私たちの物語 - 人生の節目・過去ログ No.13
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<260> 泣っく泣っく |
■2006年05月06日 土曜日 06時13分30秒 |
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〈257)のつづき G根拠の無い自信過剰とフリーター 何処の馬の骨ともわからない関東の就職浪人生を関西で名前の通っている会社が雇ってくれるわけもなく、それでも「いつかきっと」と私は現実の自分を客観視できずフリーターを1年以上続けていた(この頃妙にテンション高く最初の躁状態だったと思う)。それでも何とか某土建会社に私は拾ってもらったのだが、入社後「何なんだこの会社は? あまりにも杜撰過ぎる」 その内給料遅配が続くようになり「こりゃヤバイんじゃねぇの?」とアンテナ張ってたら「どうも自転車操業らしい」ってことがわかって、その会社(2年後倒産)での人間関係はおおむね良好だったのだが私は転職活動を進め、結果某外資系大手小売業に内定をもらう。
Hアパート貰い火で半焼、怪我なし 上記の転職活動中、私は職場の仲間たちと大阪・池田市の公園へ仕事が終わってから花見に行ったのだが、だいぶ酔っ払って深夜電車で八尾のアパートに帰ってくると、何故か共同玄関が炭臭い。最初私は「学生バーベキューでもやったのか? しょうがねぇなぁ」と千鳥足で2階へ上がると真っ暗! 「あれれ、何で廊下の電気点いてねぇんだ?」 段々私の目が暗がりに慣れてきて「? 火事?」 試しに壁を指で触ると煤と水が付いてきて、やっと目が覚めた私。恐る恐る自分の部屋を開けると中は消失は免れたが爆風による煤だらけと消化による水浸し。何か使えるものは?と私は見たが、閉めた箪笥の奥まで煤が入って真っ黒だった。私は廊下に出て「誰かいませんか?」と声を掛けてみたが応答なし。大家に連絡しようと思ったが「深夜だし、どの道明日にならんとラチあかんな」 結局その日私は車中泊。 翌日私は会社に連絡して休みをもらい大家に確認。すると「(私の部屋の脇の)学生がガスの元栓をきちんと締めずに寝たばこしてドカン!」だったらしく、花見が不幸中の幸いだったわけだ(後日「本人は大火傷とアキレス腱断裂?」と聞いた)。 私は単純に損害賠償できるのか?大家に聞いたが、「貰い火の場合はNO!」ということで、後は事務的に管轄の消防署に行って書類に私の部屋の減価償却一覧を記入した。元々金目の物はなく、大した額にはならなかった。 翌々日私は職場同僚から布団や毛布をもらって(涙出る)、以後(転職決まるまで)会社の倉庫に寝泊りするようになった。たぶんこの事は一切親にも話さなかったと思う。そして自分の意識ではこの火事でダメージ受けた感覚が全くなかったのだが(昔から私は感覚麻痺なのだから当たり前だ)、後日会社の軽トラで一人で配達に出掛けた時に私は「今日は何処泊まったらいいんだろう?」とぼんやりと考えていたのだが、数件の配達終わって会社までもうすぐって所の信号待ちで「あれ? 今自分はどこの道通って来たんだ? 何処配達行ったんだっけ?」と思い返しても思い出せない。でも商品は荷台にないし、伝票の受け取りサインも全部もらっている。「記憶喪失? あちゃ〜ヤバイよこれ、火事で相当参っているんだわ」 確かに当時の私は今から思うと精神的にかなり鬱だっだのだが、当人にそれほど切迫感がなかった。結局これがダメだしとなり私に転職を決意させたのだった。
I内定ドタキャンと帰省 きちんと引継ぎを終え辞職し(住居の関係で)次の会社の配属先を待っていたら、先方から一方的に「今回は縁がなかったということで」の電話。当然納得いかない私は理由を問い質すも「上が決めたことですから」とにべもない。茫然自失で私は怒る気すら起きず、それは以前Fの因果応報だと自分を責めた。 そんな失意のどん底で帰省した私を待っていたのは「ワーカホリック」の親父による連日のイビリだ。「仕事命で遊びは罪悪感を抱かせるもの」が強固にインプットされた親父から見れば、訳も分からず出て行って無職になって泣きついて帰ってくる馬鹿息子は価値が無いのに等しく、まるで日頃溜めた鬱憤を全部「ここぞとばかりに」息子にぶつけストレス発散。そして自責の念から親にコントロールされ段々内面が壊れていく私。 自分の父親から受け止められた経験がない彼には「理由はどうあれ子供にも痛みを感じる心があるんだよ」という想像と共感が端から備わっておらず、馬鹿の一つ覚えみたいに「厳しく叱責すれば父親」みたいなのが彼の中では当たり前になっている(割りに引きこもりの弟に対しては無関心でタッチしようとしない)。だから自分の言動に全く疑問を持たないし、当然相手の傷付く心も読めない・感じない。結果子供の傷付いた心が休まる場所は無くなって、私はバイクで北海道へと数ヶ月の現実逃避の旅に出る。
