私が実家に居るのも多分今週限り。 嬉しいような、悲しいような。 そんな複雑な気分でも、今の私は若干前者が勝っているようなウェイトだ。 もちろん私が嬉しいのは「毒親の支配である『ダブルミーニング』とおさらばし、以前よりはだいぶ安定した環境で自分のインナーチャイルドを育てながら、精神的にもう一度(外見的には)大人の自分をやり直す」ことができる環境に自分が移ること。 そして逆に私が悲しいのは「子どもとして当然のことを満たされないままで家を出て行く」こと。 それは、親と同居していても私は殆ど食卓を共にしないし、家族が居るのに一人で食うのは寂しい。 そうとわかっていても、「昔の『言いたくても言えなかった』感情が自分の内面奥深くから『ぐわっ』と押し上げてくる痛み」に耐えながら、あの「人の感情に無頓着」な糞親父と食卓を囲むのは、小さかったころの遠い自分、そして私のインナーチャイルドの怒れる感情が許さない。 意識の私は己が感情を殺すことでその場をなんとか流せても、私の無意識(潜在意識)の答えは「NO!」だ。 それも明らかに「NO!」だ。 どんなに意識の私が大人ぶって、または突っ張ったところで、動き出した私のインナーチャイルドの感情は止められない。 彼の感情は正直だ。 私はそれを感じて伝えているだけに過ぎない。 その時「こいつ(親父)の感情鈍磨のせいで自分まで犠牲にさせられた」という感情が強く働く。 ほんと底の見えない「次から次へと湧き出てくる」マグマのような怒りだ。 そして「こういう『欲しくない感情』を親父は子どもに植え付けさせたのか!」と思うと、私は余計に腹が立つ。 「何故あんた俺のインナーチャイルドを傷付けるような言動をするんだ? ほんと私は自分の腕力に物を言わせて(親父を)ぶちのめしてやりたい」 そういう衝動に私はいつも駆られる。 どこぞの公共CMじゃないが、「子どもに必要なのは物より思い出」だ。 今の自分、情緒喪失から感情が戻りつつある今の自分は、その言葉の意味がよくわかる。 当たり前だ。 子どものときに親と食卓を囲んで楽しい思い出なんかこれっぽちもなかったのに、「お前も大人なんだから」とか「親も年なんだから」の決り文句、美辞麗句で、そんな「愛情を知らない、または学ぼうともしない」馬鹿親と、「楽しい思い出がほしかった」子どもが、どうして何のわだかまりもなく食卓を囲むことができよう。 今の私に大事なのは、自分が小さかったときに抱えていた「寂しさ」「不安」「孤独」「恐怖」「怒り」「暴力」 そうしたものを、子ども一人では抱えきれない感情を、新たな養育者である自分が一緒になって受け止めてあげることだ。 だから「子どもの感情を全く無視する」親父は、私にとって、また私のインナーチャイルドにとっても「害虫」でしかない。 そして今の私に必要なのは「子どもの感情を抱き寄せられる」父親像であり、反面教師はもういらないのだ。 歪んでインプットされたものとは、私はもうお去らばしなければいけない。 それは誰のためでもない、私自身のためであり、私のインナーチャイルドのためでもある。
「楽しい食卓」 「会話のある食卓」 「各々の感情が自由で節度ある食卓」
そうした自分が経験してこなかったもの、機能不全家族ではいくら求めても得られないものを、私はどこからか、これから学んでいかなければならない。 それはどこにあるのだろう? 自分のこころのずっと奥のほうかのしれないなぁ。
泣けてくる・・・・・
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