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私たちの物語 - 学校・受験・過去ログ No.1
メッセージ数:20件

<20> ゆらりん ■2003年07月18日 金曜日 16時04分55秒
小学生の頃。
2年から6年まで 同じ担任教師だった。私は、この教師が嫌いだった。
授業中 手をあげないと 廊下に立たされて スコップで殴られたり
よく説教された。小学校6年の頃 この男性教師から「早くブラジャーつけ
ろ」など 身体に対する 嫌な言葉をたくさん浴びせられた。
今でも その恥ずかしさが時々戻ってくる。本当に嫌だった。
<19> maasan ■2003年07月06日 日曜日 22時34分16秒
<学生時代ー小学校編>
親戚の叔父に学校は楽しいかと聞かれたとき、「楽しい」と嘘ついたのを思い出す。ほんとは行きたくなかったんだ。今思うとあのころも欝だったと思う。僕はからきし作文はだめだったが、自分の好きなことはいくらでも書くことができた。当事「アポロ計画」に夢中で、ロケットの打ち上げから月着陸、地球への帰還のプロセスを全部書くことができた。本は嫌いではなかったから。本は宇宙関係、ロケット関係、特にロケットの歴史、ウェルナー=ファンブラウン博士の本はよく読んだ。ロケット学者になりたかったからだ。ちょっとそれたが、本の世界やその想像の世界に逃避しなければとても学校に行けなかった。あと楽しかったのはドロジュンとかサンパンといった遊びぐらいのものだ。(出身地がばれたかな)
<18> 流花 ■2003年07月03日 木曜日 04時22分59秒
この春、受験で失敗。
他に受かった所はあったけど、もとからそこには行く気なかったから。
(だって先生に受けろって無理矢理受験させられた所だし)
でも、ちょっとホッとしてる。
だって何がしたいか、実はまだよく分からない。
歌が好きだし、ピアノも弾けるから「音大に行く」なんて言ったけど、
実際問題、金がかかりすぎるし、音大出たって大した才能があるわけじゃないし、
「就職できない」だの「金がない」だの毎日小言ばっかり言われるし。
私がやりたいことって何だっけ?
昔は絵描きになりたいって言ってなかったっけ?
歌もピアノも毎日練習しなきゃいけないのに、最近停滞気味。
他にやることないし、やりたいこともないんだけど。
時間がすごく無駄な気がする。
このままいってもいいのか?
最近は別にフリーターでも良いじゃんって思える。
けど、学校行かなくなったとたんに、勉強なんて嫌いだったくせに、
いきなり英語の本なんて読み出したりしてさ。
ホント、やることない。いや、あるんだけど、やりたくない。
どーしよーもない。しょーもない。
そのくせ、親や先生の前では「来年は絶対に受かる」なんて言っちゃって。
みんな私が頑張ってるって思ってるのかな?
頑張る自分って、カッコイイとは思うけど、どうしたってなれないんだ。
あーもう情けない。大っ嫌い。
<17> * ■2003年06月28日 土曜日 16時47分12秒
学校に行くのが嫌でたまらない。
グループの中で自分ひとりだけになりそうで恐い。
仲のいい友達が自分の知らない時に一緒に居たり、遊んでたり
休み時間に誰も話しかけてくれない。自分から相手に寄ってくのが虚しい。
誰かと目が遭うと陰口叩かれてるのではないかと思う。相手のしぐさが過剰に気になる。自分がおかしいのか正常なのかわからない。何を悩んでるのかもわからなくなる。もやがかかったように記憶が曖昧になったり、誰にもこんな事を思ってると知られたくない。
色んな事が頭の中をめぐってよく考える事が出来なくなってきた。気が付くとぼーっとしてたり、妄想ばかりしている。嫌なことがあるとその時の記憶が飛ぶ。
小学校から中学校にかけていじめを受けていた事は覚えてるけど、どうゆう事をされたのか。辛かったのか、悲しかったのか。全然わらかない。でも、学校は休んでなかったと思う。あの頃どうやって過ごしていたのだろう??
今は晴れない気持ちに苛立たしい。また、明後日から学校だ・・・・。
<16> マフマルバフ ■2003年06月06日 金曜日 00時03分07秒
「ガキの頃」
 ガキのころ父親の職業を訊ねる女教師がいた。ガキの頃はなにかと父親の職業を書き込まねばならないことがあるのだ。
 職業を転々としている父親が、今どんな仕事をしているのか、そういえば俺はこれまで考えたことがなかった。
 同級生との貧富の差に、何かと敏感なガキでもあるのだ。酒を飲んで家で寝ています。・・・なんてこといえるか。
 今になって思うのだ。「父ちゃんは大統領です」とどうして言えなかったのだろう。そうすれば、クラスで一番かわいい女の子も俺の存在に注目しただろうに。

