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私たちの物語 - 家族過去ログ No.9
メッセージ数:180件

<180> NAC NAC ■2004年02月09日 月曜日 02時11分40秒
昨日私は友達Kの家で夕飯を共にしたが、Kの家には「新しい家族」である子猫が1匹いた。
が、その猫は人間に懐かない。
噛んだり引っ掻いたりする。
私もちょっと引っ掻かれた。
飼い主のKの話では、「捨て猫」だったらしい。
たぶん「母親とほとんどスキンシップを経験しない」まま、その子猫は捨てられたのであろう。
うちも以前ペットショップで「生後間もない」柴犬を購入したが、私たちの躾と愛情がなっていなかったのか? その柴犬は歪んだ性格で育ってしまった。
動物も人間も「愛情が必要」なのは同じである。
ある程度(期間)までは、きちんと母親の下で「性格形成の下地」を作っておかなければいけない。
それが未形成のまま外に出ると、本人は愛情が欲しいのに、「どうやったら愛情が得られるのか?」わからなくて、歪んだ形(暴力・嗜癖・依存・引き篭もりなど)で「自分の愛情欲求」「こんな僕でもわかってよ」を表現しようとする。
だけど悲しいかな、その表現の仕方は「機能的家族」で育った人のとは違い、到底一般社会では受け入れられない。
または受け入れし難い。
私もそうだ。
「愛情とお節介」の違いがよくわかっていない。
わかっているのならACにはなっていない。
なぜなんだろう?
答えは簡単だ。
自分の父親も、母親も、「愛情とはなにか?」
その親にきちんと教わらないで愚かにも結婚して、尚且つワーカホリックになることで「自分の(決して満たされていない)内面」と向き合わなくて済む。
そうした「歪んだものさし」が、私の親の中では当たり前なのである。
だからそうした人たちの子どもは、「親の支配に抵抗できない」不遇な生育暦を重ねてしまう。
だから私は、今こうして訴えるのだ。
その「(母親の愛情に)捨てられた」子猫も、機能する母親に育てられたのなら、「己が爪や牙で愛情を訴える」こともなかったであろう。
「親の理解と包容力」
それだけが「傷付いた」子どもの内面を癒してくれるのだ。
<179> りゅうのすけ ■2004年02月09日 月曜日 01時43分06秒
28年間心に押し込めてきた言葉を、口に出して言える場をやっと見つけました。管理人さん、本当にありがとうございます。

8年前に実家を出ました。ここ1,2年で、やっと素の自分で生きられるようになりました。あたしってこんな性格だったんだ、と発見することも多く、なんだか最近幸せです。誰かの顔色を見ずに生きることが、こんなにのびのびとおおらかに生きられることなんて知りませんでした。生きていてよかった。

愛情表現と押し付けを混同している父と、良妻賢母な自分を演じている母。自分の基準でのいい人生が娘にとってもいい人生だと勘違いし、それを押し付けることに躍起になった父と、いい子の人生さえ歩んでいたら、それ以上の関心を私に示さなかった母。私の中の子供の部分は、いまだに彼らに振り向いてほしい、現実の私を見てほしい、と願うけど、大人の私はいい加減あきらめなさいと諌めます。

3年ほど前、友達がリストカットをしました。その傷跡を見ていて、すっかり忘れていた自分の過去を思い出しました。

小学生の低学年のころ、親に振り向いてほしくて、こっそり手首を切っていました。でも気づいたのは兄だけ。何やっているんだと兄に怒られ、親は気づいてくれないという現実に打ちのめされてやめました。
その後、親の干渉のストレスから円形脱毛症になりました。十二指腸潰瘍もできました。昨年、十二指腸潰瘍からの出血で、緊急入院を余儀なくされました。母親は一言、お父さんの仕事があるから行けないと言いました。入院の仕度は、すべて職場の先輩が買ってきてくれました。1週間後、突然母が来ると言い出しました。現在私が住んでいる土地や職場が見てみたい、とのことでした。3時間ほどうろうろして、母は帰って行きました。先日、同じ病気で弟が緊急入院したとき、両親は用事が片付き次第すぐに駆けつけたそうです。その後も何度も足を運んだそうです。母が心配そうに何度も何度も電話してきました。いつもは、2,3ヶ月に一度しか電話もくれないのにね。相変わらず、私の気持ちは考えてくれないんだね。

