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私たちの物語 - 家族過去ログ No.65
メッセージ数:1300件

<1300> halu ■2007年08月05日 日曜日 10時23分47秒
私は末っ子、私が生まれて20数年一緒に暮らしている家族は、皆長男・長女。小さい頃から、ある程度出来て当たり前、あんたは姉のしている事を見て育っているのだから、姉より学校生活の事、勉強その他諸々が出来るはずだし要領が良いのは当たり前と言われてきた。
父は生活能力が無い人で、母は共依存のひとで・・・物心ついた時から、家庭生活がめちゃくちゃだった。姉は学校生活についていくのが精一杯で・・・父は転職してばっかりで金銭的にも精神的にも不安定、母はフルタイムで働いていたけど、公務員とか正社員とかある程度収入があって安定している仕事じゃなくパートだったから必死になって働いていた。そうすると家の事は私がいつのまにかするようになっていた。私は要領が良いから家の事をしなくてはいけないと、強迫観念にとらわれていた。
朝洗濯物を干して、ラジオ英会話を聞いて、学校に行って、部活またはバイトに行って、夜ご飯を作って、洗濯物を入れてたたんで、宿題をして・・・そんな生活が10数年続いた・・・
友達と部活動以外に遊んだことはほとんど無かった。
心の奥底で、私が要領が良いから学校生活や家事をきちんとしてからで無いと遊んだらいけないと思っていた。
・・・そう思って10数年・・・ほとんど遊べなかった。私は自分や家族が思うより要領が良くなかった・・・世間的にも・・・
<1299> ぺあ ■2007年08月03日 金曜日 00時02分17秒
正直言えば家族にはお世話になった。本当に。確かに良い部分たくさんあるともどこかで想う。でも姉の心をぶっさすような言葉や下に扱われそうしたい意識や自分は上でいたい、お前は下でいろ彼女のうぬぼれ家族に対するつんけんした行為は私を十分に傷つけた。私はほかに比較しようないけど、友人によく言われた。「あなたのお姉さん何でそんなきついこと言うの?うちの姉は絶対言わない」「同じ年レベルでやりあってるね」今はちちがなくなった日に謝られたりはした。それでもうちの姉はものすごくきついしうるさいなにもできないと見下す言葉にナイフがある人の痛みが彼女にはうけるらしい。私はもう姉とも母とも一線画することにした。それでいいって誰かに言ってほしいな。私はこんなことして後々後悔するぞとか言われそうで辛い。でもね私の正直な感情は一緒に仲良いふりしてこの一年いろんなとこ行ったけど言葉もきついしうざいしうるさいし私の内面土足で侵入するし自意識過剰でうぬぼれていて慇懃無礼に他者に隙見せないように接して完璧演じているお前の方がよっぽど自意識過剰のナルだよって言ってやりたい存在だった。一言で言ってうざい一緒にいても楽しくないものすごく罪悪感感じるけど私の素直な思いなの。
<1298> アーネスト ■2007年08月02日 木曜日 23時37分06秒
さしあたり、家族(特に兄)といは距離を置いている。スイッチが入るのが怖いからだ。スイッチが入って、AOを防いだとしても僕にはかなりの禁断症状がある。前は食事の時間をずらしたりするのは避けているようで罪悪感だし、今でも罪悪感だけど、便宜的に考えればいいかと思っている。

兄はよく僕を責めた。運転免許を取るための金を全額出してもらったこと。僕がうつ病で精神科にかかるときも、「お前はいいよなぁ」と言われ、いつも「もっとひどかった自分の母への待遇」を「引用」した。僕はそのとき自分が悪いことをしているような気がして強い罪業感にとらわれた。でも今は、そういう風に嫉妬すること、過ぎたことにうじうじとこだわる相手に問題があるのだとようやく思えてきている。
<1297> アーネスト ■2007年07月31日 火曜日 02時05分46秒
この罪悪感は責任感とつながっている。コントロールするのが責任で、コントロールできなければ罪悪感。もともとコントロールできないし、責任もない