 こういうこともあった。校舎の改築にともなう、父兄の寄付金を一人一人に聞いて、黒板に金額を書き込む婆の教師。授業もせんとなにしとるんだか・・・・。
 あのころ、俺はどうして父ちゃんの寄付金は「三千万円です」と、言えなかったのだろう。
 ひとりだけケタの違う金額を言っても良かったのだ。そうすれば、俺はいまごろりっぱな大人に成長していただろう。
 フン!くそったれ。ガキのころ。
<15> tomoko ■2003年05月20日 火曜日 00時07分08秒
大学は、きっと楽しいところだと思っていた。
だって、そこに入るためにそれまで勉強してきたのだから。
私は小学校、中学校と虐められてきたけど、高校ではなんとかやってこれたのだから、
もう「普通」になったのだから、きっとうまくやっていけると思っていた。

でも、教室に入ると駄目だった。
教室の中には同じような年代の人ばかりだった。
それどころじゃない。
見渡せばキャンパス中、同じような人、ひと、ヒト。
怖かった。

結局、1Kのアパートに引きこもり、中退。

小学校1年の、一番最初の給食。
小食だった私は食べきれずに昼休みになってもまだ一人でモヤシのサラダを食べていた。
周りの子が、早く食べろと囃し立てる。
無理やり飲み込んだものは、当然収まることなく、吐いた。

思えばあのときから何かがずれてしまったのかもしれない。
<14> ilmana ■2003年05月15日 木曜日 19時19分29秒
学校時代のことを思い出すと、今でも身の竦む思いがする。

グループ分けがあるたびに、自分があぶれてしまうんじゃないかという不安。
ペアで作業をしなくてはならないとき、私とペアを組む子は誰もいないんじゃないかという不安。
1人になるのが怖くて、必死に愛想をふりまいていた私・・・。

ある朝、机に書かれた大きな文字。
バカ 死んじゃえ

なのに、周りの友達は、いつもと変わらなかった。
とても怖かった。

だから私はいじめる側にまわってしまった。

そして「サボろう」という誘いにも、自分だけの仲間が出来たよう錯覚に陥った。
罪悪感よりも嬉しさのほうが先立った。
親が呼び出され、帰宅してからどんな体罰が待っているかということすら頭に浮かばないほど、嬉しさのほうが勝っていた。

運動が大嫌いなくせに、部活をすれば家を空けられるという理由だけで運動部に入部した。
結局私が得たものは、良い結果が出せないことへの劣等感だけだった。

遊びに行こうという嬉しい誘いにも、母の「お小遣いはあげません」の一言で心が萎んだ。
言い訳の底がついたとき、友達は私を誘わなくなった。

私にとって、逃げ場所は家でも学校でも友達でもなかった。
「お母さんと買い物に行って買ってもらったの」
そう言って可愛い小物をひけらかす友達が、私には異星人に見えた。

