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私たちの物語 - 家族過去ログ No.63
メッセージ数:1260件

<1260> ペア ■2007年06月21日 木曜日 15時52分39秒
恵まれてた部分とふきすさぶような「良い家族」を外に見せて、寂しい子供の頃の私両方いる。母親のことが心配でたまらなかったのに、家族の変な空気を感じていたのに、泣きそうな私に兄弟と母が「あれ?どうしたの?」って笑う。何か私の感じていることって世界には通じないようだ。学校では必ずパワーゲームに巻き込まれた人間関係を結んでしまう。そしていつも人のお世話係です。先生のお世話ががりまで心理的にはやってしまうのです。家族。外食して、母が父と向き合わない。なぜが問題をやりすごしやりすごしすぎていく日常。訳分からなくて、言っても、就職試験に失敗して、不安定だからと決められて、精神的におかしくなったと思われるだけでした。問題がないことが大切だったみたい彼らには。問題あるのに。でももう精神的な病を持っていた人はいなくなった。必死で助けたかった気がする。でももう何にもしなかった。見えるのに、見ないふり。大好きだったのに、何もできなかった。うちの家族。でもやっと初めて人に認められた気がした。ずっといじめられているのに、そのくらいって笑われて、変って思っているのに、そう感じるあんたが変って言われてきて、その連続の人間関係がやっと見えました。やっと分かった。人の見栄とかプライドで隠されてたこと。勿論かくしたければかくしていいよ。でもそれならいつどうなるか分からない、私がなんとか彼を助けてあげないと、なんて娘に思わせないでよ。不安にさせないでよ。いつも彼を肯定して、現実を覆い隠してあげないと、守ってあげないと、崩れてしまうんではないかと私は心配してきた。そしてその心配の気持ちはずっと私の性格なんだ、って思って、私が変だと思ってたけど、そうじゃなくてあってたんだ、やっぱりって気がついた。
<1259> ペア ■2007年06月21日 木曜日 15時40分03秒
家族。恵まれた家族環境で育ってきた人なんているんだろうか。私は確かに親に何でもやってもらってきました。それは恵まれている。でも父の寂しそうな背中。父が母を口で半分ばかにし、半分はもういじめ、八つ当たり。すごく変な雰囲気。母は何もなかったふり。そして実際に何も感じてなかったらしい。
父は病気でした。精神的な病気だった。それを知ったのは今です。だから何もないふりを母はしていたんだ。父のこととても好きだった。だから、ただ父親が元気でいてほしかった。ACの本を読んでいても、頭に出てくるのは父がいつも祖父の期待に応えて大企業で出世しよう執着していたこと。いつも自分を縛るようにしていたこと(これは私の想像)でも父の書斎にはいつも「成功するための本」「神経症をなおすための本」が置かれていた。私は自分の問題よりももういない父と祖父の問題が頭を離れない。ほんとにちちが好きだった。いつも好きだった。自分の問題がまだ分からない。友人の助言には支配されている。弱い人の心のパワーをめちゃめちゃにしてやりたくなる。
<1258> ぜんまい ■2007年06月20日 水曜日 23時55分57秒
理不尽なことばっかだったな。
大人は勝手だった。
みんな自分のことばっかりで。
自分の世界のことばっかりで。
だぁれもみようとしなかった。
あたしのこと。
みてるふり。
みてるつもり。

