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私たちの物語 - 家族過去ログ No.73
メッセージ数:1460件

<1460> アーネスト ■2008年02月18日 月曜日 09時55分42秒
(FB注意)


兄を見ていて、「あ、俺より健全かも」って思った。少なくとも仕事に関しては。ああ、おれより深い底つきをしてる。俺より無力を認めてるかもって。俺は彼より、早く12ステップとかにつながって勝手に「先行く人」っぽく思ってたんだけど。

もうね、ずっと小さいころから、いつも彼が基準だったと思う。「兄が〜するから自分は・・・・する」ってね。絶対あいつみたいになってたまるか!!ってずっと思ってた。いつも被害者意識ばっかり表明している彼がだいっ嫌いで・・・ぜったいあいつみたいになってたまるか!!!!あんな下衆やろうになってたまるかって。でも彼のほうが社会常識とかわきまてるじゃん??って思った。現実的だって。今思えばね、俺は彼に申し訳ないって思ってた。でもなんの責任も非も俺にはなかったんだよ!!彼が「俺はこれだけひどいめにあってる」って言ったところで俺にはどうしようもできなかった。じゃどうしてほしいの??って。俺が母をコントロールすればいいの??って。

母との関係も今は少し整理がついている。やっぱりね、彼女も被害者意識の塊で。私はお前を生むのにこんだけ腹を痛めて・・・どうたらこうたら・・・いつも愚痴を聞いていて。じゃどうしてほしいの???って。そんな年端もいかないガキができるわけないじゃん!!そんな大人の複雑な事情を!!

だから俺は母と、そして兄の被害者意識にずっとコントロールされてきたんだなって思う。「されてきた」って言ったら変だけど・・・彼らが被害者意識を表明することで、俺が悪者に仕立て上げられたようで・・・息苦しかった。
そんだけ不満があんなら、俺にどうして欲しいの???って。でも・・まぁ母は母で前世から受け継いだ被害者意識を、俺の原家族に持ち込んで、兄は母からの虐待による被害者意識を持ち込んで・・・俺はそんな不穏な空気の中で、道化をやったり、愚痴を聞いたり・・・

てめぇのケツはてめえらでふけよって言いたかったけど、今は俺だね。俺も気がついたら立派な札付きの被害者になってた。兄が暴力をするから、・・・どうたらこうたら・・・・俺は行政のお世話になるってことを決めつつも、まだ何か自分には遣り残したことがあるのかなぁとも思ってる。少なくとも「俺は無実、そんな無実な人を陥れるなんてなんて悪童たちだ!!」みたいな態度は通用しないよね。それに気付いて、さっさと自立の道を究めればよかったんだろうけど、ある種その掃き溜めのポジションに歪んだ喜びとか効力感を味わっていたんだろうと思う。

