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私たちの物語 - 人生の節目・過去ログ No.17
メッセージ数:340件

<340> みゅー ■2007年07月10日 火曜日 03時16分27秒
来週は病院。先月、薬が一つ増えた。薬が一つ増えた、この日は「父親」が初めて、あたしの主治医に会いに病院に一緒に行った日。正確にいえば「結果的に、あたしがムリヤリ「父親」を連れて行った」って事になってた。
初めて病院に来て「父親」は、ここが「総合病院」だって事にびっくりしてた。あたしは20年以上も、ここに通って色んな患者さんの姿とか見てるし待たされる事にも慣れっこ。
「父親」は初めての「きちがいの来る病院」に来て落ち着きがなさすぎた。見てるこっちが落ち着かなかった。だから「お父さん、これで最初で最後なんだから落ち着いてよ」「落ち着きが無いように見えるのか!それよりまだなのか!」

あたしが主治医に呼ばれて「今日ね、お父さん来てるの」「お母さんは?」「お母さん来るとスポークスマンになっちゃうから来ないでもらった。でね、お父さん、すごく落ち着かなくて、こっちまで落ち着かなくてさ」って言ったら「じゃあ、お父さんを先にしましょう」で「父親」が先に話をした。
次に、あたしが話をして、あたしが最後に「これで家の両親が、先生に会ったことになるけど、あたしは結局やっぱり恵まれてるのかな?」「いや、恵まれてるとはいえませんよ」「やっぱり、お父さんヘンな人だったでしょ?」「いや、普通のお父さんですよ」「「普通」なら恵まれてんじゃん!!」「そういう意味じゃないけど、恵まれてませんよ。普通です。ただリッチじゃないなとは思いましたよ」「ああ、うちビンボーだから」「そういう「リッチ」じゃありません。あなたは恵まれてはいえませんよ」

帰りは「父親」とは別々だった。家に帰って「父親」から「何で俺が先なんだ!」って怒られた時、あたし先生が言ってた「リッチ」の意味が、やっと分かった。要するに「自分の娘の事情や、主治医の話を、ちゃんと理解したか」「「普通」とは違った世界や、そういう事で苦しむ人間の気持ちを理解できる心の広さや柔軟性、心の豊かさを持ってるかどうか」って事だったんだと。

そういう意味では「母親」も「リッチじゃない」と、つい最近思った。でも、それが「普通」なんだよ。たとえ「臨床心理士による、OO障害についての無料シンポジウム」に精神的な障害を持った子供の親が100人来たとしても全員が納得して帰る事なんてないんだ。30人、たとえ1人でも納得して帰った親がいれば御の字なんだよ。それが「普通」なんだ。悲しい事だけど。

「リッチじゃない両親」の、おかげで「あの施設」に行くことを決めたんだ。
ある意味「人生の節目」で「家を出る、きっかけ」。先生に今度それを話すんだ。
<339> koara ■2007年07月02日 月曜日 01時41分38秒
夫婦の契約をやめた。自立に自分を追い込んで、ふらつく足元にあたしを見つめる子供の目がある。
ごめん。ママ、がんばるよ。
<338> ぺあ ■2007年06月28日 木曜日 23時44分16秒
高校時代ずっと悪夢見ながら周囲とうまく関われず、自傷をやめられずにいた。それでも他の人には「高校生」らしく振舞い、心は拒絶するのに同級生に「挨拶」をしていた。演技する日々でした。ずっとずっとずっといつしかいつのひかこの訳の分からない「鉛」を心に持ってしまったこの重いものがなくなる日を夢見ていた。この重苦しい気持ちの正体を見るために勉強した独りになった。8年後。身近な人を亡くした。やっと分かった。分かった時にあなたはいなくなった。これが求めていたものだったのか。自傷して周囲を飛ばして生きてきたけど。楽になった。やっと「恵まれすぎ」な私「家族」から離れられた。私の感情はそれ相応の意味のあるもので、私は敏感なほど親の思いを感じていたんだって分かった。でも笑っちゃうよ。ほんと。これかよ。私の周囲にいた友人で必死に私に助言をしていた人に言えるよ。そして過去に私を「ずるい」と「めぐまれている」っていった人にも。あなたは何でそんなに不安定なのかって言った方にも。ずっと助けたかった。そう思う。軌道修正したかった。なのに壊れた機械がぼろぼろのまま突っ走っていった。見えない。そう思う。見えない人には見えない。でも楽になりました。でももういなくなりました。AC本で心理的特徴を見ていると私の問題ではなくOOの問題にとって変わってしまいます。もういないのに。苦しかっただろう。ほんとにこんな風な終わり方で、小さな頃の自分と今の私が呆然と見ていてでも自分は間違ってなかったと安心し開放され私の時代が始まったと思ってもいます。でもずっとずっと頑張ったことがぱっと無の意味のない空間に落とされた気がします。ねえOOさんも?
<337> アル ■2007年06月26日 火曜日 13時36分41秒
今日、テレビを見ていて思った。