大人になってからも、社内旅行が怖い。
1人になってしまうんじゃないかという不安が首をもたげる。
誰も私と同室になるのを喜ばないだろうという、暗い確信。

団体行動は、私をいつも悩ませる。
<13> mix ■2003年05月08日 木曜日 04時29分15秒
教師

今思えば、彼らはあまりに狭い世界の中で生きていた。彼らの言葉に、今なら反論できる。私は決して、ああいう大人にはならないと心に誓おう。

お友達

待ち合わせに来ないお友達。校舎の裏に呼び出すお友達。私のカバンを焼却炉に投げ込むお友達。告げ口するお友達。媚びてくるお友達。私は決して、そんなお友達にならないと心に誓おう。

ドライブに連れ出してくれるお友達。ドライブに誘った理由も言わず、ただただ黙って、湘南までドライブしてくれるお友達。ずっと黙って何時間も一緒に居てくれるお友達。彼は、若いのに大人だった。私は決して、彼の事を忘れないと心に誓おう。
<12> 【管理人からのお知らせ】 ■2003年02月27日 木曜日 09時29分40秒
2003年2月16日付の下町のさんの書き込みは、「テーマに沿って」「自分を主語にして話す」という当掲示板の主旨を大きく外れており、他の訪問者を混乱させるおそれがあると判断したため、誠に勝手ながら削除させていただきました。

フィクションのようなものは「それが自分の物語の一部としてどうしても外せない」こだわりがあるかぎりにおいて、という条件で容認しておりますが、自分を主語にしない社会評論や社会批判のようなものは、自分自身の問題から目をそむけさせ、一種の「恨み」「責任転嫁」に流れることで、「生きづらさの問題からの回復」という当掲示板本来の目的を逸れさせる危険性が大きい、という観点から、当掲示板では基本的に禁止しております。

悪しからずご了承ください。

管理人・蔦吉
<11> マフマルバフ ■2003年02月08日 土曜日 21時45分48秒
 ゴッホ

「麻薬中毒重婚浮浪不法所持サイコロ賭博われのブルース」

この短歌の意味するところが俺にはなかなか分からなかった。今でも理解できたとは言えない。しかし、俺なりに感ずるものはある。何か強烈なイメージがひしひしと伝わってくる。何だろう?そうか、ゴッホの絵のイメージと重なっているのだ。絵筆のタッチだ。荒々しく不器用に塗りたくられた絵筆のタッチだ。細かくみると脈絡なく書きなぐったように見えるタッチ、色と色との間に何か関係がありそうで、色と色との間になにか対立や、激しい口論があるようで、細かく寸断されているのだが、全体としてみると。成っているのだ。
 寸断され、脈絡はないのだ。しかし、個人が、一人の人間が吐き出す言葉は、その人間の内部を、精神世界を、より明確に、より明晰に、たしかに、くっきりと、わかりやすく、何かを越えて、伝えているのではないか?
 あらゆる創造はかんたんである。学識の深い人のものではなく、哲学者のものでもなく、学歴の高い一部の人のものでもなく、社会的に認められた人のものでもなく、インテリげんちゃんのものではない、もちろん社会的地位の高低も一切かんけいない。創造とは悩みをかかえた人のものである。

そういう意味で、俺の精神のなかでは、ゴッホとともに寺山修司の短歌は、言葉は、ずっと生き延びて影響を与えずにおかないだろう。
 トラウマは表現にもっとも近い。・・・・・・のだ。
<10> catwings(空飛び猫) ■2003年01月22日 水曜日 10時40分51秒
学校が怖い。
集団の中に居ることが怖い。
教室に居る、学校に居る誰も彼もが敵に見える。
攻撃されるって感じる。
職業訓練校、終わってよかった。
もう学校なんてこりごりだ。。。
集団なんて大嫌いだ。

