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私たちの物語 - 人生の節目・過去ログ No.14
メッセージ数:276件

<276> ayako ■2006年07月19日 水曜日 20時55分26秒
人生の節目…それって30だと思ってたし、就職だと思ってた。私は29才。結婚する気もない、だから就職しようと思った。でも初日から高いポテンシャルを求める会社に出会ってしまった。話聞いてるだけで疲れた。勤めたら凄い疲労だろう。ITのベンチャー企業は私には縁が無いのかも知れない。違う業界に行こうと思う。私にあった会社はどこかにあるはずだから
<275> いずみ ■2006年07月18日 火曜日 23時37分44秒
はじめまして。
今日からこのサイトの書き込みに参加しています。


私は、一般的に喜ばしいといわれる「人生の節目」を
うまく味わえない、喜べない、楽しめないのです。

中学・高校の卒業式で、感極まって涙する姿を人に見せること
成人式で振袖を着て笑顔で写真を撮ること、
就職が決まったよ、喜びを表すこと…
これらの感情を両親の前でさらすのは、
私にとってとても危険なことに思えたのでした。

そして
結婚の話が具体的になった今…
やはり、両親の前で感情を見せることへの抵抗が凄く強いのです。
特に、喜ばしい話ができない。
自分の感情や考えが両親にわかってしまうような状況は、
自分が両親に負けたような気になってしまうのです。
パワーゲームをしてしまっているんですね…。
やめなくちゃ…。

今、自分の両親とは住んでいる場所も遠く、
会うことも電話もしていないので、
自分が自分らしく生きられている気がしますが、
両親との距離(物理的にも精神的にも)が縮まると思うと、
自分の存在がパチンとつぶされそうで、怖い。

でも、今後の彼との生活や彼の両親との付き合いも考えると、
結婚の話を私の両親抜きで進めることもできず…。
彼は全く理解してくれないわけではないけれど、
「けじめと感謝の気持ちだから」って…。

今後の両家の顔合わせやら式やら、
そういう場面で笑えなかったら、相手の両親も変に思うんだろうな。

ほんとうに憂鬱です…。












<274> 泣っく泣っく ■2006年07月18日 火曜日 01時32分11秒
昨日私は「新たなインナーチャイルダー(私流に『インナーチャイルドと話せる人』の意で今後使わせてもらう)」と意識と感覚を高め合えたら」の目的でわざわざ遠方まで足を運び、まぁまぁ有意義な時間を過ごして来た。
ここで「たいへん有意義な」ではなく「そこそこ」と言うのは、なにぶん私の期待値(私クラスまたはそれ以上が数名いるのではないか?)が高過ぎたからだ(前夜私は興奮してて中々寝付けず、ほんと遠足前の小学生並み)。それに肝心のチェアマンが当日少々遅刻して私(たち)の大事な時間が削られてしまったのもある。これが私の地元なら「近いし何時でも行けるし」で私は大して気にならないが、今回は一部高速使って片道3時間も掛けて来たのに主催者が「すいません遅れちゃって」じゃ「おいおい勘弁してよ」が私の正直なところだが、私はブスじゃない女性には優しい≒ストライクゾーンがかなり広いので、今回は今後のことも考え私は不問にした次第である。

そしてそんな新たなインナーチャイルダーと出逢った私の感想は「楽(らく)!」 はっきり言って「楽(らく)」 
それは相手が予めインナーチャイルダーと分かっているので私の内面では防御壁が殆どいらず、何時でも(正確には次回から)感情放出のパワー全開に持って行けること。もちろん今回は初めてお邪魔したので私は1巡目の自己紹介でではなく2巡目に全開モードにしたけれども、それでも相手の反応観ながらだったからやはり8割モードだったかな? 
なにぶん喋りたくて喋りたくてしょうがない自分からすると90分は短過ぎて、私が自分自身を話すなら最低でも自分の分だけで1時間は必要だ。
(そして長い話はまずは結論から言い)「自分はどういうACでどういう問題を抱えているのか?」→「ACと気付いた切っ掛け」→「家族構成と各々の関係」→「自分の生育暦」→「社会に出てからの苦痛及び問題点発覚」→「現在の対処と効果」→「今後の展望と希望」 そんな感じであ〜でもないこ〜でもないと話してたらあっという間に喋りたい私は1時間過ぎてしまう(まっ上手くまとまっていないっちゅう面もあるが、隠したいなんてこれっぽっちも思わないところがミソだ)。
そして上記の感想「私は楽だったけど貴女は?」をフェロー時に聞いたところ、相手も同様に「なんとなく直感で相手がインナーチャイルダーかどうか?分かる」と言っていた。
もしかしたらそれについて私の誘導尋問的なところもあったかもしれないし、思い込みのせいも少なからずあるだろうが、私が「辛い生育暦を話すことに対して(仮に自称だったとしても)インナーチャイルダーの彼女相手だと非常に楽」だったのは事実で、次回8月も(今度は込むから電車で)私は(仕事1日休んで)参加する予定だ。あのクソ暑い工場内でクラクラ妄想しながら仕事するより「Y係長ごめんなさい」の非ワーカホリックの方がよっぽど健康的。
兎にも角にもこうして「私の無意識=インナーチャイルドは同じような感覚の仲間を求めている」ってのがまた一人仲間に出逢い私は甚く刺激されることで分かったので、今後はそういう人達をメインにして私は付き合って活きたいと思う。

時間はACであろうとなかろうと唯一共通だから、どうやって使うかは人それぞれ。ただ自分の場合は現状そうした方向に進むのが「モアベターよ」ってことです。
「ACもグループ掛け持ちすればいずれインナーチャイルダーに当たる?」ってところでしょうか?
何はともあれ「先行くAC」は自分の方向性を探すという意味で必要だよ。それも自分で見つけようとする意思がないと見つかり辛いしね。
<273> 泣っく泣っく ■2006年07月14日 金曜日 08時00分39秒
〈276〉のつづき
要は要所要所で(それもハイヤーパワーorインナーチャイルドの導き?)こうしてグループが閉鎖する危機になっても、自分が求めればまたチャイルドと話せる新たなACと出逢えるということで、まとめると
第1ステージ・・・嗜癖の女王様Yさん「強烈ぅ!」
第2ステージ・・・(上のYさんと比べたら断然安定した)Hさん・Eさん・Mさん・そしてまたまた書き忘れたUさん
して第3ステージ(こちらは現在進行形でかなりの期待を込めて)・・・Aさん・Bさん・その他数名