都合の悪いときは被害者意識を表明して、都合のよいときは、ケアテイカーとしての自分を誇示している。結局、同じコインの裏表で・・・失敗すれば「あいつらのせい」、成功すれば「俺様のおかげ」ってわけ。まぁそういうことに気付いてきたよね。ある人に送った手紙の中に、自分の生きてきた人生がそのまま投射されていたね、ってことに気付いた。ゆっくりだけど変えられるものは変えていけたらと思う。今日一日のペースで。
<1459> ぺあ(FB注意) ■2008年02月17日 日曜日 15時55分57秒
おじいちゃんが弱っているから早く遊びに来て・・・と母方の叔父は言う。
母は、うちのお父さんの自死を意地でも言わないそうだ。
 で、私は叔父に「早く働け」「いつまでもしょげていてはだめだ」「結婚も遅いでしょうね、うちの娘よりも」とか言われるのが、すごくすごくいやで、つらいのだ。
 自死でなくしてしまったこと。そしてずうっと父の態度に、?って思い続けながら生きてきたこと、いじめられまくってきたこと。
 何にもこの母方は知らない。母の「幸せな結婚」を完璧なものにするために。
 で、姉の結婚式に行く新幹線の中で発狂しそうで、「おかしな空気と幸せ感じるべき恵まれた家庭」の板ばさみで、私はだあれも見ていない新幹線のトイレでリストカットしようと思った。
 どこにもぶつけようのない怒り、くやしみ、色んな爆発しそうな思いは、私の腕の中だけでいいと思った。
 だって、実の妹は実の姉の結婚式に喜んで当然でしょう?おかしいとあの親戚に思われてはいけないでしょう?
 でも事実は限界だった。助けて〜の父の目と俺の本当の姿は見るなというつんざくような怒りの爆発の父。
 そう、いつも二重だった。
 助けたかったのに。
 自死の前に私は大きく叫びたい思いを抱えて、帰った、一人暮らしの家に。おかしいおかしい、でも誰も気がつかない。誰も何にも見ない。騒ぐ私に、母は「こんなに私を悲しませて!!」と怒鳴る。私を父も母も姉も自死しそうなやばい子だと思っていた。でも、そうじゃないの。この家おかしいの。何千回いっても届かなかった、いやいえる雰囲気にはならなかった。
 そうして24歳の時、死んじゃった。自死したんだ。いない。笑えた。あの葬式。知っていたもん。おかしいってこと。誰もが泣いていたけども。私は嘘泣き。だって知っていたから。だあれもだあれも気がつかなかった。いや、気がついていた、父の過去の同僚や後輩は。でも母に「最近OOOOさんちょっと大丈夫ですか?また前みたいにちょっと欝っぽいんですか?」と電話してきたそうで、母は「いやいやなんだか、退職した後にその会社で起きたことの整理自分なりにしているみたいですよ〜」って撃退してしまったの。
 だから、あの時私が「お父さん変じゃん」っていっていればよかったのに、私はいえなかった、言わなかった。
 私の思いは「もう限界」だった。「なんかがこの家はおかしい、でもいえない、言おうとすればするほど人は引いていく、私の方をおかしい子と言う目で見る、もう限界、父も私をあいつおかしいって言った、母は私の行動にこんなに悲しませて!とおお泣きするだけ、もう無理もう無理・・・・」
「もう知らない!!!」「この家の悲劇を見てやる、この眼で」そして吉祥天女の主人公のような顔して、笑って裏でにやってしていたのが私だったの。強くていっつも虐げられている子じゃない人間になってような思いだった。
 死んだ。
 それだけだ。
 でももういや。
 もう母の「幸せな結婚」プライドの見栄のために、これ以上、母方の田舎の親戚に「ああしろこうしろ」「もう元気にならないとだめだ」なんて絶対にいわれたくない!!!!!!!!!!!!!!
 ねえ、あんたがたに何が分かる?
 私がどんな思いして生きていたか分かりますか?
 はいそれで25歳だからこうしろああしろなんてもうやめて。
 おじいちゃんは大好きだ。しんで欲しくはない、でももう私ももう無理だよ、うちの父が自死して、それをとめなかった私なだけでもう、その前に死ぬ思いでこの家の真実を暴こうと必死だった、その行動でまた傷ついて。ぼろぼろで。怖くて、集団の目に晒されるのも、時が経つのも、逃げられないのも、だから電車もバスももう無理なの。父の自死をとめられなかった象徴なの、実習も。もう無理なの。だから、もうどんなに母方の祖父が私によくしてくれてももう無理なの。もう、いけないの。これ以上何にも事情知らない人に、「もういい加減ああしなさい、こうしなさい」っていわれたくないし。それに、電車に乗れない人=パニック障害って目で見られたらまた視線強化してあげないと相手が自死する不安障害の私には、そう言う固定された目で田舎の事情知らない人に見られるのは、私のずうっと続かないといけないのかもという観念を強くしてしまうから。
<1458> まさ(FB注意!!!) ■2008年01月31日 木曜日 22時02分07秒
直らない機能不全家族

 自分としては、父と母の言うことを聞いて、間と取り持つことで実家を機能的にしようとしていた。しかし、そんなことはできなくて、一時的に父や母が俺に依存することで、安心して、関係がよくなったように見えただけだ。ショック!!!

 これがイネイブリングなんだと。俺はいくら金銭感覚が狂っても、実家に助けを借りると余計おかしくなるんじゃないかな。父も母も心療内科に行っていたが、最近は頑固になって、自分らが病気だと思っていない。俺から見れば、そううつ病だよ。あんたら。

 一番、状態が良いのは弟で、弟はPSWからの訓練をしっかりと受けて、完全に自立している。その姿は以前の安定感のある俺自身だ。

 また、共依存的な生き方に戻った俺。こんな状態じゃ、恋愛もストップ。今は、正直言って、あまり相手のこと考えない。余裕が無い。手紙が来ても、すぐに返事しないだろうな。まあ、内容によるけどね。

 どうも、家族内でのトラウマが最近になって活発化しているような感じ。

 心中の深い意識が、何か言っていて、ものすごい不快な感情があって、家族内の真空的な中身が意識して出てきた。

 疑惑だが、何らかの犯罪に父と母が手を染めたと言う疑惑。やたら世間体を重んじたのは、自営と言うことで無く、犯罪を隠すためだったのではないかと感じる。

 確証は無いけど、変な感覚があって、父がやくざさんといるところを、小さな自分は見ている。父も無謀な人だったから、そう言う付き合いがあってもおかしくない。やくざに平気でたんかを切る人だから、相手に尊敬されていたんだとおもう。

