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私たちの物語 - 人生の節目・過去ログ No.4
メッセージ数:80件

<80> den ■2004年06月24日 木曜日 00時55分49秒
離婚。もう決めないといけないの?
どちらとも別れられない。
苦しい。
どちらといても辛いのに
離れられない。
<79> とら ■2004年06月12日 土曜日 21時25分03秒
今思い出す、節目、幼稚園から小学校へ上がる時。ショックなことがあった。
また異性がらみだ。いやになる。2.14のバレンタインデーの日の出来事。
目の前である女の子が(しかも幼稚園生)男の子にチョコをあげました。こちら
目撃してショックで凍り付いておりました。目の前で女の子はキスをその男の子にしました。電撃が走り(俺が何で?)思わず、指をくわえてその女の子と見てしまいました。そうすると、そのこが「あなたもキスして欲しいの?」と聞いてきました。凍り付いている僕は答えられません。その子はあっさりとほっぺにキスをして
行ってしまいました。すごくショックでした。混乱しました。何故かこれ以来、女の子が怖くなりました。こんなことを思い出したのです。今でも衝動的な女の子は苦手です。こわい。
<78> プレミオ ■2004年06月08日 火曜日 21時40分58秒
自分にとっての重大な転機は今年の4月。
さかのぼること、昨年の秋。
どうにも調子が悪い。やる気が出ない。
仕事の効率がどんどん落ちていた。
結局、精神的につぶれてしまい、離職することに。
でも辞める理由は、本当はなかったのかもしれない。
ただ精神的にまいってしまい、正常な判断ができなくなっただけだったかもしれない。
後に残っていく同僚や後輩に申し訳なかった。
自分が情けなかった。

いつまでも無職でいるわけにもいかないので、気乗りはしなかったが、再就職活動を展開。
でも、ダメだった。
自分にやる気が出ない。
自分が何をやりたいのかわからない。。。
再就職がうまくいかないのは、自分がダメだからと信じていた。
ダメな自分が情けなかった。悲しかった。

そして4月。
ふとしたきっかけだった。
行き詰っていた再就職活動に、ほんの少し光明が見えた。
今まで、再就職がうまくいかない=自分がダメと思い込んでいたのに、初めて「結果はどうあれ、自分は良かった」と思った。
心に余裕ができた。
そして、自分はおかしいと、ようやく気づいた。

「うつ」だった。

うつになった原因もすぐに理解できた。
自分はずっと前からACだと自覚していたのに、回復へのプロセスに歩みだそうとしていなかった。
放置していたAC問題。それが火を噴いたのだ。

このことに気づいて、自分のやるべきことがはっきりと理解できた。
ACからの回復をプロセスを進めること。
そして、うつを再発させないこと。

まだ自分はACからの回復の階段に足を踏み入れたに過ぎない。

ゴールは遠いだろう。
でも、今、自分は着実に進んでもいる。
進み続ける限り、たどりつく可能性は消えない。
<77> WINNIE ■2004年06月03日 木曜日 00時16分22秒
<76>の続きです。

中2以来の、私の変化の中で、特に苦しいこと。いろいろあるけれど、私が今も苦しいことは・・・うーん、やっぱり表現するのが難しい。

なんというか、「前に進む」「継続していく」「変化していく」ということを受け入れることが、難しいと感じている。何かしようと思っても、ほんのちょっとやったら、あとはその場にしゃがみこみ、うずくまっていたくなる。

その時のことが過去にできていないから、時が私の中で、止まっているんだろうと思う。

やっぱりうまく書けない。でも、私はそのことで、いつも苦しいと感じている。それに、表現できないから、誰とも問題を共有できないし、なかなか周りにも理解してもらえない。
<76> WINNIE ■2004年06月01日 火曜日 02時44分05秒
中2の時のことって、ある意味人生の節目だった。

