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私たちの物語 - 家族過去ログ No.56
メッセージ数:1120件

<1120> 秋 ■2006年08月04日 金曜日 12時52分19秒
あの監禁のニュース。
犯人は小さい時、何不自由なく育った男だったとニュースでやってた。
親は、お金=愛情とでも思っていたんだろう。
まぁ、うちの親もその類だから。
今だって、彼氏と住んでいても、1年くらい両親から電話もないし。
必要なときだけ、妹に連絡するけど。
たまには、気にかけてほしいなかな。
小さいときから、確かにお金に不自由しなかった。
そうとうわがままだったと思う、私。
大学まで出してもらったし、一人暮らしの費用も。
でも、その費用はどれも、祖父の資産から。
父は、その遺産から会社を作った。
ほとんど、趣味みたいなもの。
お金はすべて祖母が握っているという変な家。
まともな会社勤めしたことない父は、横暴でわがままで切れやすい。
父自体は、けちだと思う。
私は、今人間関係も作れず主婦という名の引きこもり。
少しでもやなことあると辞めてしまうから。
<1119> ミキ ■2006年08月03日 木曜日 21時25分33秒
私は溺愛されて生きてきた24歳です。でも、私は母のペットみたいなもんだから。私も周りの人みたいに誰かを愛したいし、愛されたい。子供だって可愛いと思う。でもきっと無理だなって思う。私は誰かを心から愛することが出来るとまったく思えないから。愛されることが、絶対的にいい事だとは思えない。でも、そう書いたら贅沢なって思われちゃうかな。

たとえば私はアトピー肌で、化繊は肌が痒くなる。特に幼少期はひどく痒くてたまらなくなった。そんな私に母は祖母が借りたピンク色のドレスを無理やり着せて、私は泣き喚いた。痒いし気持ち悪いしたまらなくて、祖母が残念がるのを背に、黒のワンピースに着替えた。母はそれが気に入らなくて、写真を見るたびに「可愛かったのにお前がわがままを言うから」と延々と繰り返す。小さな子供にとって見かけより、着心地の悪さを重視するのは当然だよね?でも母はそれが気に入らない。ワガママに映る。

今までの人生、母の気に入らないことが私の「ワガママ」だった。「ワガママ」で寒空に突き出されたことも、真っ暗闇の狭いところに何時間も閉じ込められた事も何度もある。怖くて暗くてガラスが破けて血だらけになったこともある。そのたびに何をしてるのよ、あんたはと怒られた。いつもいつも、私が悪いと認めることが解放の条件だったね。そして「わかればいいのよ、もう繰り返さないで」と不機嫌そうに返されて「終わる」のだ。

ワガママってのは自分のことしか考えられないこと。服も、髪型も何もかも、母の趣味と違う私は、一度「私と母親であるあなたは、家族であれども違う人間だと」返しました。あなたはこう返しました。「お前の言ってることは難しすぎてわからない」