J再就職と攻撃的な再躁 戻ってきて私は精密機械系の営業職につくが、この時期が精神的に今までで一番おかしかった。機能不全家族でのストレスとACゆえの会社でのストレスがダブルパンチでピークに達していた。今思えばG以上のハイテンションで、その割りに自分が全く見えておらず、非常に自己中心的な言動を職場内外で私は繰り返し(躁で「やる気」と「スタンドプレイ」を履き違え)、終いには周りから総スカンを食って上司から自分が孤立しているのを指摘されても私は気付かず「何で自分が非難されなくちゃいけないの?」と全く意に介さなかった。そのように自分では反抗しているつもりはないのだが相手の言っている意味が私はさっぱり分からず、チームプレイができる人からみれば「何考えてんだよお前? 馬鹿じゃねぇの?」と見られて当然のことを私は疑問も無く平然と繰り返し、社員旅行でも私は旅先で同僚と喧嘩になった(「非は向こうにある」と私は全く歩み寄ろうとせず孤立無援のダメだし)。 そんな周りが全く見えない(自分が殻に閉じこもっていることすら分からない)私のイライラが一番ピークで攻撃的だったのは製品展示会の見学時だった。会場で私は同僚と一緒だとイライラする(でも何故そうなるのかは自分でさえ分かっていなかった)ので勝手に集合時間を決め単独行動し、帰りの首都高、私が同僚4人乗りの車を運転していたのだが「わざと壁にぶつかって寝ている同僚を大怪我させてやろうか」とずっと思っていた。今からすると「当時の私は犯罪者一歩手前」で非常に恐ろしいことだが、本当に恐ろしいのは「自分が機能不全家族で溜まりに溜まった怒りを会社内で違った形で放出しようとしているほど、自分の心がストレス許容のアッパーレベルを超え精神に変調を来たしている」ということに気付かないこと、自分の感覚・感情にきちんと自分の言葉で名前付けが出来ない事だ。結局その会社も居場所が無くなって私は追い出され、親父に散々詰られ、またも北海道に現実逃避、それも今度は半年間。 ほんと狂っているという意味でおかしかったなあの頃の私は。あれだけ下手打って「自分は何でこうなんだろう? 何かおかしいのかな?」とすら思わなかったんだから。「自分を否定するようなものは全てシャットアウト」って感じだった。
K3回目の転職と底付き たまたま私は医薬品の営業職になって社内花形部署でそこそこの数字を出していたが、会社を変えてもやはり集団行動・チームの和が取れない私は売り上げ右肩下がりの部署に左遷⇒モチベーション一気にダウン⇒絵に描かれたようにリストラ候補⇒数字を上げられないことを理由に退職勧告⇒辞職 当時私は社宅に住んでいたのだが、「自分をこんな目に合わせた会社に復讐しよう」と屋上(4階)からの飛び降りを試みようとしたのだが、下を見たら私は怖くてできなかった。で帰省すると親父の罵詈雑言の雨霰。この時はきつかった。いつもの私なら糞親父に言い返して喧嘩するところだが、その気力すら起きなかった。終いには指先が震え、何事をするにしても私はびくびくするようになって「こりゃヤバイ、このままじゃ自分は本当に狂ってしまう」とまで底付きして繋がったのが今のカウンセラー。後は今まで書いてきた通りっちゅうわけです。
こうして自分でぱっと思いつくのをK上げたけど、私は一部もうちょっと掘り下げないといけないような気がしてきた。うまく言えないが「事実だけ流して感情が付いてこないんじゃないの?」という思いだ。向き合うのが足りないってことですかね。
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<259> みず |
■2006年04月29日 土曜日 23時54分38秒 |
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中学でいじめられてたとき、誰にもつらい気持ちを話せなくて、家でもおとうさんとおかあさんに気を使ってかなり大変だった。
今はその頃の自分がかわいそうだったと思うけど、その時はみんなの言うとおり自分が異常だからいじめられるんだと本当に思っていた。
人に傷ついていることを悟られたくなかったから笑顔で過ごしたが毎日消えてしまいたいと思っていた。もちろんそれはできなかったけど、いつかぜんぶぜんぶ耐えられなくなるような気がしながら顔で笑って心はすさんでいたように思う。
はたからみたら普通だったと思うけど、心は地獄のような10代だったと思う。
でもそんな中でも楽しい事もあったし、体は健康だったから、自分は幸せだラッキーな人間だと言い聞かせた。
20歳になって、自分が今まで接してきたことのない種類の人に出会った。その人は親とかがするように私に何も期待というか、「沈黙の命令」をしてこなかった。
”そのままでいい”と言う。最初は信用できなかった。きっと私を利用するためにそんなことを言ってるんだと思った。
でもそうじゃないようだったので、最初はどうしたらいいかわからなく戸惑ったけど、やがてその人なしの人生は考えられなくなって、親をはじめて無視して家出してその人のもとへ行き勝手に結婚した。
ああこれでやっと開放されるとその時は思ったけど、結婚した今では常に罪悪感にさいなまれている。親不孝者だと思う。
きっと親がもっと年老いて弱弱しくなったら(きっとそのころ母なんかは”もう歳の弱弱しい私をもっと大事にして”って態度を取ってくるんだろう。考えるとうんざり。)もっと罪悪感が増えるんだろう。