お母さんはなんでもきめつけて。
なんでもなんでもきめつけて、頭ごなしにするもんだから、
あたしはちゃんと言ったよ。
細かく、あなたの言ってることはここが違うんだよ。
当時の最大限の力を使って。
でも、聞く耳もたない。
聞いてるふり。
わかったふり。
「わかってるけど!やってるじゃん!
 だからあなたの言う通りしてるじゃん!
 でも、あんたは。」
そうなんだよね。
でも、あんたは。
なんだよね。
お母さんは、何でもわかってんだよね。
全部知ってんだよね。
何もかも自分はわかってるんだよね。
そう思い込んでる。
そのお母さんの世界からはみ出ると許せないんだよね。
<1257> すもも ■2007年06月19日 火曜日 17時26分21秒
私は、父と別れる前に もし自分に何か変化があったらあってくれないかといいました。父を嫌いであったと同時に、父であるということでやはり私は嫌いになりきれませんでした。父に愛されたかったのだと思いますし、自分もできるなら普通に愛させてほしかったと思います。子供も親を愛すると思います。
 何かあったら というのは、例えばいつか結婚した時など、連絡してもいいか?と聞きました。まだ当時中1.結婚なんて先の話です。でも、娘と別れるということは、そういう場面にももぅあわないのだ、という事を感じて欲しかったのだと思います。しかし、父は断りました。結婚しても、連絡してくれるなということでした。それを聞いたとき、あぁ本当に私は父にはあまり愛されていなかったんだな、と悟ることができました。寂しい思い出です。
<1256> すもも ■2007年06月19日 火曜日 17時12分34秒
結局、私は母につく希望を出し、父とは別れる選択をしました。
父を選べるとしても、もぅ父といるのは怖かったし支配的だったし、私は思春期にさしかかっていて、父とこれからの生活を歩む姿も想像できなかったからでした。まだ、母なら何でもいえる。これが正直な気持ちでした。
新しい義父が待っていることも一旦は受け止め、引っ越す決意を決めたのでした。今の生活よりはずっといいかもしれない・・・と。
実際、義父は父に比べてはるかに人間らしく優しい人でした。正反対といっても過言ではなく、後に大きく恵まれた出来事で一位といえます。
今なら分かる・・。ある日、いきなり引っ越すことになり、トラックにのって父に別れを告げることもなく、私は古い家を後にしました。父とはそれっきり。悲しくて悲しくて、精一杯でした。でも、今日まで、誰にも打ち明けることは無かったです。今、初めて約10年以上経って、こうして語っています。
何か意味あるんだろうか・・・こうして語ることに?
他人に外に 開示することはどんなけ意味があるのか それがまだ今の私にはよく分かっていません。
<1255> すもも ■2007年06月19日 火曜日 17時01分15秒
離婚の話し合いは3人でしました。でも、話し合いの前に、既に父は私を引き取ることは出来ないといっている意思を、母から聞いていました。
だから、私は父を選ぶという選択は、こちらが決める以前に 無いのだと知っていました。そんな矛盾の中、何故か話し合いはもたれました。
初めは両親だけで話し合っており、私は隣の部屋でいました。
その内、呼ばれてそばへ座ると、母が泣きつかれたようなぼろぼろの姿でおり
精神的に衰弱しているような印象を受けました。父はというと、とても
威圧的で支配的で、自分が上に立っているということで自分がいてられるような、そんな姿 態度でした。その間に座り、どちらにつきたいかと聞かれました。私は、それを母が聞いてきたので、すぐに答えることができませんでした。既に、母から父の意思を知らされていたからです。それなのに、なぜは母そんなこと聞くんだろう? その時、私は母も私を引き取る自信がないのだと悟りました。黙って、答えかねていると 母が「あんた、施設にはいるか?」といいました。一瞬、ショックで身が固くなった時、父がすかさず合いの手を入れました。母を平手で打ったのです。母は、小さな悲鳴を目の前で上げました。「なにいっとるんや」父は、自分は引き取れないと言っていることを、娘には隠したつもりだったんでしょうか。子供の前でいい格好しいをしていたのでしょうか。はっきりわかりません。ただ、一番矛盾しているくせに、母の言葉は殴ったのです。意味不明ですね・・。母は、「一人暮らしするか?」と又言いました。また父は殴ったと思います。私は、自分がどうすれば父と母がいいのか?ということを考えていました。中1で一人暮らしできるのか?と考えたりもしました。その資金は?そうしたら、もう親とは会わないのか?それとも時々は会えるのか?お金の工面はしてくれるのか?そうじゃないのか?私は、その時の本当の正直な気持ちは、両親がやり直して仲良くしてくれて、本当の両親として家族としていてくれることでした。せめて喧嘩のない、分かれることのない家族でいることでした。
