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私たちの物語 - 家族過去ログ No.61
メッセージ数:1220件

<1220> とびげり ■2007年03月22日 木曜日 22時21分10秒
私、普通になりたい。本当の自分の心で笑ったり泣いたりしてみたい。自分を愛してみたい。相手を信じてみたい。
夜は嫌だった。酔った父が暴れる。今日こそ家族の誰かが死んじゃうかもしれない。でも父は暴れながら、一番小さい私にだけは笑って「大丈夫だ」って言った。なにがなんだかわからないよ。
母は私を溺愛しながら操作し、母の歪んだ愛情を受ける私のことを姉は嫉みながらも操作し愛した。
あんな家なのに私は頑張ろうとしてた。はじめから壊れてたのに、壊れないように頑張ってた。
<1219> アーネスト ■2007年03月22日 木曜日 12時03分01秒
自分で自分の世話をすること、それが大事だったはず。
家に適応するのに、かなり無理な人格の捻じ曲げ方を自分に課したのだ。
<1218> アーネスト ■2007年03月22日 木曜日 12時00分12秒
私にとって、家族とは私が私自身の世話をすることを妨げるものだったと、最近、感じている。 本来 ―と言っても何を本来とするのかは疑問だが― 安全な場所で養育してもらうことを僕は望んでいたのだと思う。しかし、僕が育った場所は、安全ではなかった。もっと自分自身に関心を寄せていくことができたなら・・・いや、僕は安全の確保の仕方を誤ったのだと思う。大体、13歳やあるいは17歳の時に、家を出ることなど考えられなかった。仕方ないのだ。返す返すも。
<1217> もときち ■2007年03月19日 月曜日 16時44分19秒
小学5年の夏休み、弟が参加していた障害者グループの小旅行があった。
父親は面倒見がよく、リーダー的存在だった。

私は帰りのバスで乗り物酔いをしてしまって、下車後、我慢していたものを一気に吐き出してしまった。

父親は助けてくれなかった。
「バスに乗る前にソーセージなんか食べるからあかんのや」と責められた。
母が近くのパン屋さんに水をもらいに行って、道の掃除までやっていた。
でも、何もしようとはしなかった。

