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私たちの物語 - 家族過去ログ No.6
メッセージ数:120件

<120> いちご ■2003年11月22日 土曜日 00時10分23秒
母親の顔ばかりうががっていた。テストの点が悪くてなかなか家に帰る事が
できなかった。家に帰ったら、暴力をふるわれた。包丁ももちだされた。自分がこの世に生まれてきていけない気がした。
<119> かまちゃん ■2003年11月21日 金曜日 18時44分01秒
母親の言った言葉がずいぶん影響される自分が要る。言うとおりしなければならない自分がいる。どうせ俺は自分では何もできないクズだから。言うとおりしなければまたこの家パニックになる。
<118> j ■2003年11月21日 金曜日 17時12分49秒
俺の母親うざい。うるさい。中学の時さよくしかられた。別に中学に行かなくてもよかったら登校拒否すればよかった。高校も登校拒否。人生も登校拒否したいよ。おれは他人がうらやましい。いつも思う事がある。みんなは俺じゃなくてよかったね。俺なんか最低な人間だもの。生きていてもしょうがない。べつに生まれなくてもよかったと母親にいいたい。
<117> 埴輪 ■2003年11月20日 木曜日 23時38分58秒
お父さんの「子ども嫌い」は
お母さんも不安がってた。
…なんでそんなのと結婚したの?
<116> ミーオ ■2003年11月18日 火曜日 17時40分40秒
アルコール依存症の父、歳をとったせいか、今は野菜作りに嗜癖中。
毎週のように夫婦2人暮らしの私の家に、食べきれない量の野菜を運んできます。
夫は喜んで食べてます。私も最初は家計も助かるし素直に喜んでました。
でも次第に不快になってきてしまい・・・。
まずは夜10時過ぎに「これから持っていく」の電話(何時だと思ってんの)。
我が家の在庫状況を聞き、「まだ全部食べてないのか」と責めの言葉(ウチ2人暮らしなんですけど)。
「喜べ」と言わんばかりの態度に、応えきれないことに罪悪感を抱く自分に、疲れてしまいました。
<115> lala ■2003年11月17日 月曜日 01時48分38秒
自分だけが苦しいと思わないで、私がちゃんとしていると思わないで、私は正常な状態じゃない。私はあなたたちのためにいるんじゃない。好きだよ。私の事に気づかなくてもいいから、早く普通の人になって。自分で首を絞めるのはやめて。逃げないで。苦しい
<114> Nee ■2003年11月14日 金曜日 08時11分11秒
統合失調症の母親、その母から子供を盾にして逃げ回ってる父の元で育ちました。
私が狂った母に殺されそうになったり心中の道連れにされそうになったのに
父はその問題から逃げてました。(母の発病当時私は7〜8歳でした)

父と母は離婚しました。
私と父と4歳上の兄と暮らし始めました。
しかしその家に母は狂って何度も押しかけて来ました。
本当に怖かったです。
父は他に家を借りて出て行き、お金だけ渡されて中学生の私と兄で暮らしていました。
兄は私が高校生の時家を出て行きました。(父との不仲が原因で)

私は私を殺そうとした母親が狂って押し掛けて来る恐ろしい家に一人だけ残されました。
暫くして私は堪らなくなりその家を出ました。

父は自分のところに母から電話が来出し迷惑だったので私の居場所を母に教えました。
まんまと父は逃げたんです。兄も同じでした。
母はまた私を追いまわすようになりました。

・父は母親から逃げる為に子供の私を人質にして母にあてがいました。
 (父は自分が逃げる為に私を使った)
・父は私が母の事で悩んでると母と同類とみなし攻撃しました。
・父は私が父の味方でないと私を母の同類とみなし攻撃しました。
・父は私も母を攻撃するように仕向けました。
・父は自分を「自立した人間」だと私には見せていました。
・父は単に逃げていただけでした。

父は私が精神的な助けを父へ要求すると「自立しろ」と言いました。
私は母と同類とみなされると悲惨な事になるので硬い殻を作って武装して強い人間のフリを
して生きていました。「自立してる」と見せかけて生きてきました。