<1254> すもも ■2007年06月19日 火曜日 16時44分39秒
母は仕事を変え、販売業に携わりました。小6の頃です。
そこで、新たな出会いをしました。そうして、段々母は変わっていきました。
家庭が破綻しかけていた頃、母は何度か帰ってこなくなったりしました。
その時は、本当にショックで不安で、私はこのまま母に見捨てられてしまう
のではないかと、胸を押しつぶされるような不安で一杯でした。
その頃の食事は主にカップラーメンで、約1ヶ月食べていた記憶があります。
お陰で、今もカップラーメンが大嫌いで その頃の記憶がよみがえります。
母がいなくて不安でも学校にはいき、不安は誰にもいわず、帰ってラーメンを
食べる。孤独で孤独で、どうしてたのかな・・・とあまり覚えていません。
母が帰ってくると、泣くような嬉しさと共に、両親の喧嘩。
毎日がどんどん切羽づまっていきました。息のつまりそうな毎日。
母も、まだ30歳近く。新たに好きな人ができて洋服が少しお洒落になりました。その服に違和感を感じたのか、父は(こんなちゃらちゃらした服着やがって)と投げつけていましたが、その服は黄色のロングワンピースで、裾に少しフリルのついている位の 怒る程のものではなかったと思います。
ある日、離婚が決まってどちらの親につくかという話し合いがされました。
離婚が決まったとき、母は再婚を決めていました。そのため、母につくということはすぐに新しい義父ができるということでした。しかし子供心に、父にはそのことは言ってはいけないんだと黙っていました。当時中1。
離婚が決まって時、とても悲しかった。めちゃくちゃでもぅ無理だと分かっていながらも、なぜこんなことになってしまうのか なぜ私だけこんな家族に恵まれないのか、 なぜなんの為の家族だったのか 今までの生活は、親子の縁は無意味で無駄だったのいうのか?そんなむなしい悲しみで溢れて
最後の最後で一度だけ、父の前で大泣きしたことがありました。その態度がもはや父には迷惑でどうしようもない、と思っていることも分かっていても、
私の悲しみはどうしてくれるんだ、と最後に始めて一度だけ、感情を表したことが心に残っています。泣いたって何も変わらないんだと分かっていたけれど、それでも泣いたことは まだ、私にとっては良かったのだろうと
今、思います。しんどかったけど。
<1253> すもも ■2007年06月19日 火曜日 16時23分44秒
父は母に暴力をふるっていました。本当に喧嘩もしていました。
双方、気の強い性格だったの 喧嘩は荒々しいものでした。私はよく
怒鳴り声で目が覚めて、襖越しに心臓をドキドキといわせていました。
思いだすのは、ある日 又襖越しに喧嘩の行く末を見守っていた時でした。
当時も小学生。私は、母が心配で心配で もし究極とあらば飛び出していって
母を助けようと待ち構えていました。暗い部屋で、襖の端から漏れる部屋の
灯りを睨んで、戸に手をかけて待ち構えていました。
少しして、母の短い悲鳴が聞こえました。心臓がギュッと締め付けられる
感じがして、思わず飛び出していました。
父は母の上に馬乗りになり、なす術のない母を平手打ちしようと手を掲げて
いるところでした。私は、父の母に対する酷さに内心ショックを受けながら
ただ戸をあけて喧嘩が収まるのを期待するしかありませんでした。
父は私の目の前で暴力は振るいましたが、私にふるうことはありませんでした。もし、それがあったら今の私はもっと不安定でしょう。
当然、母は父に対して気持ちがないので父を大事にしません。自分が生きるだけでも一杯だっただろうし、この状況から抜け出したい気持ちで一杯だったでしょう。男性の暴力は、女性の力の非ではないので、卑怯としかいいようがありません。母は沢山 裏切られたのではないかと今思います。
母が父を大事にしないことで、父は思い通りにならない母に苛立ち、
