親を見ていると時々空恐ろしいかんじがする。彼らが二人とも、誰かに必要とされることを頼みに生きているように見えるからだ。 でも、気が付いたら私も同じ事をしている。 人に喜ばれるのは嬉しい。 でも、それが「私が存在していて良い条件」みたいになっている。 親を見ていると、年を取っていくにつれ、能力も低下する部分があるのは当然で、仕事の能率だって落ちて当たり前なのに、それを恐れているように見える。 でも、私も「役立たず」であることと「役立たず」になっていくことを、結局は一番恐れている。 私や妹弟が結婚するとか自立するいう時に、母は決まって倒れたり混乱したりした。 でも、子どもが行き詰まって相談したり助けを求めざるを得ない状況になると、父も母も、生き返ったように元気になる。 気持ち悪い。 でも、私も誰かの相談に乗るときに、異様に「生き生き」している?自分を感じる。これも恐ろしい。 他人の不幸に共感できる(ようなかんじ)というのは、悪いことではないが、他人の幸福に共感できるのか、まだ自信があまりない。 自分では、この頃は人の回復を心から喜んで、そこから元気ももらっているつもりなんだけど、どちらが得意かと聞かれたら...。う〜ん。 ACは(対等な関係でなく)助ける・助けられるとか、とにかく被害者や援助者の役割に身を置いて関わってしまう、ということだが、とかく他人のそういう傾向は、よく目に付く。 そういう人を見ると時々猛烈に腹が立つのだが、それは「同じところが自分の中にもあるから」だという、お決まりの説明を、私も否定するつもりはない。 私も、人の痛みを「食って」生きているような時期があった。 そういうのは、善人のふりをした「怪物」だと思ってしまう。 親の姿にも、単純なパターンでの暴力とか虐待に還元できない、そういう「善人のふり」「怪物」の舌なめずりを感じて、猛烈に怒っている。 小さい頃は、そこまで言語化できないで、何がどうなっているのか仕組みもわからず、怒りを感じる自分が悪いのだと思っていた。 でも、今は違う。 むしろ、子どもを病気にして「良い親」の「献身的な愛情」を演じるシンドローム...何といったっけ。それを思い出してしまうのだ。 自分だけは、そういうシンドロームから抜け出したい。 私が自分自身の人生を生きようとすると、親は無意識かもしれないけれど嫌な顔をして、無意識なんだろうけれど、それをつぶすような行動に出る。 ただ、私のほうにも、いわゆる「見捨てられ不安」が残っているから、囲い込むようにしてくるそういう親の機嫌を損ねるのは、とても勇気が要る。 時々、精神的に息が詰まってくる。 何度か、その目に見えない束縛から逃げようとして家を出た。 でも、結局うまくいかない。 妹を見ていても、弟を見ていても、そういう同じようなところがある。 現れ方は違うけれど。 そういう単純なものではない、と頭ではわかっているのだけれど、つい、この状況から私を救い出してくれる誰かを夢見てしまう。 (その「誰か」に期待を投げかけて結婚したもののうまく行かない妹を、良く見ているのに...)
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