それが最近よく思い出す出来事です。
<1216> とら ■2007年03月19日 月曜日 08時41分37秒
1215は現在の話。今回は過去の話。父はギャンブル依存、仕事依存だった。遊び好きで、人もお世話好き。まあ、共依存だった。母はすごく心配性でよくちちのさきまわりをする。父は子供、かなり子供。母は父の母親をやり、俺たち三人兄弟の母親をやる。みごとにAC家族、見事に皆共依存。母は愛情を与えるのが苦手だった。父は怒ってばかりいた。自己中で他人には優しいが、母や、子供たちには無関心。母は教育熱心で、よく父をサラリーマンのだんなと比較し、父を子供の前で責めていた。父は会社が嫌い。母は会社が好き。父は根っから自営業思考で、仕事はうまいが、金銭管理が下手だった。母は金銭感覚がいいが、融通が利かなかった。俺はこの夫婦を見て、金銭管理のうまい方法を学んだ。二人を足して二で割るとちょうど良い。幼心にそう思った。後の弟も妹もそう思ったに違いない。彼らは計算高い。でも、最近、妹がおかしくなっている。金銭感覚が狂うときがある。会社でも高慢になって、同僚に注意されるらしい。内心、ざまあみろと思った。昔、妹と隣同士でアパート暮らしをしていた。俺は妹ほど働けず、妹に世話をしてもらった。かなり妹に依存していた。でも、問題が起きると俺は妹の話を聞き、助言していた。妹は偏屈で強がりさんなので、一回はけんかになる。でも謝ってくる。なかなか、俺を兄として認めるのが難しいらしい。未だに、そういう気持ちがあるらしい。こまったものだ。弟は現実派で俺を兄として尊敬してくれる。できた弟だ。彼とは仲がいい。今は、
お菓子を作る会社の準社員だ。週6日働き、実家から出る準備をしている。一番頭がいいのは弟だろう。でも、なかなか自分の意見がいえないのがかわいそう。最後の最後で口を開くのが弟で、一時期、彼が内のリーダーだった。たった一言で、うちの家族を説得するのは見ものである。今は、父がリーダーで、俺がサブリーダーと言う感じになったが、それまで家族は子供が責任を負っていた。まさに親子逆転家族だった。機能不全、極まれり。まあ、うちはこんな家族。書いていて泣きたくなった。過去、俺たち3人兄弟は大変だった。今思うと、よく親の面倒を見たと思う。
<1215> とら ■2007年03月19日 月曜日 08時10分25秒
父は楽天家、母は心配症まあ、なんと見事な組み合わせなんだろう。典型的な日本人夫婦と言うところか。父はB型で、行動的。母はA型で、すごく慎重。俺はAB型、慎重でよく計算し、さっと一瞬で動く、決断する。血や遺伝はやはり無視できないものだなあ。最近
母の世話焼きが弱くなった。俺も母の気持ちを考えながら、自分の意見を言うようになった。一番変わったのは、俺自身かもしれない。母は優れたカウンセラーだ。もともと教師
が出た家系である。人を見る目があるのは当然かもしれない。でも基本的に二人とも農家の出で、ものすごく地道である。俺の地道な思考もこの二人の遺伝子と教育のせいかもしれない。うーん、やはり感謝しなきゃいけないのかな。まだ、抵抗がある。無理にデモしたほうがよいのか。それが本当の感謝か?悩むところである。自分には感謝できる。
<1214> こくーん ■2007年03月17日 土曜日 18時29分27秒
ママは理解しているフリをする。
でも、どこか他人事だよね。
『いつでも貴方の味方』
っていって、お財布を投げ出そうとするけど、
私が望んでいるのはそんなことじゃない。
なのに、私はまた、ママの前ではいい娘になっちゃう。
ママ。
私が死んだら、私のお葬式くらいは、最優先してくれる?
他の誰かが病気でも、死んじゃっても、私が死んだときくらいは。
<1213> らりほ姫 ■2007年03月03日 土曜日 15時05分52秒
こんにちは。私は、父が母に暴力を振るう家庭で育ち、母への対する暴力を見て育ちました。
その影響もあるのか、二つ上の兄には小さいころから、ストレートに言えば奴隷にされ、アレをやれ、と「これくらい自分でやれよ」ということまでやらされてきました。
疲れていようが、やりたくない、という意思表示をしようが関係なく。
それだけではなく、「お前はダメだ」とか挑戦してダメだったことに対して