義務教育を出て高校に行って看護学校を行って、普通に学校を出たけれど、
ほとんど学校の記憶がない。
クラスメートの名前も担任の先生の名前もいい思い出も悪い思い出も
何もかもほとんどない。
学生時代の自分は「学校に通わなければならない」という義務感だけで生きていたんだと思う、多分。
離人感と本の世界という逃げ場があったのが唯一の救い。
<9> hiro ■2003年01月06日 月曜日 03時29分22秒
救ってくれたのは友人で
煽ったのは学校で
そんなに受験は大切?
人を見かけで判断するなって教えられた
だけど学校は、受験する学校は別?
学校で追い立てられ、家庭で追い立てられ私は何処に行けば安心出来るか知りたかった。頑張らなくて良いよ。誰かが、大人の誰かがそう一言言ってくれたら、あんな事しなかっただろうに。気が付けば片手にカッター、首には切り傷。記憶が無い。痛みも感じなかった。全く。まだ15才。なのに人生を左右するって言われて、オカシクならない方が変だよ。
それは、友人関係にも及んだ。いつもの仲間から離れたくなって実行してしまった。理由・原因なんか判らない。受験ノイローゼ?なのかな?だけど、そんな中から救ってくれたのは、私が離れた友人達。
何もかも知った風な大人じゃない、同じ年の、友人達。
学校は嫌い。
いじめを黙認。あまつさえそいつらと一緒になってからかう教師。
大嫌い。嫌い嫌い嫌い嫌い
<8> 蔦吉 ■2002年12月30日 月曜日 14時12分59秒
20年以上。
20年以上も、理科のアサガオのテストでカンニングがバレてバツの悪い思いしていたちっぽけな大人しい女の子は、あの小学校の教室であのままじっとうつむいていたのか。
「○○さん、そんなことしてまでいい点取ろうとせんでもよろしいッ!」という先生の告発の声と、ズルを見つけたぞというみんなの好奇の視線の中で。

「悪いこと」だ、ってのはなんとなく分かっていた。だから、見つからないようにこっそりと机から教科書を出して盗み見ようとした。「悪いこと」はなぜ「悪い」のか…「“悪いこと”をしたら怒られるから」悪いのだろう、くらいしか考えつきもしなかったけれど、「自分を実際以上のものに見せかけようとしている」ことがなんとなく後ろめたかった。

それが…自分を実際以上に見せようとすることが、「じつは心の底で本当の自分を軽んじているということに他ならないから」、だからそれは「自分自身にとって悪いこと」なのだ、ということを教えてくれる人が誰かいれば。本当のあんたは理科のテストができなくたって、それを恥じてコソコソと小細工してまでよく見せようとする必要なんかないくらい、かけがえのない大切な尊い人間なんだ、って言ってくれる人が誰かいれば。

そうすれば、20年以上もこんな恥と屈辱の中に閉じ込められて過ごすことはなかったろうに、ね。

もうここに閉じ込められている必要はないんだよ。

先生は「カンニングはズルだから悪い」としか言えずに本質的なことはなにも答えてくれないかもしれないけれど。
あんたのお母さんはまた「お母さんの思いどおりの子ども」になれないあんたをなじるか、あるいはあんたを“受け入れてあげる”ような顔して「“甘えさせてあげている”お母さんの勝ちを認めなさい、お母さんの優位を認めなさい」というメッセージを押しつけてくるかもしれないけれど。