そしてここでは第3ステージ「求めるが故に道開く。一気に成長させる時が来た!」を書く。

先日私は都内某グループに初めてお邪魔したのだが結局時間内に1巡しかできなくて、私はその10分ちょい?の間に(初参加の場所では必ず)自己紹介をして(最後嘆きにちょこっと入れただけで)終わってしまったのだが、その後喫茶店でのフェローで1時間以上「私の(インナーチャイルドの)今後の成長を大いに促すであろう」と期待できるAさん・Bさん・Cさん(だけはちょっと現段階では正直オマケかな? でも自分たちと接していれば半年なり1年後にかなり回復成長すると思うけどね。まっ当然痛みも伴うけど)と、自分からインナーチャイルドについて話題を振ったら思いのほか彼女たちは食い付いて来て「OH! マジですか? BIG SUPRUISE!」 非常に熱い、というか久しぶりにマジ「自分の無意識を覚醒させる」とても有意義な話ができた。それはAさんBさん(2人は顔見知り同士)も同じだったらしく、特にBさんは私が「この後違うグループに出る」と言ったら、ちゃっかり(彼女も私とインナーチャイルドの話がしたくて聴きたくて?)その会場に姿を現していた。それを見てまたもSUPRUISEな私は「もうACなんだから。素直じゃないねぇ。でも来ること自体素直?」と笑っていた。そうそう私のカウンセラーも言っていました「素直が一番の回復の近道」だって。う〜ん実に奥が深いお言葉です。
話は戻って、またAさんBさん各個人では各々のインナーチャイルドについて多少の認識はしていたのだが、2人でまともに?その話をしたことはなかったらしく、また個人でもグループ内で話したことはなかったらしい。しょうがないよなぁ、いくらACと言えどその場にインナーチャイルドを理解して共感できる人がいなければ(下記の私のように)話すの躊躇われて当然だし、一歩間違えば?グループ内で「あの人大丈夫かなぁ」と変人扱いだもんなぁ。偶々私の場合はお世話になっているカウンセラーもインナーチャイルドと会話できて、私も自分の感覚に自信がない時は「どんなもんですかね?」と先生に意見を求められるのでそれほど迷わないし、また「どうせ俺は変人ですよ」とこうして開き直れる性格も手伝ってか、彼女たちほどには話すことに対して不安も抵抗もないのが救いだ。
そうした新たな友達の出現に私のインナーチャイルドは大喜びで、意識の私も自分でも分かるくらいかなりハイテンションな早口トークで(自分でも喋りながら『俺って今躁?』と疑った位だが、『躁でも何でもどうでもいいやそんなこと。とにかく今この瞬間瞬間が大事だ!』と)「喋りたくて喋りたくてしょうがない」自分をコントロールするのは少々厄介だった。 変な例えだが、その時の自分の感覚は「インナーチャイルドを感じる者同士無意識では既に通じていて、それを意識の上で後から言葉で追っ掛ける」そんな感じで、中々参加者の少ない地方では経験できない「言葉が付いて来ないのがもどかしい」場面が何度もあった。(もちろん相手の話・感覚表現もあたしゃ黙って聴きますよ)
ホント地方だと(チャイルドと会話できない人相手だと)自分が「チャイルドの痛み全開!」で話すと、話しながらも皆から共感されてないのがよく伝わって来て「あれっ今みんな退いちゃってる? やっぱおかしく思われてんのかな? まっしょうがねぇか」と分かってもらえない寂しさから私は「開き直って余計に感情突っ走るか、それとも急ブレーキで押し殺すかの2択」という非常に厳しい回復成長条件となる。ホント今まで4年間各地のグループで150人以上のACの話を聴いてきて自分がインナーチャイルドの話を聴けたのは極数名だけだ。それも私が話を聴いた感覚では私より先に行っているようには診受けられない。「悪くはないがまだまだ浅い」それが正直な私の感想だ。もちろんこうして威張って書いている私の感覚表現でさえ「何言ってんだ泣っく泣っくは。お前だって大したことねぇじゃねぇか?」と突っ込まれる方もいるとは思うが、とにかく私は自分より上手くインナーチャイルドの世話ができるACの話を生で聴いてその感覚を掴みたいのだ(当然ジョン・ブラッドショーやアリス・ミラー関連はとっくにあたしゃ読んでます)。何分私は誰からも愛されたことがないので(まっそれはAC万国共通だけれども)時々地元図書館で子供がいないのに子育ての本を読んで想像と知識だけは膨らませているが、やはり「愛された」実体験がないのは養育上致命的と言えるほど痛い。
そしてここでそんな私に素晴らしい助け舟が流れて来て、それは「インナーチャイルドと会話できる・会話したい」より多くのACと出逢うことでお互いのチャイルドケアに大いに役立つ、まさしく私にとって「ノアの箱舟」と言っていい自助グループが出来た。その会場はちょっと(どころではないが)私の自宅から距離が遠いのだが、ちょうどその日は休みだし(休みじゃなくてもあたしゃ事が事だけに派遣と言う立場に甘えて強引に有休使うが)、何が何でも私は遅れず参加して出来るだけお互いたくさんの意識高揚が得られれば幸いだ。
そうした自分以外のチャイルドと会話できるACと接すれば自分の感覚や認識・レベルなどが周りと比べられてどの辺かということも、また修正も含めた方向性もはっきりするので、自分が思い込みだけの変人なのか?それとも先行くACの部類なのか?客観視し易いだろう。
そしてこれは私個人の経験感想だが、数度そうした無意識の(チャイルド同士の)繋がり感じるともう普通の?ACの話聴いても自分は何か違和感感じちゃうのよねぇ。ついちょっと前までは何でもなかったのにさ。もしそれが自分が「上に行った」ということならしょうがないし、横道ずれたなら戻るしかないし、どのみち今月中には「自分がより深い無意識の痛みにまで降りて行けるようになったのか否か?」はっきりするしね。
あたしゃ力を付けるよ。虐待の扉を開けても向き合える感情の力をね。
<272> 泣っく泣っく ■2006年07月14日 金曜日 04時49分38秒
予想通り長くなった〈275〉「(書き忘れたけど)インナーチャイルド第1ステージ『出逢いと気付き』」のつづき

そしてこちらが「第2ステージ『信頼関係の土台創り』」である。ではスタート。
私のインナーチャイルドを初めて覚醒させてくれた「嗜癖の女王様」Yさんと別れ、(やはり寂しかったね、特にチャイルドの方が。彼にとっては初めての友達だったしね) その後話す場を求めて私は短期彷徨いましたが、またチャイルドの導きか?先日閉鎖した某グループに繋がって3年?その間に(自身チャイルドと話せるようになってまだ日が浅い)年輩のHさんと出逢い、また切っ掛けをもう少しで掴めそうな若いEさんと出逢い、自分がちょっと彼女たちを引っ張るような形でチャイルドに対する感覚・認識をお互い深められ、また別グループでも(同じく自分からすればまだ浅い)Mさんと出逢い、こちらも今現在同様な感じです。
ただ上記3人は嗜癖が「女王」Yさんと比べれば全然大したことはなく(あくまでグループ内で私が垣間見るところだけですが)、その点ではYさんほどのインパクトはありません。でも「安定はある」というところでしょうか。

でもここまで来るには長かった、というか短かったというか、上手く表現できませんが、とにかくインナーチャイルドから「あなたにはこの痛みに耐えられますか? 向き合えますか? 決して逃げませんか?」と意識の自分の覚悟が本物なのかどうか?を試される内面奥からの鋭利な突き上げが何回もありましたから。
ホント無意識の傷を開こうとするのは余りにも辛くて途中私は何回も「このまま俺は狂っちまうんじゃねぇのか?」と思いましたよ。でもその都度「俺は逃げない。絶対逃げない。自分のインナーチャイルドはもっと辛い目に遭って来たんだから。だから逃げない。それに俺が逃げたらインナーチャイルドは絶対もう自分を信用してくれないし、俺もチャイルドをもう独りぼっちにはさせないし、させられないでしょ? あの強烈無比な寂しさを味わったら。あれだけは2度と味わせない。例え痛みに耐え切れなくて逃げたとしても自分の意識で逃げたことを認める。ありのまま受け入れる。カウンセラーみたいにはできないかもしれないけれど、でも受け入れる。そして耐えられるようになったら必ずその痛みの所まで戻ってきて何回でもチャレンジする。それ(逃げたこと)を認めないのが本当の逃げなんだ! だから自分は逃げない。絶対逃げない。逃げないで向き合うことが自分がこうして気付きたくても気付けなかったインナーチャイルドへの罪滅ぼしであり、自分が新しい養育者なんだ。だからチャイルドに対しても責任持たなくちゃいけないんだ」となんとか自分の弱い心に心棒入れて支えて来れたのです。
もちろんそれは自分だけの力じゃ到底無理で、まずカウンセラーに自分の「閉じていることさえも気付いていない」無痛の心をありのまま受け入れてもらわなければ、開いて「自分にこんな強烈な痛み・寂しさがあったのか!」と虐待ゆえ認識できなかった痛みを感じることも、当然自分のインナーチャイルドとも出逢うことなど一生叶わなかったでしょう。
また各地のグループに出て先行くACの姿勢や、正直反面教師として嘆いていないACの現状から自分の方向性が自然と定まって行ったのも事実です。

そしてこの4年間ではっきりしたのは(自分の独断と偏見を交えて)「ひたすら自分の痛みと向き合ってそれをありのまま受け入れる覚悟がない限り、自分のインナーチャイルドは回復成長していかずに、何時まで経っても無意識の寂しさに支配され社会生活で自分はスリップを繰り返す」ということです。
そして(逆に)インナーチャイルドのケアをきちんとしていれば「自然と12ステップもやっている!」ということで、あまり難しく考えなくても「小さい自分はどうしてほしかったのか?」常に考え、痛みを感じる・想像する癖を付ければ自然と自分も養育者らしく成ってきますし、そうありたいと自分は思います。


すみません、都合第3ステージでした。HさんEさん忘れてました、ごめんなさい。

つづく
<271> 泣っく泣っく ■2006年07月14日 金曜日 03時13分23秒
私がACという言葉に出会って、その後半年以内にカウンセリングとグループに通い始めるようになって早4年が経過し、今その効果・蓄積が現れ始めている。題して「インナーチャイルド第2ステージ突入!」 (長くなるのは目に見えているので数部構成)

先日私は仕事が休みだったので午後にグループ連荘をした。以前の「寂しさを完全に認め切っていない」私なら迷わずモトクロスの練習をするところだが、いくらのめり込んだ所でそれは「己の無意識の寂しさを紛らわすために強烈な刺激に意識が駆り立てられているだけ」と認めた今では「バイクに乗りたい」とすら私は思わない。「そんな暇在ったら自助グループ」が今の進歩した私だ。
何故なら、いくらそんな危険なことをしたって私のインナーチャイルドは決して喜ばない=「無意識を満たすケアには絶対ならない」とカウンセリング4年目で私ははっきりと分かった。だから嗜癖パターンをあっさりというか、ようやくというか、とにかく私は捨てることが出来たのだ。