でも実際、結婚したから現実的にやらなければいけないことがたくさんあって、暗いことをあまり考えずにすむ。
それに、旦那は結婚しても変わらず本当にいい人だから、私は幸せだと思う。すべては完璧じゃないけど、完璧じゃなくてもいいんだと努めて思うようにしている。
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<258> アル |
■2006年04月27日 木曜日 02時13分03秒 |
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私は「結婚」というものに抵抗感がある。
二人でいるより一人でいたほうがいいような気がしてしょうがない。
私にとって「家」は安息の場所であって欲しい。「家」に帰ってもなお、気を使ったりして、自由に、勝手気ままに、振舞えないのは苦痛でしかないような気がする。
人といい関係が持てずにいるからこう思うのだろうな。
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<257> 泣っく泣っく |
■2006年04月23日 日曜日 11時45分26秒 |
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私は朝から泣いた。自分の過去を振り返って「たいしたことじゃないな」と思っても、掘り返せばいくらでも痛みは出てくる。それが感覚麻痺・感情鈍磨だった私だ。というわけで、G.Wに入る前に「私の春の痛み」オンパレードといく。 @端午の節句・鯉のぼり(幼稚園前後) これは当時我が家には(薄気味悪い)鎧武者1体と鯉のぼりが2つ?あって、表面的な問題は後者の鯉のぼり。子供心に私は近所の(同じ農家の)同級生のと比較して「何でTちゃんちはいっぱい大きい鯉のぼりが泳いでいるのに、うちは小さいのが2匹だけなの?」と言葉にせず漠然と思っていた。たぶん小さい私は鯉のぼりの大きさと数に親の愛情の度合い(鯉のぼりが大きければ大きいほど、数が多ければ多いほど親から愛されている)を量っていたのだろう。以後、毎年この時期になると私はそのブルーな感情を思い出し、心が青空とならない。 今の大人の私は「アパートやマンション住まいからすれば、小さい2匹といえど羨ましい」と思えるが、小さい自分はそこまで思いつかないし、大事なのはあくまで目の前の鯉のぼり。 だけど本当のところは鯉のぼり云々じゃなくて、父親からのスキンシップを小さい私は渇望していたのだと思う。だけど父親はワーカホリックで子供の感情には無頓着・無関心だった。なぜ? 父親自身がそうしたプラスのストロークを親から経験していないので頭にすら浮かばない、最初から「子供にはスキンシップが必要」という当たり前の選択肢が備わっていないのだ。だから、もし私が父親から遊んでもらった経験があったならば(現実にはキャッチボールの経験すら無し)それほど鯉のぼりには拘らなかっただろう。
A幼稚園児らしい不注意の怪我 友達の家の敷地内に積み重ねて置いてあったコンクリート(高さ1m前後だったかな?)の上から、私は双眼鏡を覗きながら前進して落っこち出血、額に大きな怪我。おかげで私の卒園写真は包帯巻き巻き。痛かったよ〜(当然救急車)
B小学5年生始まる春休み時の交通事故 夕方男女入り混じって女の子宅でボール遊びやっていて、舗道に転がったボールを追いかけて私はトラックに引かれ右足(だったかな?)の膝下骨折。リハビリは泣き泣きだったね。それと院長婦人は恐い顔だったし、看護婦さんにチンチン見られるのもチョー恥ずかしかった(今じゃ喜ぶ変態だが)。
C中学入学の自己紹介 「僕の名前はKSです。小学校はNです。・・・」を(自分は緊張すると早口になるのを恐れて)分かりやすい様に「僕の 名前は K. Sです。 小学校は Nです。」と単語の繋がりに間を置く喋り方をしたら、しばらく同じクラスのUに馬鹿にされっ放しで、当時気弱かった私はUに「やめてくれ」とも言えず惨めで辛い思いをした(今だったらUなんか楽勝ブチのめしだ)。それとクラス1の問題児Kと席が隣同士になったことから私は缶ペン関係でいじめられ、学校に行くのが嫌だった(これは後日自分がキレてKに反抗したことでストップ)。こうして「キレることで相手をコントロールする」ことを覚えてしまった私は中2からいじめる側になる。(これは長くなるので後日「暴力」に書く)
D中学の卒業文集 (同様にこれも後日「学校」に書く)
E一浪しても滑り止めの大学しか受からず 私は田舎の世間知らずの中学生だったため「地元の進学校M(県立)に入れば自然と大学行けるんだ」みたいなノリで高校生活を送り、自分の実力をきちんと把握しないまま大学受験に望み、当然のように全敗し私は予備校へ進路変更(大宮駅東口銀座商店街入り口の大衆食堂のカレーは美味かった)。ほんと肩身が狭い1年だった。にも関わらず「意思・目的」が弱くて私は勉強せず希望外の大学へ。そして私は思いっきり鬱になり(当人にはその自覚無し。負の感情は一切認識できなかった)、朝下宿先のアパートは出て通学電車には乗るものの大学下車せず、路線終点まで行って戻って来て、また終点まで向かっての繰り返しで、気分が「何とか行けそう」だったら大学に行く、みたいな事を2ヶ月ほど繰り返していて、危うく私はゼミの籍を抜かれるところだった。