自分がACだと気付いたのは1週間前です。
父が逃げていた言う事に気が付いたのは3日前です。
父のしていた事を↑に書いた様に思い始めたのは3日前です。

昨日、父に電話して「あなたは逃げてましたね」と言うと案の定、
「お前もおかしくなったのか」「いい歳してそんな事を言うのか」と言いました。

居たのに頼りにならなかった父をもう居ない者と考えるようにしました。
そうしたらなんだか楽になりました。
でもまだまだ父への怒りはおさまりそうにありません。
どんどん怒りを出そうと思います。
・・・・良いのかな?
<113> 霧の森 ■2003年11月14日 金曜日 02時16分09秒
こないだ、児童虐待のテレビ番組を見て泣いていた母。
今日怒りに任せて怒鳴りちらす母。

テレビの中で、モザイクをかけられていた母親たちに自分がそっくりだということに気づきもしないのだろうか?馬鹿だなぁ。
私はとうの昔にあんたのこと、親だって思ってない。私の心の中に、親というものがすでに存在しないのだ。とっくの昔に殺してしまったよ。でなければ、自分が自分を殺すしかなかったからね。今だって、あなたが私の親であるなら私はもう、自分で自分を殺すしかないよ。関係ない人間だからこそ、素通りもしてやる。愛情をうまく得られなかった子供は「親」という存在に依存しまくる。少なくとも私はそう理解している。それは、徹底的に従ったりするという形をとったり。きっと根底にはいつかわかってほしいとか、いつか気づいてくれる、とかいつか本当の愛を、ズレた愛(もしそれが「親」の中の最大限の愛だとしても)じゃなくて、本当の愛をくれるんじゃないかって思いから逃げられないからだ。

だから心の中から「親」というものを消してしまったんだ。だからもう、「母」とやらとも話ができる。でも、辛かったよ。まだ未熟な、満たされない状態で自ら飛び立つことを選んだんだからな。自分で選んだからには、もう言い訳も逃げもできない。そして自分の足で立った瞬間にもう、戻れないし戻ったら死ぬ事を強く強く感じた。

怒り散らす「母」。こみあげる嘲笑と、空虚が広がる。乾いた笑いの半面で、そんなあんたを見るたびに、私の中の幼い子供(幼い日々の記憶)が泣くんだ。
<112> 那皇 ■2003年11月12日 水曜日 17時33分32秒
いつになったら本当の自分を母親の前で出せるんだろう。
何も言えない。逆らえない。
「母親が自分の為を思っている事」だって気付くと、嫌と言えない。
父さんや他の家族には、言いたい事言えるのに。
ヤニも、ネタも、暴走も……全部秘密でやってきたけど、母さん。

俺の腕にある火傷に、
俺の歯が溶けている事に、
俺の部屋にある特攻に、気付いてますか?

母さんは俺の為を思って色々やってくれるけど、俺はそれが苦しくて仕方がないよ。
俺は犯罪者なのに。勉強しないのに。学校いかないのに。
「見捨てて下さい」。それすら言えない。

何も伝えられない、心の弱い子供で、本当に御免なさい。
<111> しろん ■2003年11月11日 火曜日 01時53分01秒
私の母は昔から“人の為に”がモットーな人だった。
人の為に自分を犠牲にして、困っている人には必ず手を差し伸べた。
いつも元気で、周りに決して不満を漏らす人ではなかった。
・・・・でも家族はたまったものではなかった。
母は家族よりも“他人の為“に生きる人だった。
他人の為にいつも私達に犠牲を強いて、苦しんでいる我が子よりも他人の子の方に駆け寄った。
家ではいつもくたびれていて、よく愚痴をこぼした。
母はいつも他人の為に忙しくて、私が学校から帰宅しても家に居なかった。