ここで「無意識の要望」
私の書き込みを読んで頂いている方なら気付いているかもしれないが、私は「無意識」「向き合う」「嘆く」という言葉を自分に浸透させる意味も込めて文中によく使う。
それはこうして「自分がカウンセラーに4年も通い続けていなければ『自分が乳幼児期に祖母から慢性的な虐待を受けていた故に乖離して失感情症になっていた』ということさえ(意識の上に置いて)私は全くわからなかった」もう仕舞えない事実があるからだ。
その「無意識に仕舞い込まなければ生き残って来れなかった痛み」=それが「傷付いた内なる子供」であるインナーチャイルドの訴えたい、叫びたい痛みだ。
だからこそ私は彼の痛みに耳を傾けるし、「その小さな体で自分の代わりに痛みを引き受けて来た」その辛さを今の自分が感情として表に吐き出してあげなければいけない。それが回復・成長に繋がる嘆きのグリーフワークでもある。


そもそも私がインナーチャイルドをはっきりと自分で認識できるようになった切っ掛けは(前にも書いたが)、潰れた某グループに私が参加し始めた頃、チェアマンかつ「嗜癖の女王様」Yさんに「あのぉ、俺の思い込みとか勘違いかもしれないけれど、今日のフェローでYさんのインナーチャイルドが怒っているように感じたんだけど・・・」みたいな事をオドオドしながら言ったら(下手したら「自分狂っているのかも?」なんて思われるからね)、Yさんびっくりして「私のインナーチャイルド(の存在)を指摘したのはKさん(私)が初めて! 今まで(臨床心理士の職場以外では)誰にも分からなかった」と(小さい子供が初めて友達を得たような笑顔で)私に握手を求めてきて、自分も人から、まして若い女性から握手を求められるなんて人生初めてだったから、ポカンとして何も考えられないままYさんの差し出した手を握り返して別れたんだけど、帰り道車中で自分のインナーチャイルドも「友達見つけた!」と喜んでいたので、「あぁこの感覚なんだ! これがインナーチャイルドなんだ! たぶんYさんのインナーチャイルドも同じなんだろうな」と、それまであやふやだった自分のインナーチャイルドの感覚がYさんのインナーチャイルドとの出逢いによって「見事に覚醒された」経験をしたからです。
以後私はフェローで度々Yさんと食事しながらお互いのインナーチャイルドに対する感覚や意識を話し合い、相乗効果で「より形のある」インナーチャイルドを徐々に形成、というか、認識するようになって行ったのでした。
ホントそれは不思議な時間であり、意識よりも無意識が満たされる?楽しい時間でした。Yさんとインナーチャイルドの話をすると自分の頭の中の蜘蛛の巣が一気に取り払われ、視界がクリアーというか、脳みそが常にクリーニング? 例えて言うと「次から次へと脳内血管に新しい酸素が送り込まれる!」そんな感じで、「知的好奇心を満たされる」というレベルよりもずっと上?というか、「無意識を満たされる」という表現の方が自分にはぴったりでした。
1度フェロー終了後Yさん感極まったのか?外で泣き出してしまって、私はあたふたしながら、また、抱きしめてあげたい衝動に駆られましたが「ここはACだから自制して距離取らなくちゃ」と思い、グスングスンしているYさんに「正直、俺男だからというか、スケベ心というか、抱きしめてあげたい? 抱きしめたくなっているけども、それはACとして(気付いて日が浅いし、男女の仲になったら後戻り)できないから、Yさん自身で? 帰ったら後で自分のインナーチャイルドの頭を撫で撫でしながら『辛かったんだよね、苦しかったんだよね』って抱きしめてあげて。ごめんね、なんか俺逃げるようで」みたいなことを言い訳?&正直に話したらYさんも取り合えずは泣き止んで、一応ACとして?事なきを得たこともありました。(ん〜懐かしいなぁ。それともホテル行っちゃった方が良かったかな? まっ結果的に行かなくてというか、行けなくて正解だったんだけどね。それもインナーチャイルドのお陰かな?)
でもそんなYさんとの良好な意識の高め合いも長くは続かず、やがて「境界性人格障害兼レイパー&グループ荒らし」という、これでもか!の嗜癖の持ち主Sが依存相手のYさんとの結びつきを復活させるためグループに知らん顔して乗り込んで来て(何かおかしいな?とは思ったけどホント私は騙されました。ちゅうか自分も生でそういう人観たの初めてだったからしょうがなかったんだけどね。ホント恐ろしいよ強依存は! あれ見せ付けられたらまともな?ACなら自戒するよ。ホント共依存は自壊の道だよ!)、終いにはミーティング終了後に、誰もいなくなったグループ会場でYさんに恥行を働き(普通なら抵抗するところだろうが、その時Yさんは既にSのコントロール下にあって無力だった)、偶々私が虫の知らせか?グループ終了後スーパーの帰り道に「あれ?何で電気点いてるの?」と戻ってその現場に出くわしたから(被害がレイプに比べたらまだ少なくて)よかったものの、結局それが原因でグループを解散に追い込んだのでした。
してYさんと私はそれっきり。たぶん今もワーカホリックでインナーチャイルドの世話(声掛け)をきちんとせずYさんは彷徨い続けているでしょう。
一度フェローで(AC特有のお節介と知りながらも、尚且つ)臨床心理士でもあるYさんに素人の私ははっきりと「だめだよ仕事減らさなくちゃ。自分でも分かってるでしょ?(実際Yさんも自身がワーカホリックだと認めている) そこまで詰め込んだら何時インナーチャイルドの世話できんのよ? 俺だって無理だし誰だって無理だよ、時間ないじゃん。ちゃんと子供の痛みと向き合わないと何時まで経っても治んないよ。分かるでしょ(インナーチャイルドの寂しさが)?」と駄目出ししてYさんも「うん」とは頷いたのだが、やはり嗜癖として長年沁み込んだものは用意には抜けず、結局自分で自分の首絞めて「コントローラー」Sとの繋がりを切れなかったのです。
怖いよねぇ。頭じゃ分かってても「癒されない無意識の寂しさ」に衝き動かされて意識の自分を傷付けてしまう。そして繰り返す。ホント嗜癖だよ。だから傷付いたままの無意識を治さなくちゃいけないんだけどね。
因みにSと私はその後別なグループ2つで計数回遭い、片方(S自ら餌を求めチェアマンしていた)では、私が参加した時には既に某女性(もちろん共依存タイプ)を完全なる支配下に置いてガッチリ結びついていました。まさしく嗜癖のアロンアルファです。
そしてこれは専門家の話ですが、ホントSのようなタイプは直感で自分のパートナーがわかり、例えばホテルの宴会場に100人女性が居たとして、その中に共依存タイプが1人だけだとしても確実にその女性(自身も無意識で依存相手を欲しているのですが)が分かり、後はゆっくりと相手の精神を丸呑みするだけだそうです。だから専門家でも運悪くその手にぶつかると簡単に無意識を支配され自殺にまで持っていかれるケースも多々あると聞きました。
こうしてその現場を経験すると私も良く分かります。良かったよあたしゃ女じゃなくて&共依存タイプじゃなくて。
そして「傷付いた内なる子供をちゃんとケアすればそんな嗜癖には飲み込まれるはずがない」と今の私は信じていますし、ある意味信じなければ続けていけません。
すべてはインナーチャイルドに導かれるままに。

つづく
<270> つき星 ■2006年07月04日 火曜日 12時26分03秒
わたしがこのサイトで書き込みをさせてもらっている理由は、誰かに知っていてほしいと思うからと、手書きの日記では感情が溢れ出すと字がグチャグチャになってきて苦しくなるからだ。

先日、バイトの面接に行ってきた。今日までに連絡がないということは、きっと駄目だったんだろう。
生理も重なり気もちが混乱しているようなので、心の中を整理しよう。

専門学校に通えなくなってから、1年6ヶ月。あっという間だった。バイトを辞めてからは約1年。がんばったほうかなぁ。
それから引き篭もってた。外の出るのが怖くて一人では出れなかった。
そこから働こうって気もちになれたのだから、私にとっては大きな進歩かな。

なにせ、お金がない。一緒に暮らしているパートナーも働くことに踏み切れない。
助けたかったというのは大きかったかもしれない。
でも、最初に気もちが向いたのは、人と触れ合おうかなと思ったから。

ここのサイトでも、人に話し掛けるのがすっごく怖い。めちゃくちゃ考える。
みんなそういう気もちがあるんやろうなと思っていても、怖い気持ちを乗り越えることはすごく難しく感じる。
傷つけることが怖いし、無視されたら‥とかこんなこと言うて大丈夫なんかな?って不安で、おっきな課題や。

でも友達とはメールの連絡をとったり、親しく遊べる相手も出来てちょっと自信がついてきた。チャレンジって感じじゃなかったけど、友達になりたい!って思って頑張った結果やから、大事にしようと思う。

そして、それ以外でも人との交流をしてみたいと思っている。
本当は働くのは嫌なんかもしれん。体力的に難しいっていうのはある。
それと気もちの波があるから、喚いたり泣いたりせんかなって心配もある。
仕事自体に対してはそれほど不安がないのは良かったなぁ。
今まで頑張ってきた結果やな、うん。

あと1〜2ヶ月の間、人と接することをしてたら働くこともできるようになるかな?
面接の結果がこないって思ってから考えていたのは、自助グループに行ってみようかなって事。前に探した時は、私が住んでいるところは見つけれなかったけど、先日探し当てた。
今も活動しているのかよく分からないけど、様子を見てこようと思う。