父が泥酔して騒ぎを起こし、なんだかその時から、すっかり私の精神的な調子が変になった。

25歳の時にお世話になったカウンセラーさんに話すまで、この時の事は、誰にも話せなかった。それまで吐き出したくても、自分の致命的な汚点を見せるようで、吐き出せなかった。カウンセリングで勇気を出して話してからは、説明はできるようになった。それから、カウンセラーや、いのちの電話、精神科医などに幾度となく「説明」はしてきた。

一人で孤独に抱え込む重さは、この問題についてもうそんなに感じなくなった。けれども、私はこのことを、まだすっかり「過去」にすることができていない。

言葉にできない、その時から続いている苦痛。自分の人生を、自らの手で進めていくことのできない、力を奪われている感じ。その時からの心の不調を、今もずっと抱えている。

・・・ここまで書いて、また自分の感覚を見失ってしまった。ので、またの機会に書こう・・・
<75> hana ■2004年06月01日 火曜日 01時30分04秒
離婚して私は変わるはずだった。こざっぱりした部屋と質素でもおいしい料理。優しい笑顔のお母さんになるはずだった。お金持ちを夢見て起業−失敗−就職−退職−起業を繰り返す男に「あなたなら出来る」をもう言えなくなって自分自身もボロボロになった時、離婚を決意できたのは今の不倫の相手の存在があったから。自分はまだ誰かに愛されるほど価値がある、その気持ちが私を強くした。社会的な立場もあるし、あの人は離婚はしない。でももしも運命が変わり、万が一にもその人と一緒に住む事になった時のために、彼の妻にふさわしい人間になるつもりだった。医者を辞めたいという彼に、せっかく通いだした大学は辞めて私が働くよ、なんて言ってしまう。そうやって別れた人の事も甘やかしてきたんだ。私は変われないんだろうか。

離婚、不倫そして18年のブランクがある日本での生活にいつか慣れていくのだろうか。今回もそう、だんだんと立ち直ってきたと思っていた矢先、4ヶ月ぶりに頻脈がぶり返した。お父さんとお母さんがいつも笑ってる、明るくて柔らかな家庭を自分の子供たちにも創ってあげられなかった。ごめんね。
<74> NAC NAC ■2004年05月31日 月曜日 06時14分22秒
一連の「ハグ事件」に関しては今日が最後の書き込み、最終章だ。