あんたが「何を達成したか」に関わらず、ただそこにいるだけで、かけがえのない、素晴らしい人間なんだ、ってことは、私がよく知っている。

さあ、教室を出ようか。
そうして、一緒に帰ろうね。
<7> マフマルバフ ■2002年08月27日 火曜日 02時05分08秒
高校の思い出
入学したころ 活動的な女のこ将来の旦さんになって欲しいわーとかいわれて 嬉しかったのですが 家族の問題は最悪の状況でもあり どうしていいのか分けのわからないうちに 愛想をつかされました 気持ちの切り換えが女は早い 別のクラスの3人組の女の子からラブレターをもらった時は嬉しかったけど やはりどう付き合っていいのかわからず ラブレターのやり取りだけのつきあいに終始しました
私は家に帰るととりあえず黙々とバットの素振りを毎日やっていた 鬱積した不満をそうやって解消していたのだろう 体格は父親をしのぎ目立たない人に父親はなっていったようだ 途中から記憶の中にすらあらわれない。内から湧き上がる暴力性と同時に精神も病んでいくような感覚があった。結局親は殺せない 目標を見失い心の荒廃はその後ずっと続くことになった。
<6> マフマルバフ ■2002年08月25日 日曜日 01時17分02秒
学校と管理化
学校は息苦しい思い出しかない 小学校の頃は学校は遊ぶところだと考えていた。
そういうヒューマニズムの視点で学校の先生を見るせいか 教師と名の付く者の愚かさは見抜くのは早かったですね。まず脳みそが完全に何か洗脳されているまじめさがあって先入観と偏見の塊の人たちのようにみえるのです。洗脳されていない先生はそれはそれでかなり逸脱した方たちが多かったです。自分なりのスタンスで教職についている人たちはノーマルだ 顔に多少の苦悩がある サラリーマン化して出世の権化のような教師が多かった このタイプが私の中学3年の担任になりましたがえらいめに遭いました ・・・・・・学校でどのような視点をもつかで印象が変わるのかもしれません。私の場合どう贔屓目にみても社会常識がかけている人たちのたまり場に見えるのです。真面目に私のことを心配してくれる先生はいました。そういう先生には私が迷惑をかけています。○○せんせいあの時はありがとうございました。
<5> ゆき ■2002年08月14日 水曜日 00時21分51秒
先生あのね、っていえていたら良かった。
先生実はね、って言えていたらどんなによかったか。
先生、わたしは本当は理系になんて進みたくなかったんです。
数学がしたいなんて嘘でした。父と母に「この子は理系に進む」と決められたから、決められた以上わたしに覆す術がなかったから、嘘をつきました。
先生ごめんなさい。本当は、いつも先生に言ってたとおり、歴史の勉強が
したかった。文系にいきたかったんです。でも、お父さんとお母さんが
駄目っていうから、一ヶ月間戦ったけど、わたし駄目でした。
かないませんでした。自分で自分を守ってやれませんでした。
あの時先生にお話できていたら、どんなに良かったでしょうか。
先生なら、両親に話を持ちかけてくれたかもしれなかったのに、
わたしは卒業して七年も経ってようやくそのことに気がつきました。
先生はわたしのこと応援してくれていたのに。
先生あのね、っていえたら良かった。
助けを求められたら良かった。
何もいえませんでした。ただ嘘をつきました。自分を殺しました。
助けてくれただろう存在に、気付けませんでした。
<4> ワカ ■2002年08月09日 金曜日 15時46分49秒
母が家を出て行ったのは夏休み。
2学期になって「参観日」がやってきた。
「どうしよう、お母さんいてない、参観日来てもらえない。友達のところはきっと皆お母さんくるはず」と小学校低学年の私はすごくうろたえた。
そして聞かれてもいないのに担任の女の先生に「私のお母さん参観日には来ません。おばあちゃんが病気でお母さんはおばあちゃんの家にずーッといってるから」と誰に教わったでもなくスラスラと嘘をついた。
先生は「そうたいへんね。おばあちゃんお病気早くなおるといいね」と言った。
私は心の中で「先生、ごめんなさい。嘘なんです。ごめんなさい」と何度もあやまった。
話はこれで終わりのはずがこの嘘が私を苦しめた。
授業中、漢字の書き取りなどしているとき先生はスーと私の机の横にきて「おばあちゃんまだ治らないの?お母さんは時々家に帰ってくるの?お家のことは誰がやってるの?」としつこく聞くようになる。
そのたびに「この間病院でまだもうちょっと治るまで時間がかかると言われたらしいです」などと嘘に嘘を重ねた。
毎日、先生が私のほうを見ただけでビクッとして固まってしまった。
些細な嘘のようだが子供にとってはとても罪深く感じられた。

