すごくね、これは難しい問題なんだ・・・スポンサーを見つけて今すぐ解決する!!とかそういう問題じゃない・・・むしろ、そうやって即時的解決を求めようとするところに、俺の行動パターンの欠陥があるのだから。そうやって即時的な ―そして仮初めの― 解決や痛みの解消を求めたからこそ、俺はアディクションにはまっていった(今も、だが)。そして結局のところ痛みは、人間関係からやってくる。しかも、痛みの原因は自分の外ではなく、中にあるのだと(今は頭で無理に理解している)。
同じ景色を見ている(ような気がする)。そして直感的に、「ここから逃げたら俺は絶対に、俺は永遠に逃げ続ける人生を送ることになる」という感覚がある。だからかつて逃げた経験が今、生きている(と思う)。いやたしかに自己陶酔なのはわかってる。多少の酔いは勘弁していただきたい。ただ直感的にそう思えるのは、ぶち当たっている問題が多分、あのときと同じだから。
パワーゲーム。はじめから、敗者も勝者もいない。勝手も負けても死ぬんだよ。正しいとか間違いとかじゃなく・・・集団が機能していくには個人の我を抑える必要がある、ということを僕は原家族で学ぶことができなかった。人間関係は全て正しいか正しくないかで成り立っていると錯覚して(あるいは誤解して)生きてきた。そのため非常に辛い思いをしてきた。そう正しくあることではなく幸せであるほうを選びたい。
20代の初めに人間関係での底をついた。自分たちの怠慢を平気で正当化している人間たちを見て、腹が立った。それでもそこに居つづける人間たちにも。でも今はほんの少しだけ・・・たった一ミリかもしれない・・・それでも進歩したと思う。要は理不尽とか不条理とか・・・・あるいは一見、理不尽に見えるもの、一見して不条理に思えること・・・そういったものに強く強く反応する自分がいる。僕はいつも「理不尽だから」「これは理にかなっているから」という理由付けをしてから、怒っていた。ある書籍には、怒りに注意すべし、とあった。そう・・・justifiable angerとかrightous anger という言葉だと思う。怒りは上手く捌ける人にしか捌けない代物だ、と。とにかくここから逃げてはいけない気がする。
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