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私たちの物語 - 人生の節目・過去ログ No.12
メッセージ数:240件

<240> HO ■2006年01月09日 月曜日 02時23分21秒
今年で20歳になります・・。自分は何やってんだろうなーって思ってます。 
資格取らなきゃなー。
部活も入っとくかなー。
もっとバイトしなきゃなー。
成長しないとなー。
したいとはあまり思わないんだよなぁ。
まだまだガキだー・・泣けてくるー・・

ちょっとずつちょっとずつ。
<239> アーネスト ■2006年01月03日 火曜日 01時22分34秒
年明けにカウンセリングがある。
久々の。今、また少し問題があるから大目に入れようかなとも思っているけど。どうしたものか
<238> なきむしっこ ■2005年12月27日 火曜日 22時11分34秒
2005年酉年。私は2回目の年女であった。
何か大事件起きるのかなあと期待していたけども・・・なかったわ。
でも、院に受かった。仕事を始めてした。
楽しかった。それまでの私は自分の心の中を見張っていないと神様に見張られているようで生きられなかった。それが、なくなったのだ。
神様にいつも自分の心の感情を見られている。だから、私は悪い感情を持たないようにした。そうすれば、私にとって悪い事(病気になる、事故に遭う、ふられる、人に見捨てられる、突然いじめの対象やからかいの対象になる、人よりも「下」に落ちる、あの占いが当たる)が起きないと思ったから。
子どもの頃の心そのままで私は小学校・中学校・高校を通ってきたんだとつくづく思う。学校の事を考えるのは涙が今でも出そうなほど辛くなる。子ども時代はそういうものだった。なぜか、からかいの対象にされる、人にやつあたりされる、汚い存在のように「下」として、自分の意思も尊重されないそんな存在になりやすかった。。。。。
 いわば、「安全」な場所が私にはなく、常に「評価」と「将来のため」と「性格矯正」と「わらいもの」もしくは「ちょっとしたストレス解消の道具」もしくは、「頼りにできる困った時だけ必要なカウンセラー」それが私の役割だった。学校でも、家で、どこでも。
 そんな中で自分の欲望は小さく小さくなっていった。「それでいいんだ」とも思ってた。そうすれば、ずるくない欲のない大人になるだろうから。。。。
 いじめを受けて、ひどい事されて、それを24歳になるまでひきずった。
このひきずった思いはもうない。私は大学院に受かって、仕事場でも人に大切にされるようになって・・・・ものすごく良い人たちに恵まれたおかげで、自分の大人として大切にしてもいいものを見つけたみたいよ。。。
 まだいろいろ不安だけども。。。。
これが私の人生の節目。24歳。
 ACの特徴に結構当てはまり、友人も彼氏もいなくていつも話す程度の人だけしかいなくて、過去の回想と本だけが生活だったのに、変わった。私は変わった。
 今でも、パワーゲームはやめられない。上か下かで人生を見るし、人も見る。いつか、人と一緒に喜びや悲しいことを分かち合えるといいと思う。
でも、上か下かみてもいいんじゃない??って思う。素直な思いだからさ。
 このサイトに来て、自分がすべてを支えているつもりだったのに、同じようにしてすべてを支えているつもりでいる人たちに出会った。優しい言葉や何よりも受け止めてくれる懐のような言葉に出会った。「安心」をもらったみたいだ。
 私は、平和が好きなのね。だから、平和な一日を過ごすためにも、色んな人に幸せになってほしいと思っている。でも、最近はもっと素直に生きたらいいと思っている。歴史をさかのぼれば、そこには人の嫉妬と嫉妬の争いがうずまいていたり、崇高な理念を持って、演説したキング牧師など、ホント色んな人の感情がある。素直に生きたらいいと思う。いいじゃん?自分幸せもらっても。人の事ばかり気にしなくても。(学校の先生で言う言葉の逆バージョン)
 戦争の地域の人の辛さは生きているのが辛かった私にも少し分かるかもしれない。
 でも、私が思うのは、素直に生きて、普通に人を思うことだけなんじゃないかな。
 2006年はどんな年にしたいのだろうか?
私は院生になる。研究をする。色んなことをすると思う。でも、何だかまだ信じられないの。私がこんなに頭の中がすっきりしているなんて。
先の事が今まで考えられなかった、将来を想像するのが怖かった。
そんな私が今落ち着いて将来を考えられる立場にいる。だから、ホント2006年が分からない。今まだ考えられない。本当に私にとって今は今までとは別世界にいる気分。支配されていた神様からの支配が解かれたから。
<237> NAC NAC ■2005年12月27日 火曜日 15時03分45秒
今日はこれでお終い。というか、今年最後の書き込みになるかもしれないので簡単に05年の反省と06の展望を。