 そのせいか、俺自身も度胸が据わっている。すごく冷静に喧嘩に対応してしまう。手は出したいが、こらえて、口で応戦する。大抵の場合は場が収まってしまう。自分でも不思議な力があると思う。

 カウンセリングの技術を覚えてから(AクリニックのPSWに教わった)対人関係の調整の練習をしている。なぜだろう?そんな仕事をしたいのか?自分でもそう感じる。
 
<1457> アンシェ ■2008年01月30日 水曜日 01時44分46秒
子供の頃は、病気がちな弟につきっきりだった母。
弟の病気が回復してからも・・・家から出て行くまでずっとそうだった。

「おねえちゃんはしっかりしているから大丈夫よね?」
いつも、いつも、言われていた言葉。

本当は寂しくてちっとも大丈夫じゃなかった。
たとえ「平気じゃない」と言ったとしても
「お願いだから我慢して。お姉ちゃんなんだから・・・できるよね?」
要求は決して通らないのだとわかっていた。

母が浮気相手と家を出て行く時も
「弟の事、宜しく頼むわね。お母さん行くから。」
弟の事、話していたよね。

後で知ったけど、弟には電話で
「こっちに一緒に来ない?」って聞いていたんだってね。


それから時間が経って、一緒に暮らすようになった今もまた同じで
今度お母さんが選んだのは、あの人なんだね。
また、私ではないんだね。

私があの人に妬まれ、険悪になって争うようになっても
「仕方ないじゃない。あなたは後から来たんだから。我慢して、ね。」

そして
「もう別々に暮らした方があなたのためよ。」
そう言われて、私一人が家を出て行くことになって

それから4年・・・
「実はあの人が病気ではたらけなくなって生活が苦しいの
 家に戻ってきて一緒に暮らさない?」

母にはたくさん助けてもらっていると・・・今でもとても感謝しています。
家が借金でまわっていることを打ち明けられて、母が心配で心配で・・・
だからこそ、過去の事を水に流して家に戻ってきたんです。

生活が厳しいといいながら
あの人は、病気で働けないと言っているその体で
毎日、自分の大好きな運動に勤しんでいます。

愛犬に洋服や何種類ものおかしや遊び道具
誕生日にはケーキを買い与えてあげてます。

母が休みの日には2人と1匹でおでかけです。
もちろん、私はその中には入っていません。

母の事を大切に思っています。
だけどとても苦しくて苦しくて苦しくて・・・

カウンセリングを受けはじめて4年・・・
最近やっと自分のこの苦しみについてわかってきたから。
「虐待」なんて自分とは無関係だと思っていた・・・。


今、私の居場所はお給料の3分の一で母から買ってる
4畳半の北側の暗い部屋。

家族は3人と一匹だったはず・・・
だけど・・・私は今、きっとここにいない。
<1456> 咲 ■2008年01月26日 土曜日 17時11分14秒
かかえきれない程、全部が自分の責任と思っていきてきた。

父が死んだのも母親が父の両親に悪様に罵られるのも、私が悪いと思っていた。

同居してる祖父母の面倒もゆくゆくは私がみなければいけない。
そう、父が死んだ時から思って生きてきた。

母親が男と出ていくことになった今、その思いこみの可笑しさにようやく気が付いた。

不必要な責任を放棄して、自分のために何かしようと思ったとき、自分のための行動が何か、何をしたいか、さっぱりわからないことに気がついた。

それに気がついてしまったら、目の前にはうずたかく問題が積まれていて、それをひとつひとつ解決していくことは到底無理に思えて絶望的な気分になる。
私の過剰な責任感に大人は甘えていたんだ

そのせいで今私が苦しいのに、周りの大人は過去のことについて謝ります
だから後は自分で何とかしろという

何とかしろって
何とかできないから
こうなってるんじゃないか


優しいふりじゃん
そんなの

優しさでくるんだ
責任放棄じゃんか

謝るだけなら
いくらでもできるし

<1455> ぼの ■2008年01月25日 金曜日 00時23分53秒
いつもどなりあって喧嘩している両親。うるさい。その声、外に丸聞こえだから。
姉とは喧嘩もしたことが無い。物心ついたときから、お互い嫌いあってたんじゃないかな?一緒に遊んだ記憶が無い。小さい時からよく、容姿の事馬鹿にしてきたよね?それと、人のことこき使ってきて、反抗するとどなる、殴る。だからこれ見よがしに良い成績を親に見せびらかしてきたんだよ。悔しかったでしょ?
お父さん、お母さん、借金してて、良く給食費滞納してたよね。あと、クラスメイトの親が経営してた質屋からお金借りてたね。実は私はそのことでいじめられてたんだよ。言わなかったけど。
いつも帰ってくるのが遅いって怒られた。姉に平手打ちまでされた。そこまでして遅く帰ったのは、家にいるのがいやだったから。ゴミまみれ、服が散らかり放題。両親は喧嘩、姉にはいじめられる。そんな家に帰りたくなかったよ。
早くいなくなりたい
<1454> 花 ■2008年01月12日 土曜日 01時05分02秒
家族って 何なんだろう。