それと、体を動かすこと。うまくいきそうならボランティアに一度参加すること。
人と接したら、良くも悪くも反応があって、きっとまた悩み始めるだろう。
悩んだこと、怒ったことが回復の兆しになるから大切にしよう。
流れていく時間の中で、解決できるかはわからんけど、少しずつでいい。

準備がちゃんと整った時に、バイトも働けるようになるだろう。
だから焦らなくていい。ゆっくりやろう。

やっとAC関連の本を1冊読みきることが出来た。
心に引っ掛かって読み進めることが出来なかった本。
回復の大まかな流れを把握したから、今は不安や恐れでいっぱいやけど、たくさんの時間をかけて変わっていこう。
きっと欲しいものが手に入る。私は幸せな一生を過ごしたい。
今までの方法を手放すことは大変だと感じているけど、縛られているって感じることから自由になりたい。

取り留めのないことを書いてしまいましたが、書き込みさせてください。
ありがとう。
<269> sky ■2006年06月09日 金曜日 09時39分24秒
8年間勤めた会社を辞めることにしました。
相談してた人から「突然どうしたの?」と言われたけど
私の中では「やっと言えた」なのです。 ずっと辞めたかったけど
言えなかった。 頑張っても頑張っても人格を否定することばかり言われて
また頑張ってしまう。 それの繰り返し。 やっともう無理、と思えるようになりました。
私のことをわかってくれる人はわかってくれるし、全ての人に私のことを
わかってもらおうと思わない。 今までは全ての人にわかってもらおうと思ってた。
会社のお偉いさん方はなんでも「金払ってるんだから当たり前」と言うけど
そうじゃないと思う。 世の中、金じゃない。
<268> 泣っく泣っく ■2006年06月01日 木曜日 01時08分39秒
忘れてた 〈261〉〜〈271〉まで読んで頂いた方ありがとうございました。おかげで5年もの間女々しくストーカーだった私は元カノYを吹っ切ることができました。てなわけで今度私は職場のAさんと何とかして仲良くなろうっと。
<267> 泣っく泣っく ■2006年06月01日 木曜日 00時01分09秒
〈270〉のつづき ここからが私のストーカー爆発です。

帰宅後数日内に私が道内でYさんに宛てた葉書が3通とも「宛所に尋ね当たりません」で返信され(その理由は〈269〉に既述)私はあれこれ悩むも、それでも「送られた相手の気持ち<どうしても謝りたい」私は何とかならないか?と考えた数日後「確かYさん『地元の山岳クラブに入っている』って言ってたな」と思い出し、(ストーカーよろしく)私は別れたYさんの当時の居住地役場の担当部署に平日の午前中電話して「あのぉ昔礼文島でYさんにお世話になった者なんですが、当時お借りした物をYさんに返したいんで連絡取りたいんですが、今でもそちらにYさんは所属されてますかねぇ?」みたいな感じで私が切り出したら、田舎の役人は「疑わない」というか人がいいのか「あれぇYさんはねぇ今いないんだ、結婚して辞めちゃったんだよ」の返事(で、予想していたとはいえ私はちょっとショック)。そんな動揺を言葉に表すまいと私「そうですかぁ結婚したんですかぁ、そりゃよかったですねぇ。じゃ引越しされたんですか?」 役人「あぁ隣のS町にね」 私「そうですかぁ、暫らく連絡とっていなかったもんだから何にも知りませんでしたよ。お忙しいところすみませんでした」と言って疑われることなく?私は電話を切ってから「あれっしまった、Yさんの新しい姓聞いておくんだった!」と思い返し、再度私は電話して「あのぉ度々すみません、さっきの者なんですけど、因みにYさんは今度の姓はYじゃなくて・・・」 役人「あぁ今はHだったかな」 私「そうですかHですか、わかりました、どうもありがとうございました」とガチャン。
私は早速地元図書館に行きご当地の個人別タウンページでHを探すと、思ったほか少なくたったの2軒!「こりゃ手間省けていいや」 当然2軒とも「ストーカー」の私はメモして、帰宅して昼。「平日のこの時間なら旦那が出る可能性も低いし、電話して当人が出たら自営業か専業主婦の可能性が強いってことだよな。もし直接本人だったらどうしよう?・・・ そん時は・・・やっぱ切っちゃうしかねぇよな、いきなりは話せねぇし、とりあえず1回目は『確認する』だけでいいや、2回目に心の準備してきちんと謝ろう」
で、ドキドキしながら掛けた1本目、いきなり昔聞いた声でY「Hですけど」  (「おいおい、予期してたとは言えいきなりかい!」と思いつつ)私は「・・・失礼ですけどHMさんですか?」 Y「はい」 (「何喋っていいのかわかんねぇからもう切るしかねぇ」)ガチャ。
「フゥ、まさか1本目から当人出てくるとはねぇ、びっくりしたねぇ。でもこれでこの時間帯にYさんは家にいる確立が高いってことがはっきりしたから、やっぱ自営か専業主婦か。今日はもう掛ける気しねぇし、また明日改めてだな」 
そして翌日昼に私は2回目のストーカー行為。昨日と同じく電話には当人出て、私は恐る恐る「失礼ですけど旧姓Y、YMさんですよね?」 Y「・・・・・」 (電話の向こうに赤ん坊の声が微かに聞こえ「あぁYさんもお母さんになったんだ! そうだよな、あれから5年も経っているんだもんな結婚して子供いてもおかしくないよな。それに引き換え俺は相変わらず独身か。惨めなこった。でも別れて正解だったね俺には子供育てられねぇし。だって自分の成育暦も気付かずに結婚なんかしてたら虐待してたかもしれねぇんだから。それにしてもYさんあれからどのくらい回復したのか知らないけど、母親になっちゃっていいのかいな? あのままだったらヤバイよな。子供作るより自分の世話だよ。でもそんなの俺が心配するこっちゃないね、もう関係ないんだから」と思いつつ)私「・・K(私)です。すみません昨日の昼電話して最後一方的に切ったの私です、すみませんでした」 Y(怒った口調で)「何ですか今更いきなり」 私「すみません突然。いきなり電話した訳は(以後ここから私はしどろもどろになりながら)自分はこの4年間カウンセリングに通って『何で自分がそうなのか?』わかって、それでどうしてもYさんに謝りたくて・・電話番号は勝手に(上記を説明して)調べました、すみません」 Y「それってストーカーじゃないですか!」 私「確かにその通りストーカーです。でもどうしても私はYさんに謝りたかったんです。別にYさんに危害を加えるつもりはありませんし、後日謝罪文だけ送ること、了承してもらえますか?」 Y「本当にそれで気が済むんですか?」 私(ちょっと迷ったが)「はい」 Y「それ送ったらもう電話や手紙を2度としないでくださいね、それと絶対私の前に現れないでくださいね」 私「わかりました約束します、すみません失礼しました」 Y「それじゃ」 私(「Yさんに聞けるのはこれが最後」と思い)「あっあっあの電話でついでと言っちゃなんですけど『何で自分がYさんに嫌われたか?』自分でよくわからなくてこの5年間ずっと悶々としてきたので、ついでと言っちゃなんですがYさんの口から直接私は聞きたいんですが・・」 Yさん(ムッとした口調で)「何ですか、また蒸し返すつもりですか?」 私(余計に焦り)「いやいやそんなつもりじゃなくて、蒸し返すんじゃなくて自分に原因知りたいだけなんです」 Y「・・・・・今日みたいに一方的で全然私の気持ちわかってくれなかったから・・」 私(「じゃどうなんだよ、あんたは俺の気持ちわかったのか? 俺がこの5年の間にどれほど苦しんだか、あんた知ってんのか? わかるわけねぇだろ。いつも自分ばっかりで人の所為にして、何にも反省してねぇじゃねぇか」の思いはぐっと飲み込んで)「確かにその通りです、私は一方的でYさんの気持ちがわかりませんでした、ごめんなさい」 Y(電話を切りたくて先を促すように)「それでいいですか?」 私「はい、直接聞けてよかったです、ありがとうございます。後日改めて謝罪文出して約束は守ります、もう2度と電話や手紙はしません。失礼しました」 Y「いえ、ご苦労様です」 (私は「? 何で『ご苦労様』って言葉が出るの? この場合『ご苦労様』じゃねぇだろ? よくわからないけどYさんも緊張してたのか? それじゃ他人行儀も当たり前か?」と思いながら引っ掛かりながら)ガチャン。
そしてそのまま今日まで2週間「電話で直接Yさんに謝れて、また振られた原因(他にも多数あったであろう)もはっきりしたので、8割方(私は)すっきりしたかな? 思ったよりもすっきりしているよな。まぁ後の2割(謝罪文)は補足程度だね。まっ手紙は出しても出さなくてもどっちでもいいかな。もし出すとしても『蒸し返さず指摘せず傷付けず』で自分のことだけ、幼少期に祖母に虐待されて『失感情症』となった成育暦だけを手短に(感情を添えず)Yさん宛てに話そう。どのみちACとか機能不全とか素人に言ってもその痛みはわかんねぇだろうし」の思いから(女々しくなくなった?)私は(新しい選択をした「一児の母親」でもある)Yさんに対して何もアクション起こしてなく、ちょっと面倒臭いってのもある。書けば5分と掛からないのにね。何でかね?

