Top過去ログ一覧
私たちの物語 - 家族過去ログ No.54
メッセージ数:1080件

<1080> なきむしっこ ■2006年05月21日 日曜日 01時12分08秒
家族。
母親はよく私の気の弱さを喜んでいたと私は子どもの頃感じていた。
自分より「下の存在」ができたことに喜んでいた。私は喜んで姉の母親の辛い時には父親の「下の存在」になっていた。勿論父親の気に入るように調整して。時にはクラスで上の存在になる事も必要だったから。
上と下。いつもそんな事ばかり考えていたように思う。なのに友人に上も下もないだとか、あんたはわがままだとか言われた。そう言われて。一体いつまで私は自分を抑えて自分を抑えて客観的に自分を見て自分を「正常値」にまでもって行くことをしなければならないんだろうか?
母親はきがついていなかった。でも私はいつも喜んで母親よりも下の存在になるつもりだった。かわいそうな人を温かく見守る役が私でしたから。そしてかわいそうと思った相手が学校に移り、同級生になれば・・・私は文字通りいじめの対象になった。お前はずるいの一言で。お前はずるい。家族も優しくてずるい・・・・そう私はずるくていつも下の存在でいないといけなくて、いつも気が弱い、本来の性格だと言われ続けて、自分の感情を無視して他人に奉仕しないといけない、いや私ならば強いからできると過信して過ごした子ども時代。
父親のカウンセラーだった。姉の相談役もしながら、主にストレス発散道具だった。母親の笑われ役、からかわれ役だった。私は学校でもソトレスの発散人形だった。そして先生のお疲れ様役だった。いつも人の感情や思いが私に迫ってきて、私はそれを読み取っては期待通りのことを行い、「自分の意見を言いましょう」と成績表の人物評価には連呼され続けた。人の思いがあまりに強烈で私には私の本当の心を捨て去ってしまうくらい私にはある意味脅威だった。
そしていつも下向くしかなかった、それか演技。演技の私に誰も理解しなかった。逆に変と思われるのが落ちだった。分かっている。食べ物を与えられていた。何でも母親はした。それなのにあの家族の空気も雰囲気ももういらない。いつも寂しかった。そして学校での演技と家での演技は私の本当の心を疲弊させていった。寂しかった。この一言に尽きる。私は私のものではなくて、他人の道具で特に同級生に何もかも自分の大切な光(信念や魂のような感じ)さえ譲ってしまう事は屈辱だったのに、私はできてしまうの。これが生まれつきなんだと思った。生まれつきいじめられて当然な私。「あんたといるといらつく」らしく、私は人の暴力性のスイッチを押してしまう存在なんだと思った。もしくは自分の本物の自分の大切な部分は人に笑われるようなそんな自分はもう生まれつきなんだと諦めた。高校生の頃。いつも私は人の敬意を表して欲しかった。ずっとずっと寂しかった。心の中が寂しくて。誰も私の中に入ってこれないようにして・・・危険だったから他者は。それでもずっとずっと異世界にいるように寂しかった。人といるのに私は独り。心の中はどこか遠くの世界か自分の神様としかいなかった。人はどこにも私にはいないも同然だった。もしくは「ふり」して欺くための人しか私にはいなかった。そして本当にいつも私の子供時代はううん、いつからか(はっきりしているけども)ある時期境に本当に寂しかったし、孤独だった。
<1079> 梅の花 ■2006年05月19日 金曜日 22時43分04秒
20歳にもなって何やってるの?くだらない知識つけてうねぼれてんじゃない。
あんたのためにどれだけ犠牲したと思ってるの?

そう言うけど誰もそんなこと望んでない。どれだけ犠牲になってくれても私はあんたの望む完璧な人間にはなれない。

そろそろ逃げ場のない責任感から逃れたい。上に跳んでみようと思うのも地面が安定しているからじゃないの?もう放っといてよ。
私に費やした金が欲しいなら何でもして返すから、もうそんな理由で私を縛るのはやめて欲しい。
<1078> みゅー ■2006年05月19日 金曜日 01時58分38秒
昨日の早朝かな。老公とはちあわせ。フロが長かったせいか、手洗い強迫が、すさまじかったせいか、老公はただ何も言わず、あたしの「異常な行動」を、黙って見てた。あたしも黙ってた。
早くトンズラしたくて居間を何度か行き来して老公を見た時あたし思った。
「老けたね・・・」あたしも老けた。奥方も兄も。
今日の夕方昔の写真を部屋で見てた。みんな今と顔が違う。輝きも。
あたしのせいかな。そう思うとほんと寂しいし悲しいし。ほんとに、あたし
さっさと消えたほうがいいかも。消えないと。そう思う。
みんな、あたしのせい。何もかもあたしが悪い。全部全部あたしが悪いの。
あたしのせいなの。あたしが悪かったの。ごめんなさい。