私はまだ小学生の頃から、そんな母の代わりに食事を作ったり食器を洗ったりした。
“人の為”、“他人の為“って私達はあなたの社会奉仕の犠牲でした、お母さん。
私達はあなたの愛情を受けるに値しないほど、見捨てた存在でしたか?
他人に「いいお母さんだね。」と言われて訂正したくなったことがある。
「ううん、いい母親じゃなくて、ただのいい人です。」

寂しかった。なんで私より他人ばっかりとひがんだ私。
私は悪い人でしょうか。
<110> のり ■2003年11月10日 月曜日 22時11分58秒
小学校5年生のとき、クラス中の皆から
「お前だけいつも無表情だ」と言われて、自分が変わっていることに気づいた。
それまでは、家族という小さな冷たい世界にばかりいたから
これが普通だと疑いもしなかった。

笑ったり、泣いたり、褒めたりなんて無い家庭だった。
他人を思いやるなんて、そんな発想さえ思いついたこと無かった。
殺伐としてて、アパートの隣人て感じだった。

褒められたり、抱きしめてもらった記憶は全く無い。
覚えているのは「お前は異常だ!」ばかり。
一度でいいから褒めて欲しかった。
<109> かず ■2003年11月09日 日曜日 00時30分32秒
いつも、壊れてもおかしくないと思っていた。
多分私と妹がいなければ離婚していたと思う。
そう実際に言われた事もあったし。
だから、生まれてきちゃいけなかったんだと思っていた。
私が生まれたから、結婚してしまったんだと思っていた。
憎しみ合って、傷つけ合って、損ないつづけて。
でも、誰も何も変えようとはしない。
自分を哀れんで、誰かをうらやんで、どこへも行けない。
これが家族なら、私は、一生家族なんていらない。
愛した人に暴力をふるうなら、誰も愛したくない。
<108> そら ■2003年11月06日 木曜日 13時44分07秒
私の家族。
ごくごく普通の家族だと思っていた。
けれど、普通じゃなかったのかもしれないと思う。
認めて楽になりたい自分と、認めることが怖くて仕方のない自分がいる。

問題があるとは思っていなかった。
それが普通だと思っていたし、何が問題かなんて知らなかったから。
でも、どこかおかしいと感じていた。
だけどどうすることもできなかった。
そんな経験が、そんな家庭で育つことが、自分という人間形成にまで影響を与えるなんて考えてもなかった。
家族が与える影響の大きさなんて気付きもしなかった。
そして今、「自分はACなのかもしれない」と思う自分がいる。

家族のことを話すといっても、何から話せばいいかなんてわからない。
私の家庭は目に見えて問題を抱えていたというわけではないから。
そう思いたいだけなのかもしれないが、わかりにくい、見えにくい問題だったと言えるのかもしれない。
私以外はきっとそう感じてはいないだろう。
明確に問題を抱えた家族だとはきっと思っていない。
私だけが感じている、「うちは機能不全家族だ」。



<107> 埴輪 ■2003年10月31日 金曜日 17時39分52秒
父親の暴力が問題の一番の本質ではない気がする。
確かに、殴られまくったけど・・・幼稚園児の頃、父親に殴られた記憶はない。
父親の暴力がひどくなったのは、きっともっと後の話だ。
にもかかわらず、私自身は幼稚園児の頃からいろいろ違和感があった。