まっ5年後には別な答えも出るでしょ。それも「私が今以上に無意識の傷を癒して情緒が成長していれば」の話ですけどね。
<266> 泣っく泣っく ■2006年05月31日 水曜日 21時12分12秒
ほんとはこれが「5年越しの傷心旅行」最終回なのだが、前回書いたら長くて送信できずに消えてしまったので、結果あと2回は続くってことです。ごめんね。とにかく今日中に絶対終わらす。

「いったい何しに行ったんだ?」の礼文島から無事稚内、そして札幌へと(現地雨とテント崩壊直前で)1日早く戻ってきた私。まず「荷物でしかなかった」サンシェードのテントを購入店で等価交換し(セコ)、真駒内公園で昼寝&「ジョン・ブラッドショー」精読(えらい)。そして夜はススキノうろちょろしてネットカフェ。翌日はAMきちんと目星を着けておいたお店でシャワーを2回ほど浴びて目を覚まし、二条市場で(これまで度々の道内旅行で)初めてのうに丼(\1,500)&サッポロクラシック瓶生してPM自助グループ連荘&フェロー、と誠に快適な時の流れだったのですが、そこはAC、私は浮かれすぎて深夜「苫小牧→仙台行きフェリー」の便(予約なし)に間に合わず、仕方なしに深夜便の「札幌→函館行き高速バス」に乗り「明日は安い鈍行で青森入るか」と着いた函館駅翌早朝。そんな世間知らずがいくら待っても鈍行は来ないんですねぇ。何故なら「青函トンネルは特急料金!」だからです。ガチョビーン。早くもまる子縦線状態で慌てふためいた私はこの後に及んでもセコく「函館→青森行きフェリー」に電話すると、2社とも午前の便は満員&修理欠航! 「オーマイガー 参ったね午後出発の便じゃ夜の仙台(自助)に間に合わねぇし」と泣く泣く私は特急料金を払う羽目に。「くそ〜知らなかったよ。これじゃ朝の仙台行きフェリーで来ればよかった。トータルで\5,000近く無駄な出費か。くそ〜これなら(札幌で)もう1軒行けたよな畜生」
そして特急とは名ばかりの(実質「準急」で、2度と自費では乗らないでしょう)スピードに揺られて私は本渡に着き、「青森→仙台行き高速バス」に乗車して夜の自助グループになんとか間に合い(ここで私は怪しいお店に寄らずに時間調整をして)快適な時間を過ごし、深夜の「仙台→新宿行き高速バス」で無事(散財しまくって)帰ってきた数日後、〈269〉の1となったのです。

つづく

そういや、その時仙台駅東口コンコースで馬鹿っプルが抱き合ってチューしてたんですねぇ、それも往年のディックマードック張りの「滞空時間」で(古いプロレスファンにしかわからないネタです)。その光景に周りの女性連れも「えぇ〜」とか思いながらもちゃんと見てる、みたな感じで、当然私もでっかくて重いテントを(ケチって郵送せず)持ちながら見て見ぬふりでしたが、内心は「このボケェ、傷心中の俺の目の前でなめとんのかコラ、シバくぞボケ」 法律さえなかったらよい子の私は「50m助走付きの」ライダーキックを、その厚顔無恥無知な馬鹿ップルにお見舞いしてやるところです。くっそー

<265> 泣っく泣っく ■2006年05月26日 金曜日 10時15分41秒
これで終わりにしたい、〈268〉のつづき再スタート

今回礼文の久種子キャンプ場が5/1開き(予報は雨)で、私の苫小牧着が4月最後の日曜昼前。夜札幌での自助グループ参加を見越して私は高速バスで移動。
その時(余談だが)インター乗る前の苫小牧郊外信号待ちで、ふと外を見ると水路だか小川だかの傍に中学生ぐらいの釣り竿持ったガキが6,7人チャリンコに乗って(停まって)いて、こともあろうにその中の一番背の低いガキが、バスの中からぼーっと観ていた私と目が遭ってすぐ中指衝きたてました! わかりますか「FUCK YOU」ですFUCK YOU! それもプロレスファンの私に向かって! こんな屈辱的な出来事を私が平和なJAPAN、それもリング外で受けるとは思わんかったですよ。因みに大学時のバイクサークルの先輩でロッカーでもあるマムシさん(渾名)はよく(私を含め)誰に対してもFUCK YOU!を冗談半分で連発して、私もお返ししていましたが、見ず知らずのクソガキにFUCK YOUされたのは初めてです(当たり前だわなぁ、普通せぇへんもんなぁ)。 瞬時に私はこめかみがピクピクきて、バスを強制停車させ飛び出してこのボケを容赦なくシバキ倒したかったですが、「兄ちゃん威勢えぇやんけ、お茶目やのぉ」と思ったら鼻で笑えました。でも危なかったです、私が4代目ブラックタイガーなら間違いなくツームストンパイルドライバー(日本名「墓石落とし」)の餌食にしてやっただろうし、ダーティーハリーなら躊躇なくガキの足元にマグナム44ぶっぱなして小便ちびったところに必殺「電気アンマ!」(この場合は虐待じゃなく、あの嬉恥ずかしは男にしか分からない快感?です) そして捨て台詞は(渋い顔して)「泣けるぜ」
ほんと怖いところです北海道は。傷心旅行に来たのに初っ端から私はかまされました。まっ後々車中その意味を私は考え「塞ぎ込んで、らしくない自分に対してだったのかもしれないねぇ? 嫌だねセンチメンタルは。ほんとクソったれだよ」 で札幌までの車中、Yさんを思い出して泣く私。うぅほんと女々しい男です。
そんな私も(夕方ススキノで体を清めて)夜の自助グループに出て吐き出すことで心を清め、また自分より先行くACに出逢えて、仲間の嘆きを聴けて、ホントいい勉強になりました。
今回の傷心旅行、私は宿予約なしのテントも現地調達。初日の夜はネットカフェで過ごし、翌日札幌→稚内の高速バス(またYさん思い出して泣く)で稚内に深夜着→有名な「防波堤ドーム」(風強く体感は4℃以下)でテントなし(正確には四隅が開いているサンシェード【セコく現地ハードオフで\2500で購入時私は中広げて確認しなかった】使い物にならず)夏用シュラフ(10℃以上で使用)で「死にゃしねぇだろ?」と持ってきた着替えの服全部着込んで寝ました、というより「寒くて目瞑っていただけ」って感じです。ワイルド過ぎる!当然翌日、昼の礼文島行きフェリーに間に合うよう、私は朝一でバスに乗って稚内郊外のホーマックまで行って、同情誘うように店長さんに訳言って開店前に開けてもらいテント購入しました\19,800! 何故セコイ私が?ですが、関東では小さいテントも在庫しているのが当たり前ですが、そこはでっ海道!5,6人用のでっかいのしか置いてないんですねぇ、甘かったですね、安物買いの銭失いですねぇ。当然悩みましたよ「そこまで出すんだったら宿3泊した方がず〜っと快適だよなぁ」って。でも態々足運んで無理言って開けてもらって、ここで買わなくて最悪礼文で宿取れなかったら『じゃ自分は何しに来たの?』と妙なところで自分を否定するのが嫌というか、『礼文まで来たらキャンプでしょ? そうでしょ? そうするしかないでしょ?」と変に意固地というか、強引に自分を納得させるしかありませんでした。
そして悲劇は続き、買ってはみたものの、でっかく丈夫だから重いのなんの! それも最寄のバス停まで普通に歩いて15分以上、荷物持ったら? 考えたくありませんでした。でも駅までタクシー使うのも負けたような気がして?結局私は根性でバスを選択! の割りに「何しに来たんだ俺は? 馬っ鹿じゃねぇの。もう帰りてぇよぉ」でも前に進むしかない私。失恋を吹っ切るにはより強い痛みが必要です。
そんな苦労してえっちらほっちら運んだものの、この残雪残る時期にキャンプ場でテント張ってる物好きは2,3名! 当然野郎オンリーで「ロマンス」のロの字も期待できないような状況に、我ながら「アホかこいつら」とヤケクソです。そいでもって礼文の連日夜の強風(3日目夜は雨混じり)で、気がついたら数本のポールに皹が入っていて(翌日は一日雨の予報ということもあり)「\20,000も出してテント大揺れでろくすっぽ眠れず、3日で終わりかい? こんなんだったらあたしゃ意地張らずにコテージ(1泊\2,000)使うんだったよ。そしたら\10,000は残って風俗行けるのに。んなこと言っている場合じゃねぇ明日テント崩壊するぞ!」てなわけで私は予定を1日早めて、4日め朝一のフェリー乗り場行きバスに合わせて撤収! 結局雨風凌げるバス停(無料)も使わず、たこ公園の休憩所(こちらも無料?だけど良い子は真似しちゃだめよ。通報されるかも?)も使わず、肝心の8時間トレッキング「愛のコース」も南は残雪多くて(危うく遭難するとこでしたマジで)歩けるのは北側1/3だけだったし、レブンアツモリソウの開花もまだだし、(Yさんを忘れるような)2匹目のドジョウもいないし・・・・・「何しに来たんだ俺は? 散財するだけで来るんじゃなかったよぉ」 
結局礼文島4日間の滞在で私が良かったのは
1.Yさんへ格好つけず自分の言葉で謝罪の葉書きを出せたこと(連日に渡り計3枚、私が当時連絡していた住所に出したのだが、帰宅後3通とも『宛て所に訪ね当たりません』で返信されていて、「『受け取り拒否』でもないし、『転居先不明』でもないし、何だこれ?」と局に電話確認すると、転居届けの有効期限は1年だそうで、それ以上過ぎると局内にデータは残っていても個人情報保護云々で、態々調べ直してまでは送らずに「宛て所・・・」で返信するそうです)
2.須古頓岬(今回は「最北牛乳」飲まず)からキャンプ場まで海岸沿いをぶつぶつ言いながら歩いて戻り、あと3キロのところで(ギャルではなく)おばちゃん運転の軽にヒッチハイクさせてもらったこと。やっぱ北海道来たらこれでしょ! もしかして俺って「おばちゃんキラー」? フッフッフ  だけどそれもどうかと思うよねぇ。
3.某食堂の野菜炒め定食が美味くて量もあったこと(3日連荘です)
4.5年前に買って手垢で変色してしまったお気に入りのキーホルダーがまだ売られていて再購入できたこと&ステッカーもね。
5.現地小学生(女の子)とこれから文通を始める予定(きっかけは小学校前バス亭内「レブンアツモリソウ紹介」掲示物。言っときますが私は変態ですがロリではありませんのでアシカラズ)
6.刺激がなかった分のんびりするしかなかったこと
7.礼文→稚内と確認して乗った便が実は利尻経由で、「利尻へようこそ」の看板見たとき私は超焦った(まる子縦線状態)が、追加料金も(当然)なく無事稚内に戻れたこと