電気代無駄になるから奥方さんに怒られる。あたし、みんなのために早く消えるからね。そうすればみんなラク。みんなが平和。
あたしは空気よりもなによりもムダでゴミみたいな存在。
雨がずっと続くらしい。あたしはいつまで生きてられるかな。
最近寝ても眠れなくて悪夢ばかり。起きると汗で全身雨かぶったみたい。
地獄からのお呼びかな。
<1077> 青空 ■2006年05月18日 木曜日 23時18分45秒
お母さん、なんで私にセクハラした舅に中元と歳暮贈ってんの?

腹立つーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!

自分
<1076> yuki ■2006年05月18日 木曜日 23時02分28秒
私は、母親が非常に怖かった。

学校から「おうちの人に渡してね」と配られるプリントが渡せなかった。母親に近寄るときには殴られる覚悟が必要だったから。「yukiの顔を見るとイライラする」そうなので、近寄っただけで殴られる可能性が強かった。

渡さなくては叱られる。渡したら殴られる。学校でプリントが配られる度に、憂鬱だった。
<1075> U ■2006年05月17日 水曜日 22時04分35秒
母親は世間からは仕事も出来て頭もよく立派な人間だと思われている。
でも、それと母親としての役割をきちんと果たしている事は別だ。

今ならわかる。

母親自身も家族に対してコンプレックスを持った、成長し切れていない子供を抱えた大人なんだ。
だから生活能力の無い父親との共依存的な関係にのめり込んで、不倫して子供を作って自分の中の寂しさを埋めようとした。
そうすれば自分に足りなかったものを埋め合わせられると思ってたんでしょ?
そして、僕はその為の道具だったんじゃないの?

こんな事言ったら、きっとあの人は否定しようとするに違いない。
自分自身が母親としてのアイデンティティを崩されないために必死だから。
自分の非を責められるのが一番怖いから。


子供の頃、いつも母親は不機嫌で感情的で威圧的だった。
仕事をして自分1人で家計を支えるのに必死で、子供の感情のケアなんて一つもしてくれなかった。
昼間は保育園に預けられて、夜になっても迎えに来れなくて、祖母に引き取られて夜遅くまで待つこともしばしば。
そんな時でも帰ってきた母親に笑顔なんて無くて、、、
そのうち母親や周りの大人の機嫌を窺いながら過ごす子供になっていった。
母親にきちんと自分を見て欲しい一心で、周りの期待する事に過剰に応えようとする子供だった。