今日も早く親離れしろ、お前の教育には失敗したから早く子供を作れと岩rながら、私は常に母の機嫌と趣向に沿わないとののしられて生きているのです。

その割りに、仕事の付き合いで夜1時に還ってくれば門限の名の下に起こられるわけです。がんじがらめだね。ねぇ、愛されすぎるってそんなにいい事でもないでしょう?
<1118> もこ ■2006年08月02日 水曜日 14時00分52秒
私の父は障害者。子供の頃、私は父を守ろう、障害者の夫を持ってしまった母の力になろうと「いいこ」を無意識にしてきた。初めて好きな人ができ、親から離れようとしたが、母は私の大切な人が私から離れていくようなことをした。私の部屋をめちゃくちゃに荒らし、学校にも告げ口した。おかげで私は学校で本当の自分を出すことができなくなってしまった。父は私と母の関係が悪くなっているのを心配するフリをして長年不倫をしていた。そして、それを私自身が暴いた。父は不倫相手に振られた時、一時的にアルコール依存になり、部屋でずっと暴れていた。受験生だった私は、父親が暴れている音が怖くて怖くて震えながら眠っていた。
父も母も、私が家を出ることを言うと、無言になるか機嫌が悪くなるかだ。病気になった母は「親を捨てていけばいい」「私が一人で死ぬまでお父さんの面倒をみるのね」と何度も私に言った。
父が障害者とわかった時点で別れればよかったのにと私が言うと、「あなたがもうお腹にいたし」と言った。私のせいであなたが不幸になったの??
私が少しでも快適に暮らせるようにと家まで買ってくれた。それ以後、私が家を出たいというと、「あなたがずっと家にいるっていったから引っ越したのよ」と言った。病気のあなたが「死ぬ前に広い家に引っ越したい」ってずっと言ってたから、決断するために私が後押しするしかなかったんじゃない。
あなたたちから離れないと、私はどんどん不安定になっていく。恋人も友達も離れていく。自分の自信がなくなっていく。障害者と病気持ちだから、可愛そうだと思って余計離れられないでいた。でも、このままじゃ自分が壊れてしまう。
<1117> よ ■2006年07月29日 土曜日 02時03分33秒
それと、私は万引きも、たばこやパチンコと同じ理由でしていた。一度、店員に見つかって以来、しなくなった。あの時見つけてもらってよかったという思いもある。ただ、私を見つけた人と二度と会いたくないし、あの人の存在が怖い。あの人はどこか遠い所に引越しして欲しい。
<1116> よ ■2006年07月29日 土曜日 02時00分34秒
私は現在は嫌煙家になれたが、以前は喫煙家だった。パチンコ依存症でもあった。
たばこを吸うと、父親に対して、「ざまあみろ。お前のかわいいまじめな末っ子は、たばこを吸う不良なんだよ。」と思ってうれしかったからだ。パチンコも同じような理由だった。禁煙セラピーという本を何度も読んで、ようやくたばこやパチンコという呪縛から抜けられたが、まだ過食症が残っている。また、慢性的に無気力である。子供や夫にあたってもいる。夫や子供にあたったり、過食症を治したいので書き込みしました。
私は最近、父に似てきた。うるさいし、気分屋で、子供や配偶者にあたりちらす。また、厳しいし厳格な所がある。悪い所は、徹底的に攻めないと気がすまなくなっている。そのため、私の夫が、私の母に似てきた。。。最近幽霊のようになりつつある。私が口うるさいので相手をするのが嫌になって疲れたのだと思う。また、私の子供である長女の娘は、ものすごく他人を気をつかい、萎縮して指をすったり、鼻をいじって皮膚を傷つけたりするようになった。そういえば、私は、子供の時によく、そでをかんだり親指の皮膚をはがしていた。原因は、私が気分屋で、気を遣わせているから。すぐあたりちらすから。厳しすぎるからだ。
下の子供である長男の息子は、すぐふにゃふにゃとする。なよなよしている。あまり友達を自分から作ろうとしない。指を吸う。すぐ泣く。すぐわめく。
原因は、私が溺愛しすぎているからだ。また、気分屋で時々ひどくあたりちらすからだ。私がめちゃくちゃだから、息子もめちゃくちゃしているのだ。私にかなり似ている。私に似ているので感情移入ができやすいため、かわいい。だが、私は自分が嫌いなので、私に似ている息子をみていると、ひどくイライラする事もある。

私があたりちらさなければ、私の家族はもっと幸せになれるが、今でも我慢している所があり、我慢すると、すぐ過食に走ってしまう。
過食は直したいし、あたりちらすのも直したい。いい方法が見つかるかなと思って書き込みした。私は自分の本当の気持ちや家族の事を夫や子供や精神科の先生以外に本音で話したのはこれがはじめてなので、すごくすっきりした。いろんな人に見てもらえるのもうれしい。人の書き込みが見れるのもうれしい。ありがとう。
<1115> よ ■2006年07月29日 土曜日 01時37分27秒
私の兄弟は、長女・次女・兄が居る。私は末っ子で三女だ。私を含めて、うちの家族は、全員、精神がおかしい。私は、長女から虐待され続けていた。姉は、父からひどい虐待を受けていたし、母からも放置されていたので、一番下の私をよく虐待していた。姉の事を親に言っても父親は自分が虐待していた事もあり、ひどく姉をかばって逆におこられた。母は無関心で、宗教に走っており、幽霊のような存在。家事をするだけで、後は存在しない人間だ。母に何を話しても無駄で、話すだけ空虚になる。小学生になり、それなりに体力ができてきたため、そろそろ長女の姉にも体力的にも勝てると思いはじめた時に、本気で反撃した事がある。噛み付いて髪を思いっきりひっぱった。本当は、もっとむちゃくちゃにしてやろうと思ったけど、かわいそうなので我慢してやった。それ以来、姉とは犬猿の仲で、お互い、ものすごく気を遣って話すので、話していて疲れる。
次女と長男は、母と同じ幽霊。居ても居なくても分からない。ただ、ずっと父のそばに居続けているのもこの幽霊達。離れようとはしないようだ。一人では生きていけず、強い父のそばが落ち着くのかもしれない。次女は好きだ。やさしい。長男の兄は、父に似てきた所があり、いばる所がある。兄は精神が弱く、学生時代もいじめられていた。弱いくせにいばる所がかなり私としてはむかつくが、兄がかわいそうなので我慢してている。兄は私が好きなようなので、私も兄はたぶん好きだと思う。次女も私よりもはるかに精神が弱い。小学生の時から、こいつには勝てると思っていた。一度ぼろぼろに泣かせた事がある。今でも私が本気になれば絶対に負けないのに、時々、えらそうなのでむかつく。私はいつもあの家族といると、我慢して、仮面をかぶって、かわいらしいよい子供を演じ続けなければならないので、ものすごく疲れる。あの家族は、家ごと爆破させたいという感情にかられる。ただ、あんな家族のために、自分の手は汚したくないと思う。
<1114> よ ■2006年07月29日 土曜日 01時23分54秒
私はACで過食症のよです。今は、結婚して子供が二人いるパートをしている主婦です。いつもやさしい夫に、「お前が居るからイライラする。」と言って、あたりちらし、機嫌が悪くなると、子供にもあたりちらします。「子供なんか居ない方がいいのに。」とか、なんで「あんたたちのために、こんなに頑張らないといけないの。」とか叫んだりします。そんな事を毎日言ってしまう自分が大嫌いです。