私が昨年11月半ばから参加してきた自助グループは、5/23を以って2年間の歴史に幕を降ろし、私は元チェアマンのAさんから「新たな再開に向けて」何点か引継ぎもした。
1回の参加は平均3,4名といった所であるが、改めて参加メンバーを振り返ってみると元チェアマンのAさんもよくやって来たと思う。
その点では「ほんとご苦労様」とAさんに言ってあげたいし、あげたかった。
ここで私が「あげたかった」と言うのは、そういう機会を得ながらそこまで私は気が回らなかった悔やみからきている。
そしてそういう機会とは、最後の別れ際に玄関内でAさんに「握手してください」と言われ、私がその要請に「もうこれでお終いかぁ。残念だったなぁ」と思いつつ力ない笑みで応じた時だ。
私はその時上記のような思いが強くて、一言「よく頑張って来たね」と彼女の労をねぎらってやる事ができなかった。
Aさんの要請に応じて手を握り返した時、私は「そのままAさんを自分の方に引き寄せて抱きしめてあげたい」衝動(スケベ心も含む)に駆られたが、場所が場所だけに「自分も公私混同の区別がつかなくなる」と思い、そのまま握手だけだった。
Aさんはその時どういう心境で自分に握手を求めたのだろう?
逆に私がAさんの立場だったら「(無意識で)抱かれたい。受け止めてもらいたい」という欲求があったかもしれない(それこそHな私の妄想かもしれないが)。
まっそうした解釈はこちらの心の持ちようでいくらでも考えられるが、はっきりしているのは「(そうした『己が精神的成長を促す』ことが目的の場で)相手を心から認めていないと自分から『握手してください』とは言い出し難い」ってのが正直なところではないだろうか?
サイン会とかのお手軽な握手とは意味が異なるのだ。
因みに私がAさんに握手を求められたのはこれで2度目で、1回目は最初にAさんと出会って彼女の中のインナーチャイルドの存在を自分が、というより自分のインナーチャイルドが指摘した時だ。
その時の不思議な感覚は以前どこぞのコーナーで自分が書き込んだので、ここでは省かせていただくが、私のインナーチャイルドはAさんのインナーチャイルドによって直接刺激され「覚醒した」と言っても過言ではない、と自分では思っている。
何回も書いてきたことだが、私とAさんのインナーチャイルドの共通点は「(同じくらい)強烈な怒りを溜め込んできた」ということである。
ある意味Aさんと自分は似たり寄ったりの所があるから、それ故お互いのインナーチャイルド同士が共感・共鳴したのだろう。
ほんと不思議な感覚だった。
結果はこうしていい方向にはならなかったが、仕方あるまい。
今の私はいつでも自分のインナーチャイルドと会話できるようになり、己が無意識に溜め込んだ怒りを認識し、自分の意識の上でコントロールしようと努力してきたが、残念ながらAさんにはそれはまだ難しかったらしい。
だから私は「もっと自分のインナーチャイルドと会話したほうがいいよ」と事あるごとにAさんに言ってきたのだが・・・
重ね重ね残念である。自分のインナーチャイルドの初めての友達を失うってことは・・・
無意識のインナーチャイルド同士でも「お互いの信頼関係」は必要なのである。
その信頼を相手に期待していて満たされなかったから自分のインナーチャイルドは寂しがっているのだ。
子どもの心は信に以って正直である。
だからその子の感情を自分で認めて受け止めてあげるべく、私はこうしてインナーチャイルドのパワー全開で書き込むし、初めての自助グループ参加でも平気で号泣するのだ。
「何処にいても内なる子どもの感情は自由」
それが私の理想だ。
だから私は初対面のACの前でも泣くことを躊躇しない。
泣きたいくらい寂しい感情が自分の中から湧き上がってきたから、それに任せて私は泣いているだけである。
私は悲しいから泣く。
寂しいから泣く。
辛かったから泣く。
それに対して何の遠慮がいるものか?
自分で泣くことが、心が完全に乖離して「泣きたくても泣けなかった」インナーチャイルドの感情を今の自分がありのまま認めてあげる、受け止めてあげる行為なのだ。
それゆえ最近では私は頻繁に自分のインナーチャイルドと会話できるようになって、それでも時々「これって妄想なのかなぁ。俺って二重人格なのかなぁ?」と自信のない自分を疑ってみたりするが、その旨を自分のカウンセラーに伝えたところ「大丈夫ですよ。そのままインナーチャイルドと会話してあげてくださいね」とお墨付きを得られたので、私はほっとしている今日この頃でもある。