料理している母に背中から洗面器を思い切り投げつけたり、話し合いでは平手打ちしたり・・・。私がいても、そういうことをするので私も自分どころではありませんでした。ただ、ただ、家族が自分がどうなっていくのか それだけが毎日の不安で恐怖で恐ろしい出来事でした。いつかは、他の家庭のように自分にもいつか幸せな家庭が訪れるんじゃないか・・・そんな希望を持っては壊され、を繰り返していたと思います。
<1252> すもも ■2007年06月19日 火曜日 15時54分05秒
そんなこんなで、焼肉のしょうもない せっかく焼肉を食べているのに
怖かったという思い出が残っています。父もまだまだ若かったから、食べ盛りだったでしょう。今は分かります。しかし。
家に給料をまともに入れないのに、子供はいて育っていきます。
一体その分はどうしてまかなわれていたのでしょう。
母は、田舎の実家に時々連絡をして 祖母からお金を送ってもらっていました。そして、母は小さい私を抱えながら、できる仕事を探して必死でパートを努めていたと思います。歯医者さんで働いていました。資格などはないので、助手でしたが数年勤めて医者からは信頼されていたようでした。
少ないまかないから、私は生かされていたのだと今思いました。
祖母がいなければと、今は思います。
悲しい思い出の一つに、父の給料日の話があります。その日は、父の給料日。
しかし父は毛頭渡しません。今になって、どんなけもらっていたのかと聞くと、光熱費や食費を適当に見繕ったお金を数万、袋から引き抜いて渡してきたといっていました。それも猛烈な小額で、大変だったといっていました。
母は、父に直接給料を請求することができなかったようでした。なので
私に(お父さんお給料渡して、ってお母さんがいってるよ)と
みな家の中にいるのに 言わされていました。父は、子供に言われると簡単に
はむかうことができないので、母はそれを利用したのでしょう。
私が言っても、父は渡しませんでした(今は無いといっといて)
もしくは、蓋のあいた袋から数万とって、渡されたり。今思うと、鬼!!
って感じです。でも、父は家庭を本気でもつ気がなかったのでしょう
そうであった以上 それは必然な行為だったんでしょう。許せませんが。
<1251> すもも ■2007年06月19日 火曜日 15時41分58秒
父は、美食家で美味しいものを食べたがりました。
外食を好んだり、家の夕飯が美味しくないと、難癖つけたり、皿をひっくり返したりしたことがあったように思います。
外食は、一人では行きにくいので、私を時々連れて行きました。
母は連れて行かないのです。多分、お金を独り占めしていたからです。
朝マック、行きたくないのに日曜無理やり起こされて、父の付き合わされるのです。私は外食させてもらっているのだから得した気分になっていましたが、父と向かい合っているのは怖く、いつも大人しく言うことを聞く注意を払っていました。父の自由につきあう努力をし、自分の自由を主張、叶えてもらうことは難しかったのです。小学校時代の記憶です。
大同門の焼肉に一度連れてもいかれました。母には内緒です。ただ子供を連れて出かけるんです。家が苦しいという環境の中、真昼間に焼肉に連れていかれ、なれない紙ナプキンを首に巻き、父と向かい合って食べた焼肉は忘れられません。私は、あまり肉を食べさせてもらうことができませんでした。父がいいといったものに箸を伸ばす形でした。しかも、肉を両面たれにつけて食べたいと思い、それをした途端「両面つけたら、せっかくのいい肉の味が分からなくなるから、片面だけにしなさい」というのです。笑えます。当時、小学生の子供にそんなことが分かるわけもないのに、果てしなくワンマンだったんでしょうね。頭が良くなかったんでしょうね。今の私だったら、小学生の焼肉は、そんなにいい肉でなくても、美味しくお腹が一杯食べられて、美味しかったー!と叫べる位のお店に連れていきますがね。
<1250> すもも ■2007年06月19日 火曜日 15時32分04秒
私は、3人家族で一人っ子の女の子として育ちました。
両親は 母21歳 父 22歳 という早い結婚でした。
2人とも地方から関西へ出てきていて、数えると、父は大学卒業・就職と
同時に家庭を持って私が生まれた事になるので、(出来ちゃった)
だったのかな?今、気付いた・・・汗
 