生きている人それぞれに「人生の節目」があって、本人だけでなくそばにいる人たちにも必然的に関わりがあることなんだよね。

誰ともつきあいがないとそういう関わりもなく、そのとき見たり、感じたり、考えたり、そうした結果何か行動を起こすこともない。
そのとき体感して理解することがないために人の気持ちも行動もますますわかりづらくなるのかもしれないね。

つくづく私って損してきたんだな。
<336> アーネスト ■2007年06月26日 火曜日 01時43分01秒
(フラバ注意です)



自分の問題に取り組み始めて、3年弱。
最初の頃は、高い建物や電車のホームから飛び降りることばかり考えていた。今は、「この人生生きる価値あるかも」って思えてきてる。それだけで十分です。今は。
<335> ペア ■2007年06月20日 水曜日 12時19分03秒
就職できるかもしれない。まだ勉強中だけど。受かれば。ずっとずっと心の傷をすべて癒さなければ社会に出てはいかん!真っ白にしなければならないとがむしゃらだった。過去の傷が癒せそうなことは何でもやった。そして健康な(?)人に、「何でいつも悩んでんの?何に悩んでんの?」といわれたり、「お前大丈夫か?」って言われたり(バイトの上司の指示を聞くときにこういう風に聞いたら、私の世間からずれた解釈だって思われるのかとか色々考えたら何度言われても耳に入らなくなったりした。自信をすべて失っていたからこの聞き方で合っているのか不安だった)、とにかく友人(健康な人だね)にあんたがつらいって言うからこっちもつらいって言われたり、いつもアドバイス欲しがっている人に思われて、一方的にアドバイスされたり、そんな事ばかり繰り返した。
 周りが私を心配している中で私だけがとんとん拍子で進んだら、「これだけ心配させやがって」って言われるかと思うと足がすくむ。支配欲の強い人がまわりに多いのか、周りの言葉を私が支配だと受取ってしまうのか・・・両方あると思うけど。
でも私はもう一人で立ちたいの。お金稼ぎたいの。親戚や近所や親に言われる圧迫もあるけど。それでも変な男に言い寄られないためにも(すがりつく人おおい)、人の期待にしか応えなかった今まで。
 でももう働きたいんだ。あの職場で。うまくいくといい。でもほんとはこんな私、ずっと二重の世界で、中の自分は幼いままで、外にあわせて生きてきた私が、厳しい職場に出たら、うつとか簡単にかかるんじゃないか、とか人との関係でやっぱり人に「なんか、やりづらい」って敬遠されるんじゃないかと思うと怖い。頑張りは得意だけども、頑張りすぎてきたから。どっかでエンスト起こさないかいって思うんだ。でもやっぱり働くことが一番かな。支配していないんだけど支配しているように思われる今の周囲の中で私抜け出す一歩歩けば見えるかな。また、自立の道が。
<334> アーネスト ■2007年06月19日 火曜日 02時44分13秒
毎回毎回、いやと言うほどに自分の否認の堅固さと頑迷さに驚く。
他人の評価に怯える人間にはなりたくないとずっと思ってきた。そう生きるのは格好悪い、男らしくないと判断と決め付けがあった。そういったレッテル貼りは実際の自分の行動がどうであったかを見えずらくする「覆い」になってしまう。実際の僕はすごく他人の評価を気にする生き方だった。ポップソングの歌詞にありがちな「自分を貫け」とか「信念をもって」とか、そういう歌を聴けば聞くほど「自分を貫けない」「信念のない」自分を「だめなヤツ」と責める。問題は「自分を貫けず、信念をもてないことで生き方にどのような問題が生じたか?」なのだ。格好悪いや女々しい、男らしくない、恥といった感覚はすべて自分の行動を客観的に振り返るのを妨げる障害になってしまう。
<333> アーネスト ■2007年06月19日 火曜日 00時48分45秒
ACと言う言葉を知ってそろそろ3年になる。僕は生き方のたな卸しをすること段階に達していたと思っていたが、ここ最近では「あぁまだまだだなぁ」と感じることが多い。僕はまだまだあるゆる点で、生活がどうにもならなくなっていることを、つまり自分の敗北を認める必要がある、と感じている。僕の今の状態では、生き方のたな卸しをするには、まだまだ否認が強すぎて、できない。過食、買い物依存、性依存、共依存、ACさまざまな問題を抱えながらも、ようやく「これ(このどうにもなっていない)状態でいいや」と思えるようにも、いや思うようになってきた。 車はある日、突然エンストを起こしたんじゃない。いろんな不摂生がたたって壊れたんだ。タイヤは磨耗していないか?エンジンオイルは新鮮か?シャーシは頑丈か?運転手は健康か? いろいろなもののメンテナンスの怠り、部品の不備、走りすぎ・・・そういったものが複合的に絡み合って、今のどうにもならない僕がいる。
<332> なずな ■2007年06月17日 日曜日 01時46分59秒
家族に長い間縛られてる自分。それも事実。
でも、そろそろ別の道を本気で考えようよ。
 自分の幸せ、家族のトラウマ抱えながらだって見つけていけるはず。
 これまで家族や自分の問題を全部清算しないと、前には進めないと思ってた。でも違う。
 