こうして私とAさんとの出会いは「握手に始まって、握手で終わる」不思議な恋愛ごっごだった。
「嗜癖で始まるごっこもあれば、同じく嗜癖で終わるごっこもある」ってことか?
やっぱり少しでも彼女の中のインナーチャイルドを満たしてあげようと思ったら、私が言ってきた正論?と反するが、私がお父さん役でその子を抱きしめてあげれば良かったのかもしれないなぁ。
だけどもしそこで私が自分の欲望のままAさんを抱いてしまったら「もう後戻りできないんじゃないか? このまま依存の関係になって抜けられなくなっていくんじゃないか?」その不安が辛うじて自分の「抱きしめてあげたい」衝動を抑制した。
それが道徳的に良かったのか、悪かったのか?は私には判断がつかない。
ただ「自分なりに感じて考えて、その上で採った行為」ということははっきりと言える。
相手の感情を感じつつ、自分の感情のまま、嗜癖に囚われることなく、相手を抱きしめられたらどんなに幸せだろう。
そしてそのように小さかった自分も「無条件で抱きしめられたかった」その満たされなかった思いの裏返しでもあろう。
「ぎゅっと抱きしめられる暖かさ・安心感」
そういうものを今の自分は欲しているのだと思う。
人の心ってのは難しい。
正直じゃない自分の心はなおさらだ。
だから素直にならなくちゃいけないんだと思う。
それが自分を知る近道だ。
<73> そら ■2004年05月24日 月曜日 00時15分27秒
大学時代に5年間恋愛し結婚して10年。1ヶ月前、夫が結婚前に100万借金していることが発覚した。ふくらみふくらみこの10年で230万になっていた。愕然。私の父と母は子どもの頃からずっとけんかばかりしていた。子どもの前で平気で。父は母を殴ったし、母は気が狂ったように罵詈雑言をはいたそんな家庭で育った私。お金のことが原因でけんかしていたこともあった父と母。そんな家庭にだけはしたくなかった。なのに隠れた借金が夫にあったことで、私は一時期自分自身が大嫌いな母親と同じようになりかかっていた。友人に相談し、兄に相談し信頼できる人に相談し一応立ち直った。今はこつこつ返していこうと前向きに考えられるようになった。だけど夫を私は愛していない。たぶん夫も私を愛してなどいない・・・。ただ自分は父や母のように離婚したくない。子どもの前ではいい母親と父親でいたいだけ。最近は実母に子どもを預けるたびに不安がよぎる。仕事をやめたくても借金のせいでやめられず子どもを預けざる終えないという事情もあって最悪なジレンマ。実母とのいさかいもたえないし、今は本当に私自身、将来をよくするか否か決断をいろんな意味でせまられている節目の時だと感じている。でも仕事をやめると実母と同じバカな世間知らずな専業主婦になりそうで、賢い専業主婦になる自信もない。そんな自信のもてない自分も嫌い。だからしかたなく仕事をつづけようとしている中途半端な自分も嫌い。少し前の自分になって前むきでチャレンジ精神の旺盛な元気な自分に早く戻りたい。
<72> ayako ■2004年05月23日 日曜日 15時37分22秒
私にとっての人生の節目・・それは離婚。6年間嘘をつかれてきたので旦那の事は信用ならないが、旦那は体を壊したので国に帰ると言っている。しかも7月に。
本当だろうか?怪しい。今私の住んでる物件は建て替えのため出ていかなければならないのだ。いい機会だから別居しようと言ったら最初はゴネてた。でも国に帰るから納得してた。お互い部屋を借りようにも保証人は居ない。結局私名義で借りる事になった・・仕事辞められないじゃん!旦那は知り合いのまた知り合いに物件探し頼んだりしてた。退去する月も私に相談なく決まった。いつも相談もなく決める。「なんで相談ないの?あなただけが住んでるんじゃないんだから」と言うと
シュンとした。「ゴメン」という言葉は彼から出てこない。いつの時も。
一生出てこないんだろうな。もう彼とはSEXしないし、キスもしない(いつもニンニク臭い)。すんなりとSEXしたくなくなった。「一人が気楽」それは一番私は理解できてる。早く自由になりたい。
<71> KIYO ■2004年05月22日 土曜日 19時07分10秒
自分が精神的に成長ができていないことに、大学卒業を前に気づきました。このままではいけない。
これ以上嘘をついたまま進むことはできないと思いました。