けど、本当に褒められたという記憶はまるで無い。
覚えているのは、自分の期待から外れた行動をした子供に感情的な言葉を浴びせかける母親の声。

そんな時、それを抑止できる父親がいれば状況は違っただろうけど、子供の頃は父親はほとんど家にいなかった。

だからいつも自分の感情を抑えて、言う事を聞くしかなかったんだ。

そうして、小学生になるまでには母親が怖くて、自分の思った事を伝えられない子供が出来上がった。。。
<1074> syouko ■2006年05月17日 水曜日 17時45分46秒
母の父(祖父)は女を作って、多額の借金を残して消えた。母はそのせいもあり、年の離れ、将来有望だったの父とお見合い結婚した。愛の無い年の差結婚ほど笑えないものは無い。なんて無様ででこぼこな家族。会話のキャッチボールは私がピエロにならないと成立しない。エリートな両親を持って、幸せだね君はとよく人から言われる。本当のことも知らないでと、言ってやりたくなった。
兄妹3人の真ん中。毎日お稽古事を習わされ、小学生の頃はすごく努力をした。学校一の成績。対人関係も良く、ご近所中から評判の子の出来上がりだ。そのままエリート中・高に入学。それでも、どんなに頑張っても、両親は褒めてくれなかった。「お金をあげてる親がいるから、お前はこうして優秀になれたんだ。お前のじいさんはでてったから私は優秀になれなかった」と怒鳴る母。父は無関心で会社ばかり。「成績優秀は当たり前だ」のこと。お稽古事を嫌がれば、母と祖母にたたかれる。床を引きずりまわされて、外に追い出される。毎日おびえていた。毎晩、布団の中で泣いていた。自分が悪い子だからだと言い聞かせて、次の日の朝はにこにこしていた。最初に心がおかしくなったのは兄。国立大受験に失敗し、精神を患った。「軍人の命令だ」とか「逆らうのか」とささいなことで毎日暴力をふるわれるようになる。中学生の私は、女だし、対抗もできない。母と祖母に助けてと泣いたら、「女はたたかれるためにある」とか「お前みたいな女はもっと殴られろ」と言われた。女性差別を同性で使って、逃げた。なるほど、私が蹴られてれば、家財道具は兄に壊されること無い。幼い妹はピアノの下でおびえていたという。父の会社に電話したら「嘘をつくな」と電話はそこできられた。鼻が折れたら、腕が折れたら、誰か助けてくれるのだろうか?蹴られた背中は毎日アザだらけだった。それでも、母は「愛してるって言って。両親揃って、学校行かせてもらって幸せだろう?」と私に問いかけた。この人は私に母・娘・夫の3役をやらせようというのだ。唯一「女」であることを否定して。
兄は結局、遠い大学に合格し、家をでた。それでも心が不調だと毎晩実家に電話してきたり、頻繁に実家に帰り、大学もいかなくなった。家族は眠れなくなり、皆ノイローゼ。小学生の妹はいじめも受けて、不登校・自傷等を始めるようになる。母は変な宗教にはまりだし、お酒だけ飲んで寝る毎日。父か相変わらず帰らない。父は都合のいいとき、親のフリで私の言葉遣いが悪いと平手をよくする人だった。自分は毎日にこにこ笑って、皆を励まして、全てお前のせいだと両親に罵られ、高校時代を送った。見かねた、親戚が兄を精神科に通院することを進め、私を外の大学に行けるよう、親を説得してくれた。親の薦める大学・学部しか受けさせてもらえなかったが、外にでれるのだと希望の元に受けた。成績は良かったらしいので、家庭環境が悪くても、大学受験は問題にならず、一方で素行も問題無く、不登校もしないので、外にも家庭のことはばれなかった。大学で気付いた。どんなに勉強しても、楽しいことをしても満たされない心に。苦しいことも苦しいと感じれない反面、楽しいことも楽しくないのだ。生きづらいとはこういうことを言うのだろうか。何を試してもそうだった。恋愛も恐ろしい。男性を二人になると、中学で殴られたことを思い出して震えてしまう。私が弱いから、昔に縛られるのだと必死に自分に言い聞かせた。自分を責めた。親を責めると、「金をだしてやってるのに何が不満だ、生むんじゃなかった」と罵られ、ますます傷ついた。実際お金を送らない時もあり、必死で生活費をバイトで貯めた時期もある。でも、友達が「お前が悪くない。何も悪くない。一人で悩まなくていい」と言われて、初めて自分の幸せを願えそうだった。人に言われないと、自分のことも願えないなんて。今も苦しいけど、ようやく、のろのろ歩き出そうとしている。人として愛されなく育ったけど、誰かをこの先愛せるのだろうか。不安は山ほどある。毎日不安とプレッシャーの中を歩いてる。
<1073> 泣っく泣っく ■2006年05月17日 水曜日 05時04分53秒
先週12日(金)22:00からNHKで放送されたにんげんドキュメント「高知発 がんばりよ健太13歳」(内容は、足の障害で養護学校の寄宿舎に住む小松健太くんが体重増を支えきれなくなった足を手術するため学校を変えるまで、家族や友達に支えられながら自立を目指す)を、「今日は絶対これ観よう」と決めていた私は夜勤の食事時に人気のない談話室で観たのだが、終始泣きっぱなしだった。
なぜ?
答えは簡単「優しさ、思いやり、いたわり、励まし、その他諸々」自分の生育暦では決して得られなかった愛情が全部そこにあるから、お互いに心が交流してて羨ましいから、同時に「ありのまま受け止めてもらえなかった」小さい自分は辛かっただろうから。
特に健太君が自分の痛みを寂しさを、自分の言葉でまっすぐ母親にぶつけた場面。それがお互いどれほど辛いことなのか、またそれをありのまま受け止める母親の深くて広い暖かさ。だから健太君も感情を吐き出せるのだろう。
「体に障害があっても健太君の心は健全に育っている。俺とは逆だ」
何で?
彼を取り囲む家族が、学校が、仲間が、きちんと機能している、それも単独ではなく繋がって。だから「ありのまま」なんだよな。
そういうきれいな者に自分を映すとよくわかるよ「あぁほんとうちは機能不全だわ。うちの家族で『同じことやってみろ』って言ったって絶対無理だもんな、信頼がねぇもん、無関心が当たり前だし。『感覚・感情が根本的に違うソフトでハード面も規格外(害)』それじゃいくらやっても通じないよねぇ」
ちょっときれい事かもしれないけど「障害もありのまま受け止めたら障害でなくなる?」
健太くんの兄と妹たち見て思ったよ。子供って残酷な面も持ち合わせているから、私は「自分とは違う兄弟を多少とも邪険に扱うのかなぁ」と意地悪な見方もしてたけど、確かにTVということもあっただろうが、もしそういう所があるのなら、いくら隠そうとしても隠し切れず必ず健太君の表情なり言動に反映されるだろう。そして結果は、自分がACと気が付くまで引きこもりの弟を邪魔者・お荷物扱いしてきてしまったことを恥じ、また生育暦から受け止める選択肢すらなかったとはいえ「俺も(健太君の兄妹たちのように)こうしたかった、こうすべきだった」