まず私の05年。総じて「ACらしく」大きな波風の1年だった。
@昨年末のスポーツ上の暴行「され」事件も、相手のSが「人を殴る蹴るしておいて全く罪悪感がない」という非常識なため、半年間すったもんだした挙句私が自分の心的成長と安定のため大幅譲歩して、「慰謝料なしの」医者に掛かった実費だけでSと和解した。金に煩い私が「大した怪我でもなかったし、今年は国際B級昇格懸っているのでそんな煩わしい事に構っている暇はない。結果出してSを見返してやる」と憎しみを練習にぶつけ、結果私は心的成長と技術的成長を遂げ無事昇格した(「災い転じて福となす」だが、当初の「シーズン中に最低でも優勝3回してチャンピオン」の目標にはかすりもせず、表彰台も1回だけという真に手堅い「しょっぱい」昇格だ)。まっ何はともあれ1年(まだあるが)大きな怪我なく通せたってのが何よりだ。

AGW初めに肺炎になって2週間入院し、それを機に私は職場を変え(決まるまで鬱状態が2,3ヶ月続いたが、仕事が再開したら生活のリズムが戻り、自然と鬱消沈)、前より(仕事内容でも人間関係でも)良い環境に移れた。これも結果ラッキーで、入院中も不思議と私は焦りも凹みもなく、やっぱインナーチャイルドのおかげ?

B今年もありました機能不全家族好例の家庭内事件と対人トラブル及び疑惑
 a親の「子供の感情を無視する」言動に私はキレて、台所の壁を数箇所凹ませた(怪我人なし)
b父親鉈(なた)振りかざし(怪我人なし)
c母親包丁振りかざし(ビンタ1発だけで怪我人なし)
 d酔っ払い運転のおっさんを軽くしばく(ごめんなさい)
e車両窃盗疑惑(持ち主の誤認)で事情聴取&すぐ和解
 f忘れるところだった(昨年中にケリ着けといたのかもしれないが)、過去幾多の自助グループに来ては依存相手を無意識に見つけ絡めとり、結果グループ潰しの経歴を持ち、兼「レイパー」で境界性人格障害のSと私の一連のバトルも、奴が北関東に以後姿を見せなくなったことで一段落。私が取った腕力的手法が良かったとは思わないが、今でもそれ以外の方法は私には見つからない。先日某自助グループのチェアマンAさんに私がその話をしたら、(私があれほど「Sは危ないよ」とお節介にも忠告しておいた)「別グループのチェアマンBさんが(Aさんは詳しくは聞かなかったけど、たぶんSから)危険な目にあった」という話を聞いた。それを聞いた私の第一感想は「それ見たことか。『12ステップをしっかりやってるから私のグループではそうした危険なことは起こらない』と(無信仰・無宗教の私からするとBさんは宗教がかりで現実逃避?)当時私に食って掛かったのだが、このざまだ。ざまぁねえよ」だ。皆さんも自助グループに参加される時は十分注意しましょうね。世の中聖書だけ読んでれば犯罪が無くなるってわけじゃないんだから。
とにかく、自分と向き合う術を知らない人、耳を傾けない人に対して私は何も言うことはありません「だめだこりゃ」

C私は複数の自助グループを勤務シフトの許す限り出ているが、ある所で私と同じような情緒障害の人の話を聴いて、自分で引き出したくても引き出せなかった(未だに否認システムが強く働く)寂しさを「ぐわん」と引き出してもらえた。ある意味、それだけ自分が自分と向き合いながら他人の痛みに共感なり共振できるようになった証拠で、今年1年私はホントよく泣いた。子供のようによく泣いた。出席3回につき1回は泣いていただろう。因みに私が参加している自助グループで、そうした内面奥から押し寄せる感情に耐え切れず女性が泣くのは時々あるが、男性が泣くのを私はたぶん1回も見たことはない(「男は泣くもんじゃない」ってのに支配されているから他の男性は泣けないのか?)。もはや子供の時の感情が戻りつつある私にとって同じACの前で泣くのに何の躊躇いはなく、今では泣かないと何かすっきりとしない感じで、話すとき聴くときは基本的にインナーチャイルドの感情を私は大事にして、できるだけ自然のまま放出するよう心掛けている。またそうした所には少なからず痛みを伴うのが辛いところだが、安定⇒回復に向けて避けて通れぬ感情なのでしょうがない。ましてや自分のインナーチャイルドはもっと辛い経験をしてきたのだから、新たな養育者である私が傷付いた彼の感情を放って置くわけにはいかない。日々その繰り返しだ。