世間のレールからはずれ、1年の就職浪人の末、中途入社で就職、
自分の人生を取り返し始めました。
過保護の両親に反対されるのがこわくてできなかったたくさんのこと。
反対され、絶望するのがこわくて望むことさえしなかったこと。
友だちとの遊び、飲み会、アルバイト、クラブ活動。
青春時代に経験したかったのにできなかったことを遅ればせながら、
どん欲に経験しようとしました。

望んでいた多忙な生活。充実している面もありましたが、
いつしか行き詰まりました。
それは一番重要な部分で自分に嘘をついていたからです。
家を出て、親から逃れたい。

本当は自力で、ひとりで両親と対決し、
家をでるべきだったのかもしれません。
結局、結婚というかたちで家をでました。

私が家を出るときの修羅場は恐ろしいものでした。
両親は渾身の力でそれを阻止しようとしました。ここで家に残ったら、
自分が壊れてしまうと思いました。

家を出た途端に両親はおとなしくなり、
わたしを失わないために和解しようとしてきました。
まるで何もなかったように。

夫の手前もあり、表面上穏やかにはしていますが、
わたしと両親の葛藤はまだ終わっていません。


私は家を出ることを望みながらも、反対されつぶされることを恐れていました。また、経済的な不安もありましたが、今思えばそれは言い訳に過ぎなかったと思います。


<70> りさ ■2004年05月18日 火曜日 22時07分21秒
結婚て、100%に近い確率で幸せになれると
思っていました。子供の頃から普通に幸せな
家庭に憧れていました。その夢が実現できる
と思っていました。
現実は違いました。また、家庭という呪縛に
はまってしまって、抜けられない。
私は、ただ結婚して幸せな家庭を
作りたかったとそれだけです。
一体、いつになったら本当の幸せは
掴めるんでしょう。
こんなの全然違う。
<69> メイ ■2004年05月16日 日曜日 12時28分20秒
今、私は就活の時期。自分で決めたい。もう誰にも左右されたくない。
でも、彼氏といつもそばにいると、左右されてしまう。ちょっとさけてる。
でもそれってなんか違う。
迷惑はかけずに、自分で決めるのではなく、
自分で決めるために、相談をしよう。
<68> キーコ ■2004年05月07日 金曜日 12時17分59秒
初めて、自分で決断したことだけど、別れたいと笑顔で言われた。
「信頼して欲しい!」と 昨日まで、にこやかに言っていたひとが・・。
どこまでも、笑顔がついて回った、本音のない人。
まだ、まだ、つらいけれど・・・
「出会って、一緒に暮らして、別れたこと」が、大事なことに思える自分が うれしい。
記憶が飛んでいて、あまり思い出せない。
残った思い出は、私にとって「苦しみばかり」だけれど・・・。
<67> hako2o ■2004年05月04日 火曜日 18時19分30秒
蘇って2度目の節目に来ているのだろう・・・
今度の節目は穏やかだった。

それは「ありがとう」との出会い。
ありがとうと言う言葉の言霊の意味に廻り合えたから・・・
もう、過去に捉われで良くなった・・・
すべては許された・・・
自分が許されたら、すべてが許された・・・
自分が救われる事が「すべてだった。
それが自分に対しての「ありがとう」で有り、
今までの良い出来事の廻り合せ、
すべては、これが解る為に作られてきた物だったと気付いたのだ・・・
この世のすべてが有り得ない出来事で
すべてが有り難い出来事だったのだ・・・
私は、多くを求めすぎていた。これから先は余りの人生。
流れに任せてみようと思っている。

これが私の第2の人生の始まりである。
どうなる事でしょうか?
不思議と不安が無いのが可笑しいくらい。
この世は、「ありがとう」で繋がっている。
これが解ると恐れるものは、無くなりました。
後は、自然に流れるように・・・
<66> ねここ ■2004年05月03日 月曜日 02時18分33秒
ずっとなんだかもやもやしていたものが晴れたような。
私はうまい事ネットと付き合ってなかった。
それはACというものとも、かもしれないと思った。
変わらぬ安心感、いつもの画面、変化への恐怖感をネットで紛らせて
それは頻繁になり、自分の感覚を狂わせてる。麻痺させている。

私はACであり続けなければいけないような。
今のままでい続けなければいけないような。
私は、変わることを自ら阻んでいる。
救われたものに捕らわれている。
そうして、新しい事をしようとしない。したいのに。
また逃げてくるから。変わらぬ安心を求めてしまう。