<1296> アーネスト ■2007年07月31日 火曜日 01時48分36秒
コントロールできないと罪悪感まで出てくるというのは我ながら病気だなと思う。
<1295> アーネスト ■2007年07月31日 火曜日 01時35分19秒
どうして自分の力で「機能健全な家庭」にできなかったんだろう?って自分を責めてる。もちろんこれも病気だってわかってるけど、この罪悪感に今のことろ(あさってになるまで)耐えられそうに無い。
<1294> アーネスト ■2007年07月31日 火曜日 01時33分24秒
母は子育てが下手だった。保母をしていたのに。兄の「育て方」が下手だった。

僕はACを自覚したときから今までずっと辛かった。苦しかった。兄を一家のトラブルメーカーとしてしか見れていない自分に罪悪感を感じていた。苦しかった。

僕の共依存は、母に対する「可哀想う」という感情だった。僕も母から「あんたは可哀想」とよく言われていたけど・・・。兄のことで激怒したり、頭を悩ませている母を「かわいそう」と思ったんだろう。確信はないけど。いつごろからそう思ったのかはわからないけど。幼少期はほとんど葛藤の「か」の字もない平和な家庭だったから、いまだに僕は自分のAC性にはあまり確信がない。ケアテーカーとしての自覚もほとんどなかった。でも彼女の苦痛をどう取りの除くかと考えていた、ほんとは心根の優しい子なんだと思う。母と兄の争いが始まると怖くて、結局、自分の保身ばかりじゃねーか、この自己中がって自分を責めてばかりいたけど、本当はそうじゃないって思いたい、信じたい。

そういうのが始まったのは8,9歳前後だと思う。寝ている隣で母と父が兄の部屋に向かっていく足音が怖かった。もうほんとに小さい子どもにとって、思春期に入った子と両親の対決は怖かった。それでも母の苦痛を軽減させたい、「助けてあげたい」「かわいそう」っていう気持ちはどっかしらにあったと思う。

僕にとっては「かわいそう」っていう憐れみの気持ち自体が結構、爆弾だけど。でもね子どもには「あなたは困っているようですね、私には何ができますか」なんて聞けないよ。今かりに同じような問題が起こったとしても、彼女のスキル不足をどう補うのか、彼女の兄へののめりこみをどう止めるかなんてわからない。それでも罪悪感は感じるね。だからこう考えたいんだ。彼女の人としての成長には何がベストなんだろうって。彼女は結局、死んでしまった(これもかわいそう)けど彼女にとっての本当のヘルプってなんだろう?って。
<1293> ぺあ ■2007年07月28日 土曜日 21時12分07秒
姉と母が出かけたら涙が出てきた。私は子供の頃からそうだった。どんなに不安でもどんなに悲しくても家族の前では泣くことができなかった、不安がることも。正確にいうといじめにあって世間の親の認めるコースもしくは世間から「汚い存在」に烙印を押されてから、誰にも家族にはもちろんのこと誰にも私は本当の感情を見せられなくなった。外に出せるのは一人になってから。でも子供は親の周囲の目から逃れられない管理下にある。プライバシ-なんて踏みつぶされる。だから自分で計算するの。元通りの普段の自分の顔に戻る時間を想定してなく。計算してちょびちょび感情たまりたまったうねるような悲しみを少しだけトイレの中で出す。でも家族の前では普通の子供ずっと。他者を一番に考え他者の目から不都合のない現実を考え自分の思いを殺すようにしてしか生きてこれなかった。たぶん今も私はどんなに悲しくても苦しくても家族の前では泣けない。心の底から泣くことはない。
<1292> ぺあ ■2007年07月27日 金曜日 16時36分56秒