学年が変わって担任も変わったとき「やったー、これでもう嘘をつかなくていい」とほっとしたことを覚えている。
父が新しい女の先生になにやら手紙を書き、私に「先生に渡すように」と言った。
放課後、その手紙を読んで新しい先生はツーッと涙を流した。
「○○ちゃん、これから先生に何でも話してね。勉強も運動も一緒にがんばろうね」と言ってくださった。父は家庭の事情を書いていたのだ。
でも、そのころの私には家庭での辛いことを先生には話せなかった。
あの時、子供らしく「先生あのね」と話せていたら・・・。
<3> 蔦吉 ■2002年07月31日 水曜日 14時58分50秒
小学校1、2年あたりから、もともと物憶えはよかったおかげで“優等生”の部類に入っていた。教室ではじっと静かにしてて、休み時間も静かにしてて、手がかからなくって、言われたことはおとなしくきちんとやって、体育と運動の苦手な、優等生。

そして小学校4、5年あたりから、一応成績は“優等生”なんだけども、宿題とか提出物をまったく出せない子に、私はなっていた。
「家から学校へ」の宿題、漢字練習、プリント、etc.…そして「学校から家へ」の、親に渡す学級通信だの、PTA通信だの、講演会のお知らせなんかも。
『十五少年漂流記』のブリアンみたいな、ダラシナイけどヤるときはヤる頭のいい子、みたいなのならカッコイイんだけど、内実はぜんぜんそんなもんじゃなくって。先生がつける「生活点検表」にバツ印がつき、それが溜まり、そいつが今度は保護者会の三者面談で親にバレるハメになり、先生の口から学級通信その他もろもろの話が出るとこんどは「学校から家へ」の連絡物も出してないことがバレて、先生から注意され母親からはなじられるハメになり…そうなることは「頭で分かって」るんだけど、でもなぜか体が動かなかった。「優等生の自分のイメージにミソがつくこと」に対してもう滑稽なくらい戦々恐々としてるんだけど、すっごく具体的に目の前にある宿題のプリントだの学級通信だのは何だか「遠いこと」のようで…。

あの頃、私のイノセンスが最初の悲鳴を上げてたんだ、って、今なら分かる。

保育園、幼稚園までは、父親の転勤で引越してきたばかりの田舎町で、近所の悪ガキどもの輪になかなか入れない、「単なるおとなしいいじめられっ子」だった。
多分おんなじように田舎町で孤立して欲求不満だった母は、私に自分の理想どおりの「みんなの輪の中心にいるキャーキャーうるさいくらいに明るく活発でしかも賢い子ども」になるようにがなり立てた。私が近所の子にいじめられているのさえ、「あんたがしっかりしないせいでしょ!」みたいに怒鳴られて。思いどおりに動かない私をなじり、部屋でお絵描きや編み物をしていると「オソトに出てオトモダチと遊びなさいッ!」と私を表へ引きずって行って。泣きながら「○○ちゃん、あ〜そ〜ぼ…」と門付けの乞食坊主みたいに近所の“オトモダチ”の家を回ったのを憶えている。

だから、小学校上がって、“優等生”の承認をもらったときは、うれしかった、っていうより、「しがみついた」。
優等生の座から転落するのが、ともかくこわかった。それで理科のテストでアサガオの右巻き・左巻きがわからなくて50点くらいしか取れないかもしれないのがこわくてこわくて、教科書をそーっと机から引き出してカンニングしようとしたら「○○さん(私の名)! そんなことまでしていい点取ろうとせんでもよろしいッ!」って、みんなの前で先生から怒鳴られたりして。笑っちゃうんだけども。本当に、不正をはたらくより悪い点を取って優等生の座から転落することの方がこわかった。作文にも、当時よく書いた。「わたしのいちばんいやなのは、はじをかくことです」って。

私はなんで今この田舎町に放り込まれて、訳もわからずいじめっ子にからかわれた側なのに「あんたがしっかりしてないせいでしょ!」になるわけ? なんで産んでくれって頼んだわけじゃないのに、「おかあさんの決めたとおりの、あかるくかっぱつな子ども」にならなきゃいけない義務まで生じるわけ? なんで私の自由意思とは関係なく小学校ってトコに行かされて、漢字練習だのドリルだのPTA通信だの、私の言うことをまったく聞く耳もたないかのようにドサドサーッ、と出てくるわけ、ちょっと!?…って。