病弱で何度か欠席、入院。幼児期から今にいたる慢性的な便秘。
幼児期から今にいたる慢性的な頭痛。小学校高学年まで続いた夜尿症。
一回り小さかった身体。貧弱な記憶力。運動音痴・・・。
じゃあこれは一体、何が原因?
少し支配的だった母親を存在させるために私は色々と不具合を持った?
母親は、私が中1の時に病気になって体と言葉が不自由になった。
そのことが生き辛さの大きな原因と思っていたけど もっと小さい頃から私は生き辛さを感じていた。
根本的な原因はどこにあるんだろう。過保護でやさしかった(かつ支配的な)昔の母親のことを思い出す必要があるんだろうか。
<106> kyky ■2003年10月31日 金曜日 02時56分54秒
今日も父親と言い争いになった。
正直、殴られるんじゃないかとビクビクしながらも、
口論せずにはいられなかった。
「次殴ったら警察呼ぶ」って台詞と行動を用意している自分はやはりおかしいんだろうか。
前に殴られたのは半年くらい前、何発も大声上げながら夜中に。
けんかのキッカケはくだらないほど些細なことだったけど、
筋の通らない言い合いで埒があかなくなると、「もうええ!やめや!」と一方的に話を打ち切るか、殴るかのどちらか。
今日は勝手に打ち切られた。
一度ほんとに警察呼びたいんだけど。何かが変わるかな…
(警察の方を軽く考えてるわけでは決してないです。むしろ逆です…)

何かあったら必ず自分以外の誰かを悪者にする。
何かあっても絶対に謝らない。
親と通じ合ったなんて記憶はないなー。
昔は人並みに家族で出かけて遊びに行ったけど、怒られて殴られた時に感じた感情の方が鮮明に覚えてる。

母親は、何を言っても「自分はわからない」としか言わないか、
父親と同じことを繰り返すか、黙って見てるだけ。
そのくせして、「○○しなさい」とやたら介入してくる。

いつか両親を見捨てそう…と思いながら、その発想自体がすでに見捨てていることになるんだろうかとも思う。
そろそろ、自分を支えていてくれた現実逃避の趣味は止めて、少しずつ自分を見つめて認めていこう。
その結果であるなら、受け入れられる。
<105> 埴輪 ■2003年10月31日 金曜日 00時39分53秒
とりあえず、何はともあれ、私は父親には殴られて育った。
それが世間的にどの程度のことなのか、実はよくわからない。
父親と私の関係は「上司と部下」。これが一番ぴったりくる。
最近では、私も大きくなったから一人の人間として扱ってくれているけど、親子愛、と聞くとやっぱり首を傾げてしまう。

殴られたことについては、実はいつどこでどんなふうに、というのは覚えていない。
ただ、ことあるごとに殴られたなーという気がするだけ。

そうだ。小3くらいの時、私がバレーボールのまねごとをして、立方体の枕で遊んでいたら
父が食事中で、そこに誤って枕が食器のところへ行ってしまったことがあった。
その後、ボコボコにされた。
もちろん私が悪いのだけど 今冷静に考えてみると8歳とか9歳の子供がしたことって
そんなに逆上する必要があったのだろうか。
私だって、やっちゃうかもしれないけど、一応冷静に考えてみるに
私なら、怒るだろうけど「人が食事してる時にものを投げてあそんじゃダメだ」
ということをまず伝えるってことを考える。
そこを何も言わずに4,5発グーとかでなぐるわけだから・・・
与えられるべき罰を、過剰に受けた。というか、父親の個人的感情を含んでいたと推測してもかまわないはず。
父親の、過剰防衛。ん?防衛はおかしいな。私は父親を意図的に攻撃したわけじゃない。
「お前のどの部分がわるいか」ではなく「お前はじゃまだ」というメッセージになっていたわけで
ようするに、しつけとしては有効だとはとても思えない。
<104> 埴輪 ■2003年10月24日 金曜日 16時59分45秒
そういえば・・・。
自分が子供を持ったら、ということについて姉と話したことがある。
「やっぱり親ならこどもを殴るべきだよね、ナメられたらダメだし。
親に殴られたことがないこどもはロクな人間にならないよ」
という結論を出した。中学生くらいの時だったとおもう。
今は二人とも、もっと明るい意見をもっているけど
あの時のことを思い出すと・・・・・・。
ACを自覚してよかった・・・。
<103> 霧の森 ■2003年10月23日 木曜日 02時29分46秒
最近、どんどん家族のことが他人に言えなくなってきた。昔は自分のことしか考えてなかったし、そんなに家族が酷いなんて思ってなかった。そう、思えたら生きていれなかったよ。つらいなんて思ったら、溢れてしまうじゃない?張り裂けてしまうじゃない?
ちっともつらいなんて思わなかったし、タブーにだってできなかった。
でも最近、人に言うと、カワイソウだと思われたりする。カワイソウ?カワイソウなの?わたしは酷い目にあってたっていうの!?って激しい怒りがその人に対して湧き上がってしまう。私は「つらくなかった」のになんでそんなこと言うの?って泣き叫び激昂する。
それに、こないだは相手を驚かせてしまった。ちっとも驚くなんて思ってなかったんだ。私は私の家でしか生活をしたことがなかった。だからそんな驚いてしまうようなことなんてわからなかったんだ。わかれなかった。でも、家族の話を聞いた人は本当に、本当にびっくりして傷ついたんだ。ほんとうに、話の途中でポロっと言っちゃっただけなのに。
私はそんな話をしちゃったんだ・・・・。