も、待っていました、とばかりに「それ見ろ、ダメだと思ったんだ」と
言われてきました。
だから、中学生の頃、図書館に行けば勉強も出来て、兄からの支配も逃れられるので、長蛇の列を並んでも塾とか習い事とか行くところがない場合、言って、母も働いていたので、母が帰ってくるのを確認して二人きりの状況を避け、帰ってきていなければ、帰ってくるまで家のそばで時間を潰して帰っていました。
私は、そこまでしていたので、実家に帰っても帰らなくてもその辛い思い出は消えません。
高校を出て、逃げるようにして、家を出た訳ですが、高校の時、何を考えていたと言えば、いかにして、どうやったら家を出られるか、ただただそれだけです。
家を出て10年位経ち、母が入院をして、私は嫌々ながら、嫌な思い出たっぷりの家に戻ったりして母の洗濯をしたり、家のことをしてます。
母には、これまでも「戻ってきて欲しい」と懇願されてきましたが、その度にはねのけ、今も普通の状態だったら、すぐにでも家に帰る、というところですが、10年以上兄に耐えてきて、その嫌な思い出の残る場所に戻ることは出来ません。
親戚などは、あんたが家に戻ればいいんだから、とか、兄にもやっと、「あんたのせいでトラウマになって家を出たんだよ」と言いますが、加害者だもの、被害者の気持ちは到底分かりはしませんよね。
もう昔のことだから、忘れて前に進め、と言われますが、今をもって忘れることが出来ず、以前は夢にまで出てきてうなされたこともありました。
色々と面倒を見てくれている保健師さんに言ったら、言われるとは思いましたが、アダルトチルドレンでは?と言われました。
父が母に暴力を振るっているのを見て育ったので、それでアダルトチルドレン?と思っていましたが、実家に戻って母の面倒(直接的にではないですが)を見てから、兄の言葉の暴力によって、胃が痛くなること、数回、そして、感情を抑えられなくて、普通でいられなかったこと1回。兄と一緒にいるとストレスになるとつくづく実感し、病院の洗濯物を実家でやればいいのですが、兄がいる気配があると、病院のコインランドリーで洗濯をしています。
母が1月の下旬に手術し、手術当日にも言いたいことを言われ、もう我慢の限界だと思って、以来、兄とは口もきいていないし、会ってもいません。兄に直接、一緒にいることがストレスなんだと言うと逆上するので言いたくても言っていませんが、保健師さんがはっきりと言ったようですが、分かっていないようです。
本当に、関わりたくありませんが、関わらないわけにも行かず・・・本当に苦しいです。
私は、嫌だと思いながら、知らないうちに兄のコピーになっていて人にことごとく嫌われてきましたが、叱ってくれる人がいたおかげで、人を素直に褒めることが出来たし、断ってもいいことが断れなかったのも、断ることが出来るようになり、変わったと思います。
だから、昔とは違うし、言えば今だったら変わるかも、と思って一般常識、人に対する節度を普通に言っても「お前に説教される筋合いはない」なんて言うので、言うだけ無駄だと改めて実感しました。
私は偉そうに言う、兄の態度が嫌なので、相手が年下であろうと、自分より立場が下であろうと、言うまい、と思って、同じように兄にも言っていたのですが、「説教している」と取るんですから。もう本当に嫌です。
<1212> 紅葉 ■2007年02月26日 月曜日 19時09分31秒
いつも行き当たりバッタリの指図ばかりして、一貫性なく、面倒になったらその責任をいつも私になすり付け責任逃れする母。
とても憎いし腹が立つ。
一度で良いからきちんと責任とって欲しい。
母は卑怯者だ。
<1211> アル ■2007年02月25日 日曜日 23時39分46秒
もう、何日も前、母からメールが来た。
ネットで病院を調べて欲しいとのことだった。
でも、理由がない。ただ、「調べて」だけ。
調べて返事したら、ただ、「ありがとう」だけ。
小さい頃からいつもそうだった。肝心なことは何も知らされない。
親だけじゃない。学校でも、職場でもどんな場でも同じだった。部外者扱いだ。でも、周りの人間には「私は知っている。」ことになっている。
誰からも聞かないのに知ってるわけないじゃない。変わったことがあったら教えてくれなきゃわからないじゃない。