私の家族は 絵に描いたような 機能不全家族です。

子ども時代 あんなに母から虐待されたのに

きょうだいみんな(私除いて)

「母は 大変だったんだからと。。」


意味がわからない。 

意味がわからないよ。

私は いつも こんなに さみしいのに。

夜な夜な 誰かの腕のぬくもりで やさしさを錯覚してみたり

聖者のように すべてを 捨ててみたり

暴力振るわれながら すがってみたり

はちゃめちゃが 私にとって「ふつう」であって

「ふつう」がふつうに わからないんです。

そのくせ 「ふつう」にひどくあこがれて・・

ひにくなものです。

こんな わたしに 「ふつうの家続」が築けるのか??

家族って 何なんだろう。
<1453> lala ■2008年01月11日 金曜日 05時08分34秒
帰宅してみたら、娘が使ってるから自分がネットできない、そんな小さなことで怒り心頭で最初から噛み付きモードでヒステリックに怒鳴る。なぜいつでもいきなりキレてヒステリックに怒鳴るのですか?穏やかに言えないの?なんてコミュニケーションが下手な人なのでしょう。相手にしない私。するとさらには決め台詞「同じ家に住んでいるのにまともな会話をしようとしない!○○才になってそんな子供っぽいのはやめなさい!」13,4才ころからからずっと飽きもせず同じ台詞。以前はムカついた。でも、私は別に子供っぽくないわよ。ご機嫌取りするのは面倒くさいの。だって私は外ではちゃんと働かないといけない。感情を乱されたくない。あの声が生理的に苦手。家のほうがストレスだなんてもういやだ。まともな会話できる相手じゃないから関わりたくないのはしかたないでしょう。こちらが話したくなるようなまともな人になってください。そちらでしょう、感情をコントロールできないで、わがままなお子ちゃまは。無視、無視。仕事は始まった。早く家を探さなくては。そうしたら家で疲れることもなくなるんだ。今までも家族と離れて外国に住んでいたのも、絶対同居しないのも全て母から与えられるストレスを避けるため。母は一生変わらないけど、私自身は変えられる。こんなストレス気にならないように図太くなったり、自分の好きにやればいいこと。罪悪感はほどほどにします。もうすでに私は母を裏切って好きにやってる。ほのぼのしたどこかの家族と比較して凹んでも意味ないし。与えられた条件下でいかに生きるかでしょう。大変だけどさ、がんばるわ。もっと母を許せる日まで。
<1452> ぺあ ■2008年01月07日 月曜日 13時24分32秒
はああああああ。
母親が未だに怖い。
怖い。怖い。怖い。あんたその年で何やってんのよ!どうするわけ?あの怒りの声聞きたくない!!!
 でもあんた結局父の自死の前兆見逃したじゃないかああ。このくそばか。あああああああああああああああああああああああ。人生って。家族って。そして今でも怯えきっている。この母親に。あああああああ。二人なのよね。今。もう父ちゃんいねえし。あああこの母と二人っきり。泣ける。
<1451> のの ■2008年01月05日 土曜日 18時46分30秒
お父さんが私に話する時に好んで使う言葉が「モラトリアム」
モラトリアムってなんだっけ、執行猶予で良いんだっけ?
えーと何々「本来は、大人になるために必要で、社会的にも認められた猶予期間を指すが、日本では例えばニートのように社会的に認められた期間を徒過したにもかかわらず猶予を求める状態を指して用いられることが多い。」
ああ、そうですか。
そういわれればそうかもしれませんね。
まぁなぁ、海外留学なんてはたから見れば
好きなことを好きなように、やりたいことをやりたいように
やってきたと思われるよね、やっぱり。
いや、海外留学は確かにやりたいことであったんだけど。
実は家からの逃亡でもありました。
気がつくのホント遅かった。
で、逃げた先でではありますが
今後やろうと思うこと見つけました。
その事に自分はほっとしています。
やりたいことが分からないことが一番辛かったから。
「やりたいことができないってのは、今の世の中当たり前のことだ」
うん、確かにそうだと思う。
夢をあきらめなきゃいけない事がある、そんなこともわかってないと
思われていたんならちょっと厳しいね。
じゃなくてね、夢とかやりたいことがホントに分からなかった。
やっと自分がやれることで、やりたいことで、求められてること見つけた。
だから「生活基盤もないのに夢だけ見ている無謀なこと」っていわれても
自分の人生ちゃんと生きたいんですよ。
もう、お父さんお母さんの一部で生きるの嫌だ。
「家出たら暮らしていけない」ってどういう意味で使ってるの?
今の生活水準維持できないってこと?
そんなの端から期待して無いし。
「今の生活規準」を築いて来たことが
お父さんお母さんの意地で見栄だと思う。
その目標に辿り着くためにお父さんお母さんが努力してきたことはすごいと思う。
そのおかげでここまで生きてこられたこと感謝している。
「求める場所と生きていく場所は違う」ってどういうことかな?
家で生きていけってことですか?
お前はここでしか生きていけないってことですか?
「今まで親掛かりで生きてきて、生活能力も無い」
そうだね。
確かに私も親の経済力を疎ましく思いながらそれに甘えてきました。
じゃあ自分で稼ごうかと思って大学の時バイト増やそうとしたら
「家のことしろ、家にいろ、家があるのになんでそんなにたくさんの時間バイトするんだ。家に帰れ」って。
あそこで口答えできなかった自分が今の自分を作ってるのは
重々承知してますが。
大学の時にさっさと口答えして、親を見捨てる勇気が出せればよかった。
見捨てることで見捨てられる恐怖に怯えて負けて
きちんと立ち向かう勇気が出せなかったから
大学のプログラム留学なら円満に家出れると思った。
それでプログラム終わって帰ってきて
やっぱり家にいられなくて
また海外留学の道選んだ。
親に立ち向かう勇気、親を見捨てる勇気が出せなかったあの時の自分は
やっぱりちょっと頭悪かったなぁと思う。
自分が何から逃げようとしてるのかさえ分からなかったのだから。
臆病だったと思う。親に立ち向かうことができなかったのだから。
今はあの時より少し分かったことがある。
やりたいことが自分を支えてくれている。
だから親を見捨てて見捨てられる勇気を出して。
<1450> のの ■2008年01月05日 土曜日 00時57分25秒
28才目前にして未だ海外で大学院生。未だ社会経験なし。
で、いきなり「卒業後NGOで働く」っていったら、
ま、そりゃ頭にもくるよね。
「逃げ」と言われましたが、逃げでNGOで働きたいわけではないんです。
確かに私、家から逃げました。それに気がつくのに3年くらいかかりました。
私が海外言った理由は家から逃げるためです。
だから、海外行くことしか考えてなかった。
大学卒業する年になってもソレって言うのは、
ちょっと頭悪かったなぁと思う。
だから実際海外の学校行ったところで、何がやりたいんだかわかんなくて、
なんだかわけの分からない喪失感ばっかり抱えてて、
で、やっと分かったんだ。自分が家から逃げるために海外来たこと。
で、やっと見つかったんだ。「やりたい」って心から思えること。
だからやっとしっかり前向いて進んでいける。