D自分がACと気付いて底付きしてカウンセラーや自助グループに通って3年、そうした安心して話せる以外の場所で、やっと私は高校からの友人に「自分が情緒障害のACで家族皆がおかしいこと」を話し、そして「ありのまま」否定もされず友人に受け入れてもらった。話し終えて私は内心ほっとしたし、ありがたかった。
これは手堅い私にとってかなり博打的な賭けで、話し終えるまでホント不安で一杯だったが、言語外に伝わってくる「そんな(辛い経験をした)あなたでも私は認めますよ。そこに居ていいんですよ」 そうしたメッセージなり雰囲気を自ら体感でき、自分の意識でもはっきりと分かる程の「非常に大きなプラスのストローク」だった(翻って言えば我が家はマイナスのストロークばかりだったということ)。ほんと友人には感謝である。
当たり前のことだが、情緒障害の私は感情面で再経験しないと分からない。カウンセリングの時もそうだが、ありのまま受け入れてもらって初めてそれがどういうことなのか?(理屈抜きで)わかり、その重要性(承認・肯定)がわかるからこそ、自分がそうして欲しいからこそ他人に対しても注意を向けられるようになるわけだ(実際に私ができているかどうかはまた別問題で、こればかりはより健全な経験値を積むしかない)。

時間がないので私の06の目標というか展望を。
@「寂しさの台風に飲み込まれてもできるだけ心の安定を保てるよう、リカバリーできるよう」引き続き勤務シフトの許す限り、私はカウンセリングと自助グループ、そしてコーチング(できれば資格を取りたいのだが)を続けていく。そんな自分を紐解くキーワードは「会話」「感情」「寂しさ」だ。

Aモトクロスにおいてこれ(国際B級)より先はプロ(同A級)しかなく、年齢的にも私は現状維持がいいところだ。野球で言うところの社会人レベルなので「それなりに(恥ずかしくない)形になった」という点で私は満足だし、後は引き続き知り合いも増やし、大怪我せぬよう細かい技術の習得に努めようと思う。今さら若い子と一緒に「行け行け」のスピード追求は私にはリスクが高過ぎるだけだ。

B仕事。派遣の身でボーナスないのは経済的に非常に痛いし、肩書きも寂しいものだが、私的に現状の仕事内容及び人間関係に今のところ特別大きな(ストレス溜まるような)不満はない。強いてあげれば単純作業なので面白みもやりがいもないが、そこはカウンセリングや自助グループを優先させるため私はロボットになるしかない。それに手だけ動かしてノルマさえこなしていれば上から文句も言われないので、頭の中は自分と向き合おうとスケベな妄想しようと自由だ。

C家族。何とも言えないね。変えられるのは自分だけだから。

Dそうだね、もっと本読んで自分の感覚・感情を刺激しないとね。インナーチャイルドと会話するにはもっと多くの引き出しが必要だ。

まっざっと今私が思いつくのはそんなところですかねぇ。
そうそう、プロレス好きの私は橋本真也のファンで会場にも何回か足を運んだのだが、昨年亡くなったのは非常に残念だった。この場をお借りして、改めて故人のご冥福をお祈り申し上げます。
<236> なきむしっこ ■2005年12月22日 木曜日 00時28分20秒
 学校の学生相談を終わりにした。
もう私が学生相談に行かなくても、生活できるようになったから。
今は、振り返るのが少しまだ怖い。
どうして、今まではだめだったのか分からないくらい、一体過去の自分に何が必要だったのか分からないくらい、今は平気である。だから、だめだった時代の感覚を思い起こすのが怖い。このまま忘れ去って、進むのがいいんだろう。。。と思う。
 私は、今すごく幸せだ。きっと。何だか、心も顔もぽかぽかしてしまうくらい。
 私にこれから何が起こるのか分からない。
 でも、きっと私も色んな事に恵まれていたし、自分もきちんとやってきたと思う。
 だから、信じられないくらいに私は変わった。
 気が小さくて、人の思いばかりが頭の中をめぐって、一度も生きられたことのなかった子どもの私は
 やりたい事はやって、人にも大切にされる、好きな人と応援しあえる、自分が納得するまで人と会話できる、自分の星と同じ星を持つ人と物と世界と、未来を見っけた〜。
 自閉症だった私への本は、教育実習に行ったからこそ出会えた本。A君ありがとう。あなたの名前のように私の心の疑問を明けてくれたのはあなただよ。
ばかな私に新しい理解方法を与えてくれてありがとう。。。。
 今はね、中学生の頃、授業中に先生の親友の話を聞きながら「私には親友なんて絶対にできない、ありえない」と思って、泣いてしまった一人世界にこもっていて私にもね、友人ができたの。できたって言ってもいいよね??・?
 大切にできそうな人たちに出会えたの。結婚式とか呼び合いたいくらい。
ご飯も食べたい。
 「嫌な事は嫌って言いなさい!」ってお母さんから笑われたり、からかわれたり、怒鳴られたりしていた事が、今ならばお母さんよりも言えるのだ。それも、無理してむやみに「嫌だ」というわけでもなく。素直な自分の思いを伝えられるのだ。
 「やりたい事はやるんだ」この思いが、自分をつぶして、人をつぶしてしまいそうなマイナスなエネルギーの方向を変えてくれた。
 今、あったかくて、自分をケアできて、何だか嬉しいの。クリスマスのイルミネーションも素敵だし、きれいだし。
 小さな頃の元気いっぱいで、自分に酔っていた頃の自分が戻ってきたみたい。
 2005年12月21日は、学生相談が終わった日。そして、久しぶりにクリスマスが幸せに感じられた日。心からにっこり笑えて、自分のまっすぐさが大好きで、これからが楽しみになれた、自分の頭を「よしよし、頑張ってきたね。頑張りやさん!」ってほめてあげたい日になったの!!!!!!!!!
<235> アル ■2005年12月09日 金曜日 01時03分18秒
今年も残りわずか。早いなあと毎年思う。来年また年をとる。精神年齢は低いままなのにね。ギャップがまた開いてその分生きづらくなる。