いつしか、そんなこと自分は知る必要がないんだと思うようになった。

そして後になって、つけが一度にドッとやってくるわけだ。恥をかかされたり…、責めたてられたり…、バカにした視線をあびせられたり…。嫌な感じだ。

で、また今まで以上に肝心なことは知らされないという悪循環。

私は透明人間。相手の都合のいい時にしか見えてこない人間なんだ。いてもいなくてもかまわない人間なんだよな。

ひどいじゃないか、お前らみんな嫌なやつだ。
<1210> とも ■2007年02月18日 日曜日 17時15分53秒
おかあさんが
さんかん日に来てくれなかった
わかってる
しごとだって
へいじつ休めないって
でも
いちばんかなしいのは
「おかあさんがさんかん日、来てくれなくて
さみしかった!
こんどはぜったい来てよね!」

すなおなきもちをいえないことだった

私 いつもがまんしていたんだよ いつも
わかってる
おとうさん
こうたいきんむだからさんかん日来やすいけど
他のおかあさんのあいだで
肩身せまいのに
がんばってきてくれたこととか

でも
いちばんかなしいのは
さみしいきもちにふたをして
しらんふりしなきゃっておもっていたこと
ほんとうの
くやしい かなしいきもちを言うのは
わるい子だっておもってたこと
それはわるくち
ふへいふまんだっておもっていたこと
「私は聞き分けのいい いい子だったから」
<1209> みゅー ■2007年02月13日 火曜日 02時26分25秒
今、この居間には誰もいない。すごい静か。明日から、いわゆる「平日」みな当たり前のように出勤し、イヤイヤながらか学校に行く。兄は明らかにイヤイヤながら、というか本人が「嫌だ。疲れた。むかつく」そう口にしてるんだから「学校」に行くのが嫌なんでしょう。仕方ないよ。だって前から「本が読めない。読むのが遅い。頭に入らないし意味分からなくてイライラするし「神経症」が出る」って高校の時から言ってたもん。結局、高校も「兄のプライド」から偏差値高いとこ選んじゃったし。「母親A子」が「あの子の性格だから」で片付けなければ、兄が中学生の時から専門的なケアが出来たし、高校だって無理して偏差値が高いとこ入る必要だって無かった。「A子」が「夫になる人間」をちゃんと選んでれば「A子」が「片親のごとく」一人で子育てすることなんてなかった。中学の時から兄の事、夫婦でちゃんと見てケアしてれば「アOO」として今頃本人が受け入れた上で生活が出来てたかもしれない。「動物の行動すら分からない」。そういう事が、ちゃんと分かっていれば、あたしのたからものだって虐待されずに済んだかもしれない。もうちょっと長く生きられたかもしれない。

兄が、あたしのたからものの、おともだちを虐待してたのは今でも、あたしの中では許せることではない。でも「本来の責任は?」となると、やっぱり「母親A子と父親」だ。
今になって思う。「なんで、あたしは今まで、こんな人間としても最低な人達に土下座したり、服従したり都合のいいように扱われたりしてたのか!情けない!」今は本当にそういう気持ちで、いっぱいだ。  
<1208> zzz ■2007年02月09日 金曜日 23時38分03秒

<1207> sky ■2007年02月08日 木曜日 18時27分17秒
思えば、父は私が小さい頃からお金の話ばかりしていた。
父に逆らえば「誰の金で大きくなったと思ってるんだ」、早く大人になりたかった。
14歳でバイトを始めて、自分の稼いだ金で好きなことをして家を出て、
結婚してやっと親から離れられると思ったのに
今度は「今まで育ててやったお礼をしろ」と言い出した。
父親いわく「お礼」とは「同居して親の面倒を看ろ」・・
どこまで私を追いつめたら満足いくんだろう。
面倒看るったって、まだぴんぴんしてるし。
父親も母親も私の幸せのために同居するんだ、
夫と私で暮らしたら、絶対に夫は浮気すると言う。
狂ってるよ。自分らが寂しいからでしょ。
いつも人任せで、いつも酒に逃げて現実を見ないで、
逆ギレして八つ当たりして暴力ふるって。
小さい頃、父親から受けた暴力で頭を数針縫ってるのに
私が明るくしてたのは母にも暴力をふるってたから間に入ってただけ。
演じてたんだよ。「お前は結婚して暗くなった」じゃないよ。
これが本当の私。親なんだからそろそろ気付け。もうこれ以上、子供に
気を遣わせるな。
この歳で過保護な親なんて気持ち悪い。
介護必要じゃないし。まだぴんぴんしてるし。
なんで一緒に居るのかわかんない。
親孝行の方法なんていくらでもあるよ。
産んでもらったことは感謝してる。
だからたまには娘の幸せが自分らの幸せとか言ってみてよ。
お願いです。もう解放してください。

