【 近代という病について 】
「お彼岸」
近所にお寺が多いせいかお彼岸の前後は家族づれでお墓参りに来る人が多い。 古いお寺ばかりだから近所に住んでいる人はほとんど居ないようで たいがいタクシーで来るケースが目立つ。 遠き地に移り住みお墓の維持費もバカにならないだろう。皆さん正装して「いかにも中流」を演出している。 いつもは門にカギがかかっていることが多いのだが この時期はカギがはずされている。 普段着の近所のおばさんらしき人が墓地の入り口にある「閻魔(えんま)さん?」に向って両手を額にくっつけ深く瞑想しているかのように身動きもせずひたすら祈っている姿を早朝の公園に向う時に見た。 「何を祈っているのだろうか?」 「・・・お迎えが来て彼岸についた時はどうぞよろしくお願いします」ってな気持ちだろうな。 オレはおはぎをもう何十年と食べたことがないような気がする。子どの頃に食べたことは覚えている。 小豆を煮るところから作るので自家製のおはぎしか食べたことがないのだ。 家庭が精神的に崩壊し始めた頃(これは主観的な問題で他の兄弟はそのような自覚はない)から自家製のおはぎは作られることはなくなり おはぎとお彼岸が関連のある物だと言うことすらよく知らずにその後を生きてきた。
大形のスーパーで「彼岸セット」なる果物や花を売っているのをみてそういう習慣があることを改めて思い出したのであるが 家族揃って墓参りするようなそのようなことをした体験がないことに愕然としたのである。 そういえばその頃は母親はお寺に合同の奉仕作業があり(おはぎや料理を創るのではなかったかと思う)出かけていたと思うのだが お父つぁんはしこたま酒を飲んで鎌と榊(さかき)をもってこっそりと出かけていたように思う。 幼児期の私はそのようすが不気味で人を殺しに行くのではないかと脅えていたものである。 すでにウツやらptsdの後遺症があったのだろう。外出するにも酒を飲まないと出かけられなくなっていたようだ。 現在は落ち着いた生活をしているせいかそのようなことはなくなっているようですが・・。
自分の底なしの寂しさの側面を「お彼岸」を思い出す事によって垣間見たようである。 それは私という個人的な悲しい事実であって それを思い出すことによって深い感慨にふけるというようなことには まったくならない。
そこに私の成長と過去を払拭した事実を発見するのみであった。
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