私の父親は、気分屋。ほとんどいつもイライラしている。調子がいいかどうか、小さい時からずっと、いつも機嫌をうかがっていた。機嫌が悪いと、大声でわめきちらす。物をすぐたたいたり蹴ったりして、子供と母親をびくびくさせる。今では近所の人にも当たりちらすようになって、みんなに迷惑をかけて生きている。何の役にもたたないし、生きている意味がないと思う。早く死んで欲しくてたまらない。
子供をつれて実家に帰ると、私が要らないと言っているのに、毎回おこずかいを渡される。自転車などを整備したり、雨の中も雪の中も働いたりしてお金を作っている。そんな事した金など欲しくないし、おこずかいなどいらないと言っているのに、そういう重たいお金をいつも渡されて非常に迷惑している。しゃべり方も、蝉のようにものすごく耳にさわるし、うるさい。声もでかいし、早口だし、機関銃のようにしゃべるし、本当にうるさい。他人の前では恥ずかしくてたまらない。全てが嫌いでたまらない。父に会いたくないのに、うるさすぎて、ストーカーのように電話してくるし、頼みもしないみかんやメロンなどをいつも送ってきては、手紙を書いてきたり、長女の姉や母を使って電話してきたりして、あの手この手でうるさい。かまわないで欲しい。もう自由になりたい。あの呪縛から解き放たれたい。かかわりたくない。
<1113> yu-ko ■2006年07月23日 日曜日 23時39分26秒
明日、会社の人と出掛けると言ったら、
「誰と?男の人とふたりなの?何処へ行くとかあんたは何も話してくれない。話をするのが嫌なの?」と言われた。

名前を出した処で誰か解らないのに、勝手に男とふたりだなんてバカバカしい。何も話さない訳が無い。疲れた時は何も喋りたくないけど、たまには仕事や遊びの話だってしてる。アナタが聞いてないだけじゃないの?!
確かにそんなに自分の事を話さないよ。自分の娘の性格くらい、そろそろ解ったら?アナタと違ってお喋りじゃないの。世話焼きでもないの。

お喋りなアナタを見て、鬱陶しいと思った。
世話焼きなアナタを見て、鬱陶しいと思った。
自分のしてる事は相手に対して最良と思ってるアナタを鬱陶しいと思う。

あたしは、アナタに言われたからって変わらないよ。
今まで通りのスタンスでやってくから。
<1112> こくーん ■2006年07月23日 日曜日 13時14分25秒
機能的な家庭では、『子どもの夢』に対して、親はどのように反応するのだろうか。
私は子どもの頃から、自分の将来の夢を持つことができなかった。
幼稚園児や小学校低学年の子どもが持つような、ささやかな、或いは大それた夢でさえ。
例えば『花屋さん』といえば、花屋さんは真冬でも水を触って、手ががさがさになって大変なんだよ。とか…母に『大人の現実』で壊されてきた。
いいところなんて話してくれなかった。『あの仕事はこういうところが大変』…そんなことばかり。
そうして、だんだん、母の望む職業の方へ、目が向くように誘導されていった。私の心の奥深くにあった夢は、外へ出すことができなくなった。
「内閣総理大臣」「プロ野球の選手」と書いていた男子たち。
「アイドル」「画家」と書いていた女子たち。
…そんななか、「管理栄養士」「薬剤師」などとしか書けなかった私。