「日本でもやれるんじゃないの」ってどうでも私を家に置いときたいの?
これからは家族4人でやっていけると思っていたのにって
わたしもう28なのにまだ家に縛っておきたいの?
家出たいと思う時点で私はもう裏切り者なのね?
私は家の人とやっていける自身はもう無いよ。
たとえ日本で仕事するにしても、もう家には居たくないよ。
「家が一番落ちつくだろ?」って言うけどさ、
一番落ちつかないよ。
一番落ちつかないところが家だよ。
<1449> ぺあ(FB注意) ■2008年01月04日 金曜日 21時29分10秒
お父さん。
すげえな。お父さんもまた頑張ってきたんだな。子供の頃は本当に父が大好きで、よく喜ばせようと必死だった。
 双極性気分障害。だったんだ。そうかあ。それだけじゃないけどもね。お父さんは。でもものすごおおい頑張りやだったし、まあ、お父さんもACだろうから・・・・そして大企業で事故死者の出る事件の、工事の設計責任者でもあって・・・・多分、悲しいこと本当に悔しいこと沢山あって。
 でも父は祖父の喜ぶブランド大企業の中にいることはやめられなくて。
常に同期と競争かあ。

 お父さん。おじいちゃん。もういないんだ。うちの家族の背骨だよ。
お父さん。私は、この家難しかったわ、ほんと。でも、それでも私はうちのお父さん大好きだった。好きだったし、ねえ。
 五木寛之さんが言っていた。鬱になるのは、心が環境に耐えられなくて、しなった状態なんだって。こんな世の中でむしろ正常なんだって。鬱になるのは、心が繊細で、動いている証拠なんだって。優しい証拠なんだって。
 鬱になったら、まだまだ自分も捨てたもんじゃないって思ったほうがいいって。鬱にならないようじゃ、心が硬直して、雪の重みに木がぽっきり折れてしまうように、心も折れてしまうんじゃないかって。
 人間の心は、ロボットのように感情を感じられないわけじゃない。
 お父さん!!!あなたが、どう躁鬱を理解していたんだか。私もそう。世間もそうだ。
 でも、そうじゃないんだよおお。心を強くしなくてももういいよ。強くなくても、立派じゃなくても、大企業の出世なくても、普通より少し上じゃなくても!!!!私知っていたから。父の事。父の事。居酒屋で。きっと思い浮かぶ。あの会社で。いっぱいの人と送別会開いて。お父さん!!!首絞めて痛かったね。ごめんね。私はやっぱりお父さんがすきなんだ。お父さん。分かるよ。見えるよ。でももうない。家族で行った旅行も、車の中でのこと、姉と一緒の買い物も・・・・全部、家族写真もごめんなあ・・・・。なくした。後ろになった。すべて終わった。もう二度とない。お父さん。憎んだし。意味の分からない家で、でも必死で問題ない振りして、自分を責めていたのは、私はやっぱりどこかで父を恐れても居たけども、多分父も母も大事だったからなんじゃないだろうか。