 完璧でもない、いやなとこもたくさんある、そんな自分のままでも人と関わっていくべきだよ。そのためにはもっと自分をオープンに見せることなのかな。あまり自分を見せないまま失敗するのはもういや。見せて失敗する勇気もちょっと出てきたんじゃない?

 人に映る自分をたくさん知りたい。狭い歪んだ世界にいたくないから。
     大丈夫、きっとちょっとづつ変わっていくはず。
<331> アーネスト ■2007年05月21日 月曜日 02時36分26秒
自分の問題に気付かされて、本を読んだりMTGに出たり、ワークショップに参加したり・・・そういうことが始まってそろそろ3年近くになる。 

早い!!というのが感想だ。

ちょうど2004年の今頃、心理学のレポートを書くために文献を読んでいるうちに自分の問題に気付くきっかけに出会ったっけ。そこからは図書館に入り浸って本を読み、書き物をし、感情を出し、MTGに行き・・・持ち前の「今すぐなんとかしなきゃ」的、火事場のクソ力的頑張りで、今年の1月までフル稼働(ペースの問題じゃなく、手を休めるということができなかった)で突っ走った。その3年弱の月日を、今、振り返ってみると、やはり飛ばしすぎて疲れた、飛ばしすぎていた自分を思っては徒労感に暮れることが、この2,3ヶ月続いている。そのときのベストを尽くしたから、それはそれでいい。ただその突っ走り状態から、早まって失敗したこともたくさんあった。それも良い肥やし。
<330> 空也 ■2007年04月22日 日曜日 23時31分36秒
14才のとき、父親が死んだ。
朝起きていくと死んでいた。くもまっか出血だった。
それから、支えてくれるものが無くなった。
母は弟にかかりきりで、私二の次だった。
それからは食卓を3人で囲んでも私の話は無視され続け、弟とばかり話をする。
そんなに私は駄目な子なのかとがむしゃらにがんばった。
少しでも母に気に入られるように。
大学も特待生制度を受けていった。
だけど、食卓では無視される。雑用は私だけにおしつける。
母は心臓が弱い。
家を出ることができない。
だからここで生きていかなくてはいけないんだと思った。
でも鬱になり、学校へさえ行けなくなった。
そんな私を母は責めた。
弱い人間だからそうなるんだといった。
死んでしまおうと思って薬をたくさん飲んだ。
次の日、気づいたら階段から落ちていたのだと聞いた。
死ねなかったし、
母は冷たい目で私を見るだけだった。
理解を示すそぶりで、その実、事実から目をそらそうとしている。
なかったことにしようとしている。