とまぁなんだかんだバタバタしたおかげで、結果事前に思ったほど、礼文島再訪で私はYさんを思い出してメソメソすることもありませんでした。もしかすると私の無意識では殆どケリ着いていて「残り火を消す」ための旅だったのかもしれません。
だけどその残り火も、必然的にススキノ戻って「ススキノマンゾク情報(略してスキマン)9号」を手にした途端に再燃してしまったのですねぇ(これは後でのお楽しみ)。


次で最終回にします。
<264> 泣っく泣っく ■2006年05月26日 金曜日 06時42分17秒
〈261〉〜〈267)「出会いから別れまで」ようやく終了して、後半「5年越しの傷心旅行」 これは先だってのG.W 私は女々しい心に踏ん切りをつける為5年ぶりに北海道の地を踏み礼文島で休暇を過ごし、どうしても謝りたくて帰宅してから元カノYさんの居場所をつきとめ電話で謝った「何を今さら。ストーカーじゃん」物語である。
では巻き戻しスタート。

北海道の大自然が好きな私が来れなかった5年間。なぜ? それは言わずもがな、女々しい私は元カノYさんとの思い出をより鮮明に思い出すのが嫌だから、自分の女々しさを再確認するのが嫌だからである。確かに礼文に着いてみて私は「あぁ(フェリー乗り場傍のでかい看板「礼文島」)ここで看板挟んで2人で写真撮ったんだっけ」とか「ここで利尻富士背にしてお互い写真撮ったよなぁ」とか思い返し、「今このトレッキングを仲直りできたYさんと一緒に歩けたらどんなに楽しいかなぁ」とか「今なら自分の過ちの原因を、この5年間カウンセリングや自助グループで気付いて修正してきた自分の辛さを、全部話せるのになぁ」と悔やんで、改めて「あ〜あ、だから来るの嫌だったんだよなぁ思い出すから。俺ってホンマ女々しいのぉ。敵わんよもう」と女々しさ爆発。
でも自分が来れなかった本当の理由ってのは、今回トレッキングをして涙して思い知らされたけど、「相手の痛みがわからなかった自責の念」その辛さが嫌で来れなかったんだ!」って改めて突き付けられましたよ。相手を傷付けるよりも自分を傷付ける方が嫌だからね人間は。だから無意識に「自分を傷付けないよう」言葉で誤魔化す、そういう人間です私は。
だから今回の礼文再訪の目的はそんな自分に踏ん切りをつけて、前々から謝りたかったYさんに謝罪文を出すことでした。そもそも私が「Yさんに謝らなくちゃ。謝りたい」と強く思ったのは、昨年10月、私がカウンセリング通いはじめて3年目の秋、ようやく自助グループ以外で(自分が信頼置ける高校からの友人K君に)ドキドキ緊張しながら「自分の生育暦」を涙ながらに初めて話して、その間非難も批判もされず黙って聴いてもらって初めて「あぁ自分はYさんに打ち明けてもらった時にこうしなくちゃいけなかったんだ!」って気付かされたからです。
それがどれほど大切なことか! 自助グループで話す時は「ACという共通の痛み」があるから私は何も抵抗なく話せますが(それも土台はカウンセラーのお陰)、経験した人ならわかるように「ACも知らない、機能不全家族も知らない」人に自分の生育暦を話すのがどれほど勇気と覚悟・開き直りが必要であるか! 当日私もK君と会うまでは「もし受け入れてもらえなかったらどうしよう?」「『何言ってんだよ、それって甘えじゃねぇの?』と言われたらどうしよう?」と、その最悪時のダメージを想像して私はずっと心が震えていました「言うべきか言わざるべきか?」 もちろん自分にとって一番話し辛いことを初めて話すのですから、当然自分にとって一番信頼できる相手を選ぶのが普通であり、それが私にとってのK君なのです。帰りの電車でも私は窓際に立って泣いてましたよ「K君に受け入れられた嬉しさとYさんを受け入れられなかった後悔」が入り混じった涙で。その後、私は小さい頃からの友人Mちゃんにも自分の生育暦を話して、よりYさんへの謝罪の意を強くしたのです。
でもそうはいっても振られて5年も経っており、「今さらなぁ、 『女々しい』と思われるのも嫌だしなぁ。それに出したところで『受け取り拒否』じゃガビーンだもんなぁ、それこそ致命傷で自殺もんだよ。何を好き好んでわざわざ自爆しに行くのか? その確立のが非常に高いのにねぇ。あたしゃこれ以上傷付きたくないよ」が自分の本音というか、でも更に深いところでは「自分の間違いを自分の言葉ではっきりと認めるのが嫌」なだけなんですよね、ただ時間と面子を言い訳にしているだけで。そんな自分と勝負しないで敵前逃亡するのを私は「へたれ」と呼び、自分で自分に「へたれ」の烙印を押すのが私は嫌だから「謝らなくちゃ。ここで謝らなかったら絶対後悔する」「でもなぁ」「謝らなくちゃ」「でもなぁ」 ずっとその繰り返しでした。ほんと「へたれ」です私は。
そうこうしていた年明けに「叔母からの虐待疑惑」が持ち上がり、予想通り私は鬱になって(過去の経験から落ちるに任せて「頑張らない」と決めていた)、迎えたG.W。当初私は「バイク乗る気もしない(そういう時は怪我しやすいだけだ)し、(金はあっても)出掛ける気もしないし、本でも読んで過ごすかなぁ」と考えていたのだが、休みが近づくに連れ「何かヤバそう。9連休もこの家族と一緒にいたらマジウルトラブルーだわ」の危機感から自分のケツを叩き、連休3日前に「フェリー予約取れたら礼文島行こう! その前後で向こう(北海道・東北)の自助グループ参加して、当然ススキノにも寄って! お盆じゃないし、バイクなしで大人1名2等寝台(雑魚寝)なら何とか乗れるだろう?」と安易に思い立ち、2日前に電話したら「空きはあと2名です」 ラッキー! 当然往復で予約して家出GET! こうして「後先考えない」超軽いフットワークをもって私は機能不全家族を束の間抜け出して、Yさんと出逢った思い出の礼文島へ自虐的傷心旅行に出たわけである。人間傷付くと必ず北へ向かうねぇ。やっぱ演歌だよ。