来年は同じ悩みを持った人たちの集まるグループに参加してみようかなと思っている。
上手くいくだろうか?仲良くできるのだろうか?私みたいな普通の人からは嫌われてばかりの人間でも受け入れてくれるのだろうか?友達も一人もいないような人間なんだけど、大丈夫かな?少しは成長できるのだろうか?そこでは傷つかないでいられるのだろうか?

わからない…。

今年はこのサイトに出会えてよかったなと思う。
こんな悩みを抱えているのは自分だけかと思い込んでいた。そうじゃないとわかって安心した。
それに、今まではどこにもはけ口がなくて心に溜め込んでいたものを少しずつ吐くことによってつらさや痛みが全部ではないにしろ減って助かったし、なんとか自分の思いや気持ちを書くこともできるようになった。(始めは書こうとしても書いては消し、書いては消しの繰り返しだった。書けないことにイライラして止めちゃったりとかね)

来年もまたたくさんお世話になると思います。すみませんが、よろしくお願いします。
そして、ありがとう。
<234> アーネスト ■2005年12月08日 木曜日 14時59分30秒
思えばこの年になるまで、教師以外の職業を考えてこなかった。
別に、誰かに「お前は教師が向いている」とか「教師になれ」とか言われたわけではない。母親は援助職だったが、それでも影響はない。

教師を目指す人間ならば〜でなかればならない、という固定観念から抜けることができなかった。25年間もずっとだ。25年というと大げさだが進路を意識しだした中学〜高校くらいだからそれでも10年近くは同じことを考えてきた。

教師を目指すこと=自分の人格の完成だったと思う。保守的で、まじめで規範的で・・・そういう自分が苦しかったのに、どこかで教師を目指すものは、という考えから距離をおくことができなかった。
<233> みーみー ■2005年12月07日 水曜日 15時22分13秒
※言葉がきついかもしれません。

入学も卒業も受験も就職もいわゆるストレートにいった試しがない。最初に必ず適応不全を起こす。それでも結局は嫌々やりすごす。だからいつも中途半端。

私は失敗したって別にかまわないし世間体なんて気にしない。世間体を気にするプライドばかり高い親への復讐が目的で自分を貶め続けた。大学受験も適当にやった。自分が失敗するのは恐くない。でも自分が精一杯やった結果が親を喜ばせると思うと反吐が出た。努力なんてしたら親の思うつぼ。自分のために受験するなんて考えたこともなかった。

何度言葉で訴えても理解できないらしいから、自分の考えばかり押し付けてくるから、私は行動で示すしかなかったのよ。

おかげで気がついたときには自分のやりたいことなんて何もなかった。自分の意思で選択したことなんて一度もなかったから。全部間に合わせだったから。

そりゃ節目ごとに躓くわな。

やっぱ他人の復讐のために生きるなんてするとロクなことにならないわ。

これからは自分のために生きよう。
<232> なきむしっこ ■2005年12月01日 木曜日 23時30分15秒
私は平気なふりして生きてしまえた。
私は大丈夫なふりをして生きられた。
そうやって生きてきた。
 身体は必死で発していたんだ。
 助けて。それも言えずに。
 寂しい。
 寂しい。
 自分が生きていいと思えないのかもしれない。
 寂しい、という感情も分からない。
 まだそれでもここに書いている私もどこかで自分から逃げいるのかもしれない。
 まだ平気とね。
おかしい。
あの時歩けなかった時に言いたかったよ、レズビアンこんな言葉が頭を回っている。
 おかしい。
 私はやっぱり超人的な頑張りで・・・・・24年間生きてきた。
<231> なきむしっこ(FB注意) ■2005年12月01日 木曜日 23時25分42秒
 そうこの歩けない感覚。
どういえばいいんだろう??
 まっすぐに歩けない。
 立っているのに、ふらふらとなってしまう。。。。