 何にもできない。今。何にもない。今。でも見えるの。父の事。父の事。居酒屋で。またいつものように格好つけるんだろうが。本当にうちのお父さんは見栄の張る人でねえ。いつもうちでは、母につっかかっていたのにね。まったく。もう来年は丑年男ですから、60じゃんよおお。ばかだねえ。お父さんは。でもごめんね。この社会はおっことすんだね。お父さん。私もまた落っことさざるを得なかった。
<1448> ぺあ ■2008年01月02日 水曜日 19時09分15秒
母親が怖いよお。
怖い。怖い。怖い。
なのに、25も過ぎたのに、まだ私は、母にかわいがられたり、機嫌よかったりすると、私も楽になる。
あの人がテレビをずっと見ていて、私が今度見ると、途端にいらついてきて・・・あんたこんな年にもなって、世界閉じてしまって、おかしい、結婚相手もいない、妙齢の年のことしない、家にいて、ただ双極性気分障害の祖母とおなじように、家にいて、閉じこもっている姿は、気持ち悪いって言う目でみる。
そして必ず、私は「普通」の家に生まれてきたんだあああああって泣くの。こんなおかしな家なんて、田舎じゃみたことないって泣くの、この娘の私に。そんな父をもっても、父のこと良く分かっているし、祖母のことも大切だから、私は何にも言わないよ、母も大切だし・・・・。
でもでも、ひどすぎる・・・・・。
あんたは30年も自分の意志でこの家にとついで、父から経済的に支えてもらって、贅沢してきたんだろうがって泣きたくなる。
 いじめられていた頃。ちょうど、私はこの家でもまた、父のそう状態がすごくて、当時は何にも知らなかったわけだけど、知識なんかなくとも、雰囲気でわかるよね、肌でひしひし感じていた。
父のあのものすごい憎悪の目で母の気に入らないことを、見つけては、母をばかにする、おどす、過干渉になる。「O〜お前はかしこい」って私だけは、変な風にかわいがる。
私の身に何か恐ろしいことが起きているっていうことだけはわかったんだ。父には、おんぶ、私がしたり・・・・。
もう、まだ10歳でも私は、大人になるしかなかった。両親を取り持ち、うんうんってカウンセラー役をして、皆の仲を末っ子だったし、何とか和らげていた。そして甘えられた。学校でもその延長。。。でも子供は制御もきかない、ばかだから、私へのあてつけ、ストレス発散は、どんどんエスカレートしていったんだ。
 そうして、自傷が日常になってしまって、高校時代は、一人の私は笑っても、殺すぞってどこかでもう一人の私が、お前は殺人犯だって、せめては、私を話さなかった。勿論、無意識であれば、そうじゃないんだけども、はtって気がつくと、自傷だった。無意識であれば、私はいじめられる、目をつけられてしまうっていう恐怖は同級生、制御のきかない、自分で自分のお尻ぬぐえない、子たちには、そうされて、発散されてしまうっていうものすごい恐怖があったんだ。
 自傷。
そして、大学に入ったら、今度は、「それ幼稚園児だ」「本当の友人はいないわ」実習でも「あなた23でしょう?人の話聞く時は、はいは一回でいいの!」だバイト先では、「彼氏もいないしやばい」お前社会でやっていけねえよだ、もうすごかった。そんなの気にしなきゃいいんだろうな。そんなこと言わせないオーラがみんなあるんだろうな。でも人って本当に身勝手だから、弱い子、どうにでもできそうな子には、そういうことを普通にいうのね。
 私は親の親をせざるを得なかった。今もそう。母がテレビに熱中していると、安心だもの。私へ意識向くと、すごいもの。26歳のすることをしろ、お前はおかしい、この家のおかしな殻閉じこもりをやっているだ、そうして、最後は泣かれる。「幸せになってほしいんだよ」っていうわりには、「私はこの家を恨んでいる」だとか、父も祖母も躁うつ病だなんて、もう信じられない、こんな異常な世界には金輪際関わりたくはない!!!!って私に向かってきれるからね。私はさ・・・「普通の普通の」家に育ったんだよおおって私に怒鳴られる。こんな時間通りきっちり、お歳暮送りとかになるとそう状態になる、でも気分うせると、家から一歩もでない、お歳暮送りになると、目がへびが澄んでいるような尋常な人の目をしていない祖母(もう治癒したらしいが)と、毎日おんなじ時間に雨戸をあける、こんな祖母と二人でずっとくらすかと思うと、ぞっとするって私に怒鳴るのよ?