それはいいとして。私が物心ついた時には両親の関係は不和だったようでした
 父はまだ若いので、遊びたい盛りだったようで趣味のバンド楽器や音楽に
熱中していました。狭いマンションの今と言える部屋には、父のコンポや楽器やカセットテープなどが メタルラックに沢山整理されていて、
父の部屋みたいなものでした。
父は、就職したてで安月給にもかかわらず、生活費をまともに家には入れて
いなかった。気持ちは分かるんです。今時は22歳〜といえば、これから給料で遊びたい年齢ですもんね。当時の父は、大学生時の友達がいながら
既に子供と家庭を持った身でしたので、思うように遊べなかったと思います。
笑っちゃうけど、土日の休日にはバンド練習に行くために 白い上下の
スーツにウエスタンブーツにギター サングラスという出で立ちで、
子供と遊ぶこともなく出かけていっちゃっていました。
家では音楽の練習。時々、友達がきてマージャンをしていたのも覚えています。あと、父はゴルフもしていました。一度だけ打ちっぱなしに連れていってもらったことがあったけど、一球だけ打たせてくれて、失敗したのを見て球惜しさに、後は打たせてはくれず退屈だったのを覚えています。
こうして思うと、ほんとロクデナシとしかいいようがないけれど
彼は彼で仕方なかったんでしょう。
許せませんけどね。
<1249> アーネスト ■2007年06月19日 火曜日 02時18分22秒
「帝王切開であんたを生むのに苦労した」と聞いたとき、母の苦痛に悶える顔を想像して気味悪くなった。だったら生まないで欲しい。生んだなら、そんなことを「あとから」言わないで欲しい。傷つくから。両親はただ役割モデル、ロボットして生きることを選んでいた。ただそれだけ、自分がロボットでいるためには、・・・いやもういいんだ。彼らは僕が生まれてきたことをinconvinientなことだと思ったかもしれないが、神はそう思っていない。
<1248> アーネスト ■2007年06月19日 火曜日 02時00分13秒
今も昔も感じるのは、何か新しい関係を持ったり、新しいことをはじめようとするとなぜか家族への承認を求めてしまうことだ。あるいは、そうする前にまず家族の問題をなんとかしなきゃというとらわれに陥ること。
<1247> ぜんまい ■2007年06月17日 日曜日 23時57分40秒
ずっと感じてた。
家族はおかしい。うちは変だ。
気づいてたのに。自分でなんとかしようとしてた。
理想ばかり求めて。
24時間365日、休むことなく支配されてた。
だから苦しかったんだ。だから辛かったんだ。
それがわかっただけでも、、、、よかった。。。。
あたし、悪くないかもしれない。
だからって家族の誰かを攻めることができないけれど。