私はことあるごとに「ありのまま」を強調するが、それがいかに大事か! 自分でカウンセラーに通い続けなければわからなかったよ「自分はありのまま受け入れてもらってこなかったんだ」って。ほんと理論や理屈じゃないんだ。それだけは自分で体感して積み上げていくしかないんだもん。

時間は掛かっても俺も自立していかなくちゃね、無意識に刷り込まれた親のコントロールを健全なものに置き換えて。
<1072> イグアス ■2006年05月16日 火曜日 17時34分44秒
私は何も悪くない。
なんで皆が皆私を責めるの?
なんで私のせいにするの?
私は、私ばっかりのせいにするの?!
私のせいにするな!!
私はあんたらに責められるいわれはどこにもない。
私のせいじゃない。
私は何も悪くない。
<1071> エゴ ■2006年05月16日 火曜日 15時43分18秒
フラッシュバック注意
もうどこに落とせば良いの変わらないけどここに分類。多分これも保育園時代。
どうなんだろ、妄想?虚言? なんか現実かどうか薄くて分からんけど多分本当、その後の行動と知識と自分の言動の元になっていると思われるから。
母よ子供の言葉としても『もう』『やめて』『死んじゃう』、『殺さないで』っていったら受け入れて欲しかったよ、まあ、肉体的に傷・死ななくても、精神的にはぼろぼろだったと思うよ。
『もう』『やめて』はいつでも普通に無視・逆上・利用してくれたよね。   他の二つは、さらに酷い事言ってさらに続けるなり酷い事になったね、最低でも部屋と浴室バージョン2つ在ったような気がするよ。なんだっけ? こういう感じだっけ?『そんな簡単に死なない』『死なないように手加減している』『そう死ぬ死ぬ言っても死んでないでしょう』。
『殺すと思っているの?』『子供を殺すような母親〜』『殺すつもりなら〜』。

そういえば、『怖い?』、『死にたいんなら殺してあげようか?』ットかも言われたっけ?
チョッチきついね、ここまで来ると映画だね〜 ホラ〜に近いね、困るね〜、かわいそう、受け止めないとね、昔の自分褒めないとね、昔の自分にやつあたりされるかもね、なぜ殺す機会あったのに止めたって。
<1070> sky ■2006年05月16日 火曜日 09時33分47秒
小さい頃の父親の記憶がない
母いわく「アンタが小さい頃父親は家に帰って来なかった」と言う
父が「誰の働いた金でお前たちは生活出来たんだ!」と怒鳴る
「誰の金で学校行かせてもらえたんだ!!」と
いつでも父は金、金、金 小さい頃の私は父におべっかばっかりで
父の顔色を見て生きてたと思う 今となっては 母も私にその役目を
任せていたし
今、両親は不仲 同じ部屋にいるのに口を利かない
父はニュースを見て今の世間に文句ばかり
母はゲームしてる
父親が「育ててもらった恩返しをしろ」と言うから
外に出れない もうこんな親捨ててもいいですか

<1069> 彦丸 ■2006年05月15日 月曜日 12時45分51秒
大事な事を伝えたとはいえ、ごく短時間の電話でこれほど嫌な気持ちになるのだから
それでも、引き取られなくて良かったと
 やはりいつものように、思う。

最初の父を選ばなかったように、今の名目上の親も、私にとって特別な人だと認めることはなかっただろう。
<1068> 彦丸 ■2006年05月15日 月曜日 10時47分50秒
暮らしたこともない母に、腹が立った。