本当に自分が何になりたいのか。
もう、何もわからない。自由に考える力を奪われてしまったような感じだ。
<1111> 泣っく泣っく ■2006年07月23日 日曜日 03時21分23秒
今日こちらにお邪魔する前、私は会社近くの公衆浴場(\350で作りはそれなり)に入って来たのだが、入浴前その銭湯向かいの床屋の前で(そこの家族と思われる)親子4人が仲良く花火をしていた。その光景を見て一言「いいなぁ羨ましいよ」 
そして「うちは親子で花火したことなんかあったんだろうか? あるにはあったんだろうが小さい私にとって楽しい思い出じゃなかったみたい(感情が死んでいたせいもあるが)でよく思い出せない。母親と弟はいたと思うけど親父はいたのだろうか? たぶんいなかっただろうが、全く思い出せない。思い出せるのは親戚のお兄ちゃんお姉ちゃん、それと弟とやった花火だ。あれは楽しかった。確かに楽しかった。でも小さい私はその楽しさを誰にも伝えられなかった。ほんとは親にその楽しい感情を伝えたかったんだろうが、うちには感情のやり取りがなかったからその気持ちもやがて萎んでしまい、「寂しさを感じないよう」自分が楽しかったことさえも忘れていく、その繰り返しだ。何でうちはこんなこと(仲良く花火)さえも出来なかったんだろう?」 
向き合う私の思考回路はそこまで。それ以上思い出そうとすると私は感情が出てこない。否、寂しい感情が出てくるのが無意識に怖いので私は考えるのを止めてしまった。

あるのはわかってもらえない涙だけ。
あの機能不全家族でも小さい私にとって楽しいことはあったのかもしれない。あったのかもしれないが、それを「楽しい」と感じ表現するだけのものは祖母の虐待によって私の中で既に無きものとなっていた。

「感情と感覚・思考の死滅」 ほんと虐待による症状は千差万別何でもありだ。大人しいと思っていた子が「実は虐待で失感情症になっていた」なんて普通誰も思わないだろう。

そしてここからが今日の本題?
先日某グループ会場を探していた時私は潰れた映画館の前を通った。その映画館は私が小学校低学年の時に弟と一緒に親戚家族に連れられて生まれて初めて映画館での映画を見た思い出の場所だ。それも「E.T」
一瞬立ち止まって私は懐古趣味に走ろうかと思ったが、ここでも立ち止まるのが何故か怖くて、私は見て見ぬ振りでその場を通り過ぎてしまった。

「E.T」 感動した。感情がきちんと表現できない小さな私でも感動したのはよく覚えているし、今観てもいい映画だ。
ほんとあの時は夢のようだった。売店で私はポップコーン?とポテト?とジュース、それにパンフレットも買ってもらい、映画にも満足して楽しい時間だった。(でも弟との接触・会話は全く思い出せない。それは殆ど全てにおいて)

こうして盆や正月にはよく弟と一緒に親戚に2,3日泊まるのが恒例だったのだが、その都度小さい私はうっすらと「うちに帰りたくない。このまま親戚にいたい。いっそ親戚の子だったらいいのになぁ」と思っていた。そして幼心にも「ここは自分のうちじゃないんだ」という事も分かっていた。

実家と親戚の違い
その決定的な違いは「かまってもらえる=自分の存在を認めてもらえる」ということで、実家では子供の感情に無頓着でワーカホリックな親が待ち受けている、対して親戚では小さなお客様扱いながら私からするとお兄ちゃんお姉ちゃんがいて遊んでくれ、当時は何もかも親戚では新鮮だった。

私は無関心の中で育てられたので弟に対しても「弟」という認識というか兄弟愛みたいなものは全くもって育っていない。だから小さい頃私は弟と遊びたいとも全く思わなかったし、弟の存在自体すら意識の上できちんと認識できていなかった。だから兄弟喧嘩の時なんか私は手加減せず、まるで甚振るのを楽しむかのように徹底的に弟を痛めつけ、中学の時には脱臼させたこともあった。そして罪悪感も全くなく、今思うとほんと酷い兄貴、否兄貴とは呼べない人間、それが当時の私であり、今の私でもある。そんな兄弟愛の欠片もない私を当時弟は「ほんと殺されるかと思った」と母親に告げていたそうだ。
確かに当時の私は痛みを全く感じない世界にいた。中学でも2年3年と常時キレっ放しの如く私は連日クラスのYに対して平気で堅い床の上でプロレス技を掛けていて、周りが退いているのが何となく感じられていても私は意識でそれを認めず暴走し続け、今なら間違いなくPTAものだ。
全ては家庭内での表現できない・わかってもらえない寂しさを私は暴力という形で家では弟、学校ではY、そうした一番立場の弱い者にぶつけていた。その後は偶々高校で柔道やったから私はそういう形で噴出させることはしなくなったが、でも確実に自分の内面奥深くの無意識に「寂しさに気付いてもらえない親への怒り」は蓄積されていき、今このザマ、だからACなのだ私は。