 とにかく、歩けない。歩いているのに浮遊しているような、今まで歩いているのが全部「虚構の世界」で起きたことにように「ばかじゃん」っていう感覚があるの。。。。。
 歩けなかった。なのにこの平衡感覚がなくなって、家で一人で目を回しながら・・・・やっぱり誰にも言わなかった。

 私こうやって生きてきた。
大学まで。
 高校時代はとにかく休みたくて、寝ていた。
 罪悪感はひどかった、殺人事件を見れば被害者の顔写真が「お前が殺した」と夢の中、想像の中で出てくる。罪悪感。
 人なんて私の周りにはいなかった。
 生きられない。ただ、そう思っていた。
 浪人しても、新聞に私の名前が悪いことして載る気がしていたし、大学受験の勉強をしながらも頭の中では別のことを考えている、そんな感じだった。
 受験中に、テスト中に「殺人事件の被害者の名前」どこかで言って、それに怯えている自分を作り出した。
 半分の自分はテストを受けている。でも半分の私は罪悪感と自罰と周囲との隔絶と時間の進まなさを感じていた。
 なのに私は人に「明るい」とか言われる。
そうとう現実から乖離しているんだろうなとも思うし、自分で自分を作り上げてしまった感覚も強い。

 ねえ?私はいつもいじめられていたよ。
 そして、ずっと14年間引きずり続けて、その間にライフイベントを半分の自分がこなしてきた。
 これが私の24年間の人生。
<230> なきむしっこ ■2005年12月01日 木曜日 23時16分30秒
 耳にありが入った。
その小学校のゴールデンウィークの終わった次の日5月6日にNさんに学校菜園のクラスみんなのインパチェンスの鉢の中からありを取り出して、あの子は私の顔につけた。
 インパチェンスの鉢、私はインパチェンスの芽を誰かに根こそぎにされていたが、そんな事ははっきりいってどうでも良かった。
 耳にありを入れられたこと。
 そしてその事をあの女の子はめちゃめちゃ喜んでいたことを今でも鮮明に覚えている。
 これって傷ついて当然のことなんですか???
 ただ、私は本当に自分の耳は聞こえなくなる。脳にありがまわっておかしくなると思っていました。