F内定蹴っ飛ばしと発症 これが(私が覚えている中では)最初の「底付き」だ。バブル崩壊後の就職活動のヤバさを私はサークルの先輩たちから見て学び、100社以上回って結果私は小売業メインに15社以上の内定を貰って結局地元本社の小売業Jに決めたのだが(決め手は「型破りの品揃え」と「現場重視」)、下宿先から実家に戻ったら「弟は引きこもり」(当時はその言葉すらマイナーで私も家族も知らなかった) それに加え「分家との遺産相続」で我が家は何とも言えぬ重たい空気が充満し(そのような問題が起こった時でさえ、親は「我慢すれば乗り切れる」みたいな、決して問題に正面から向かおうとせず、何もなかったかのように装う)、そうした(感情鈍磨の私からすれば)訳のわからない・言いようのない・言葉にできないものに私は飲み込まれ頭がテンパって、内定式に理由もなく欠席して私は(説明しようにも説明できないまま)内定を蹴っ飛ばし、衝動的に、そんな家族から逃げるように私は大阪へと当てもないまま飛び出してしまったのだった。 (つづく)
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<256> なきむしっこ(FB注意) |
■2006年04月20日 木曜日 23時49分49秒 |
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人生に節目があるのならば次は何なんだろう。 私はねずっと子どもの頃から自分のテーマがあって、小5の時はガンだったの。 自分は皮膚がんなんだって思いこんでいて、それがあいまってがんという言葉を新聞やテレビで見るたびに身震いがした。恐いって思った。がんの2文字に子どもの私が怯えているの。そして中2の時にがんになりたい神様って思うようになった。神様は私が子どもの頃から私の動き・心の動きまで見ていてくれて本当に自分が落っこちないようにいてくれていた神様なのだ。その神様に昔は今日はいじめられませんようにって祈るように手紙を書いていた。神様のためにいい子に映るように必死だった。神様のためにいじめっ子に憎しみをもたないようにもした。 そして中2で私は神様私がんになりたいって祈ったの。最大の恐怖ががんだったのにね。そんな神様にお願いしている自分に自分は怯えた。そんな怯える自分を私は笑った。それが私の内部分裂のような自我だった。そして中2で見た占い。本当にぴったりだと思ったよ。その占い見て絶望したの。でもそれ見たときに「やっぱりね」って思ったの。ああやっぱ私の願いって小さな頃から見てきた願いってほんと何一つ叶わなかった、親友が欲しかったことや学校でうまくやりたかった事も全部私はそうじゃなかった。いじめと自分の性格をいつも矯正したいと思う毎日しかなかったから。この誕生日の人は同性愛者傾向が強いでしょうって最後書いてあって、あと人への猜疑心が強いから親友はなかなかできないでしょうってほんとぴったりだと思ったのね。今でも自分はレズにほっといたらなる気がして、なら最初っからレズっぽい思考を持って本当の自分を見ないようにって考える自分がいるの。おかしいけどね。それだけやっぱり自分の本当の姿が今でも恐いんだと思う。 失恋して後輩がその人の彼女になって私いつも我慢しているんだなあって分かった。その後輩はやりたい事やっていて本当に私にしてみれば「それありなんだ」欲しいものもらってもいいんだ、私ごときに感情を注いでくれることってあるんだ、私も好きな人いたり寂しかったりただの見栄でも彼氏ほしかったら求めてもいいんだって希望の光も見えたのに・・・・今はまだ自分が実は同性愛者になるかもしれないし・・・とか自分の性にも自信がなくて、しかもその人にいきなり今までのうっぷんから来る憎しみや支配欲もめちゃめちゃ出てしまうようで昔ほどでなくてもまだ恐い。右耳は14年たっても痛い。自分の人生はどうにもできなくてでもどうにもできなくない人生だったならばあの占いのように何も知らないで同性愛者とかエイズとか病気になって道踏み外していたんじゃないか、痛みにあったおかげで何か必然的にくる汚いものから逃れたんじゃないかって思っている節もあるの。私の感情は客観的に見たら変なんだろうけども・・・・自分の性に対しても自分を幸せにすることに対しても罪悪感があるみたい。巣立って自立していけないような女として幸せになってはいけないような、いつも誰かの不満を特に女の子や女性に対してその人の位を落とさずにすべてのことを私が満たしてあげないといけない、たとえ自分が汚くなったりしたとしても、自分の位が下になろうとも。だから母親のようになったり、男のようになったりしてその子の不満を解消してあげないといけないという気持ちになるの。いつも私はその子の位を落とさないようにして自分を落とす事は厭わないように・・・・そんな感じなの。