なんか話が映画館から弟、暴力と変わってしまったが、子供の中に「楽しかった思い出をたくさん作ってあげる」そうした配慮が私の親には全く見受けられない。なぜならワーカホリックにとっては遊ぶことは罪であり、自身が親から遊んでもらった経験がないから「それが後々どういう作用を及ぼすのか?」彼らには全く検討がつかない。そして検討がついたら最後彼らの「無意識に閉まってあった寂しさが一気に口を開け、自身認めたくない内省へと叩き落される」のが無意識に怖いので、これまた無意識に否認の中に逃げ込む。
そしてそうした向き合えない人にとって否認の中は安全だ。その中にいさえすれば外から攻撃されても絶対届かない程の強固な精神的バリヤーが張り巡らされているから決して意識の上で傷付かないし、また傷付きようがないくらい長年に亘ってガチガチに固められている。

よかったよこうしたパターンに気がついて。じゃなけりゃ自分も同じく「情のない」家族を当たり前のようにして作っていただろうからね。情を育てる意味も含めて自分の寂しさと向き合わないと何も変わらないし、何も始まらないよ。
<1110> こくーん ■2006年07月16日 日曜日 14時16分15秒
悪天候が続いたり、
蚊に刺されたり、
そんなことがあると、
ママは目に見えて、イライラしていた。
大きくなった私は、
それに気づいたから、
『ママ、またちょっとイライラしてるね』
なんて、言っていたけど、
多分、それに気づく前の私は、
そんなママの気分の変調に怯えてたと思う。
<1109> 秋 ■2006年07月13日 木曜日 23時27分22秒
ここのページ(家族)に書き込むのは初めて。
ACになってしまったのは、家族のせいでもある以上、少しずつ告白する
ことによって回復するといいのだが・・

私の父は、うーん浪費家で自己勝手な人。
母は、父に怒鳴られいつも泣いていた姿がまず浮かぶ。
そのせいか、精神的ストレスにより血圧が下がり、嘔吐などで
入退院をよくしていた。
精密検査をしても問題なし。
明らかな精神的ストレスだろう・・
母は、あんまり子供好きじゃなかったんだろうなって思う。
別に虐待されたわけではないが、、、うーんネグレストとかいうやつ。
幼稚園のお弁当にあっためるっていうのに、お新香はいってたりとか。
作るの面倒なんだな・・って幼いながら思いましたよ。
あえなく、途中から近くのパン屋さんに朝、食パンにジャムとか
つけてもらって、ミミを切ってもらって、サンドイッチを持っていくように
なりました。
母の愛情弁当ってどんなのですか?
高校も朝、コンビニよって菓子パンなどを買って昼食べる。

1歳になる前くらい、歩行器に乗ってて段差のあるとこから玄関のコンクリートのとこに落下した。
隣の部屋にいるのに、誰もこなかった。
痛かったな・・
あーーーー、ふらっしゅばっく

つらいのでここら辺でまた今度ね
<1108> える ■2006年07月12日 水曜日 11時03分34秒
内向的でアルコール依存の母と、社交的で家に殆ど居なかった父と、
冷たい長女と、神経質な次女と、嘘つきな三女の私。5人家族だった。

親らしい事何一つしてくれなかったくせに
姉らしい事何一つしてくれなかったくせに
いつも圧力をかけられた。
キマリ事が多かった。
厳しかった。
淋しかった。
嘘つきになった。


赤ちゃんになりたい。
無償の愛が欲しい。


<1107> よい子 ■2006年07月12日 水曜日 00時55分00秒
1106の続きです。近所の人にもなんであんな嫁さんおいとくのだろう
といわれた。祖母が言っていた。おばもなんで離婚しないんだろと
私のいる前で祖母に言うとこれ子供ののいる前でなんていうこというの
というのと祖母はいったが私もなんで離婚しないのだろうと思った。
あといつも曾祖母が早く死んだらええとおもってるんやろといつも言うのがつらかった
<1106> よい子 ■2006年07月12日 水曜日 00時32分42秒
家族は両親。祖母。祖父。ひいおばあちゃんと一人娘の私
祖父はアル中。祖母。母。曾祖母のぐちをかわるがわる聞かされて
育った。曾祖母は気がきつすぎて離縁されてうちの家に再婚できた。
母は精神の問題があって嫁の貰い手がなかったので仕方がなく
こんな複雑な家に嫁に来た。みんな行くところがなくて仕方がなく
一緒に暮らしていたのだ。
祖母が私に嫁に来たときはいい嫁が来たと思ったけどあんたの母は
頭が弱いし性格も暗いし動作は鈍いし 性格もおとなしけどきつい
と子供の私に小学生の私にたいしていった。
でも子供の私にでも母はそう見えた。母はチックの癖があったし
独り言をいつもいっつていた。だから神経系の病気が家系にあったのだと
思う。私も性格行動が母とそっくりで友達もできなかった。放課後いつも図書館で本を読んでいた。それに対して祖母は頭がよく行動的で周りの人から一目置かれるような人でした。だから余計私などは劣等感を感じました
<1105> まゆり ■2006年07月04日 火曜日 01時49分43秒
自分がACだと自覚して1週間。
子供のころを思い出してみる。