高校のとき、親の干渉が辛くて辛くて、親の敷いたレールの上を歩いていくしかないのかと思うとやるせなくて、本気で親を殺したいと思った時期があります。親を殺したいと思う自分が恐ろしくて、こうに自分に言い聞かせることにしました。親子というのは、単に血がつながっているだけの他人なんだから、自分の気持ちを分かってくれるとは限らない、他人にそこまで望んじゃいけない、と。そんな風に思っていたら、冷静になることはできたけど、それと一緒に親への愛情とか執着心みたいなものもどこかにいってしまいました。

親の決めた人生から逃げるために遠回りの人生を送ってきた私。そんな私のことを可哀想だと言って、他の兄弟は親を責めるそうです。こんな私のために喧嘩をしてくれるそうです。でも母はこう言います。今が幸せならいいじゃない、過去のことはもう忘れてよ。あなたたちにとっては過去かもしれないけど、私にはまだ過去じゃない。遠回りをしたぶん、コンプレックスに苦しまされて、自分を卑下して、周りに溶け込めなくて…そんなこともあの人たちはきっと思いも寄らない。

今、ようやく自分の働いたお金で食べていけるようになって、年に1度程度、申し訳程度に実家に帰っています。母の言葉は決まっています。どうせあんたはもっとおいしいものをいつも食べているんでしょ。お給料はいくらぐらいなの。そのバッグはいくら?高そうね。彼とは別れたの?何があったの?
母にとって、私はいったい何なんでしょうか?あの人は私に幸せになってほしくはないんでしょうか?その妬みの様な感情は何なんですか?

ここ10年くらい口をきいていない父と、私の中身には関心を示してくれない母へ。許すとか許さないとか、そういう感情ではなく、私はあなた方が好きになれません。

<178> 猫侍 ■2004年02月09日 月曜日 00時56分45秒
強烈な不許可のサインを、ぼろぼろの服を着た、栄養失調の、シラミだらけの頭をした、
かわいくない、汚い、母親に捨てられ継母に無視され続けアル中の父親に毎日殺されかけた、
南の島の海辺の洞窟に一人住み着いた女の子、私のお母さんから、私は受け取った。
かつてお母さんに与えられなかった大事な必要な当たり前のものを私が求めたときお母さんは心じゅうで怒った。
お母さんに与えられることは返済不能の借金をすることだった。私はその借財のためにいまだに首が回らない。
お母さんは奪われることに何より敏感だった。「奪われるな」「奪え」。
お母さんは被害者より加害者になりたがった。決して負けない。自分は憐れじゃない。
お母さんはいつも怒り狂っていた。怒りの奔流がゴウゴウ音をたてて家中を激しく叩いていた。
私と弟はそれに見つからないよう小さくなるよりなかった。
見つかったら殺されると思っていた。それはほんとうだった。
毎日お父さんと喧嘩するお母さんは私と二人きりになるとお父さんの悪口を言い立て、私はつねに同意した。
あの頃はお母さんがお父さんの被害者だと思っていたけど、違っていた。
お父さんもお母さんの被害者だった。
お母さんは私に泣きながら「お母さんのこと好き?」と聞くから私は好きだと言った。
私はお母さんにそれを一度でも聞いた事はなかった。
私も、好きだって、かわいいって、えらいって、大事だって、あなたに言って欲しかった。
だけどあなたは私に「おまえは恵まれてる」と言った。
<177> えり ■2004年02月08日 日曜日 01時10分14秒
母のことが、ずっと好きになれませんでした。

私の意志を尊重してくれるし、困ったときは、こっそりお金を貸してくれたりするし、なんでも話せるいい母だと思っていました。

そんな母親を、時々疎ましくなるのはどうしてだろう、と自分を責めていました。
親を好きになれないなんて、自分は何か欠陥があるのだろうか?