 耳が痒かったりしなかったみたい。。。。
 私はそれからおかしくなった。小学校5年の夏休みはずっと自分は皮膚がんになったと思い込んでいたし(昔のある手術後にできものができたから)
 それは小学校6年生まで続いた。
 その頃の顔写真は卒業写真も含めて、やばい。顔が本当に常にひきつった顔をしていた。つっぱているような笑顔の曲がった顔、目が笑えないそんな顔している。
 過呼吸になった。これも確か夏休み。ため息ばかりついていたら・・・本当に呼吸するのが、難しくていつも息が詰まっていた。苦しかった。
家にあったソファでいつも泣いていた。生地がぐっしょり濡れているのに、お母さんがいるから声を出せない。
 トイレで泣いた。10分で自分の感情を出して、後は家族に見られてもいい私をつくった。(=何事もないようにトイレから出てくるということ、泣き顔を消すこと)
 お風呂で動悸がとまらなくなった。
 家族の前では「学校楽しい!」と騒いでいた。「明日が楽しみなんてお父さんうらやましいよ、そんな事自分にはないから」なんて言われた。
 ばかじゃないの???
そんなこと思ってねーよ。お前はうつ病かもしれないけど、私だってつらいのにこんなに頑張ってたのに。ふざけんなよ。表面しか見れない無能のばか。
 中学校に進んだ。中学校の時の友人は家庭に問題あり、私には変に高圧的な子だった。その子となんか絶対に交流していなかった。
でも聞き役に徹し、不満を心にためていた。
 中2で自分いじめを発見した。
 学校にいるとのどにいつも異物感があった。
 息もうまくできなかった。
 生理の時は貧血がひどかった。
男子がいつも私のこと好きなんだと思い込んだ。そして、その男の好きだと思う顔を常にしないといけないと思い、その子がいないときもその子を裏切らないためにやった。
 目が回ってしょうがないときが何回もあった。
 家族のスキー旅行の帰った次の日。平衡感覚が狂って、学校の行き帰りまっすぐに道を歩けなくなったことがあった。歩いているのに浮遊感があって、ほんとうに歩いているのに、どこか夢の世界で歩いている感覚があって、この感覚が最近夢とかに出てきたり、よみがえってきたりした。
<229> なきむしっこ ■2005年12月01日 木曜日 22時57分25秒
 私は10歳でNさんにこの子の顔は今でも忘れられない、耳にありをわざとでないけど入れられて、すでに腕をつねられまくって、言葉と身体の暴力を受けていて・・・・この世の中が混乱しまくっていた、私の感情は誰とも通じ合えない、何かがこの世は狂っている、何で?私の歯車とこの世の歯車は合わない、何かがかみあわない、状態で私の感情や見た事聞いた事を、もう信じられなくなっていた私は・・・・それでもその心の腐っている女に「耳にありはいったよね?」と最大限の勇気を出したら・その女がにや〜と笑って言った。
「OOOO(その当時のあだな)の耳鼓膜破れるかも〜。耳聞こえなくなるかもよ」ほんっとにほんっとにほんとにほんとにものすごく嬉しそうだったの。
ほんとにほんとうにうれしそうな顔で言ったの。
その瞬間私の震えきっていた心はへなへな〜ってなってしまった。もういいや、何だか自分なんてどこにいっても、もうきちんと扱ってもらえていない。もう自分の人生もこうやって狂っていくのかもしれない、でももういいやもういい。そう思えるくらいの悲しい出来事だった。
 その日に家に帰って、私は必死で耳からありを取り出そうとした。砂糖を耳に置いたりしてね。とんとんとんとんはねたりね。
 その日から・・・・右耳をしたにして眠るようになった。姉に毎日泣いている姿を見られないようにするために・・・共有の部屋の交換もしないように願いながら。
 姉が右側の部屋にいれば、私は右耳をしたにしながらなおかつ毎日の学校でのつらい思いや心配事で泣くのを反対の方向に顔を向けながらできる。
 ありが耳に入った。それを大学生になるまでずっと心配していました。
<228> こくーん ■2005年12月01日 木曜日 03時54分25秒
私の人生の最大の節目だった、13歳の春。
多分、あの時から私の一部の時間は止まったままだ。
13歳の私がまだ心の中に残っていて、叫んでいる。
「私が悪いの?悪かったの?」
両親の離婚が、13歳のあなたのせいだなんてこと、あるだろうか。
ないよ。あるはずがないよ。
でも、あの父親の、母親の一言が。

お前のせいだ!!!

と13歳の私を責めるのだ。耳を塞いでも聞こえてくるのだ。
だって、心の声だから。

あなたのせいじゃない。悪いのは親だよ。それぞれに問題を抱え、それを見て見ぬふりをして逃げるように結婚をし、生じた問題に正面から向き合おうとしなかったのは、あなたの親なの。
無力だった、13歳のあなたのせいなんかじゃないの。
あなたが父親を捨てたんじゃないの。
だから、泣かないで。
だから『自分は誰にも愛されない』なんて決め付けないで。
<227> 白 ■2005年11月28日 月曜日 16時02分26秒
ピアノの先生を強引に変えさせられた。
「将来のため、もっと良い先生を探しといたわ」
ようやく慣れ、先生のことも尊敬出来て信頼していたのにまた変えられた。
「お金がかかりすぎるわ。それに次の先生はもっと良いらしいから」
信頼していた先生とは正反対の教え方。それもまた一つの方法だと今はわかるけど、当時の私には受け入れがたかった。
その先生と親の希望を裏切って、半ば自暴自棄で選んだ音大ではない普通大学を受験した。受験日まで、「お前に今更出来るはずはない」と言われた。
合格した。しかし、心が病んできたので、普通の明るい大学生ではいられなかった。就職する気力もほとんどなかったが、無理やり就職口を与えられた。
それ以外選択の余地がなかった。
働きながら、ずっとレールに乗せられた違和感を感じていた。