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<255> なきむしっこ |
■2006年04月20日 木曜日 23時28分45秒 |
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10歳のゴールデン・ウィークの次の日、今までずっといじめられ続けて、でもそれ以前にいつも家庭の中でばか役やっては喜ばせ、しかもそういう役 だった私は子どもの中でも勿論そういう扱いを受けた。 子どもは歯止めが全くといって良いほどないため、私は人のストレスを何度も何度もふっかけられた。 そしてあのNさんに耳に蟻をいれられ、パニックになった私にNさんはものすごく喜んで耳が聞こえなくなるかもよっていったのよね。 勿論子どもの私は文字通りその言葉を受け取ったし、全世界すべての人に笑われているような気がした。 あの子は私のパニックぶりが面白かったんだろうなって今なら24の私ならば分かる。 でも私は10歳だった。いつも下を向いて人と話すときには自分の声がきれいに出ているかどうか気にする、内向的な子どもだった。 助けて、お母さん私耳が聞こえなくなってしまうの?それが私の心の中の言葉でした。保健室に行きたかった。 それから時がとまったように感じていた。強迫神経症のような症状も出た。 ガンで自分は死ぬんだと小5,6.中1までは思い続けた。過呼吸にも小5でなった。息ができなかった、ため息をつきすぎて。 なのに私は家族の前でどうしても「フツウ」の子どもを降りることができなかった。レールの上は息も絶え絶えのまま走っていた。高校卒業前にいつも過去を回想していた。いつになったらこんな重たい思いや自己疑心が晴れるんだろうって思ってた。とにかく人は恐いのにひきこもれない。右耳はずっと蟻がいるような気がする。女である自分を最大限に生かせずにいつも汚い男子から自分が最もされたくない事をされる気がする。恐怖と自分には現実を動かせない、いつも受け入れるしかないという思い、家族や他者に見せる「安心できるフツウの子ども」を演じること。いつになったらこの自分をいつも自分で微調整しながら外に出す生活が終わるんだろうって思ってた。いつかぶっ壊したかった。うつ病になって、過食症になって、拒食症になって家族の前で家中のガラスをぶっ壊して。今だから言えるけども大学1年当時階段で前を歩く友人を自分は突き落とせって心の中が言っているようなもしくはそうしたい気持ちがあったの。自分が恐かった。中2で自傷思考で現実を自分の頭に入らないようにとばす方法を見つけたときと同じように自分が恐ろしかった事あった。 今私はまだ自分に幸せを許していないと思う。でも多重人格の人が統合するように自分はやっと現実に参加しても恐くないって思えるようになったよ。まだ自分にとって気持ち悪いことを想像したりする。そういう時は「ああ自分は今疲れているんだ」って思ったりする。後、何か不快なんだねって思うの。つまり私はずっと自分にマイナス感情特に他者に関するいやだ、この人という思いを思いっきり抑圧して自分を汚くするような思考を持ってきたんだと思う。
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<254> きさらぎ |
■2006年04月16日 日曜日 20時57分18秒 |
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今日も聞かれた。「なぜ結婚しないのか」。 結婚してない人はかたわなのだそうだ。 でも結婚してこどもがいるあなたがたもかたわだ。
好きな人がいなかったわけではない。 結婚しようといわれたこともあった。
でも、その一歩がふみだせず、私はそのひとのこころを結果的にもてあそび、 とりかえしのつかない事態をひきおこした。
結婚しようとしているなら、なぜ、アクションをおこさない?だと? その一歩がふみだせない理由がわかっているなら、明確にわかっているなら 私はこんなに苦しくないはず。
結婚云々にかかわらず、人生におけるパートナーは必要、だと思う。 でも結婚しないことで罵倒されつづけ、不幸な夫婦関係、親子関係 を見せ付けられて、なんどもなんども縮み上がるおもいをさせられて 自分の価値さえわからなくなっている人間が、どうしてそんな相手を 見つけられるだろうか。
そのへんのことを話したって、どうせ聞いてもらえない。 聞くといっているが、おそらく親のせいにして、と逆切れされておしまい。
結婚してないことがそんなにいけないことなのか。
あなたの苦労はわかる。 しかし、子どもの行き方にその対価を求めないでほしい。
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<253> いろは |
■2006年04月12日 水曜日 23時16分34秒 |
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なんだかやっとふっきれそうな気がします。 まだ節目になるかどうかのところにいますが、 10年かけてようやくしまえそうです。 もう私はひとりで歩き始めましたから、 そして今の私が好きになりつつあるからね。 もう必要ではなくなったんだと思うのです。 さよなら。