でも、大人になって、ようやく気づきました。
「いいお母さん」だったのも本当だけど、でも、「そうじゃない」部分も沢山沢山あったんだ。
私の回りには、両親に捨てられた子すらいたから、それに比べれば、ずいぶんいい母親じゃないか、って思うけど。
「私の育て方は間違えていない」ってことあるごとに言ってたけど、そう思ってるの、あなただけだよ?
私も妹も、あなたに言いたいこといっぱいある。でも、言ったところでつけられた心の傷がなくなるわけじゃないから、言わないだけ。

「何かあったとき助けてくれるのは家族だけよ」
それが口癖だったけど、私が本当に助けて欲しいとき、お母さんはあてになんかならなかったじゃない。おろおろするか、あたしを責めたてるかのどちらかで、あたしが欲しい言葉を言ってくれやしなかった。おかげで、自分でなんとかするクセはついたけど。
お父さんとあたしたちの世話を焼くのが生きがいで。近所の噂話に一生懸命で。
子供が大きくなってからも「パートに出たら猫やお父さんの世話が出来ないじゃない」って出たがらなくて。でもそれって言い訳でしょ?ホントは外が怖かったんでしょう?
だからほら、今お父さんしか生きがいないじゃない。どこに行くにもお父さんがいないと何もできない。お父さんが死んだらどうするの?あたしにまた依存する気?

「世間体は気にしないから」嘘ばっかり!あたしが仕事してないとき「周りはそれじゃ許してくれないんだから」って言ったのはあなたでしたよね?

お母さんから「休みの日に食事でもどう?」って言われると、すごく気が重い。
友達といる時より気を使ってしまいます。
だから、あまり会わないようにしています。会ったら、ひどいこと言って泣かせてしまいそうで。
傷つけてしまうことはとても怖いんです。

お父さんのことはとても好きだって思えるのに、尊敬してるって思えるのに。
小さいころ殴られたりしたことも、今では許せるのに。
お母さんのことは同じように思えない。

お母さんがおばあちゃんのことを大嫌いだったように、あたしもお母さんのことが好きになれないままなのかな。そしたらあたしはもし子供を産んだら、やっぱりお母さんみたいに、ヒステリー起こして子供をしかりつけちゃうのかな?
お母さんさあ、おばあちゃんの悪口いつも言ってたけど、自分もおばあちゃんそっくりだよ。

お母さんみたいになるのが怖くて、子供が欲しいと思えないんですけど、あなたは一笑にふしましたね。
6歳のあたしを神経科送りにしたのに、それももう「いい思い出」なんですか?
あたしはいまだにあのときのままなのに。
おばあちゃんに愛されなかったお母さんは、「自分みたいな思いはさせたくない」て言ってたけど、カエルの子はカエルなのかもね。
<176> まんまる ■2004年02月04日 水曜日 16時46分57秒
家族の中で、私を受け入れてくれる人はいなかったと実感する。

先日、母が偶然来た。
1つ用事があったからなのだが、やっぱり
「淋しいから、一緒に食事に行こう、遊びに行こう」という事しか言わない。

まだ、自分のしたいことに付き合わせようとする。
それしか、私の利用価値はないようだ。
私がどんな生活を送っていようが、お構いなし。
彼女には意味は無い。
気を引くために、時々子どもの状態を聞く感じ。
「私は一応気にかけているんだよ」的なアピールはみえみえ。

もう、何を言っても通じないし返事をするのも面倒なので
YesもNoも言わなかった。
相変わらず「要求」されるだけの関係。


その直後、別の事で子どもから文句を言われた。
まあ、反抗できるようになったのはうれしい事と思ってる。
頭では分かっているんだけれど、その言い方が母が突いて来る言葉とそっくり。
「私の事がキライだから○○なんでしょう」
「私がバカだから○○するんだー」とごねてくる。