私はずっと「普通」で「良い」「恵まれた」家庭に育てられたと思ってきた。いじめられるのもなぜか私は誰かの責任や不幸を背負うのは「特別」で「わかる」子だからだと思ってきた。そして子供たちのいじめは私を「汚い」自己評価にさせた。でもいつか「分かる」日がくると思ってた。いじめられたことも心にどうしようもない「鉛」のような重さを背負った事も私の努力と勇気があまりにもなかったからだと叱咤しては、大学時代今まで分を取り戻そうとした。ACだと3年前からここに来て言っていたけどここに来る方のあきらかに「辛そうな大変すぎる過去」とは違って、自分はやはり「上でまだまだ大丈夫なケース」まだまだいけると思っていた。あきらかに何か変な空気感じてどんなに騒いでも素直な自己を外に出たくても私は現実の「普通」批判と人間関係に、ことごとく笑われてけなされて否定され素直な思いを押しとどめてきた。私はちちを見放したと思う。わかんない。でも現実はいつも阻むんだ、素直な思いを。誰のせいでもないし、ちちの望んだことかもしれないけど。現実の「普通」や学校、人間関係は時に人の心を、弱っている人の周りを掘ってその人を埋めてしまうのかもしれない。大学時代のことも頑張ってきたこともここにきていたことも子供時代のいじめもあの頃の同級生もあの頃の私をおとなしいと評価した大人や先生すべてが私は嫌いで、今でもいつまでもひきずっている。
<1291> ぺあ ■2007年07月24日 火曜日 13時09分10秒
父がいなくなった今、母は急に私に、彼氏は仕事始めてからだな。とか、言い出して。自分がつらいときに、うちの父ひどいとか言い始めて。その割に、自由になってなんかわくわくしてきたとか言ったり。でうちの家族は何かばらばらだったよとか言ってんの。アメリカみたいに仲良い家族でいるのが普通だとか。祖母のやり方はおかしいとか父との結婚は失敗でえらい迷惑とか。そのくせ〇〇ちゃんもっとお父さんと仲良くすれば良かったのに。アメリカのホームドラマでは父と娘は仲良いのにだとか。私はおいぼれてかわいそうだろうとか。祖母と二人で変わらない日々過ごすなんてぞっとするとか。姉には、あんたは楽しい日々だんなさんと過ごしていたんだろうが。とか言うし。私には父の代わりに頼ろうとか、一家背負って働けだとか言ってくる。父はお世話好きでいつも助言ばかりだったね。今なら父がどうして母に当たったか分かる気がする。外面だけよくて気はいいけど、自分中心で人の気持ちは分かれないばかははだからね。父のことも一線引いて理解するよ。私にとっては美化もしない、かっこつけのプライド高い父だものな。
<1290> ぺあ ■2007年07月24日 火曜日 12時58分22秒
母は父が精神的な病気になったとき、泣いたらしい。父が会社に行けなくなって、母は「なんで私をこんな目にこの人は遭わせるのか?」と自分の不幸を哀れんで。会社行きたくない父をみて、母は祖父母呼んだ。祖父は父に言った、「かわいいお嫁さんがいてかわいい子供がいて、何が不満なんだ!」と。母はいつもそうだ。私がどんなにいじめられて、虫とか入れられて毎日つめとつめで抓って皮膚が破れても、言えなかったのは、母も父も姉も笑うと思ったからなんだ。母は鬼の首を取ったかのように笑うんだ。あんた男に生まれてたら絶対この近所の〇〇君にいじめられてたよね〜。あんたは気が弱い。〇〇ちゃん、いやなんて言えないでしょ〜にやにや笑いながら言うの。話しがなくなると親戚の人の前で私が受けたいじめられっぽいネタを披露するの。彼女は何も覚えてないけど。父がいつも母に当たっていて私父を憎んだ。母を守ろうとした。姉と父が前を先に行けば私は母をいつも心配して待ってた。いつも父の険悪ムードを和らげようとおもしろいこと言った。いつも父のいらいらにも姉のいらいらにも謝っていた。母は何にも覚えていない。大学時代にいじめの話しを電話でした。泣かれた。普通は一番楽しい時期で彼氏作ってデートしているのに、そんな暗い話ししかできない。もう終わりにするって言ったでしょ!もう知らない。とぎゃあぎゃあなきわめ、言われて電話叩き切られた。そして後からメールで、もう落ち着きました。だって。母はそういう人だ。
<1289> ぺあ ■2007年07月23日 月曜日 14時32分33秒