<1206> ayako ■2007年02月07日 水曜日 22時44分33秒
お寺に行き、供養も終った。何か疲れた。けど気持はスッキリした…あの子達も喜んでくれてるはず。お坊さんから区のお寺マップ貰ったから少しづつ巡ってみようかなと思った。 仏教は心の故郷です とどこかでポスターで見たけどそう思った。先祖供養もお寺にお参りに行った時にご挨拶すれば良いと解ったし。もしかしたら私はどこかの宗派に属するかも知れない。自分の考えと合うのがあればだけど
<1205> ayako ■2007年02月06日 火曜日 18時13分23秒
中絶した事が今心にのしかかり、悲しい。明日地元の寺でお経だけあげてもらう事にした。これであの子達も浮かばれる。私の気持も。私にとっては明日はお葬式。今回お寺の方と話してお礼のお金を入れる袋から当日の服装まで教えてもらった。無知な自分が悲しい、親が親戚付き合いしないからそういう事も知らないし…宗派も解らない。親は墓参りとか行かないし、法事も出ない。先祖と縁を切って生きてる人達なんだと実感。先祖は親を見て悲しんでるのではないのかと思う。ま、私の知ったこっちゃないけどね。
<1204> はな ■2007年02月02日 金曜日 08時19分53秒
私があなたを愛していると思っていたのは間違いでした。
あなたに対する感情は、愛というより、恐れに近いように思います。
あなたも同じ思いではないですか?
それでも私はあなたを大事にしたいと思います。
<1203> 00 ■2007年01月23日 火曜日 00時44分55秒
母親の兄が田舎である母方の祖母の家に遊びに来た。
叔父は、早死にした末の妹である(母親)が可哀想でならないらしく、何不自由なく実家では育てられてきたのに、嫁いだ婚家では姑にいびられてストレスからガンになったと、私に言って、晩酌をしながら涙ぐんだ。

お前が生まれたから私は不幸だと、13年間、呪文のように娘に言いつづけて、生活に関係するスキルを教えるのを放棄していたせいで、同年代の子供より無知な子供に、嘲笑をあびせ、些細なことで暴力をふるう女。ストレスのはけ口に子供を利用し続けたのが、あんたの「可哀想な妹」なんだよと、呆れながら聞いていた。
母は厳格な祖父と出来の良い兄に「かわいい子」であるように教育されて、若い時分に結婚した。婚家では、「かわいい子」として振る舞っても、だれも認めてくれなかったのだと、成人してから気がついた。
ある意味母も、私同様被害者だったのだろう。
しかし、彼女のことをどうしても気の毒だとは思えない。
<1202> ayako ■2007年01月15日 月曜日 23時09分15秒
三輪明宏がヨイトマケの唄を歌った。涙が出て来た。ストレートに愛が溢れてた…私に家族愛があるとは思えないけど、ヨイトマケにはあった。感じ取れたから泣けたんだ。
<1201> ayako ■2007年01月05日 金曜日 21時40分05秒
親戚の家で年越しした。母の姉つまり叔母と一晩寝ないで話した。母と父は知り合いの結婚式で知り合ったと母から聞いていた。事実は叔母がホステスしていたお店の客が父で、叔母の紹介で母と知り合ったのだ。ずっと嘘つかれてた事にショックだった。母の妹は昨年他界したが、母の妹の産んだ子は実は不倫相手の子で籍を入れてる相手の子では無かった。姉から私は聞き非常に驚いたのだ。叔母に話したら叔母は「ビックリした。まさかあんたの口から聞くとは思わなかった。」その不倫相手も叔母の客だったそう…不倫相手を一度見たが従兄弟に生き写しで間違い無い!という位。他界するまで関係は続いていたらしく、遺品に二人で写った写真があったそう…叔母はすかさず抜き取って捨てたそう。 他界した叔母が少し羨ましくなった。親としては無責任だけど好きな様に生きていたから。不倫とはいえ好きな人と会えていたし… 従兄弟は知ってか知らずかニートだけど。 事実は小説より奇なりというけど母の家族ってもっと凄い事実がありそう…

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This script written by Shintaro Wakayama.