なんで私がすることに、相手に対する「愛情」が足りないという言い方をするんだ!
ただ、自分が望むことと違っただけじゃないか。
理解することができなかっただけで、私の「親密感」を否定するのか。

ちょっと疲れてきた。
私も言いたいよ。
「もっと、私の事をだいじにしてよ」
言う相手はいない。
相手のいない私は、周りの人間が言うのを受けるしかない。
パンクしそうだ。

家族の中には、私を受け止めてくれる人はいない。
昔も、今も。
<175> シャローナ ■2004年02月04日 水曜日 10時49分30秒
両親が話をしているといつも私は恐怖を感じていました。
それは話の内容が私を捨てるということではないかと恐れていたんだと気づきました。でもちゃんと一緒に家族として生活しているように思えていたので、そう反応してしまう自分はなんておかしいんだろうと思ってそのことについてハッキリさせてきませんでした。
またいつものように両親の話し声で私は反応していたのですが、ちょっと冷静でした。すると自分が地下室や箱の中にでも監禁されているような感じがしました。
私の存在について生かすも殺すも権限をもっているのは両親であるという感じでした。だから私は常に捨てられないように緊張しながら生活し、両親の話し声にも恐ろしさを感じてしまうのだと気づきました。
また、父親は声がやたらに大きく、母親は声を潜めて誰かに聞き取られないようにするかのごとく話します。とくに母は私の前ではそうなのです。
とても奇妙で気持ち悪く感じています。
母親に父親には自分の存在を見つからないようにしないとヤバイぞと言われているようです。
こんなうちの人間関係がそのまま私のものの見方になってしまっています。
私の存在は他人にかかっている。だから他人がいつ私を見捨てるかもしれないから常に緊張し怯えている。社会でも家の中でも。
<174> 猫侍 ■2004年02月04日 水曜日 00時28分23秒
耐え切れずに泣いていた私にお父さんはやさしく、また誇るように言った。
「おれなんか一人も友達がいない」
余りにも強い重力の誘惑。
夜明けよりも早く私をさらってゆく。