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<252> si, |
■2006年04月03日 月曜日 04時05分00秒 |
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お前は本当に汚いな。お前の行動がおかしくなっていったのは、人が増えてきて人を支配下に置ききれなくなってきてからだろう。こっちには何の非もない そのときお前は支配のために、あの手この手を使ってきたからだ。そして、自分の非を相手の病状を利用して全部押し付ける。そのためには「悪」が必要だ
あのときの電話は全部本当のことだ。そんなにひどくなかったなって言ったのは、しゃべり口調を少し誇張しただけだった。内容に関してはまちがってない。嘘発見器使うか?
お前は、自分のやったことを全部人のせいにして、今は「暴力」で話を進めている。ばかかおまえは?比較問題でてめえが正しくなんのか?
平然と「引き子守から回復したあるひとがいて、、、、うんぬん」とか抜かしやがって、全部自分が悪いだろうよ
お前が、「暴力」という問題に話を持っていくのは、それがてめえにとっての最高の露払いの役目をするから。皆が共通認識として「暴力」をac最大の敵と考えるから周囲にてめえの歪んだ偽善的、病者利用型の正義を訴えやすいからな。そしてこれすらうまく。利用する「○×△□って言われてしまって。。。」
とか、猫なでボイスで利用する。形としては直面下したことにして、実際は病症者を利用した都合のいいやり方考えたな。
お前はあの段階で10年のキャリアの果てにとんでもないことやってて、その正当化の為に、病者を利用して自分の正義を訴えただけ。
そして、それをあからさまにしたから憎んでる。そして、こっちのせん妄やら統合やら利用してきて露払いにしてうまくやっただけ。お前風に言えば
「いやーしかし危なかったぜえ。一時は、政治的支配やら洗脳やらやっちまってたんででどうなることかと思ったがよ、相手が統合、いや、一番はせん妄じゃるから助かったぜええ はあーはっはっはっはっはあああ、基地外さま様だぜええええ。これがなっかったらほんとにやばかったんだがな。あとは、うまくこいつら基地がいども利用してよおおおおおおあああ。あとは、ボロださねえように気をつけねえとよおおおおおおおお、、、、、、、、、」
基地がいたちに「感謝」だな。
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<251> 誕生 |
■2006年03月19日 日曜日 03時19分05秒 |
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人生の節目は今この瞬間。 私は、ACということから目をそらさない。 私は、ACを回復させ、ACとして生きた半生を無駄にはしない。 アルコール、ショッピング、ギャンブル、恋愛、タバコ。 自分が依存しているものを全て断った。 そして、今やっと、自分の人生のスタートを切った。 やっと、旅立ちのかばんを手にした。 私の人生を歩んでもいいよという承諾をもらった。 「おめでとう」 「ありがとう」 前に進もう。 私は、私が気になることの全てを徹底的に勉強していく。 未来はもう、変わり始めた。 運命は、「幸せ」の方向へと動き始めた。 「自信がない」とうつむいていた私はもういない。 私は、私が幸せになるための努力を惜しみなくする。 そのための勉強をする。 そのために考え、行動する。 だから、間違いなく幸せをつかむ。 幸せになるために、もう誰も頼らない。 人とは無関係に、私は幸せになる。 必ず、自分が幸せにする。 そして、私は私らしく最高に輝く。 最高に幸せになる。
私の辞書に不可能という文字はない。
これからが、自分のための人生だ。 私は、ACになることを望んでこの家に生まれたのだ。 ACであることは偶然ではなく、必然だったのだ。 ACにならなければ、できないことをするために生まれてきたのだ。 ACであることが、誇りに変わる。 そんな未来はもうすぐそこにある。 ACを回復すること、トラウマを癒すこと、自己実現をすること。 方法が明確ならば必ず辿り着ける。 私は方法を知ることができた。 それは、もうクリアしたことと同じことだ。 あとは、この階段を一歩一歩のぼること。 人生に無駄は何一つない。
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<250> 風船 |
■2006年03月02日 木曜日 13時06分41秒 |
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私は結婚に逃げた。 当時その自覚もあった。 だからふたりになっても、私はフワフワ、フラフラ。