つづく
<263> 泣っく泣っく ■2006年05月24日 水曜日 11時03分53秒
〈266)のつづき

最後の札幌小樽デートも相変わらず自己中だった私は、それ以後Yさんから着信拒否までされるほど嫌われ、でもまともな神経じゃないから「俺が何したっていうのよ? どこが悪い? 全然悪くないじゃん、何で嫌われなくちゃいけねぇの? 全然納得いかねぇよ、何考えてんだYは? 散々人振り回しといてこれかい? ふざけんなよ、どうやって復讐してやろうか」と憎悪を燃え上がらせる一方で、なんとかYさんとより戻そうと(「時が経てば落ち着くだろう」と見当違い・傍迷惑もいいことに)誕生日に歳の数の花束贈ったりしました。当然受け取り拒否。それでも「自分がYさんからとうに捨てられている」ことを認められない私は「全ての原因はYさんの起立不全にあるんじゃないか?」と、問題の所在を全面的にすり替え自分を疑えず、今思うと「ほんとストーカーと一緒」で笑うしかないのですが、「私とYさんとの間に共通の友人知人がいなくて誰に相談しても核心はわからないから」を理由に私はYさんの実家に行き、直接親にYさんの手紙を見せ「何で娘さんはそうなのか? 起立不全になった時に親は何してたのか? 何で医者に診せなかったのか?」不躾に私は問い質そうとしましたが、案の上親は手紙も受け取ろうとせず「終いには警察呼びますよ」というので、私も売り手に買い手で「結構ですよ。どうぞ呼んで下さい。私は娘さんの手紙さえ読んでもらえばいいんで、あなた達に危害を加えるつもりなんかないし、別に警察に(手紙を)見てもらってもかまわないんですから」と応戦するも結局(警察呼ばれずに)門前払い。特に(「期待を掛け自慢だった」娘に手紙上で批判されていると思ったのか?)母親はヒステリー状態で「娘はどこも悪くありません、もう完全に治りましたから」の一点張り。10分以上ガラスを挟んで押し問答しましたが埒開かず、重いしこりを残したまま私は玄関のガラス戸に手紙を挟んで残し「あぁあれじゃYさん『いい娘』になってもおかしくねぇな。」と勝手に思いながら帰途に着きました。
今思うにこれが正しかったとは全く思いませんし、あちらにしても「どこの馬の骨ともわからない男が突然現れいきなり土足でY家のタブーに触れようとしている」のですから、それは「心理的防御」から警戒して当然です。ただ当時の私の選択肢にはこれしかなかったのは事実で、自分が勝手に推測していたYさんと母親との関係を無意識に自分と親との関係にダブらせ、自分が親に分かってもらえない痛みを転化してYさんの親にぶつけていたんだと思います。まぁどのみち「貧すれば鈍する」で、自分も(Yさんの親も)もちろん冷静な思考回路ではなかったし、特に私はまともじゃなかったのははっきりしています。が、相手の親に直接会ってぶつかったことを私は今も後悔していません。それは決して褒められた行為でもなく、世間一般から見ても甚だ非常識ですが、やらないで後悔するよりは(できるだけ抑えた)リスクとさざ波覚悟で「ぶつかって気付く」ことを私は選びます。それも今まで「気付きようにも気付けなかった」私の無意識からの後悔でしょう。
後日Yさんの母親から私に手記が送られてきて、「母親の娘を思う気持ち」と「娘には新しい恋人ができたみたいなのでもう拘わらないでほしい」旨が述べられていました。それを読んで私は共感し、また一部自分の非を認め納得した部分もありましたが、(当時感覚麻痺・感情鈍磨の自分に気付いていなかったとはいえ、また自分の先入観もあるでしょうが)私の直感では全般的に作為的・演技的な「いい母親の仮面」で誤魔化されたような気がして「何かおかしい。言葉の裏に何かある。言い表す言葉が今の自分にはないけど何か引っ掛かる」消化不良。それは今でもうまく言えませんが、たぶんYさんちも機能不全で、それでウチと何かクロスするところがあるのでしょう。はっきりしているのは「両家とも問題(ウチは弟のひきこもり、Y家は娘の起立不全)を自分たちで解決できないにも拘わらず『家の恥』的無意識から外部に助けを求めようとしなかった」時任せの過去があるということで、たぶんYさんの親もウチと同様「自分たちの子育てを自分たちで非難するのが怖い」のではないか?と今私は勝手に思っています。それはある意味「子供の痛みよりも自分の痛み」が強い親として当然の心理かもしれませんがね。
それから数ヶ月の間にYさんの携帯番号も変えられていて「もうYさんとはだめなんだ」と納得するしかなくなって来ていた私は、時が来て「機能不全家族」と「アダルトチルドレン」という言葉に出会い、東ちずる著「私がなぜカウンセリングにかかったのか」を持って(Yさんに読んでもらいたくて)私は事前連絡なし、ダメもとで北海道に飛び、初めてYさんのアパートの長屋に行きました(大阪の「文化住宅」っぽい作りにびっくり)。本人は居たのですが、(名乗らずノックした)ドアが開いて対面したらすぐ「Yさん怒るとこんな形相になるんだ!」(意外と私は冷静だった)になり、けんもほろろに私は追い返され、私は失意のまま捨て台詞に「大きなお世話だけど、起立不全を経験したならちゃんとカウンセリング受けた方がいいよ」と怒ったままのYさんに言い残してすぐ北海道を発ちました。

笑っちゃいますよねぇ。後日自分がカウンセリング掛かる羽目になるのに、自分のおかしさに気付かず人にカウンセリング薦めているんですから。でもまぁ私の場合結果的にきちんと底付きして正解でしたね(将来はまだまだ不安だらけですけど)。これが中途半端だったら弟同様引きこもりになっていた可能性も高いし、相変わらず「満たされないインナーチャイルドの要求」に気付かず問題言動を繰り返していたのは火を見るより明らかです。

そして今年のG.W明けの電話による謝罪(次回書き込み「5年越しの傷心旅行」)まで私はYさんとそれっきりだったわけです。

以上、私が「Yさんに嫌われたのをきちんと認められなくて」女々しい言動の数々は、現段階でACの法則「愛を哀れみと取り違え、救える人を愛する傾向がある」に摩り替わったものだと自己分析していますが、理由はどうあれYさんから見れば「ストーカー」で、それでも振られた自分からすれば「納得いく答えをくれずに、改善の余地を与えずにいきなり音信不通、それも度々で恨みも憎しみもある」Yさんに対して私は1回も暴力は振るわなかった(因みに私が女性を叩いたのは小学校低学年までだったんじゃないか?と記憶)しています)のがせめてもの救い?です。まっその辺は私の父も母親に手を出したのを見たことは1回あるかどうか?なので、もし私が「DVが当たり前」の家庭で育ったのなら、間違いなく私はYさんに対して自分の憎悪を暴力で表していたでしょう。
またYさんの方でも(今回いろいろ私は推察を述べましたが、どれとて正解の保証もなく一生謎のまま)もし無意識に慢性的鬱を抱えていたのなら、私の要望に対してもどうしようもなかったでしょうし、仮に今の自分(体感的に「ありのまま受け止められた」経験値が当時の−100から今はやっと±0になった程度)で当時のYさん(立ち治りに要+80以上のストロークと素人仮定)とやり直せたとしても結果はどのみち同じで、頭の中では私が自分のインナーチャイルドにしたように「何にもわるくない。Yさんは何にもわるくないんだよ。それでいいの。そのままでいいの。えらいね。よくがんばってきたね。もう休んでもいいんだよ。つらかったもんね。ほんとつらかったよね」とYさんに言うことは可能でしょうが、それはお互い信頼関係の基盤があっての話で、それがないことにはいくら伝えようとしても容易には通じないでしょうし、相手の感情も聴けないでしょう。だからやはり自分で経験したが故に私は無難に「心の傷の専門家」を薦めるでしょう。それが現時点での傷付いた人との私の距離の取り方です。

好きだ、愛してる、かわいそう、じゃどうにもならないことはいっぱいあるんだ。Yさんに嫌われたのは非常に痛かったけど、出会えたことは自分にとって(5年間悩み抜いた分確実に自分の肥やしとなり)幸せでした。「理解」という理想に憧れ、惑わされ、支配され、「わかったつもり」になって考えなくなることが自分の成長にとって一番怖いことです。これからも自分と向き合います。


次回やっと後半「5年越しの傷心旅行」 己の女々しさ再確認だぜ!