ああ、あなたのまなざし、そのまなざし、あなたはあなたに疲れていたのだ。遥か以前から。

あなたのように傲慢な人間のツケはいつでも私のような者に回ってくる。
私は友達が欲しい。
いま私が友達と呼んでいる人たちと友達になりたい。
お父さんは寂しかったですか?
私は、…寂しかった。
<173> ゆきんこ ■2004年02月02日 月曜日 20時51分00秒
家族しか私の居場所は無いと思い込まされていた。
外の人が、何をしてくれる!そういって外に怯えを持たせた。
本当にいい家族だと思っていた。
でもなぜか私は、外の人に対して気を使って、
心を開けることが無かった。苦しい。
そしてそういう私であることを、望んでいるのは母親だろう。
今、ひきこもっている、子供の頃から、心は閉ざしていた。
自分を偽らなければ、生きていけないと思っていた。
本当の私は、怠け者で、ひねくれてるから。
私のことをずっと、馬鹿にし続けてきた母。
利用できるとわかれば、猫なで声で甘えてくる。
頑張りに頑張った。私は勘違いしてたよ。
私が好きだからじゃなく、利用できるからだったんだね。
動けなくなったら、とたんに元どうり。
「働けないくせに」「怠け者」「他の子は【ちゃんと】してるのに」
幸せになる努力をしないで、幸せになれない責任を私に押し付けて、
働けたら、結婚しろとでも言うのですか?
孫が抱けたら幸せなのですか?
他人を信用できるようになって、働いて
早く、親から、逃げたい。
<172> ちろ ■2004年02月02日 月曜日 14時26分52秒
離婚して実家に戻った。
他人に心を開けない私は、結婚相手にすら心を許してなかったのかも。
結婚という手段を使って逃げるようにして出た実家に逆戻り。
自分達の規範が絶対と信じて疑わない頭の固い両親は、
これからも変わることなどないのでしょうね。
ここにいると、心を通じ合わせるなんて不可能。
自分がどんどん冷たく、小さくなっていくよ。
母は友達のような親子関係を望んでるみたいだけど、
そんなのムリに決まってるじゃない。
私、あなたに申し訳ないとは思うけど、
あなたのこと、キライなんだもの。
御身大切。自分第一。
あなたの仕事を優先させるために私が預け先で虐待されて育ったことも
最近になってようやく言えたのに。
私の被害妄想だと言い放ったよね。
いつまで昔のこと言ってるの、
それより今をちゃんと生きることが大事じゃない、と。
人生の最初の10年、毎日、邪魔者として扱われた人間の惨めさなんか
誰にもわかってもらえない。
周囲には、優しくあった〜いお母さんを完璧に演じきったあなた。
私が到底太刀打ちできるはずのないあなたからの謝罪で
私は救われるだろうか?
それは...違うね。
私はどこに向かって歩き出したらいいのだろう。
<171> シャローナ ■2004年01月31日 土曜日 22時50分55秒
自分の父親はイヤで受け付けないけども
人から見るとそうでもないらしい
そりゃいっしょに住んでいる訳じゃないからそういうけども
ある意味冷静な見方でもあると思った
逆に私が他の父親を見れば必ずしも悪く見ているのではなく
むしろよく見ていたりもする、そうするとその人を好きになっている
私が父親を見るのはどうしても娘として見てしまって
それは当然なんだけども
それ以外の見たかもあるってこと知っててもいいかと思った
家族をもし外側から冷静に見たらどうなんだろうか
<170> ヤン・ウーロン ■2004年01月31日 土曜日 02時25分30秒
やっと残業が終わって、アパートに帰ると、母親からの手紙が届いていた。
年賀状も出さなかったから、苦情でも書いているのだろうか?
これから、ゆっくり寝て一週間の疲れをとらなくてはいけない。
封を切らずに、パソコンのわきにでもおいて、さっさと寝ることにしよう。
<169> とら ■2004年01月30日 金曜日 03時26分49秒
家族の中で辛かったのは2つ人格持たなければ生きていけなかったことだ。父に対しての人格と母に対しての人格が違う気がする。父の時は女を母の時は男をやっている感じがする。混乱する。僕は本当は1つの人格でいたいし、僕は父のように活発な男だ。でもおとなしくすることを求められた。アイデンティティが混乱している。だから苦しい。だから女の人格を出したくない。泣きたい。
<168> とら ■2004年01月30日 金曜日 03時19分11秒
家族は気を使うところだ。ひとりひとりに合わす事を求めらた。まるで僕が女の子みたいだ。本来、僕は器用ではない。本当は不器用だ。だから器用さを暗に求めらるのは辛い。今でもそんな期待を家族から感じる。不器用でありたい。男でいたい。話すことに余り時間を使いたくない。話すことは嫌い。感じたことを文にするはいいけど、話したくない。不器用なままでいたいし、そのままで受け入れられたい。