痛いのを感じたい、麻痺させずに。
自分の愚かさを、弱さを、どうもしようとせず、思い知りたい。
そうしなければ、私は這い上がれないような気がする。

あとは、「今」しかない。

ACは大事な私の「一部」。
私は人間という動物。直感を信じる。
<65> いつき ■2004年04月27日 火曜日 15時33分48秒
あと3日で2年勤めた会社を退職します。
次の就職先は何も決まっていません。
たった2年で辞めてしまうことや、上司はよい人なのに、と半ば勢いで会社を辞めてしまう自分が情けないです。
去年の5月、今の彼氏と出会って、仕事以外がとても楽しかった。
残業が比較的多い今の職場にどんどん嫌気がさしてきた。
時間がとれそうな公務員目指してがんばろう、そう言い聞かせて会社を辞める決心をした。
上司には家業を手伝わねばいけないから、両親には営業という仕事が向いてないから公務員を目指す。
そう言って、両者を納得させて円満に退職する。

でも、本当は社会人でいたくないから会社を辞めるんだ。と思う。
でも、本当のこといったら、「甘えんな」って言われそう。思われそう。
いつも、人に否定されたり怒られたりするのが怖くて、嘘をでっち上げる。
嘘ばっかりで、本当の気持ちが自分でもわからなくなってしまった。

そういう自分からずっと逃げてきた。見て見ぬ振りをしてきた。
逃げることで一見リセットされたように錯覚していた。
本当は、すこしずつバランスは確実に崩れていたんだ。

気づいてよかった。
<64> ゆうこ ■2004年04月25日 日曜日 17時57分00秒
ACの概念に出会って、ACの勉強を始めたこと。他にも沢山の要素が絡み合ってるけど、そのことが、特に、私の中で、希望を持ち始めたキッカケ。「ああ、ACなんだから、ダメでもしょうがないんだ。」って思えた。「ACになったのは親にも関係あるんだから、親に正直な気持を伝えてやれ」と思って、前置きもせず正直な気持をメールで送った。ママは共依存性思考者だから、話が通じなかったけど、仕事依存症の差別者の自己愛性人格障害者だと思ってたパパは、誠実な返事を一週間後にくれて、嬉しかった。彼氏も、私が自分を「ACだ」と言い出すと、最初は怒ってたけど、私が影でこっそりコツコツACの勉強を続けていると、だんだん理解を示してくれるようになった。友達は、今は全然いないけど、友達がいても、楽しく付き合える自信がない。
ACの概念に出会って、本を購入して読んだら、「これだ!!!」と、今まで感じたことのないような手応えを感じた。私の人生で、こんな感覚になれることがあるなんて、と思って、半分言いなりのようになっていた彼氏に何を言われても、「私はACの勉強をするんだ。回復するんだ。」と、自主的に思えた。こんな手応えは、初めてだったかもしれない。私は、私の家族と彼氏の複雑に絡み合った人間関係の問題で窒息しそうに苦しかったけれど、でも、「苦しみがある以上、それと取り組みつづけなければいけない。(疲れたら一日寝ていてもいい)その取り組みに目標を与えれば、多少楽にはなる。その目標とは、やっぱり、苦しみからぬけ出ることなんだ。それが健気で、神様が喜ばれるやり方、生き方だと思う。それって、希望を無くさないって事だと思う。私は今、神様の喜ばれる生き方をしているのだわ。」と思った。以前は本当に死にたかったけれど、ACとかを勉強して取り組んでるうちに、だんだん糸がほぐれてきた。一番大きいのは、私は「ACであること」を、恥ずかしく思わないようにしよう、せめて親しい相手には、堂々と自分がACであることについて語れるようになろう、と決めたこと。(実際やれているのはオズオズとだけど…)だって、私が自信がなくてダメなのは、私だけのせいではなくて、親のせいも大きいので、私が恥に思う必要はないって、心底思うもの。自分の問題の為にACの勉強をしたことで、例えばエンコーをする女子高生とか、犯罪者とか、社会問題の対象になってる人を、温かい目で見られるようになった気がする。私は世間一般のキリスト教会の決まりや習慣には従わないけれど、キリストの「汝の隣人を愛しなさい」っていうのは、真理だと思う。だから、エンコーする女子高生とか、理解できない相手を批判するんじゃなくて、そういう人が近くにいたら、ただ愛そうと努めて、温かく接してあげたらいいと思う。私がダメな自分を受け入れることで、初めてそれができそうな気がした。でも、彼氏が大学で勉強して、それと同じような価値観を持ち始めたのも大きい。ありがとう。
<63> たまき ■2004年04月20日 火曜日 14時27分26秒
あたしにとっての人生の節目は、大学を中退したこと。
大学には5年間在籍していた。そのうちちゃんと通っていたのは2.5〜3年間ほど。あとの一年は大学に行く気力がなくなり、しまいに外に出るのも嫌になった時期。残りの一年は正式に休学していた。いわゆる引きこもり状態。すべての行動を起こすためのエネルギーがなくなっちゃったと感じていた。
「大学を中退する」と母親にははっきり言ったが、母親のほうはあたしの気持ちが理解できなくて、半狂乱だった。なだめすかしていかに今の時代が大学卒業でなければ生きにくいかを涙ながらにかき口説いた。だけどあたしは「中退する」と決心していた。
母親は信じられなくて「それなら、1年休学しなさい。そしたら気持ちが変わるかも」とすがっていた。だから母親を納得させるために1年の冷却期間をおいた。
結局あたしの意思を押し通して大学を中退した。
そして自分で就職先も決めた。
今はそれなりに平穏だ。あたしの心は。
なぜならすべて自分で決めたという実感があるから。そもそも大学進学に当たっては、あたしの意見なんて少しも反映されなかった。「大学について何にも知らないあんたが考えるより、何百人も進学させたお母さんのほうが知ってるんだから」なんて、現役高校教師の母親は頭ごなしに言った。「誰があんたの学資を出すと思っているの」出資者である母は言った。こんなことを言われて、自分の意思を押し通せる子供はいったい何人いるんだろう。だからあたしは母の勧めに従った。大学生活はなんだか釈然としないまま過ぎていった。いつもいらいらしていた。
だから一度人生にリセットをかけて、自分で車線を変更したかった。