家族。
楽しい思い出はほとんどない。
父と母と兄と私の4人家族。

父は頑固で無口。
朝起きたら新聞広げてニュース見ながら朝ごはん食べてた。
家族と会話はしない。
だって新聞読みながらニュースも見てごはん食べなきゃいけないから
忙しいんだもんね。
テーブルいっぱいに新聞広げちゃうから家族は一緒にごはん食べられないし。
いつからか、「おはよう」も「行ってらっしゃい」も言わなくなった。
言ったところで目も合わさないんだから意味ないし。

帰ってきてもおんなじ。
また新聞広げてニュース見ながらごはん食べてる。
会話はしない。目も合わさない。
帰ってこられると嫌なのよ、空気重たくて、苦しいから。

だから「おかえりなさい」も言わなくなった。

普段は8時50分ごろ帰ってくるけど
水曜日はノー残業デーだから6時過ぎ。
嫌だった、憂鬱だった。
あいつが帰ってくるのがほんとに嫌だった。
団欒って何?
そんなのうちにはなかったよ。
2Kの狭い借家の中、家族そろったって会話なし。
冗談の一つも言えやしない。
一度試しに言ってみたら怒鳴られた。
怖くて泣いた。
母と兄は「バッカだなあ、やめときゃいいのに」って、
そんな顔してスルーしてたっけな。

やだなあ、思い出したくないなあ。
いろんなつらいこと、あったようななかったような。
でも思い出さなきゃ。
私の子供たちにつらい思いをさせてしまう。
いや、もうさせちゃってる。

自分はああならないって誓ったはずだったのに
連鎖してる現実に心が痛む。
ごめんね、子供たち。
キライだよ、オトウサン。
オトウサンなんて呼ぶのも変な感じだった。

結婚して子供が生まれて
アンタを「ジジ」と呼べるようになって助かったわ。
オトウサンて呼ばなくてよくなった。


<1104> 彦丸 ■2006年07月03日 月曜日 09時37分25秒
私が父を完全に拒絶したのは、父の再婚をきっかけに非常識な言動がさらに増えたから。
「(結婚して子供が生まれたら、跡継ぎに)一人よこせ」だの
酔ってかかる深夜の電話だの何やかやと
そのままエスカレートしたらさぞかし鬱陶しいだろうと、それ以前の父から容易に想像できたからだ。
最終的に、私を道具としてしか扱わない人間に対しては、こちらも道具としか思えない。
 私は、彼らを作らなかったし、産まなかったし、彼らと関わる事に、いかなる選択もしていないので、
 何ら責任も発生してはいない以上、度を越えた迷惑を受け続ける理由はどこを探しても、ない。
お仕着せの使えない道具に愛着もなかった。

元夫との婚姻は、働ける状態になく父と絶縁を考えていた頃で
公の相談機関とつながり、保護を受けながら暮らすための準備が整いかけた時に
その心積もりを聞いた”元夫”が「俺はどうするんだ!」などと逆上したためもあり、
「何かあればいつでも別れる」と明言した上でのものだった。
今思えば、まともに扱う必要がなく、黙ってとっとと居なくなっていればよかったのだが、その時の私には、それだけの力はなかった。

どちらの”家族”と居ても、たとえ友人であれ、たとえ私が不器用でも、お互いに交わすことができる、単なる好意やただの心配、喜び合えるような気持ちの行き交いを持つことはできず
どれほど投げかけても返ってくるのは、損得や暴力、妙な介入イライラのしわ寄せ、自分を満足させるための物品や行動などおかしな歪みだった。

