昨日の3時間もののリベンジだ。 長くなるので、適当に2部構成にしよう。 それとクリアにも気を付けねばならない。 今日も消去したら、「私はほんとの馬鹿だ」と自分で認めたことになる。 それだけは避けねばならない。 私は「アホ」言われても怒らないが、「馬鹿」呼ばわりされたら怒る。 そういう「懲りない」人間なのだ、私は。 それと前置きも長い。 「心のもち方」と、どちらに書くか?迷ったが、「自分と自分のインナーチャイルドとの新しい?一歩先に進めた人間関係」と思ったので、こちらを選んだ。
では始める。 一昨日の日曜、(気持ち)日が延びてきたせいもあるが、私は遊び足りなくて「まっ、今日は遅れてもいいか」と、いつもの自助グループ出発時刻よりも20分多く遊んで、間単に簡易シャワーで頭と顔を洗って、朝剃らなかった髭を剃って、作業着(ドカジャン)スタイルで行った。 いつもはそれなりの格好で行くのだが、私は天邪鬼だから「Aさんがこ洒落てブーツ履いてくる(だろう)」を「それには私はいかにも関心がありませんよ」と、自分で「無関心を装う」ために私はドカジャンだったのだろう。 「Aさんがこ洒落てくる」 「私もこ洒落てくる」 それじゃ、まるで自分がAさんの奴隷?もしくは「小娘に踊らされている」になったような気がして、きちんとした恋愛経験のない私は真っ直ぐにはなれないのだ。 そんな私が30分送れてグループ会場に着くと「おっ、今日はいっぱい来てるな。5,6,7,8,9台か! 楽しくなりそうだな!」とわくわくして玄関を開けたら、Aさんの「おニューなブーツ」が飛び込んできた。 それは昨日私が「性的関係」に書いたので、ここでは割愛させていただく。 そして、中で扉を開けたら、狭い部屋の中に「うわ〜(問題のあるACが)うじゃうじゃいるよ〜!」と意識上の私は思ったが、私のインナーチャイルドの反応は「NO!」だった。 明らかに彼の答えは「緊張している!」だった。 私は自分のインナーチャイルドとそこそこ会話できるようになって、まだ2ヶ月くらいだが、ここまで意識上の自分が感じているものと、無意識のインナーチャイルドが感じているものの開きが、大きく、両極端だったのは初めての経験である。 裏返せば、自分のインナーチャイルドが「お母さん役である」私の感情を変に気にすることなく、「自分は大勢の前で、それも見知らぬ人が2,3人いて、緊張して『人見知り』しているんだよ」と、その素直な自分の感情を、親である私に気兼ねすることなく、きちんとサインで送ってきてくれたのである。 そう、子どもの気持ちを感じ取った私は、自分が喋りたくてうずうずしていたのだが、「今日は黙ってこの子の気持ちと付き合おう。ずっとこの子の側にいてあげよう」とすんなり腹が据わって、言いっぱなし・聞きっぱなしの1時間の間、ずっと私は彼の寂しい感情を暖めていた。 でも、特別なことは何もしていない。 たまたま今回は人数が多かったので、隣の椅子のない部屋を使って、私はより自分のインナーチャイルドの感情に降りていこうと、お人形さん座り(べたーっと腰を下ろして、両足を前に伸ばして幾分前屈み)して、彼と交信しやすい環境を自分で作っただけだ。 今までの自分は「リクライニングシートで横にでもなれば、リラックスできて自分のインナーチャイルドと会話しやすい」と勝手に思い込んでいたが、それはあくまで大人の私のリラックスであって、自分の子ども(時代)のリラックスではない。 自分の子ども(時代)のリラックスは、そんな機器?など必要としない。 (自分の代わりに傷付き過ぎた)彼らに必要なのは「黙って自分の感情に寄り添ってくれる人、自分の話を最後まで聴いてくれる人」である。 「安全で安心できる」また「無条件で子どもである自分を認めてくれる、受け入れてくれる」 そうした愛してくれる人を、彼は求めているのである。 だからそういう人の側にいて、自分の感情を守ってもらえるのが、彼にとっては一番リラックスできる環境なのだ。 だから、最初私は胡座をかいたり、膝を抱えて座ったりして、自分のポジション(=心の安定)を量ったのだが、意識上の私にはどうにもしっくりこなくて、自分のインナーチャイルドに導かれるような形で「お人形さん座り」を選んだ。 結果はGOOだった。 いつもよりもすんなりと彼の感情に入っていけた。 でも、その分だけ彼の言葉にできない「軟球くらいの大きさの寂しさの小爆弾」を投げつけられて、その都度私の心は「ぐわっ」「ぐわっ」ときて、30分以上、大声で泣きたいのを我慢して、私は嗚咽を漏らしながら泣いた。 毎度のことだが、辛かった。 「でも、自分の子どもはもっと痛かったんだ」 と思ったら、余計に泣けてきた。 この痛みを20年以上の長きに渡って、耐えてサバイブしてきた私のインナーチャイルドたち。 今回も泣かせてもらった。 自分のインナーチャイルドの寂しい感情に。 親としては我が身を切り刻んで、身を攀じられる思いだ。 自分が向き合ってこれなかったばっかりに、私はこの子たちに辛い想いをさせてしまった。 自分に「自分と向き合う勇気」があったのなら、こんな不必要な痛みを味合わせなくて済んだのだ。 今の私には「自分のインナーチャイルドに気付いていながら、彼らの感情を無視して置き去りにするのは、親として怠慢であり、『意識上の内面への精神的暴力』」と、捉えている。 でも、今の私には「親らしい」ことは、それくらいしかやれていない。 ただいつも通り変わりなく、子どもの感情に自分が声掛けしてあげることだけだ。 「ごめんね。お母さん、おまえの気持ちに気が付くのが遅くて。お母さん、自分が喋ることしか考えてなかったよね。おまえの寂しい感情を置いてきぼりにしちゃたね。ほんとごめんね。お母さん悪かったよ。これからは気を付けるよ」 と、私が感情を還したら、 「ほんと? ほんとに今日は僕と一緒にいてくれるの? ほんとだね? 嘘じゃないね? 絶対だよ。絶対僕と一緒にいてよ。お願いだよ。僕はお母さんを信じるからね」 と、小さい彼は私の背中に隠れながら、返事を返してきてくれた。 ありがとう、私のインナーチャイルドたち。 そんな小さい子どもにとって「自分の寂しさを出すことが、認めることがどれほど苦痛であるか!」 それを親にわかってほしいから、彼らは私にいろいろなサインを、形を変えて送ってくるのである。 親の私が自分の子どもの気持ちをわかってあげなくて、誰にできるものか! 誰でもない。 自分のインナーチャイルドの親は、この自分自身なのである。 そうして私は、この子たちの母親として強く、優しくなっていくのであろう。 ありがとう、私のインナーチャイルドたち。
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