もう、言わない。変なイメージがつくのも困るし、優しい人を傷つけるのも困らせるのもびっくりさせるのも嫌。
でも、タブーだと思うと、つらくなってきた。そんな家族だったんだ。知らなかった。半分は知っていたかも。でも、半分は本当に知らなかったんだ。
<102> まんまる ■2003年10月21日 火曜日 12時26分40秒
私の原家族は、私を受け入れてはくれなかった。
幼い頃は母親にガミガミ言われ、思春期には言い合いばっかりだった。
父親はその間に入って、私を庇ってくれていたと長年思っていた。
父が亡くなったとき、守ってくれる人の喪失を嘆いた。

しかし、その後の母親との関係が私に負担となり
それまで抱えていた漠然とした生き辛さで、身動きが取れなくなってしまった。
当分、母親だけに怒りが込み上げていたが、
斎藤先生の色んな物に触れていくと父親に対する潜在的なものが見えてきた。

父親は、誰も受け入れては居なかった。
妻である母には、表面では労わっているようだが、
信頼しては居なかった。
女子どもに言って何になる。
「守る」と言ういい響きで覆って、人間扱いじゃあなかった。
おだやかに過ごしていても、後で母親に私の行動を
あんな事をしてたんじゃあダメだと言う父。
その場ではニコニコしてて、心のそこでは批判してる。

私の苦しみは取り合わないし、表現する事さえ批判した。
そのくせに他人の娘には、力を貸す。

子どもの頃から身体を触る事を辞めてくれなかった。
突然、意味も無く何処とも無く触れられるのがいやだった。

こうしてみるとなんで父親を崇拝していたんだろう。
母親のように分かりやすい攻撃とは違ったからだろうか。

今自助グループにつながり、斎藤先生の講演会や著書に触れていく中、
斎藤先生は私の父親のイメージに取り込んだ。
兄弟は、自助のメンバーに取り込んだ。
でも母親のイメージと出会えない。
母なるもの、自分の子どもと探って行くことで出会えるのだろうか。
<101> 埴輪 ■2003年10月21日 火曜日 09時34分07秒
私の家族は、間接的に私の社交性を阻害している。
外で、誰かが家族の話をすると私は冷や汗をかき、自分に話をふられないかびくびくする。
友達がウチに来たいって言い出した時、心臓がばくばくした。
呼ぶんなら、一から話さなきゃいけない。
そうしてもいいんだけど、すべてを知った友達が
「そうなんだ、大変だったね」とか
「かわいそうだね」とか
言う言葉を吐くんじゃないかとびくびくしている。
私は外ではそんなキャラじゃないし
私は、他人が私を「下に見る」ことを極端におそれている。
車もそう。
車椅子のシールに突っ込みを入れないでほしい。
車椅子を積んだままのウチの車を、友達にみせられない。
お母さん、ごめん。
でも私には重過ぎる。
電話もそう。
セールスの電話がうざかった。
「お母さんいます?」って言わないで。
お母さんしゃべれないから。
同い年のコが当然している母親とのかかわりを
私は13歳の時からしていない。

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This script written by Shintaro Wakayama.