異性といると、特に強く虚無を感じた。 心の中の怪獣が暴れた。 ひどく苦しかった。 でも絶対に彼に頼っちゃいけない。 そんな思いが別の形の依存として現れ始める。 誰か一緒にいてくれる人なら誰でもいい。 心は開かない方がいい。 ただちょっと楽しい時間を過ごせればいい。 やさしくしないで!!!!! 涙が止まらなくなるから。
夫君は心の距離の遠い人。 心の繋がりを諦めた。それが結婚。
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<249> 風船 |
■2006年02月28日 火曜日 21時41分44秒 |
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とても話しにくいけど、私は結婚に逃げた。 当時その自覚もあった。 だから二人になっても、私はフワフワ、フラフラ。
長いこと死んでて、人間になる努力を重ね、 偏差値のより高い学校を目指し、 虚無を抱えながら卒業、就職、 どこまでも完璧を目指して、勉強、仕事、 人に頼っちゃいけない、自立しなくてはいけない、 自分を追い込んでいくけれど、 頑張っても、頑張っても、自立できない、 もう、これ以上、頑張れない…
だから、諦めた。それが結婚。 嬉しくも何ともなかった。 夫君には、言わない。言っちゃいけない。 言って楽になるのは私だけだから。
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<248> 無 |
■2006年02月27日 月曜日 12時46分24秒 |
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本当に無駄だった
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<247> 無 |
■2006年02月27日 月曜日 12時43分26秒 |
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意味がなかった 人じゃなかったから。なんにもない。ビーカーが壊れてたこと。好きで壊れたんじゃないし。なんにもなかったね。無駄だ。もう、それによって制約されて残りをすごすだけ。あんたらの合法的な人種差別と、人間の抹殺、もう6人殺したろ。
この苦しみは、誰にも見られたくなかった。後が楽しみだ。10年後がよを
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<246> わんこ |
■2006年02月18日 土曜日 16時54分11秒 |
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このページに出会えたお陰で胸にたまっていたもやが晴れた。うつ病を治して 働きたいし、念願だったパソコン教室に通いたい。
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<245> アーネスト |
■2006年02月10日 金曜日 23時10分56秒 |
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つづき 後は働くこと。フルで。そうすれば体力も必要になるから、その手段として体も鍛える。きっと大丈夫
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<244> アーネスト |
■2006年02月10日 金曜日 23時09分54秒 |
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遅くなってしまったけど今年の抱負。 ひとつは自分の世話をすること。今年に入ってから部屋のカーテンを買った。正月セールで安かったからレースのと普通のを2枚。すごく気に入っている。レースは白地に、細かい点線模様が、青、紫、黄緑、で入っている。普通のはサックスブルーとでも言えばいいのだろうか、濃い目の空色で、色の微妙な濃淡がついている。正月にそれを買ってきて昼間の太陽に、かざしたとき、感動した。そしてこうも思った。俺は今まで何をやってきたのだろうと。どうしてこんなお仕着せの家具ばかりが自分の部屋に置いてあるのか。そこから若干、買い物依存気味になりながらも、家具を買った。
今の私に必要なのは、自分のための衣食住だと思う。食は実家だから実現しそうにないけど、衣と住に関してはお金を稼いでいけば、実現できそうだ。
服に関してもこの前、思った。なんで俺はこんな上下真っ黒の服を着ているのか、これじゃまるで喪服だ 別にブランドとかじゃなくていいから、自分の好きな服を着ていこうと思う。「似合う」服というのも少し違うような気がする。似合うというのは人から見て、という感じだから。鏡で見たんじゃなく、伸びた手先が、足先が、うつむいたときに見える胸なりひざなりにまとった衣装を自分が好きか、それが理想。
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<243> ぺん |