 父との対決中力になってくれた医師との会話ではっきり気づいたのだが…
医師「それじゃ最初(初潮)はどうしたの?」
私「母の使い残しで…」
医師「…それは大変だったね」(それ以外の大変さも思ってくれたように感じられた)
私「…」
医師に言わなかったのは、母が生きていたとしても多分、告げはしなかっただろうと言うこと。
 人懐っこく、様々な年齢、地域、職業の多くの人たちと接する機会があった私にとって実の家族や親類は、幼い頃から気を許せる人たちではなく
抛ったボールを無視したり、顔に向けて全力で投げ返す、或いはなりたくもないエースを狙わなきゃいけないように絶え間なく剛速球が飛んできたりと、
訳の分からないことが多かった。
家庭を顧みずその分社交的な母が亡くなると、他人との関係まで父の影響や介入もあっておかしくなっていった
それでも、父が思い込むように「人は騙そうとしているのが当たり前」ではないし、世の中父のような人間ばっかりじゃないという感覚が覆されることはなかった。

 たまたま生れ落ちた家族からは、関わり続けてもどう頑張っても、得られないものが沢山あるのだと、ずっと頭では解っていたようだ。
実の親と、”当たり前”の親は、別物だと言うような…
”あるはずの親”への思いを断つには、長い時間が必要だったけれど。

偶然によっていつの間にか暮らしていた、好ましくない家族や、暴力などの不当な圧力によって成り立った家庭ではない
自分の家族を、私は守りたい。
 私自身が持つ歪みからも、偶然家族であった人間達からも。
<1103> 泣っく泣っく ■2006年07月02日 日曜日 11時02分12秒
乳幼児期に祖母からの慢性的な虐待&ワーカホリックで情緒の欠片もない親、そんな機能不全家族で乖離して失感情症となっていた(今日は過去形で書く)私。
今でこそ運良く私はカウンセラーに出逢えて、「ありのままの自分」を受け入れてもらったからこうして心が開いて加速度的に感情が出るようになったが、時々訳もなく(といっても無いわけないのだが)無意識からの「ぐわっと来る」強烈な痛みに私は(インナーチャイルドから痛みの在り処を)教われ、号泣してしまう。
でも、というか昨日の夜、国道沿いの回転寿司チェーンの前を車で通り過ぎた時、私の目線(意識)は店内の家族一緒の食事風景に行き、自然と「いいよな、羨ましいよ、家族一緒で食事してて笑顔ができるなんて」と思ったら次の瞬間「ぐわ」っときて、それもちょっと所ではないほど強烈過ぎて、日頃よく泣くようになった私でさえも正直「泣いたらどうなるのか?」怖くなって耐え難い感情を殺してしまった。だから今これを書きながら私は泣いている。

強烈だ。久しぶりに苦る突き上げるような痛み。内面奥(無意識)から意識のほうに向かって「ぐぐぐ」と一気に瞬間的圧力を掛けるような痛みだ。
それを表現するなら、私が最近読んだ重松清「疾走」だか心理学関係の本に載っていた受け売りなのだが、(計算し易いように)今体重80`の私が感じている痛みを1だとすると、その痛みは小さい私、体重2000cの小さい私にとってその痛みは単純に40倍!ということになる。それも感情が未熟な子供、自分で自分を守れずに親に守ってもらうしかない子供が、心が無防備な状態でこの痛みの40倍以上の精神的衝撃を受ける、それも慢性的に。
現状この2倍の痛みでさえ私は全く受け入れられない。日頃はあれだけ調子のいいこと、勝手なことを言っていても、こうして突き上げられても心理的防御から想像すら出来ない私に40倍の痛みは拷問に等しい。否、もはや拷問を拷問と感じなくなる程の痛みかもしれない。

「感情を殺される」
それがどれほど子供の無意識に深いダメージを与えるのか?私の加害者・親には全くもってわからないだろう。
そしてわからないどころか「何言ってんだお前は? 気でも狂っちまったのか? 親の言うこと聞かねぇからそうなっちまうんだよ」で終わり。

なんでなんだろう?
なんでこんな家に生まれてしまったのだろう?
わたしが何をしたというんだろう?
なんでこんな傷をおわなくちゃいけないのだろう?

わたしは自分を受け入れてくれる家族がほしかっただけだ。
自分をありのまま受け入れてくれる家族。

だけどあの家族には何にもなかった。
ちいさい自分をまもってくれる人も、ありのまま受け入れてくれる人も。
よわよわしい感情を聴いてくれる人さえいなかった。
そんなちいさくてよわよわしい自分にどうしろというんだろう?

なにも信じられない。
だれにも頼れない。

そんなわたしになにを信じて、だれを頼れというのか?

だれもいない。
ぼくのまわりにはだれもいない。
おとうさんも、おかあさんも、おとうとも。

みんなどこにいったんだろう?
ぼくをのこしてみんなどこにいったんだろう?

ぼくはひとり? ひとりぼっち?
いつから? ねぇいつから?

