っ越すことが決まったとき、嬉しかった。新しい学校には楽しいことがあるかもしれないと思ったからだろうか。
母は、「友達と別れて悲しくないの、変な子!」と、いやな目つきで、まるで不気味な生き物を見るように、私を見た。
だから私は自分の事を、おかしな、普通じゃない人間だと思ったんだ、きっ
と。悪いのは私だ、と。
今ならこう思える。自分の子が同じ事を言ったら「今までの学校、楽しくなかったの?何も知らなくてごめんね、悩んでることがあったら、お母さんに何でも言っていいからね。」それか、ただ、「新しい学校、楽しいといいね!」って傷ついてるかもしれない子供の心を、暖かく包んであげたい。

本格的なイジメが始まったのは、転校してからだった。
同性に嫌われ、先生に隠れて集団(五人組)で苛められるのは、精神的に、死ぬほど苦しかった。何度も自殺を考えた。親には決して言いたくなかった。
親を心配させたくなかったからじゃなく、母に、‘いじめに遭うなんて、情けない子。’と馬鹿にして蔑まれるのがいやだったし、言ったが最後、「今日はどうだったの!?言い返してやった?」と毎日追い詰められるのがわかっていたから。
私が嫌なだめな人間だからいけないんだと、今までずーっと思って来たけれど
生まれつき、厭な人間なんていやしない。私は、育ってきた中で、思いやりというものを、学べなかっただけなんだ。だから、周囲の人に、不愉快なことを、自分で気付かないで、言ったり、したりしてたんだろう。
思い出した、いつも影の様に存在感のない末の妹が、なみだ目で突然叫んだんだ、「こんなの普通じゃないよ普通の家族は、こんなんじゃない!」
その時、私たち家族は、誰かの失敗か欠点をあげつらって、みんなで馬鹿にしていたのだ、とても楽しく。多分このときは、母についてだったと思う。父のことは決して誰も言わない。そんなの自殺行為。私でもない。私はその時とても気分がよかったから。馬鹿にしてからかってとても楽しかったから。いつもの普通のことだったのに、普通じゃないなんて、夢にも思わなかった。
この妹の苦しみを思うと、胸がつぶれそうになる。幼い頃は、元気で無邪気によく笑う子だったのに、小学校に入学する頃には、暗い顔の、おとなしい、居るか居ないかわからない子になっていた。(アルバムを見るとはっきりわかる。途中から、表情が死んでいる)
何考えているかわからない、友達が一人もいない不気味な姉と、
父や母と大喧嘩ばかりしている気性の激しい姉の下で、何を考えて生きていたんだろう。

卒業式で泣いた事が一度もなかった。別れて悲しい友達も先生もいなかったから、当たり前。「変な子ねえ、冷たいねえ。」とそのたび母に言われたっけ。
小学生の頃飼っていた小鳥が死んだときは、号泣した。大好きだったから。
<222> toa ■2005年04月01日 金曜日 02時37分14秒
学校に行くのはとっても苦痛なことだった。
小中高ずっと親と過ごしたことで心が痛くて毎日泣いていた。
寂しかった。実家にいるのに。友達だっているのに。
いても、会えない。会わせてもらえない。出かけると怒られる。
そんな学生生活、何が楽しいんだろう。勉強だけが全てじゃないんだよ。

大学に入って親から離れた今、ものすごく安心している。親がいない。素晴らしい・・・。
離れた直後はものすごく寂しかった。今でも、たまに恋しくなったりする。
でも、恋しくなって電話をしても、癒されることはない。声を聞いて安心なんかしない。

あたしが救われたのは、小5・6の時の担任の先生のお陰だと思う。
一番苦しかった時、よく頑張ってるねって言ってくれた先生。今でも本当に大好き。
卒業してからもお手紙たくさん書いて、そのたびに返事をくれた先生。本当にありがとうございます・・・。
<221> アーネスト ■2005年03月30日 水曜日 00時33分16秒
なぜ高校までは学校生活を頑張れたのか?それは教師がいたからだ。頑張れば少なくとも誰か1人は自分のことを誉めてくれた。いい子だった私は尚更だ。ところが大学には,誉めてくれる人など誰もいない。自分はずっとこうやって誉められて成長していくものだと思っていた。でもそれは大間違いだった。

Copyright (C) 1998 CGI Arkadia All rights reserved.
This script written by Shintaro Wakayama.