よく母は言った。
「どうして何も話してくれないの。」
変な育児書を読んで、それをすぐ実行しようとして、できなぃとあたしのせいにしてまたキレだす。本に書いてあるとおりしたはずなのに、言うことを聞いてくれない、自分を認めてくれない。
あたしが母を認めなければいけない。
あたしが母を抱きしめなければいけない。

いきなり酒を飲んでわめき泣きじゃくって言う。
「あなたをこんなにも愛しているの。愛しているのに!」
ろれつもまわらなくなった母を見て父が
「お前が介抱しろ」
後始末。

家の中の嫌なことは全部私に後始末をさせる。
私はそんなために生まれてきたんじゃないのに。
<1246> こくーん ■2007年06月15日 金曜日 01時33分02秒
『両親が離婚したのは、自分のせいだ』
と言って、苦しくなる自分がいる。泣いている自分がいる。

母が言ったから。
「あなたがもっと言えば良かったのよ。私は言いなさいって言ったのよ」
「パパはあなたが許さないだろうから、一緒に来ないって言ったの」
父が言ったから。
「お前はオレが全部悪いと思っているんだろう!」

だから、私が悪かったの。
私が、もっとかわいい子だったら良かったの。
父が絶対に手放さないような。
私がもっと、言えば良かったの。
父と離れたくないと。

私が、私が…いなかったら、こんなことにはならなかったの。
そうすれば、弟にも辛い思いをさせなくてすんだの。

全部、私が悪いの。
<1245> トラミ ■2007年06月13日 水曜日 17時00分37秒
自分が長女であることに、すごく不満を感じる。
長女として生まれたのは、どうしようもないことだから良い。
問題は、家を出た後も「長女気質」で周りと接していること。
なんか自分だけが損をしている気がする。
他人に気を使えるのは良いことだけど、他人の反応に振り回されて、こっちまで疲れたり、逆に元気になったりするのは馬鹿げている。
境界線をつくる練習をしないといけない。
他人の感情にまで責任を持つことは無い、というのが分からない。
<1244> ラビット ■2007年06月13日 水曜日 14時59分15秒
家族という名の牢獄。家族全員からの心理的な支配。こんな言い方だけじゃ何の証拠にもならへんのもわかってる。来るがままを受け入れると言い聞かせてる。被害妄想なのかもしれん。映画のセリフも頭に流してみる。逃げるか立ち向かうかなら逃げた方が利口なのかもしるない。でも逃げかたさえも考えられない。
全然意味わからないし現実的な書き込みじゃないかもしれない。何故一人で戦うのかというセリフもあったな。でもじゃあ今誰に助けをもとめたらいいんやろ。カウンセラーかな、自助グループかな。けど今この辛さをどう処理しようか。
いい加減幻想をあきらめられたらいいのに。とっととここから離れられたらいいのに。もうええ歳やのになんでやろ。ダメなやつやな。
<1243> ペア ■2007年06月10日 日曜日 17時27分12秒
学校時代。悪夢の連続だった。悪夢でした。とにかく、不満のある子に目をつけられて、必ず友達になってはこけにされてきた。そういう子は親の前にいくと態度を変えたりした。そして、私をからかい、面白がったし、こんな悲しいことがあったの〜あんたなら聞いてくれるよねって電話を忙しいのおかまいなしにかけてきたこともあった。とにかく、私の感情と現実の周りの言う事とのギャップで先生の評価には友人のいる人に見えたでしょうけども、私は自分の感情を正しいと思えたことが一度もなく、いつも搾取されている気がしたし、いつも下の立場にいかないように細心の注意を払っていたし、男の子の視線もすごく不快なのに、好意を持たれたら、期待はずれにならないよう、本当の自分を見て嫌われたら私は生きていけないから、好意を持続させようと、躍起になって、好きでもないのに、へたへたで、勉強も手に付かなかった。
<1242> ラビット ■2007年06月05日 火曜日 14時13分30秒
どう言えばわからないけどコントロールされつづける。今そのコントロールをどういうふうにしてくるのかをあえて言われるがままにうけている。私のする行動を丸まる読まれていると仮定してやっている。父
母 姉からだ。自分の本心はそれをすることで何を望んでどんな意味があるかはわからないけど。でも感情の圧迫される感じと微妙なイラつきを必死でごまかし抑える。ここまで私をゆがませたもの。
<1241> アーネスト ■2007年06月02日 土曜日 01時01分41秒
母親は、彼女自身、自信がない(不安の強い)人間だったと思う。自分に自信がないから自分の子どもを自分に従わせようとする(反抗されるのが恐い)。「お前のことが心配だから(お前が私を不安にさせる)」という言葉に、ものすごいうそ臭さを感じる。心配だからなんだというのだ?それは、あなたが持っているあなたの不安でしょう?でも本当のところ彼女が何に不安を感じていたのか知らない。もう真実を知ってしまいたい。

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This script written by Shintaro Wakayama.