<167> とら ■2004年01月30日 金曜日 03時11分21秒
家族は僕にとって大切だけど憎い存在だ。あそこに戻ると感情が不安定になる。気を使うし、疲れる。何か言われると、穏やかに返すよう注意してる。感情的に返すと、怒られるのだ。それが辛い。僕は本当は感情がアツイやつだ。それだけにクールさを求めらるのは辛い。パン!とサーブを打ったらパン!とレシーブが戻ってくるのを求める。しかし、家族の中に戻るとそれができない。だから家族はいやだ。僕の性格を受け入れて欲しい。でないと辛い。
<166> ころっけ ■2004年01月29日 木曜日 14時21分33秒
私のうちは4人家族。
母は、小さいころから運動も勉強もなんでも人より出来る優秀な人でした。
孫の私から見ても暖かい祖父母の家庭で育ち、笑顔の素敵な上品ないわゆる良妻賢母な人です。
父は、仕事人間で、育児家事を母に任せっぱなし、祖父母のコミュニケーションをろくにとってこなかった不器用な人で、仕事から帰るといつも
ビールを飲んでいました。”誰のために働いていると思ってる、誰に養ってもらってると思ってるんだ、親に向かって口答えするな”というのが口癖で
家にいるうちの大半が不機嫌で、仕事の愚痴を言っていました。
亭主関白したかったらしく、まったく理屈の通らない理屈で母や私たち姉妹を
ねじ伏せたがりました。でも頭のいい母にとって、その訳の解らない理屈ほど
苦痛なものはなかったのでしょう、自分の小さいころの母を思い浮かべると
子供の自分にはなぜだかわからないけど、母がいらいらしてると感じていました。さらに、父の母(姑)も、父同様、父以上に、姑根性丸出しの人で、母を召使い以下のように扱い、言いもしない悪口を親戚に吹き込んだり、母の嫁入り道具を勝手に捨てたり、学歴や家柄などのことで他人についてあれこれ言うのが大好きな人で、倫理道徳に潔癖な母には理解しがたい行動を数々する人でした(今も健在)。そのこともそれまで大事にされ、のびのびと育ってきた母にとっては、屈辱的で、大変なストレスだったのだろうと思います。
小さいころから、私は、勉強はできたけど、運動はからっきしだめでした。
母は私に、”母さんの子供なら、さぞかし運動よくできるんだろうってよく言われるのにねえ・・・”と半分バカにしたように私に言っていました。
なぜ出来ないのかも理解できないし、一緒に練習しようとも言ってはくれませんでした。一方で勉強はできたために、有名中学に入学し、そのことは
母にとっては、やはり姑たちに対しては誇らしいことだったようでした。
というよりも、もし勉強が出来なかったら、姑たちにどんなことを言われるやしれないというプレッシャーはあっただろうと思います。
姉は、母の夢だったピアノがとても上手で、でも勉強が嫌いで、できませんでした。母は勉強が出来ないことをとても責めていたし、それを見て、私はどこかで、”もし私が勉強も出来なったら母はなんていうんだろう”という恐怖がありました。
母は、多分姉とのほうが、ウマが合うんだと思います。
実際姉は、母が大好きで、どんなことであろうと母を傷つけるような発言は
しないし、私にもするなときつく言ってくるような人です。それが
私にとってはとても大事な話し合いであったとしても。
おしゃれな母と姉は、あまりおしゃれでない私をいつも馬鹿にし、ダサいと
いっていちいち格好にも口を挟んできました。
そのくせ、自分の顔や体型にどんどんコンプレックスを持っていく私に対して、”そんなことをいちいち気にしていても仕方ない、自意識過剰なんだ”と言い、化粧を研究する私に対して、”そんな女女したことをしなくても
すっぴんでもいいじゃない”と否定しました。
母娘三人で行動すると、いつも母姉と私という2対1になり、
服の買い物も、母や姉の前では、”またダサいといわれるかも”と思い
いくら促されても選べませんでした。そんな私に姉は特にイライラするみたいでした。
父は普段家を省みないくせに、家族行事をしたがる人で、正月などには
強引に家族旅行に行かされていました。自分で行くと行ったくせに
行くと必ず何かに不機嫌になり、翌日には早々に家に帰る父。
そんな不機嫌な父に母は気を使い、そんな母が不憫な姉は、母にいつも
寄り添い、私のことはいつも後回しでした。
姉は結局、自分の趣味を生かした進路を選び、父の後を継がなかったために
そのプレッシャーは私にかかり、私は当然のことのように
跡継ぎのレールをしかれました。
正直向いていないと思っていて、母に”こんな仕事してみたいんだけど”と
こっそり言ってみても、そんなことをされては困る母は、私に
”あんたにはそんな才能ないよ”と言っていました。両親の希望の進路に進んだ今、母は時々、”あんた昔○○になりたいとかっていってたね”なんて笑っていいます。