結局私は仕事をやめ、親が反対する人と祝福されずにひっそりと結婚した。
自分たちの生活も大切だから、親の借金を払うのを止めたいと申し出た。
絶縁された。

期待通りの言うことを聞く娘で無いなら、アル症により膨らんだ借金を返済する気の無い娘なんかいらないんだろうな。
やっぱり私は、アナタの言うように「冷たい子」なんだろうか。
<226> ayako ■2005年11月23日 水曜日 15時22分01秒
人生の節目に離婚して住み始めた所で騒音。一応解決したがまだ問題はあるのだ。
今の部屋が古すぎる。築30年。私より年寄り。兎に角この部屋から出よう。出て音が煩くなく、学生が居ない物件に越そうと思う。大家が近くとか女性限定。前に女子寮みたいな物件を紹介された。あまりにも煩そうだったからやめたが・・今となったらあの物件の方が良かったかも知れない。大家は同じ建物に居るし、第二親等以外部屋立ち入り禁止だった。しかも5万代。家賃は勿体ないからあんまり出したくなかった・・けど今回思った。値段と相場を考えるべきだったと・・お金なかったから仕方ないんだけどね。今回の騒音で次回の部屋選びは騒音がポイント。いかに壁が厚いかと近隣住民の属性。静かに暮らしたいよ。もう山の中でも引っ越そうかな。
<225> 解放区 ■2005年11月20日 日曜日 19時10分28秒
もう薬を飲んで5年経つ、就職を期に不安発作で薬漬けだ、自助に行って
少し落ち着いたと思えば、残業が増え自助との関係も絶たれた、覚えておけよ
日本の就職というおばけ。俺はおまえが大嫌いだ。子供っぽい僕が叫ぶ。ばかやろう
<224> アーネスト ■2005年11月18日 金曜日 18時15分59秒
(FB及び不快表現注意)



2002年の1月(正月明けだったかな・・多分そう記憶してる。新年の開業日を調べたような記憶があるから)初めて精神科に行った。事前なのか事後なのか忘れたが、家族に報告したのも覚えている。兄と父、2人に書面で。「・・・の理由で精神科を受診したいと思います。同意を御願いします」みたいなことを書いた覚えがある。

でも、もっと後めたさを感じていたのは母親に対してなのかもしれない(それは報告の際の兄の話しによって増幅されたかもしれない)。兄の通院に対しては「世間の恥だ」と罵り、私に対しては精神病院を、まるで刑務所のような罪深い人が入院しているような、ことを言った。そんなわけで私は、精神病院(精神科)をおぞましい、得体の知れないような、近付いてはならない場所だと思っていた。

去年、教採予備校に通い始めた時、つまり卒業して初めて教採のこと、教師になることを考えはじめたとき、一番気になっていたのは「うつ病」の病歴があること、と再発の恐れだった。その時は寛解期だったが、もっと先を考えて、行った時、例えば論作、面接でのアピールポイント、その時オレはなんと答えればいいのだ??
人間関係がいやで部活を辞めました。そしてうつ病になりました。とでも答えろというのか??焦りは6月くらいから顕在化してきた。再び承認を求めてラクロスの闇練などもした。そうあの時は聞きたくても聞けなかったのだ。予備校の講師にも。
病歴があったことを知られたら、俺は就職できない、ずっと思い込んでいた。ゼミの教授と話したときもそうだった。「実習中に薬を服用しているようでは問題だ」という言葉を深刻に受け止めすぎて、もう全てがだめだと思った。俺は就職もできない。友達も恋人もできない。趣味もない。

去年の3月にギターを始めた。大学1年の頃に弾いて挫折したが、アニキのベースを借りて練習していたら、なんとなくピッキングのコツを掴んだのだ。ずっとできないと思っていた肩や手首の柔らかな動きを出せるようになった。

話しが逸れてしまったが、約4年前に初めて、うつ病と診断されて、母が思ったように、やはり私も精神病患者を、囚人、社会の落伍者、世間の『恥』と思っていた。でもバイトの面接でも、病歴を話したし、市教委にも病歴を話したが、誰も差別しなかった。差別していたのは自分だけだった。4年間の重荷を解放できた1日でした。

