「耳のトラウマ」
PTSDというものは衝撃的体験として目に焼きついた映像として語られることが多い。私も確かに目でみることによるショック体験はある、列車にはねられたおじさんの遺体にムシロがかけられ、右手の小指がするどく裂けているのに、血が出ていない。瞬間みて恐くなって家まで走って帰り激しい呼吸と不安、何か恐ろしいもののすがた(地獄)の権化のようで、思い出すだけで恐くなっていたものだ。 10歳にも満たない頃のことだと思う。それだけ恐がるのはその当時すでに私は、家庭の中で絶え間のない緊張とストレスが高じていたからだろうと思う。 同じ頃だと思いますが、同級生が勉強のしすぎでノイローゼで入院しました。 近代以降、専業主婦が過激な勉強を息子に強いる例は枚挙にいとまがないのではないでしょうか。今日的な問題とはいえないと思います。 「耳のトラウマ」のことですが、耳は休息することはあるのでしょうか? 両親の不仲による口論を聞いてしまう耳、母親の愚痴の聞き役の耳、緊張や不安定な家庭によくある暴力の連鎖による兄弟間の言葉による暴力的な罵詈雑言を聞く「耳」。 学校では退屈な授業を何時間も耐えて聞く「耳」。一人になればラジオ、TV,音楽、携帯を聞く「耳」。 工事の騒音、深夜も止まることのない車の走る音を聞く「耳」。 現代の文明の恩恵や被害は「耳」に過度のストレスを強いていないだろうか? 機能不全の家庭の子供たちは、幼い頃から高度の精神的ストレスが累積していると思うのです。友人関係のうまくいっている子供は「耳」に入った大量の情報を喋り遊ぶことで取捨選択してストレスはたまらないのかもしれません。 そうでない子供はそれどれ耳に入った情報にしばられ、ストレスが限度に達しており、そのような中で、各家族間の境界線もあいまいな状態で、まさに病的な共依存的体質の母親や、ノイローゼ状態の兄弟の希望のない愚痴を聞かされる「聞き役」をやらされている人は、虐待されているのです。 さまざまな状況がありますから何ともいえませんが限界にくると、それはトラウマとなり記憶が消えるということもある。その後遺症は数10年後に出る事もあるようです。 私がパソコン教室に行っているときそうなりました。先生の話が耳に入ってこなくなって、その分析を私なりにやってみた結果です。
まとまりのない文章となりすいません。 「耳のトラウマ」を私の体験を通してもう少し詳述したいです。
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