■2006年02月10日 金曜日 18時23分39秒 |
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いままでの私の人生で一番の節目になったのは、自分に「鬱病」という名前がつけられたときだった。そのとき私は泣いた。うれしかったから、本当に心からホッとしたからだ。それまで生きていてずっと分からなかった事、自分は一体何者なのか、どこに立っているのかが、やっと明らかになった。どこに立っているのかがわかれば、やっとその立っているスタート地点から歩き出す事ができる。「やっと私は救われるんだ」と、病院を出た後泣いた。もうすぐ24歳になるとき、今からちょうど5年前のことだった。 それ以後が、「私自身の人生」だと実感している。今も同じ先生のもとで治療を続けている。先生は最近よく「強くなったね、よくがんばってる自分をほめてあげてね」と言ってくれる様になった。
それまでの私には、それじゃあとても歩けないだろうと言う程必死でつま先立ちして背伸びをし、とてつもなく分厚い皮をかぶっているような感覚があった。「本当の自分」は、その皮の中でとっくに窒息死して、腐ってゾンビになっているように感じていた。この家に生まれた事で決定づけられた破滅への筋書き通りに歩かされるより他に、自分に道があることなど知らなかった。
どんな組織に属しても、かならず2年でそこにいられなくなってしまう。それが私の原則だった。学校でも仕事でもそう。2年目に必ず潰れてしまっていた。外界が他者が恐ろしくてたまらない自分に働く事など不可能だと思っていた。多分、間違いなく「2年」で潰れるのだろう、その先の自分の人生はたぶんないだろう。「ノストラダムスの予言がどうか現実になりますように。社会に出て苦しんで自殺するより前に死にたい。」小学生の頃から本気で願っていた。
ノストラダムスの予言は当たらなかったけど、私の「予言」は、やっぱり現実になった。2年で潰れて仕事を辞めた。でもその続きは「予言」通りではなかった。 自分の人生が歩ける様になることなんて、私は想像すらしていなかった。自分の足で立って歩くのは、私にとってとても大変な事だ。いろんな辛い思いもするし、しんどい中必死で踏ん張っていなければならない。理解してくれる人も数少ない。それでも前を見ている、逃げずに踏みとどまっている、自分の生き方を必死で模索している。一生懸命生きようとしている自分に、最近は少しだけ誇りがもてる。少しだけ自分が好きで、そんな自分を応援している。
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<242> まろすけ |
■2006年01月11日 水曜日 18時56分47秒 |
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最近引っ越したところ。引越して、ごみの捨て方が変わった。 マニュアルを見て分別しているのに、プラスチックの素材が違うと注意された。(マニュアルには書いてないし) スプレー缶ちゃんと穴あけたのに、「あーん?穴開いてるだとぉ?」と毒づかれた。ごみ捨てるのが怖い。どうしていいのか分からない。うんざりする。
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<241> アル |
■2006年01月11日 水曜日 02時54分47秒 |
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■新年の抱負■
今年こそ仕事場が決まるといいなと思う。(と言いながら今も転職を考えている最中です)転職の繰り返しをやめたい。もう疲れた、ひととこに落ち着きたい。 今までもそう強く願いながらできなかった。落ち着いて楽しく仕事がしたい。
それから、人から大事にしてもらえるようになりたい。どうしたらなれるのかわからないけど。38になった今でも粗末に扱われたままだ。この先もずっとそうかと思うと辟易する。そのせいか、他人のことを大事にしようという考えが私にはないようだ。私は人を憎んでいる。
去年はダイビングのオープンウォーターの資格を取った。でも、インストラクターや、海洋実習の時に会った人達からバカにされるような関係になってしまって、その後ツアーの申し込みもしづらいようなことになってしまった。仲間もできなかった。 仕事も落ち着かないから、休みもはっきりしないし。 今の私の状態ではどんな人と会っても上手くいかないので、今年は一人でできることをしたいと思う。DIYとか、縫い物とか。 もし私が普通だったら、今年の夏は道具をそろえて仲間と沖縄とか行って潜ったりしてたんだろうな…。
3つのうち1つでも実践できればと思う。
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This script written by Shintaro Wakayama. |
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