私は、子宮がものすごく小さいんだって。そう産婦人科の人に言われたの。で、ホルモンが夜になると、「女性ホルモン」を抑制しようしようっていう風に働いてしまう状態にあるって3年前に言われた。それ聞いた時にね、私の子供時代、心を身をちじめて生きてきた、体もそうだったんだなって悲しくなった。とにかく、心も体もちじめていた。人を傷つけないように私の思いさえ、殺して生きてきた。でもそれは私が異常人間だから、いじめられるようなイライラ人をさせる人間だからだって自分を責めた。父が自死してやっと分かったよ。でも今でも母の物音をものすごく立てる音を聞くだけで身震いをしてしまう。怯えきってしまう。母は自分で勝手に人に当たって、韓国ドラマ見て、気持ちやっと盛り上げたのに、私はそれさえ許されていないんだな。私は、いつもそうだった。
<1447> lala ■2007年12月16日 日曜日 17時43分05秒
ごめんなさい。下で「下の子ってわがままだ」と書いたけど、一般的な話としてじゃなくて私の家族の下の子供たちのことです。もしそんなことってあるか分からないけどどなたかが読んでいたら?そうしたら気分害してしまう…と気になりました。
それにしても本当に孤独。逃げないでいてくれる友達もいるけど、まだまだ未熟な私は理解してもらいたいと寂しくなってしまう。
兄弟は私より母のが苦しんでいるからって私にもっと大人になって母の苦労も考えるようにって。母は子供達がいなかったとっくに自殺してたと思うよって言われた。母の人生見てると絶望的で性格も暗くて非社交的で常に愚痴っていて自分を変えようとしてなくて、確かに自殺を考えそうな人だと思う。
自分の苦しみでいっぱいで母を恨んでる私はおかしいって。そうだよね−普通に考えたらなんて悪い子供なんだろう。道徳心のかけらもない。いっつもジレンマ抱えてる。苦しいと思って親を疎ましく思うのはダメなんだよね。苦しみを感じないようになるにはどうしたらいい?きれいな物を見ても勉強しても、そのうちまた苦しくなるんだもん。楽しい気分が持続しないの。何かやり方を間違ってるんだろう。この数年間成長したつもりが単に処世術を身に着けただけだった私だし。あ−もう手遅れかなあ。このまま誰にも性格を愛されずに独身かな。同世代の子達がどんどん結婚してる。いいな、愛し合えて。尊敬してしまう。暖かい家族欲しいな!
<1446> lala ■2007年12月16日 日曜日 14時22分32秒
一番上の子供。親だけじゃなくて下の子達も親を真似て私にプレッシャーをかけてきた。と私は少なくとも過去にそう感じた。だから要求に応えるよう努力した。無理したこともある。だけど人の為になりたいというキモチもあったし。彼らは自分が要求高かったことは忘れ、私が困っていても無視だ。私に近づくと精神バランスが崩れると末っ子は言ったらしい。下の子達は私より順調に育った。なぜですか?私は何がおかしいのですか?生まれ持った性質?年の離れた一番上だから?私はやっぱりダメな人なんだろうな。なんでこんな人間なのかな。必要とされないどころか、家族みんなに迷惑と思われてるなんて。あの父と同じように彼らに悪く思われるなんて。長女として頑張ったことたくさんあるのになあ。彼らに頼らないようにがんばってるのになあ。下の子ってわがままだ。自分は人のためにやらないことを、平気で人には要求する。でも私のがACで怖くて家族と長い間付き合ってなかったから、「皆が築いたものを何年も経って戻ってきて崩すな」って言われた。同じ市内に住んでるけど連絡とってない。とれない。ずっとそうだったし、いいんじゃないかな。独りで生きていけるよう強くなればいいんだ。
<1445> ラビット ■2007年12月15日 土曜日 00時58分55秒
もうこの家には誰一人として僕の味方はおらんのやろな。
何でこんなとこにずっとおるんやろか。ほんまよく生きてる。色んな形のボディブローを何発もうちこまれた時戦う力さえ失わさせる。ほんまにしんどいしパワーが無くなって行く。もう抜けるしか方法はないやろか。早く抜けたい。