中学のころから急に優しくなった母でしたが、
それと同時に、私は母の姑に対する愚痴相手になりました。
祖母は私に対して直接何かいやなことをしてくるわけではなかった。
だけど、母の話を聞けば憎く思うし、一方でそれを丸呑みには出来ない自分がいました。一度、”私はもうそんな愚痴ばっかり聞きたくない”と
言ったことがありました。そうすると母は、ショックを受けたようで
その後もやはり時々愚痴を言ってきますが言いながらも”でもあんたに言うとまた怒られるから”などと私を暗に責めたりします。

ちょっと外出するにも、なにするにも父のご機嫌を伺い
父が機嫌を損ねるとなんでもおじゃんになってしまう我が家では
母は、箸の用意から、何から何まで甲斐甲斐しく世話をする主婦でした。
でもその一方で、私たちに、父がいかに理解しかねる低俗な人であるかを
吹き込んでいました。
勉強が出来ず、よく父に嫌味を言われ、性格的に父と相性が悪い姉は
100%父のこと嫌っており、おそらくスポンサーでしかないのだと思います。
小さいころ、父が姉に説教を始めて、あまりにひどいことを姉が言われていると、私は黙っていられなくてよく泣きながら父に抗議したものでした。
私まで父に怒鳴られ、親に向かって・・・と言われましたが、
母も姉もそんな私をかばってはくれませんでした。
小学生あたりまではよく父の理不尽さに抗議をして、叩かれてメガネが飛んだりしていました。言っても無駄だと悟り始めた中学ごろからは、女三人対父といったようになり、父は私たちに何か不満があると、直接言わずに、母に
”お前の育て方が悪いから”と言いました。
そのことで、余計、私たちは父に対して何もいえなくなりました。
言えば言うほど母が責められ、姉にとってはそれが不憫でたまらなかったから。

小さいころから、対人関係ではいつも辛い思いをしていた私でしたが
母にその辛さを話しても、あまり相手にしてもらえず、逆に人が寄ってくるような存在だった母にバカにされているように思っていました。
母はよく、そんな私に”今どんな友達がいるの?”と聞いてきました。
対人関係で悩んでいることも、もうあまり知られたくないと思っていた私はいもしない知人程度の子の名前を挙げて、笑って”友達ならいるよ”と言っていました。本当はいつも居場所がなくて寂しかった。
修学旅行とか、グループ作業になるといつも必死でした。

勉強も、それまでは特にしなくてもトップだったのに高校2年くらいから伸び悩み、本当はとっても悩んでいたけど、そのことを知られたくなかったし、
母も、”この子は勉強は親が何も言わなくても順調にやっている”と思いたがっているようでした。
実際、母は、私について、何事も”この子は心配ない”と強引に思おうとしているみたいでした。そして”あんたは別に悩みなんかなさそうだった”と
いつも言っています。本当は、何か相談したり訴えても、”変わったことをいう”とか、”そんなこと言っても仕方ないでしょう”などでスルーされて
まったく真剣にはとりあってくれませんでした。
本当はまだまだ、あふれてとまらないけど
疲れてきたので一度きります。
読んでくれた人、ありがとう。ありがとう。
ACだと気付いた私はこれからどうしたらいいんだろう。
<165> かがみ ■2004年01月27日 火曜日 16時00分31秒
あなたのいつものヒステリーで 私はフリーズした
一時間、二時間と続く拷問のようなヒステリーは 私にとっても おそらく妹にとっても つらい時間だったことでしょう
私は いくら頑張っても 順位化された人間評価の体制に 負けました
頑張って 頑張って でも その結果 クラスで常に一番を維持していても
それは 母にとって 意味をなさないものでした
そんなばかげたことに付き合ってらんなくて カミングアウトしたよ