母の心は平穏とは遠いところにある。いまだにことあるごとに「中退」のことをうるさく言ってくる。
あたしは平気だ。
母は単にあたしを利用して自分の人生の中でできなかったこと(私立大学に進学させ、一人暮らしをさせる)を自分の分身である子供にやらせようとしているとわかったから。言いなりの人形でいるのはある意味楽だが、とても窮屈で、いつも親の顔色を伺っていなければならなかった。
今の選択が正しいか間違っていたかは、まだわからないけれど、少なくとも以前よりは生きやすくなったと思っている。母親のほうは以前より生きにくいかもしれないけれど。
<62> 花 ■2004年04月20日 火曜日 01時18分52秒
かけていこうの2の段は節目。思い切って諦める。いったんしんだ。人生は続いてない。20年間で一つの人生は終わり。ということにする。変化を強調、節目をつくる。20・40・60・80・100・・・ここらでがらっとかえて見る。振り返る。過去は生きなおす。たかが環境。そうやって動じない自分。
<61> ayako ■2004年04月19日 月曜日 15時03分50秒
アパートの建て替えの引越し先をそろそろ考えなきゃならない。旦那は外国人、私は派遣で保証人は居ない。どっちで探した方が有利か?保証人不要の所から当たるしかない?住むエリアもかんがえなきゃ。旦那はいつも私まかせ。引越しも私にやらせようとしてた感じがした。引越しも人生の節目・・この区に住んで色々あったな・・もう同じ区は住みたくない。依存した男が住んでる区にも住みたくない。
同じターミナルの駅も利用したくない。下町の辺りに行こうかな・・。本当は総武線沿線が希望なのだけれど。

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This script written by Shintaro Wakayama.