<223> 泣き虫っ子 ■2005年11月14日 月曜日 21時42分03秒
 紀宮様の結婚が明日あるらしい。
彼女の美智子様とのエピソードを聞いていたらうらやましくて。
 この感覚、「自分の子ども時代を十分すごした」という人の話を聞いていても感じる感覚だ。
 どういう感覚かと言えば・・・自分の生活を確立している、人の笑いものにならない、子どもが持つ特有の大切な物に周囲が応援してあげる、子どもの持つ星みたいな輝きで世界が回っている、小さなこだわりを積み重ねている。
 そんな感覚。
 私は、ずたぼろだったけどね。私の大切な物はひねりあげられた。お母さんの作った手提げ袋は、あの子たちの「遊び道具」「パス」「パス」ってまわされた。
 私の心の大切なものは世間とは違うという理由で「泣き虫子、この子は神経質だから」、私は多分「違うんだ」って思った。私は「違う」。だから、いじめられる。泣きたくても泣けない。トイレで声を殺して、いつか大丈夫になった時代の私を思い浮かべて、必死で母親にばれないように泣き続ける。
 でも私はそんな事しかできない。私の心の小さな宝物はもてあそばれて、ばかにされて、それでも私はそれを必死で耐える、むしろ「喜ぶ」ように生きていた。
 私の世界と周りの世界は違う。ただそう思っていた。どうしてこんなに周囲と私は違うの?現実を共有していない感覚。お母さん、寂しい。お母さん、どんなに物に囲まれていても、私は自分をあなたに見せられない。家族って何なんだろう?
 私の人生の節目だとしたら、24の私はあの頃の地獄の中にいた自分の感情をすべて書ききることができたら、「客観的に見て私はとらわれ過ぎだ」なんて思わないで、すべてすべて本当にすべてを吐ききったら、私は今、いやな事を家族に言われたり、人に言われても「いやです」って言えるようになって、自分の本当に大切な友人を大切にしながら、彼氏を作って、互いに友人と自分の幸せと友人の幸せを祝福しあえるのかも。
<222> 泣き虫っ子 ■2005年11月14日 月曜日 21時28分31秒
 私の人生を私はきちんと見直さないといけないみたい。
今から24年前に生まれた。10歳のゴールデンウィークの終わった次の日にNさんに耳にありを入れられた(間違って入ってしまったとも言える)。あの時の恐怖は忘れらない。私は耳が聞こえなくなってしまうの?
 小学校3年頃から、いじめに近いことがあった。「OOOO(当時のあだ名)の好きな人は誰々で〜す」って下駄箱前でKさんたちに言われていた。あの頃の何にも言えなかった私が今でも見えるよう。
 とにかく生きられなかった。自分として生きられない場所だった。泣きたいのに、笑う。言いたいのに言えない。顔がひん曲がった顔して、引きつった顔で笑っていた気がする。何かが「間違ってしまった」そんな感覚だった。家族の中にいても「独り」だった。「お母さん、私は学校でいじめられているの、お母さん私は病気で死ぬの?お母さん、うまく息ができない、毎日ため息ばかりついていたら、うまく息が吸えなくなった」そう言いたいのに、毎日、必死で家族の前で家族がここまでの世界なら理解してくれるだろう世界の私を演じていたの。
 それ以外の持ってしまった私の寂しさや普通の10歳じゃあ感じないだろう「孤独感」や「自分を痛めつける思い」は誰にも見せなかった。
 世界と自分の整合性をはかるために、そうしたの。
 14歳、占いを見た。「この生年月日の人は同性愛者傾向にあります。」って書いてあったのを見て、「ああこの手が使える、これで今度は自分をいじめよう」って思った。そんな自分にもう一人の私が怯えていたように思う。
 19歳、予備校を通っていた。
 20歳、大学に入って、始めて気を許せる友人ができた気がする。
 23歳、大学卒業。大学時代はとにかく自分の過去をすべて吐き出さないといつか自分は「おかしくなる」日がくるって思っていた。とにかく、自分と現実のピントをずらして、過去の私ことを言いまくっていた。そして、私の感じたことは合っていたのかを知るために、過去にされたことを全く関係のない人にし返した、無論怒られ、ものすごいひどい目に遭った。
 ずっと私は自分の過去の話を書きながら、どこか遠い目で私の感じていたことを見ていた。きっと姉が言うであろう「ばかじゃん」とか、世間の言うであろう「この子はとらわれが強いんだわ」っていう言葉の味方をしていた。
 自分は「こう感じたんだ」っていう視点は、自分が「神経質で、怖がりで、思い込みだけで、ほかのACの人に比べたら大したことなくて、心気症や強迫っぽいところを持った汚い女、ずるい女」だと思われたくなくて、ずっと、どこか他人事にして自分の「生きづらさ」や「過去の痛み」を見てきた。
 自分はおちゃらけて、平気なふりして生きてきた。
 でももう認めたい。私は、確かに傷ついてきた。今も自分を傷つけている。
<221> chikypug改めちひろ ■2005年11月14日 月曜日 21時11分15秒
別居後まもなくの協議の場で、夫の一方的でひきょうな条件をつっぱねて、
「あんたは魂が腐っている!」
と断言した。
よくもまあ、あんなことを言っちゃったなあ。あははは。
魂が腐っているというよりは、嘘つきで卑劣で心がちっちゃいの。
あの人は精神的に成長なんてしない。
全部、「自分は悪くない」って私のせいにする人だから。
なーんで、あんなのと結婚したのかなあ。
後悔しているというよりは、虚しい。

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This script written by Shintaro Wakayama.