「支配と服従」@ 考えてみれば私は支配され服従するために生まれてきたのではない。 社会人となって幾年月。 現在いろいろなものに複合的に服従を強要されている気がする。 身近なところでは近所の監視ネットワークの専業主婦や退職してヒマをかこつおっさん連中。町内の噂という権威。組織と個人のさけて通ることの出来ない職場の企業という非人格的伝統や多重に降りそそぐ抑圧。タテの人間関係。聞く耳もたぬ人間関係。等々。 警察という今やチンピラ化した国家権力の犬。法律。法治国家というあやふやな国家と個人の関係。
さまざまに強いられる服従に耐えることが出来なくなっていったのは、やはり家族問題に原因を求めなければいけないだろう。 父親が恐怖の対象でしかなく、とうてい同じ価値観にもとづく家族構成員の一人ではないと気づくのは幼稚園児のころだ。 家の主が分けの分からない恐怖の対象でしかない人物であるとするならば、それは主人と奴隷の関係に近いのではないだろうか。 誰が好き好んで自ら奴隷になりたがるだろうか。
アメリカの黒人が自ら好んでアメリカに行ったわけではない。そこには自発性などまったくない世界であり、怒りしかなかったであろう。介在するものは鉄鎖とムチであったろう。 彼らが解放された本質は奴隷労働では生産性が上がらないというのもひとつの理由であっただろう。余剰労働がないと人は働かないのだ。つまり労働価の分配ですね。 だから黒人は奴隷解放されても何も権利を与えられなかった。現在もあまり変わってはいないと思いますが・・・。
私の問題に戻しますが、そこには理不尽なことに対する怒りで充満しとてもじゃないが人格形成の場からは遠い家畜のような人格が形成されていったであろうと思うのです。 次に学校において先生という存在に疑問をもつようになったのは。つまり尊敬の対象でなくなったのは小学2年生頃のことからです。この点は詳細に書けません。 教師が尊敬の対象でなくなってしまう事例はその後も続々とキリがないほどでて来ます。 卒業式のときに必ず出てくる「我が師の恩〜」という歌が空々しくて理解不能と成っておりましてん。 学校という所も「支配と服従」の場でしかなかったわけですね。
この問題は軽く考えて書いたのですが、今一度深く掘り下げて考え直してみたいと思います。
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