私はちちに沢山沢山旅行に連れていってもらい美味しいモノも食べさせてもらった。ちちは家族を率先して旅行計画立てて行くの好きな人で。何でも頼めばやってくれた。母もちちもあねも。ちちといるの好きだった。こどもの頃はべたべたしていた。ACだなんておかしい、暗い一杯言われた。でも人からいじめ受けてこの家族支え問題言えば壊れてしまうと思いいつからか「普通」ちゃんやめられなくなって、かわいそうな同級生にも、ちちにもあねにも私は詫び続けた。わたしはずるい、汚いといじめられて当然な人間だと。突然の不幸にも、「不幸な」人喜ぶな〜と私思った。かつて私を「ずるい恵まれている」といい続けた女にほれ見たことかと思ってる。
<1288> ぺあ ■2007年07月22日 日曜日 14時30分39秒
家族って不思議です。私は両親揃って元気でいる家族を恨みませんよ。生きていたときのほうがつらかった事あったもん。周りには散々良い年こいてとか言われても。でも悲しいのかな。ACの人って家族亡くしたらどんな思いを持つものなんだろうか。
<1287> かえる ■2007年07月20日 金曜日 21時31分51秒
私がハンキョ-ラになって散々母親に罵声を浴びせていたのは何年前だろう?壊れきっていた家族。今だって、正常に機能していないいびつな人達の集まり。    この頃では、もう何もなかったかの様に一日が過ぎていく。私の父親は短気で少しでも気に入らないことがあると窓ガラスを割ったり、畳の上に火を点けた新聞紙を放り投げるような人です。ただ勤勉実直で仕事も手を抜かず、何事にも生真面目なタイプです。その姿は私が美化してしまった偽物なのかもしれませんが…でも確かに私も父と同じように愛情表現が苦手で世渡り上手とは言えない。滑稽なぐらい似ているから、私は子供の時から父を反面教師に「たとえ家族であっても悪い事をしたら〈ごめんなさい〉助けてもらったら〈ありがとう〉を言うもんだ」を貫いてきた。こうゆう堅物なのも違った意味で父親譲りなのだと思う。 その一方で私の母親は何十歩でも父の後ろを下がってただ黙って付いていくタイプの人。父には逆らえないから、怒られてる私をかばってくれないし、救いの手などのびてはこない。もう私の感情は〈恐ろしい〉だけに支配されてた。   物心つくと、自分よりできのいい兄が私より大切にされてるという思いがいつもつきまとった。だから仲の悪いキョーダイだったし、兄からひどい言葉も浴びせられた。学生時代、そんな自分が情けなくて情けなくて一人で黙って泣いた。あの時親に言ってしまえていたら・・・そして兄貴の頬の一つでもひっぱたいてくれていたら、少しは私も救われていたかもしれない。  年ごろになって私は兄貴の性のはけ口になった。もちろん、これも親に相談できるわけもなかった。そしてなんとなく私の言ってることを信じてもらえないような気がしていた。    高校まで順調に高学歴のレールにのっていた兄貴が脱線した。成績も下がり、出席日数も足りず、家出をして高校中退した。私は心底、ざまぁみろと思った。 今、成人して家庭を持ち子供もいる兄は仕事が休みの日など、時々家に来ては食料調達をして帰っていく。私は今だにジョーダンじゃないと思う。散々好き放題して調子よすぎんだよ!言ってやりたいが、それこそまた私が狂ったと思われるだろうから言わない。でも私の恨みは地球のマントルまで突き抜けるほど根深い。本当はすべてを帳消しにして何もかもを忘れてしまいたい。あれこれ考えあぐねて苦しむのはもう沢山なんだ。
だって。もう人生の半分以上を過ぎてしまった両親を今更私の力で変えようなんて到底ムリだと諦めている。でも本当は諦めていないから拒食症になって過食症に移行して10年たった今でも症状は消えないのだろうか?自立してもいい年令なのだからさっさとこんな家出ていくべきなのか?兄の事は心底憎めても、両親の事は完全否定できない私。みんな頑張ってんだよ。うまく言葉にできなかったり、仕事で手がいっぱいだったり。。。。自分が物分かりのいい良い子ちゃんになろうとすればするほど、私は息苦しくなって本物の自分自身がわからなくなる。
私は一体何者なのだろう?