だから、今でも平気で無視をする。
<329> ねいろ ■2007年04月19日 木曜日 18時01分55秒
今までブログに吐き出してきたこと。
少しずつ消去していこうかと思う。
過去を消すのではなくてもう折り合いをつけられたから。
痛い心の思いを何度も読み返すことがもう必要がなくなってきた。
それが進歩なのかよく分からない。
一日ずつ読んでは消していこう。
<328> アーネスト ■2007年04月11日 水曜日 11時10分47秒
2年半前のことを思うと、やはり改善されているのだろうか・・・楽観しても意味はないが、少しでも改善されていると思いたい。あの、一気に、さまざまな感情、問題が、ゴゴゴと地鳴りとともに持ち上がってくるような、感じは確かに今でもある。でも立ち直りが早くなったし、気持ちの切り替えも早くなったと思う。相変わらず、まず否認がきて、しばらく立ち往生して、それから取り掛かるという一連の流れももそんなに変わっていない気がする。そういう意味ではあまり進歩していないのかもしれない。相変わらず、親のすねをかじって生活していることも変わっていないし・・・それでも何か手応えのようなものがある。それはこの5年くらい鬱に何度も見舞われて死を考え、一度は未遂までいき、でもそれを止めてくれた友達がいた、ということにやはり救われているからだ。なんて場かなことをしたんだ!!という気持ちは薄らいでいるけれど、そのことはやはり自制する装置の役割になっているような気がする。あそこまでつらい状況に追い込まれることは、もしかしたらあるのかもしれない・・・そして僕はそのことが何よりも怖い。でも違った策で対応すれば、もしかしたら、あれほど自分を貶めなくても、ほかにいい方法があるのかもしれない。あせりは早まりを呼び起こすということも、やはり僕が自殺未遂という経験から学んだことだと思う。 そんなにつらい状況に黙って耐えろ、と言われても僕にはやはり耐える自信がない。そのときになってみないと、わからない。でも黙ってじっと耐えるのと、自殺とどっちが幸せかと言えば、耐えるほうだ。衝動的に動いてしまいたい自分がいることも確かにわかる。でもそれじゃ僕は、その苦しいつらい状況の攻撃性に、自らの選択権を奪わせてしまうことになる。こうやって冷静に書いていても、やはりそのときになればつらい。でも死んでしまったら、今ある状況でさえ改善するチャンスを失ってしまう。それどころか、この先、何十年先にある、喜びであったり、楽しみであったりするよいものを獲得するチャンスさえ失ってしまう。それは、ハイヤーパワーもおそらく嫌うだろう。
<327> ゆうこ ■2007年04月05日 木曜日 09時47分03秒
昨日初めてカウンセリングに行った。一時間ずっと泣きっぱなし
人に話すのってこんなに体力のいることだったんだ。
疲れた今日はずっと寝てたい
でも何かもやもやした気持ちが消えなくていらいらして
ゆっくり出来そうにない
<326> アーネスト ■2007年03月19日 月曜日 00時24分06秒
僕は寂しいから、温かい人間関係を築く必要がある。
家族以外の人間と。

自助グループでもサークルでもボランティアでもなんでもいい。
とにかく必要なんだ。そのことが大事なんだ。

20過ぎたころ、人間関係で挫折した。「家族」という収容所のようなところから抜け出るために、必死で家の外で人間関係を築こうとしたが、だめだった。家族と関わっているといや、そうでもなくても僕はやはり病的な人間関係を築いてきたと感じる。それは一言でいうと、相手が親だろうが兄弟だろうが部活だろうが、とにかく人間関係にのめりこむと、自分の世話ができなくなってしまうことだ。

一人で過ごすことが少しずつできるようになってきた。自分を大切にしながら少しずつ進んで生きたい。

この前のバイトで少し自信がついた。あれほどわからないことを人に尋ねるのが怖かったが、「自分には質問をする(=自分の問題の世話をする必要がある)」と言い聞かせることで、泣き寝入りせずにすんだ。今日も買い物のとき、店員に、わからないことをいろいろと素直に聞くことができた。本当にささいな、当たり前のことかもしれないが、僕にとってはすごく大きな進歩だった。

