『平常を装うこと・愛想笑い』
機嫌が悪いわけではない。 体調が不調なわけでもない。 普通にしているこの顔が、「不機嫌に見える」と母に言われ続けてきた。 「そんな顔をしてると、機嫌が悪いように見えちゃうわよ」 「もっとにっこりできないの?」 いいじゃん。 他人にどう見られようと。 今だからそう思えるけれど、子供のころから言われ続けた(刷り込まれた)『他人からの見た目』を気にする自分は、なかなか変わらない。
むしろ、実際に体調が悪ければ悪いほど、無理に平常を装い、愛想笑いまで浮かべてしまう。 社会的には、好ましい人間なんだろう。 不機嫌な顔をされるより、ニコニコしている人間のほうが、相手も不快にならずにすむ。 けれども、無理をして、張り付いた愛想笑いで、疲れるのは自分だ。 病欠の用紙を貰いに行くときも、無理をして平常を装うのと、苦しい姿をそのままさらすのとでは、相手の対応が違ってくる。 私は、平常を装うことで、何回も仮病と疑われた。
私は、同情が欲しいのではない。 人間関係において、素直に自分の感情を表現することができないことが疲れるのだ。 「言葉だけでなく、態度まで、表情まで他人を不快にさせないようにする」 親から注入された恐ろしい毒だ。
自分が疲れていても、常に相手を不快にさせないようにする。 そのためには、自分の感情を押し殺してでも愛想笑いをする。 これは疲れる。 疲れていることを悟られまいとして、平常を装うから、誰も私の疲労には気がつかない。 私はどんどん疲労していく。 そのうち、疲労しているという自分の感覚をも麻痺させるようになる。
こうして私はほとんどの感覚を無くした。 わずかに残った「苦しい」という思いだけで、助けを求めることができた。 今度は、助けを求めるタイミングを学ぼうと思う。 そして一歩ずつ私は前進していくのだ。 親の支配に苦しむのは、もう嫌だ。
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