でも 勉強だけじゃなくさまざまな空間で起こりうるヒステリーは僕らを未だに
フリーズさせる。

そしていつも日常的に彼女は人が行ってほしくないコトバを投げかける
それを 私達は 反論しても聴き入ってくれていないことと知っているから
ただ きいて 心の傷を広めるだけ・・・
<164> Loser ■2004年01月24日 土曜日 23時39分23秒
私は、数日前にこのサイトを発見して、目からウロコが落ちました。
「そうだったのだ!」自分が漠然と抱いてきた気持ちを押し殺しながら
生きてきました。長年自分を苦しめてきたうつ病。会社を休職しても退職
しても楽にならず、親の差し伸べる手を「うざいな」と思いつつ、有難く
受け入れ続け、それが苦しみを助長させていることに気がつきませんでした。
今年正月、両親に絶縁宣言し、人生を自分の手に入れるための大きな行動
を起こしました。両親は絶縁を承諾したと言いつつ、何かとちょっかいを
出してくるまるでストーカーのごとくです。親も典型的なACで親も私も
共依存です。
しかし私はこの出発点にたどり着くのに35年の人生の歳月を要してしまい
ました。今の自分の気持ちはLoser。しかしそんな言葉で自虐しなくても
誇りある人生と認識できるまで、自分のすべてをかけて闘い続けます。
トラウマに苛まれる日々と格闘しています。
<163> ノラネコ ■2004年01月20日 火曜日 15時13分05秒
母は、よく私を混乱させた。
烈火のごとく怒って私を引っ叩いたかと思ったら、
次の瞬間には氷のように冷たくなって、私の存在を無視するかのように一言も話さない。
鬼のようにひどい事を言って私を落ち込ませたかと思ったら、
ニコニコ笑って優しくしたりする。

どれが本当の母なのか分からなくなる。
家の中と外じゃ違うからなおさら。
そんな母の前で、私はいい子になったり駄目な子になったり、元気な子になったりおとなしい子になったり。

だから、どれが本当の自分なのか分からなくなる。
<162> NAC NAC ■2004年01月18日 日曜日 00時23分02秒
「最近うちは家族でメールしてるんです。メールだと本音で話しやすくて・・・」
という親父を時々見聞きするが、私は「?」と思ってしまう。
「それって本当に本音なの? ただ家族内のコミュニケーションを今までなんだかんだで疎かにしてきて、そのつけが今頃になって回ってきて、自分で『自分は会話能力がない、家族の気持ちがわからない』のを認めるのが無意識に嫌で、『いや〜メールっていいですねぇ』で誤魔化しているだけじゃないの? 今更お互いが感情を出したところで無意味に傷付け合うのが怖くて、当り障りのないように『お父さんはメールでおまえたち家族の気持ちはわかっているぞ』と、自分で勝手に思っているだけじゃないの?」と、意地悪な私は突っ込んでやりたくなってしまう。
家族内の「本音」って何だ?
どこまで気を使って話したら「本音」になるんだ?
「家族内で、感情と感情がぶつかりながらお互い刷り合せていく」作業は、本音じゃないのか?
「お互いがお互いの感情を認め合う」のは本音と違うのか?
自分が全部が全部言いたいことを言ったら、当然相手は少なからず傷付く。
感情鈍磨の人間でさえ、無意識のところで「全くの無傷」ってのは稀だろう。
でもそうして家族内で「お互い傷付けて、傷付けられて」しながら、社会に出ていくための「本音のさじ加減」を、人間は学んでいくのではないのだろうか?
いろんな意味で人間の基本は「家族」である。
「自分の家族内でどう過ごしてきたか?」
「その『植え付けられたものさし』は社会に出てどうだったのか?」
そういう自分の「本音」が、今問われているのかもしれない。
「自分と向き合う感情・思考に行き止まりはない」のだ。
<161> シャローナ ■2004年01月17日 土曜日 19時37分26秒
うちの親の結婚は当初母親の実家が面倒みていたようなもので、父親はある意味そこへ転がり込んできた状態だった。母系家族そのもので、私もその中で生まれ育ち、家族といえば母方の親族の中にうちも含まれているっていう感覚だった。それはそれで機能していたと思うし、私も心の拠り所といえば実のところはうちではなくて母親の実家だった。それがその実家の人間関係がおかしくなり始めてから私自身、精神的にバランスを崩してしまったように思う。当時は全くわからなかった。だから自分が神経症になったのは自分がおかしいからだと思っていたが、本当は自分の拠り所を失ったためにうちの家庭だけではやっていけなくなったからだと今は思う。

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This script written by Shintaro Wakayama.