<1286> ぺあ ■2007年07月17日 火曜日 22時52分31秒
青白い顔していた子供の私の写真を見ていた。ここにくると楽なのは皆自分の思いを世の中の評価基準関係なく素直に言っているからなのだろう。正直であること。そこから成長していけること。それが必要だった。取り繕って生きることではなく。周囲の評価、将来の評価のために今を犠牲にし、自分の特性を犠牲にするのではなく。上、下という目で見る友人たち。家族までも親戚中がそういう家族だった。学歴の上、下。勝った。幸せ度上、下。あいつが上。そういう親戚と家族でした。助け合いなんてないらしい。これがうちの父の家系でした。その中で父はがんばっていました。それでも上、下はどこでもかでもあるんだね。寂しいね。ここにくるととっても楽です。でも過去の痛みもあるし、突然泣き出したりもあって、不安定極まりない私だ。安心してビョーキになれる社会であってほしい。そして安心して生きて生きたい。仕事をしたい。普通に夢(現実的な夢ね)を叶えられる社会であってほしいです。
<1285> ぺあ ■2007年07月17日 火曜日 14時17分01秒
私を親にしないでください。私には分からない。傷ついた人にすがりつきや期待やそれ以上の爆発したような思いには応えられません。知りません。自分で一杯一杯の私に子供の私によくもまあ色んな人が要求したよねえ。それなのに私は未だに罪悪感。同級生の先生や親のような気持ちである。
今一日何にもしない。それが許されているだけ私は目一杯利用するんだ。完璧な人はいない。分かるよ。皆子供時代何かしら抱えている人もいるし、そんなの意識もしないで成長できた人もいる。分かるよ。分かるよ。それでも言わせて。ここしかないの、書くしかなかったの。私には。いつも人の期待に沿うことしかなかったの。私の感情なんて二の次のようにしてきたの。斉藤先生の魂の纏足という表現はとてもよく当っているの。すごくすごく弱っている人は主張できない。
 でも少し弱っている人なら、自分の問題を周りになんと言われようと認識して少しでも応援してくれ、認めてくれる人なら言えるの。私は子供時代恵まれませんでした。そっから始めます。
私は救世主になってしまう。いつも人を救おうとしてしまう。ここでもそうね。でも子供時代を振り返って、見えることは多い。自分は自分が思うよりもずっとずっと傷抱えてきたのかも。周りが何と言おうとも。身体は本当にいや心も本当に正直でした、私。ちゃんと症状に出てたんだ。過呼吸、強迫、食べ物食べられない、金縛り、歩行困難・・・自傷それでも誰にも言わずに自分で治してきた。必死で。誰にも触れて欲しくなかったし、誰も私は家族を信用していませんでしたので。
<1284> アーネスト ■2007年07月14日 土曜日 15時00分13秒
家を出る=親に許してもらえない。そういう複雑な感情を持ったまま暮らしてる。ただ確かに罪悪感は感じてて、それを否認しててもしょうがない。
<1283> アーネスト ■2007年07月14日 土曜日 13時10分18秒
さっき兄の貧乏ゆすりが始まったとき、首根っこつかんで脅してやろうかと思った。俺が受けてきたのはこういうことなんだと。
<1282> アーネスト ■2007年07月14日 土曜日 05時44分25秒
(FB注意)

「信じ込ませること」
僕にはまだまだ書くことが必要だ。もっともっと客観的に見ることが必要だ。
僕の育った家庭では暴力もほとんどなかった。あからさまに「お前は馬鹿だ」、「くず」だと罵られることもなかった。代わりにあったのはなんとなく性を嫌悪する雰囲気や、葛藤・衝突を避ける雰囲気。そうあくまで抽象的な雰囲気。歓迎されていない、という雰囲気。無論、これらは主観であって、彼らがそういう意図を持っていたかどうかは不明だから、彼らが実際に僕に「期待」していたという認識の仕方は客観的ではない(そこがまたこの苦しいところでもあるのだが)。たぶん、彼らを責めても「いや、そんなつもりじゃ・・」という感じで終わるのがオチだろう。そのことは腹が立つがしょうがない。僕がそれを「具体的なメッセージ」として受け取ったり、信じ込ませようとしたところが大事だ。