<262> 泣っく泣っく ■2006年05月24日 水曜日 06時56分40秒
〈265)のつづき

最初にYさんの手紙に対して前回書き忘れていた付足しを。
今更だけど何でYさんの深く傷ついたままの心の模様を想像できなかったんだろうと思うよ。
夫から抱かれなかったことがYさんの女性としての尊厳をどれほど傷付けたことか! それに追い討ちを掛けるような夫の告白と人間不信。もうどうしていいのか分からないほど、考えたくないほどYさんは苦しみ抜いて離婚に踏み切ったんだと思う。経験した者でないとわからないであろう胸の内を想像すると「『結婚すれば幸せ』と思っていたのに、5年も付き合ってて夫がホモだと気付かなかった自分は何だったんだろう?」「女性として自分は夫に見てもらっていなかったんだろうか?」「自分は汚れてしまった。もう取り返せない」 そうした自分のアイデンティティーを大きく揺さぶり潰すような心的外傷を受けたからこそ(主因)、またそれ以前に「いい娘でいた」Yさんは母の期待に応えようとして認められようとして、無意識のところにかなりのものを廃棄したまま溜め込んできた(副因)から起立不全になったのではないかと思う。そして田舎の目もあるだろうが、敢えて母親の支配の届かないような、誰も自分の過去を知らない北海道に来て、ありのまま受け入れてくれる大自然の中で自分の生まれ変わりを期待して、より原始的なもの(それが星野道夫でありアイヌ)に強く惹かれていったのではないかと思う。それはある意味そうした自分の世界をつくり深く耽溺することで、無意識の「女を捨てたい自分」と「女としてもう一度愛されたい自分」に束の間のペンディングを施していたのだろう。そう考えるとYさんは最初から私にというより「男に抱かれることで女としての自分を無意識に再確認したかった」本能の部分もあっただろう。
推察の合否は別として、こうして自分がいろいろ想像できるようになったのもカウンセリングや自助グループ・AC関連本のお陰だが、所詮いくら考えたところで謎はいつまで経っても謎のままで、たぶん今のYさんでさえ当時の自分自身をうまく説明できないだろう。人間病んでる時ってのは大体そんなもので、意識よりも無意識のまま衝動的な言動をすることが多いから。そういう私もカウンセラーに繋がる前、リストラされ親父に散々詰られて、何事にもおどおどするほど指先震え完全な自律神経失調になって、どうしたらいいのか全然分からなくて誰にも相談できなくて、藁にも縋る思いで地元の寺の説法に通いつめたり、どこぞの宗教関係に入ろうかと当時はマジで考えていた。でも今思えばそれは俗世間(自分の無意識の葛藤)と離れ宗教に入ることで自分の過去に蓋をして逃げたかっただけなのだ。そんな心に隙が在る時にオウムにでも遭っていたら私は入信していたかもしれない。ここで「絶対そんなことはない」と言えないのが私の弱さであり、幸い今の私は自分の弱さを認める、し、また認めざるを得ないような過ちを無意識で繰り返してきたACアダルトチルドレンだから。
当時(このあとの完全決裂後)「自分が何で振られたのか」分からない私は何千回とYさんの手紙を読み直し、また(自分が理解できないYさんが尊敬する)故人星野道夫の本も全部数回読み直したけれど、全く感情移入できないまま『木を見て森を見ず』 「誰なんだ星野道夫って?」「アイヌとかシャーマン? いったい何が言いたいの? 現実見てないんじゃないの?」と失感情症の私は枝葉の色ばかり目が入って、森全体に漂う静寂に包まれているのにも拘わらず生惹を感じ取ることができず、ほんと感覚麻痺・感情鈍磨で狂った思考回路だった。後日少しづつ涙は出るようになったものの、私は自分が何で泣くのか?(言葉が出てこなくて)わからないまま泣いていた。それが運良くカウンセラーにつながって心を開いてもらって、はじめて「あっこれだったんだ!」と自分で納得いく答え、「寂しい」という言葉を、感情を知ったのである。そうした自分の寂しさとYさんの寂しさが初めて重なり、「わかってもらえなかった・気付いてもらえなかった」共通点を見つけたからこそ自分の取り返しのつかぬ過ちに気付き、4年もの間自分を責め続け、今こうして自分を曝け出し「償いにならぬ償い」をしているのである。
<261> 泣っく泣っく ■2006年05月23日 火曜日 09時19分53秒
事実上〈264〉よりは〈262〉のつづき

忘れるとこだった。確かこの山梨デートの時に私は車中でYさんに「Yさんってもしかして『いい娘』だった?」と聞いた。それは何かの時にYさんの母親の話題になって、Yさんが(私からすれば多少の怒りを含んで)「あの人」呼ばわりした事に対する私の漠然とした不安・推測(巷で言う「いい子で育つと大人になってから問題多い」)を確かめるためのもので、それに対してYさんがどこまで私の質問の意を量って答えたのか不明だが、答えは予想通り「うん」 嫌な予感は当たるもので私はそれ以上突っ込まず、またYさんも突っ込んで来なかったので私は適当に話題を変えた。あの時は温度低かったね。それは私だけじゃなく、今思うとYさんの方でもお互い口にできない疑問・問題抱えていたんだろうね、推測だけどさ。
この後またYさんからの連絡途絶えて、私は「それだけYさんは過去から立ち上がろうとして余りに揺れて、不安定過ぎるくらい不安定なのかも?」と痛みを推し量ろうともせず、結果できずに「あぁまたかよ。何でそうやって人を振り回すんだ? 訳分かんねぇよ」ぐらいにしか受け取れなくて、怒って「俺は女々しい男だから、引き摺りたくないから、Yさんから頂いた物で形残っている物は全て返すから、貧乏臭いけどそっちも返してください」とまとめてYさんに送り返したら、返ってきました私への謝罪文と一緒に。
そこには私に不快な思いをさせたことの詫びから始まって、元夫(農家の長男)と大学(農学部?)から5年付き合って結婚したら夫は抱いてくれず、問い質したら夫は「ホモ」と告白。自分なりに夫の改善を試みるも効果なく離婚して静岡の実家に帰る。散々泣き、恨み、悔やみ、打ちのめされたショックから起立不全になる。しばらくして友達の励ましと勧めから力を取り戻して「独りでも生きて行こう」と北海道の「女性のための農業学校」で研修を受け、その後一人でニュージーランドへワーキングホリデーに行き、そこで現地の仲間と一緒に牛の世話をして汗を掻くことで(過去を薄め)かなり元気になったこと。やがてビザ切れて「改めて考える時間が欲しい」と(実家ではなく)北海道に来て、自身が尊敬するナチュラリスト星野道夫・アイヌ・シャーマンのような自然に対して深い造詣を持つ生き方に惹かれガスも風呂も無い長屋に住み、福祉関係(事務?)の仕事について休日は山登りなどして生活を満喫できるようになったこと。将来は落ち着ける自然の中でログハウスに住みガーデニングをするのが夢であること。そういう時に礼文島で私と出会って最初の手紙を書いたこと。 幾分抜けてる・間違っている所もあるかもしれないが、そうした「誰にも話せるってわけじゃない」Yさんの過去・胸の内が記されていた。
だけど、そこまでYさんに打ち明けてもらいながら当時「無痛」の私は表面だけしか見えなくて「やっと素直になったな」程度の感傷力しかなく、その手紙全体に流れる寂しさ、表立って言えない気持ち「でもまだ私の痛みは深いのよ」そうした想いにも気付かず私はてんで的外れ、何にも分かっていないまま仲直りして2月の札幌雪祭りのデート。これが「相手の痛みをそっと包んであげられない」私がYさんに見切られる決定的な駄目押しでした。
「自分の意識がおかしい」とさえ思わない・疑わない・気付かない当時の私は「いかにして観覧車内でYさんにキスするか?」とか自分勝手なことばかりで相手の気持ちが全く考えられない。今の自分なら「馬鹿かお前は? いったい何考えてんの? どこ観てんのよ? 一緒にいて何で分かんないの? 相手が寂しいってこと想像できないの?感じないの? ホント馬鹿じゃないの」と罵声してぶん殴ってやりたいような、それこそ自分の嫌いな親父とそっくり
な「お前は恐竜か? 感情ってものが付いてないのか? だから痛みを感じないんだろう」それくらい感情・思考が浅いところでしか動かない・働かない生き物でした。
こうしてカウンセラーのお陰で自分の寂しさ「誰にも構ってもらえなかった、気付いてもらえなかった」痛みが戻った今では、札幌小樽でYさんが自分に対して度々寂しさのサインを出していたんだって事がはっきりと思い出されます。
ホント私は歪んだ感覚の持ち主でした。Yさんの何かを訴えかけているような顔を自分の眼で見ているのに当時の私は「表情が寂しい」という認識ができずに、「何で自分といてそういう顔すんのかな?」とか、もう自分(私)に傷付けられたくなくて心をすぅっと閉ざしたYさんの背中に「別れるのに寂しくないのかな? 何かドライだな」と投影して自分(私)がそうなのにも拘わらずすっとこどっこいな認識で気付かなかったのですから嫌われて当然ですし、また結果的にカウンセラーにありのまま受け入れられなければ私の中に凍結していた寂しさは出てこなかったのですから、仕方ありません。それだけ幼い私は機能不全家庭の影響に対して無力であり無知でした。
自分を虐待した祖母が頂点で家族全体をコントロールし、各々の無意識に代々連鎖してきた罪悪感を植えつける。楽しむこと・遊ぶこと・怒りを出すこと・寂しさを感じること・自分と向き合うこと・心を開くことその他諸々。ワーカホリックである自分の父親を診ればよく分かります。ホント罪悪感の塊で砕くことはできても溶かすことは不可能でしょう。だから祖母が死んだ今でも我が家は何も変わらず「冷たさすら感じない」低温家族なのです。


次回5部「(自分に原因求められないから)ストーカー同然」で前半終了したいと思います。ほんと狂ってました当時の私は。

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This script written by Shintaro Wakayama.