悲しいのは、その“反抗”さえも、確信犯じゃなかったこと。“優等生”のイメージにミソがついたら死ぬみたいにびくびくしながら、無意識の側がいつの間にかダラダラ気がづいたら反抗してた、って。だって、これ、ほとんど高校出るまで続いたもの。高校出て、大学けっきょく中退するまで、「優等生であらねばならない」って、私の中でデフォルトだった。

そういえば、その「提出物を出せない優等生」になった小学4、5年の頃、クラスにS君、って子がいて。小柄で、成績は並の並くらいで、それで私と同じくらい宿題もしょっちゅう忘れてくるんだけど、図工なんかの手先がメチャクチャに器用な子で。放課後にこのS君も含めて仲良しグループでよく遊んだもんだけど、宿題を忘れることも優等生でないことも先生やお母さんに怒られることもぜんぜんへのカッパ、みたいなしたたかなS君を、いつも不思議だなぁと思いながら横目で見ていたっけ。

「優等生」でなくてもべつに幸せに生きられる、って。当時は子どもの私の想像力の中からも締め出されていた考えだった。
<2> マフマルバフ ■2002年07月30日 火曜日 16時02分40秒
T先生
夏休みが終わると2学期が始まります。○年前のあの頃 どうにも不安で学校に登校できそうにないことをT先生に相談しました。真意は伝わらず 私は転校した(させられた) 転校後どこにいても緊張が解けず 考えることが何かでコーティングされているようでした。思考が広がらず殻に閉じ込められている こんな感じは今も強く残っています。9月から翌年の卒業まではとても長かったです。T先生あなたは私の家庭のあり様を少しは知っていたはずです。転校が何かを解決すると思いましたか?。中学時代は家庭の混乱もあり私の記憶と事実にずれがあります。それは私の苦しさを裏付けており物語っています。T先生は第三者として良識的に母親に注意を促すことはできたはずです。転校は私の中学時代の苦しみの総仕上げであったように思います。家はおろか学校でも居場所が完全になくなることは 私の全存在の否定を通告されたようなものです。思考がコーティングされるとは不適切な表現かもしれません。誰と話していても固まってしまい思考が飛躍せず言葉をつむぎ出すことも出来ないことがありました。
今年の夏も暑くなりそうですね。帰省することはもう無いと思いますが忘却するために書き記しました。
<1> ゆき ■2002年07月27日 土曜日 15時09分08秒
はじめてで、どきどきしているけど、言いたいことがあるので、言わせてください。
わたしは、幼稚園から高校卒業まで、15年、いじめにあいました。
陰湿で、陰険で・・・・。
顔をあわせると「死ね」「汚い」「暗い」「気持ち悪い」。
学級写真は、わたしの写っているところだけ、ぼろぼろにされて・・・・。
先生は、知っていたのか、知らなかったのか・・・。
いつまでも聞こえてくる悪口と嘲笑が今も頭を離れない。
わたしのトラウマは複雑だと言われたけど、それはこの陰湿極まりないいじめと、
弟からの暴行と、両親からの情緒的、言語的、身体的虐待によるものだとはっきり
自覚できるようになりました。
学校なんて、大嫌いだった。
勉強は好きだったけど、クラスメイトも先生も嫌いだ。なんでいじめるの。
もう10年以上も前のことが、わたしを今も苦しめ続ける。
責任ないんだよ。わたしには、何にも悪いところなんて、なかったんだよ。
学校、大嫌い。
でも高校の部活は好きでした。
はじめてわたしがわたしのありのままを受け止めてもらえた場所だった。
学校は嫌い。でも、部活の仲間は好きだった。大学の友達も大学も大好き。
でも学校はいじめの場所だから、怖くて嫌で嫌い。

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This script written by Shintaro Wakayama.