生まれてはじめて接する人間が病んでいたから、僕には確かに、人間関係を築く上でいろいろな困難がある。それでも、続けて生きたい。
<325> とら ■2007年03月10日 土曜日 03時03分45秒
仕事のことで言えば、今年は節目だ、31で父から独立、失敗をし、現在に至る。自営をして、挫折して、思えば、7年目になってた。もちろん収入はゼロなので、バイトもするが、生保が保険になっている、まだ、自営とはいえない。とはいえ、よくやっている。とにかく、バイトで稼いで、早いうち、生保
をやめるのだ。ただ、時間はかかりそうだな。無理はできないな。現実的かつ楽観的でなきゃな。とにかく3年以内、会社を有限にする。それが俺の目標です。
<324> SACO ■2007年03月02日 金曜日 12時22分05秒
祖母が一年ほど前に亡くなった。一番に思い出されるのは、「かわいそうな子」と何度か言われたこと、不倫に走った私に「あんた、死に!」と言われたこと。でも最近、幼い私を寝かせるため歌ってくれた「○○ちゃんは良い子だねんねしな〜」という子守歌。私を良い子だと歌ってくれた、受け入れてくれた人は祖母だったんじゃないかと思えるような思い出がやっと思い出されるようになった。一年前、祖母は認知症になって急に倒れて亡くなった。仕事や家庭、子育てでいっぱいいっぱいの私は、この祖母の死にきちんと向かい合えていない。一周忌を迎える今、退職し、離婚も決意し、自分の中の祖母との大切な思い出を振り返る事が少しずつできるようになってきたかもしれない。
<323> とら ■2007年03月02日 金曜日 04時32分37秒
彼女の気持ちの確認。まさに人生の節目だな。これで俺の一生が決まる。今回振られたなら、俺はもう結婚しない。もう年齢的に無理なんだよ。子供と持つことのぎりぎりの30代。結婚したら子供を育てなきゃいけないし、彼女は同い年だから、高齢出産になってしまう。そんなことがこれから待っているんだ。うまくいけば、俺は夫になるし、パパにもなる。そして今は貧乏ながらオーナー社長だ。私生活、彼女のこと、子供のこと、仕事のこと、趣味とやることはやまほどある。いいイメージを持つ、ポジティブであるしかになあ。俺は追い込まれている。でも変だけど、落ち着きもあるんだな。これは年齢的なものかな。30代後半、いろんなことを経験し、涙してきた。いっぱい苦労してきた。書いていて涙が出るよ。今回がラストチャンスだ。そう思いチャレンジしようと思います。
<322> ねいろ ■2007年02月10日 土曜日 11時30分46秒
先日、父が亡くなりました。

私が心に傷をもち生きづらさを感じる原因も父でした。
愛された記憶もない。
家から放り出された記憶もいっぱいある。
そんな家から逃げるように結婚した。
あたたかな言葉さえ掛けてもらった記憶がない。

私は介護職員として働きはじめてやっと
どうしようもない人の気持ちが分かるようになった。
その人の立場になり傾聴することを学んだ。
だけど父にはろくに言葉を掛けることもできなかった。

病院のベットの上で父は呼吸困難に陥りながらも
家族に謝罪と言葉を遺した。
延命を望まなかった父。
私たちは苦しまずに逝ってもらうことを選んだ。
あれでよかったんだろうか?そう思うこともある。
でも。。
みんなに見守られ・色んな人たちの思いを感じながら
逝けたんじゃないかと。。
とても安らかな顔をしていました。
最期は人としての心をもつことが出来たんだと思う。
<321> 27 ■2007年02月04日 日曜日 19時17分41秒
私は、4歳のときに祖父をなくしました。

私の短い人生のなかで、もっとも幸福な期間が、祖父と過ごした日々でした。本当に、幸せだった。亡くなったときに、私の名前を呼んでくれたのですが、私は、側には行けませんでした。そのことについて、両親を恨みましたが、今は仕方ないことだと思います。祖父がなくなった後の人生は、むなしく悲しいものです。カラーが白黒へなってしまったように、楽しみが減ったように感じます。

両親は、私を祖父ほどには、可愛がってくれませんでした。私は、自分が生きていることに意味を見出そうと必死に努力しました。そのせいか、小学生から高校生までの記憶があまりない。私は、看護師となりました。祖父のお葬式で誰かと、約束したのです。でも、病院に勤めて、初めて、患者さんの死を見たとき私は、パニックを抑えるのに必死だった。自分が、一番したかったことだったのに。私は、祖父の最後に立ち会いたかった。最後に、さよならをしたかった。でも、出来なかったから、看護師になったのに。

私は、燃え尽きてしまいましたが、今でも、緩和ケアを目指してます。
いつ、携われるかわからないけれど。

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This script written by Shintaro Wakayama.