<1444> かえる ■2007年12月13日 木曜日 17時30分21秒
今日何年かぶりぐらいに母と言いあいになった。私のどん底の時に一番迷惑をかけたのが母なので〈〇〇ちゃんは以前より全然成長した〉の言葉を本音と受け取っていいのか?私が過食嘔吐をどうやって治したらいいか分からないとぼやいて、これから先の将来について転職願望があることも話した。過食嘔吐については前より程度も低くなってるんだから今までみたいに徐々に改善されていく。いつになるか分からないけど長い目でみて、違った他の面で自分に自信がつけば、自然に過食嘔吐も消えてなくなる…って。そういえば先生も同じ様な事を言っていたな… 母は本当に私の完治を気長に待っていてくれるんだろう… 焦っているのは私の方だ。だから過食嘔吐にかこつけて、今の仕事がきついからってすぐに転職に逃げてるんだろうと思う。母は転職についてはシビアに手厳しい事を言ったし、私も〈お母さんには私の今の辛さはわかんない〉と思った。久々に泣いた。でも昔みたいに突き放された感じはしない。不思議だ。
<1443> so ■2007年12月11日 火曜日 23時45分03秒
良い子として生きてきた、田舎の一族の長男の子の俺、知るかボケ、期待というか重圧、知るか!ボケ、ばばあ、祖母、さいきんまでおばあちゃんと慕ってた、ばばあ、喪失だ、血がしみるイメージだ、最近、血しかながれねえ、しかたがねえ、内なる子を救いに行くんだ、流血も辞さない。
怒る、ぼくの自尊心を奪い取ってたものどもへ
<1442> so ■2007年12月09日 日曜日 17時33分55秒
おい、おれの家族とやら、あの一族ども、どこまで俺の初期を剥奪したんだ。俺が俺だと思ってるアイデンティティは全部おメーラの抑圧の処理後の俺じゃねえか!てめえら、どこから俺に手をかけた?ばばあども、おい、数年前まで愛情と思ってた、俺はお前らの手のひらの中だった。いい子
だったろ?もういいだろ?ざけんじゃねえ!おめえらの為に俺は処理され、心を削られ、ペット化
された。これは虐待だろ?ちがうかい?
<1441> ぺあ(FB注意) ■2007年12月05日 水曜日 11時45分54秒
姉が今更ながら、メールで「大切に思っているよ〜」だとか言って来た、うっざ。ばかじゃねえの?
はあ?私の感覚はもうそんなに大切ならばほっとけよ、このナルがって感じ。
姉が許せないのは、祖父の入院時に、私を「お前、おじいちゃんいるとき、笑いこらえていただろう!」って言った事。はあ?って感じ。おじいちゃんが、荒城の月とか歌って、涙流しているのに、何で笑うのかよく分からなかったけども、でも、「世間一般では若い子はああいう場で泣くのが普通なのかな」って思ったので、姉の見た世界観を壊したくなくて、合わせて「えへへ」って笑った、私は。祖父と最後って分かったけども、それを姉のせいで家族に言えなかった、父にも。お父さんとおじいちゃんのわだかまり取れるチャンスあったのかもしれないのに、そしたら祖父は父を引っ張らなかったのに、父は自死しなかったかもしれないのに。
 そして父の葬儀の時の写真を見て、私の顔の輪郭が四角いだとか言って「お前顔四角いな〜」(それに比べて私って美人)みたいに言って、大うけしていた。ありえなくない?はああ?父が自死してさえ、なお、あいつはオオバカだった。私って女にはそんなに美人に見えないんだけども〜、男には美人に見えるタイプなんだ〜とか言って、完璧な礼儀で、葬儀の人とかと打ち合わせていた。
 親戚に自分の結婚ドレス試着姿を100枚くらいアルバム作ったものを、見せて回っていた。
 で、「今までひどいこと言ってごめんね」だとか耳にありいれられたいじめの話ししたら耳をなでてきやがった。きもいんだよ、このくそが。もうあんたのせこい思考はついてきたくない。何が4大行ったら教職くらいフツーとるべだよ!!!!1!1!1!!1

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This script written by Shintaro Wakayama.