「セックスは汚い、醜い」、「葛藤は避けるべき」、「サラリーマンは汚い」・・・成人し社会生活をしたい今の僕にとっては不合理でどう考えても生きづらいとしか思えないイラショナルビリーフを認めることから始めたい。そう僕は不合理で自分を傷つけるとしか思えないような信念をたくさん持っている。そのビリーフが「良い」「悪い」ではなく、とにかく持っているものを持っているだけ認めたい。例えば「自分は悪だ」「自分は醜い」「どうせ自分は・・・」「自分なんか死んでしまえ」・・・認めたくはないが、本当に真剣にそう信じ込んでいる。まずはここがスタート。直接に彼らからそう言われたというわけではないことがポイントだ。そう彼らがそう言った訳じゃない。僕がそういった訳でもない。 生きることに必死だった。耳元で何回も何回も「お前はくずだ」「お前はあほだ」と年がら年中言われ続けたらそう思ってしまうというのを聞いたことがあるが、それを間接的に行っていた。子どもの世界にとっては、親が絶対だ。親がいなければ生きていけない。だから親を絶対と見るためのスキーマを作った。現実を歪めたのだ。つまり現実の親の姿を見るのではなく、親を見ている自分・自分の親に対する認識や見方を、言いたくはないが「保身」のために、僕にとって都合の言いように変えたのだ。現実の親は僕を養育してくれるような人間ではなかった。それは僕自身も感じただろう。それでもサバイブの必要があったから、自分が悪い子だと信じるようになった。無理にでも自分で自分に冤罪を着せるしか方法が無かったのだ。あるいは信じ込ませるしかなかった。親が怒るのは自分が悪いからだ。victimizationという言葉があったような気がする。ある意味これも正当化、合理化という自我防衛なのだろう。 なぜか??? 自分が悪かったということにしてしまえば親からそれ以上責められることを免れるから。セックスを醜いことと定義してしまえば、セックスについて責められることもなかったから。家にある不穏なにおいを嗅ぎつけて、守りを固めたわけだ。兄のこともそうだ。兄が暴力を振るうのも自分が悪いということしてしまえばそれ以上の暴力は防げる。客観的に見れば、どう考えたって暴力を振るってくる法がおかしい。その頃の僕に果たして客観的にモノを見る力があったのかどうかはわからないが、とにかく僕には自分の身を守ることが最大の関心だったから、そういった客観的な現実はさほど重要ではなかったのかもしれない。辛い、苦しい現実(=相手が悪いということ)を受け入れるよりは、自分が悪いという仮想現実を受け入れてしまった方がよかったのだろう。相手は悪い、相手は危険だなどとはやはり子どもは信じたくないだろうし、信じたらまとな精神生活をおくることなどできなかっただろう。

だから僕のイラショナルビリーフには、一つ一つちゃんと意味がある。もう、それを良い悪いと裁きたくはない。このビリーフは僕が生き残るために必要な道具だった。僕の生きてきた証だ。それを裁いたらベストを尽くしてきた自分を、命からがら逃げてきた自分を見捨てることになってしまう。それはしたくないから。時間はかかるけど、一個一個検証していきたい。
<1281> アーネスト ■2007年07月14日 土曜日 04時26分43秒
彼女の「あなたのこと心配してるわ」というのは「あなたのことが大切」というのとは全く、逆のものだったと思う。僕が嫌がろうがなんだろうが、僕の心をこじ開け境界線を無理に侵犯してでも僕の中に入ってこようとする汚い行為だった。まずはじめに「あなたはかわいそう」という決めつけがあり、「だから心配だ」という押し付けがあり、その後は簡単だ。相手(僕)が嫌がっていようがなんだろうが、「心配している」と言えば僕のことをコントロールできると彼女は知っている。僕に必要以上に干渉したり保護したりして僕の経験を妨げたり、成長を妨害するのも「あなたはかわいそう」「だから心配してるのよ」という決め付けと正当化があれば、僕が嫌がっていることなど見ようともしない、感じようともしない。それを愛だと思わされてきたのだ。

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This script written by Shintaro Wakayama.