気付いてほしいちいさな自分に。
よわくてちいさく、だれかにまもってもらいたかったちいさな自分に。

そのこは今でもたすけをもとめている。
ちいさな手をのばして、おおきな手のあなたにたすけをもとめている。

めをとじてほしい。
かんじてほしい。
すぅっとあなたのおくふかくにねむるもうひとりのあなたに。

そのこは待っているから。
ちいさいころからずぅっとあなたをまっているから。

こえをかけてあげて。あなたのそばにいるから。
さみしかったね。つらかったねってこえをかけてあげて。

そしてやさしくつかんでほしい。
にぎってほしいそのちいさな手を。

だれともつながれなかったそのちいさな子にあんしんをあたえてあげて。
あなたにだきしめられるのがいちばんのしあわせだから。
<1102> れんげ ■2006年06月26日 月曜日 18時39分58秒
※自死に関するフラバ注意※

父はアルコール依存症でした。
金銭的に家族が暮らすのに困るほどではありませんでしたが、
社会的に対人関係を続けていく上で、いろいろとトラブルはあったようです。
なにより、母は父がお酒を飲むことをまったく許せず、
それ以外の理由もあったようですが、両親は私が物心ついたときから喧嘩が絶えず、
長女の私は、常に仲裁役、慰め役でした。

父の父もアルコール依存症だったようです。
私は祖父に会った事はありません。
父が20歳の頃、祖父がお酒を飲むことをなじって「お前なんか死んでしまえ!」と叫んで家を飛び出し、
しばらくして帰ってきたら、
祖父は首をつっていたそうです。

父はこの事を、家族に語ることはできました。
でも、この事を整理して、自分で乗り越えることはできませんでした。
自分の生き辛さから、お酒に逃げ、
娘に「何とかしてくれ。」とすがりつき、
妻(私の母)に「どうして俺の苦しみが理解できないんだ。」となじり。。。

私から見て、母はとても自分本位で他人への共感が出来ない人でした。
父をなじり、軽蔑し、どんどん追い詰めていっていました。
泥沼でした。。。

結局、私は父からも母からも離れました。
二人とも(離婚しました)もう3年以上連絡は取っていません。
父がどうしようもなかった、という事はわかります。
後ろめたい思いは今だってなくなったりはしていません。
でも、くり返しくり返し自分に言い聞かせます。
「私には彼の苦しみに責任は無い。私にはどうしようもない事だ。」と。

どうしたら、よかったのでしょう?
父が「自分の苦しみ」と向き合い、それを克服するための努力をするなら、そのための支援なら、出来ただろうと思います。
でも、苦しみから逃げ、「何とかしろ。」とすがりつき、
自分自身で「自分の苦しみ」に向き合う事を薦める私を「冷たい、親不孝だ。」と責め続ける父を
「何とかしてあげる」事は出来ませんでした。

今、私が出来ることは「祈る」事だけです。。。
<1101> 泣っく泣っく ■2006年06月26日 月曜日 07時33分46秒
今日も(休日)私はここネットカフェで9時間パックで過ごした。
毎度のことだが、帰宅の車中私はブルーになる「何で家に帰らなくちゃいけねぇんだ? それも会話のない家庭に」と。反対に仕事に出掛ける時は「何で働かなくちゃいけねぇんだ? できるなら遊んで暮らしたい」とはあまりに非現実的で私は思わない。せいぜい愚痴程度だ。

そして「居場所のない」「会話のない」「交流のない」「情緒の育ちようがない」ワーカホリックの親が支配する家に同居するメリット 
@私はボーナスのない派遣社員(かつパラサイト)なので単純に家賃食費が浮く。ただし米以外自分が食う分は自分で買ってくることが多い
A失感情症で私は来てしまったので、そうして散々親に傷付けられてきた痛みの感情を取り戻すため、敢えて自虐的に苦痛の源に飛び込むことで子供の時の傷を再確認し、私はケアすることができる(痛みが大きい分回復できた時も大きいのは実感)

同居のデメリット
1.Bで言わずもがな、下手すると余計に傷口が深くなったり新たな傷を設ける
2.従来の「支配ー被支配」の関係をより強固にしてしまう恐れがある。それは「人がいない寂しさよりも居ても毒にしかならない親でも居る方がまし」な歪んだパターンの踏襲

でも同居も今年いっぱいだろう。それ以上同居したら私は回復よりダメージの方が大きくなるのは目に見えている。根っこを診ない限り腐った果実はいつまで経っても腐ったままだ。
それにやはりアパート借りても「寂しくないよう」私はAさんと仲良くならなくちゃね。身近に自分の感情をわかってくれる人がいる・いないじゃ日々の生活が全然違ってくるからね。もちろん私も女性の感情を勉強しなくちゃね。

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This script written by Shintaro Wakayama.