いつものことではある。
気の毒に思うが、何事も悪い面が目に付いてしまう状態らしい。
自分が得しそうな事には過剰に期待して、勝手に裏切られる。
 親としての役割を果たしたこともないのに、老後は私が見てくれるものだ。たとえばそんな…

本人が日々にかける”呪い”につかまってるのは、仕方ない。横目で、楽しめるといいねと願ってる。
 眉をしかめた日々を望むならそれも、いい。
私の毎日に呪いを吐かれるのが、嫌。
 同じ条件を暮らしていても楽しむことも嫌々することもできて、愚痴言うんならいくらでも言えたし言えるよ、あたしだって。

 家族に隠し事はないから、一人のときに電話する必要も、手紙を書く必要もないから、そんな気遣いをされても、失礼な人、としか感じない。
 彼女らは、家族じゃない。

産みの母が亡くなる前に頼んだ、娘を引き取ってね、という果たされなかった言葉
しょうもない父の下で過ごした、長い時間
 軽くはない。

ずっと安心できる場所なかったね、小さな私。
<1067> エゴ ■2006年05月12日 金曜日 16時05分45秒
記事:1066  追記 薬は保育園時代 料理は中1ぐらいまでの話。
<1066> エゴ ■2006年05月12日 金曜日 15時58分59秒
フラッシュバック注意:
そういえば、治療薬と食べ物も大変だったね、良く生きてるね。
あの人自身では時々、薬飲みたくなくなるから、自分にもわけてきたね。飲まないとあの人も飲まないし、大概先に飲まされたね。
さすがに茶色瓶のいかにもな薬品ラベル、中の白い液体、あれは一口で勘弁だったね。
強いて言えば『バナナの後味の舌に残る甘さを薄めて厚くした感じ』、母も一口でおしまい。
その数年後に発売中止だっけ? あの薬品。 

料理は作るのが巧かったね、7〜8割は美味しい、新作・改良だと5分5分。
ちなみに自分は野菜系がほとんど食べれません今でも、単なる偏食、保育園でも苦い経験。
機嫌が良いときは良いんだよね、味もおいしい場合が多いいし。時間無かったり体調不良、ご機嫌が悪いと味も感も鈍るね、味見も自分が先、言ったね『自分より舌が良いから.味分かるから』。
だから、素直に答えたよ保育園とか気が利かないときは、味の善し悪しをウマいかマズイかで。
不味いと機嫌良かったら、他の作るし、普通に食べれる分で良いから食べなさいといってくれたね。でもあれだね、機嫌悪いと、作ってくれた物だから失礼だと思うけど意見望むから答えた。
凄い剣幕になって捨てて、メシ抜きになったね。
『まずいんでしょ、捨てる』、以後、非常に不機嫌、機嫌直すのに大変。 だからそれ以降、悪い点、良い点をいってバランスとったよ、嘘つくと味でばれるから、好みの問題もあるからって、不味いと言ってしまった後でも、まだ捨てられてなければ、体調悪くても機嫌とって無理して食べる事もあったよ、でもなんで自分が食べ終わった後もあなたの皿の上は減ってないの?
少ししか食べないの?(美味しい場合は自分も母も普通に食べる)。
そのまま、自分の皿と一緒にあなたの皿も下げたよね、あなたが食べたのは一口か二口だよね。
自分が残したり食べれないだけで、おこったり、悲しんだり、蔑むのに。
『作った人の気持ちを考えなさい』『食べないんだったら作るかいが無い』
『どうせもう食べられないんでしょ、捨てるから』、
無理させる事もあったよね、どうみてもお腹コワソしそうな失敗作も最初チャレンジするのは自分。 半焼け、半生焼けのパン、焦げ入りカレー、舌のしびれる変なスープ。
<1065> エゴ ■2006年05月12日 金曜日 15時06分22秒
フラッシュバック注意:
最近思う、母の言っていた事と行動、幼稚園(年中?〜年長?)、家に訪問してくれた親戚の前でも父の前でも言っていたね、両方にイサメられてたね、犯しいって、しつけで。
親戚の前では箸の持ち方を覚えないのに腹を立て、ぶったねおもいっきし、何度も。
親戚が止めようとすると、『この子はこうしないとわからない』『こうしないと覚えない』
っていっていた、自分も嫌だったよ。以後、人前では弱めるようにしてたね。

父に言われた次の日言っていたね『お父さんに迷惑かけてはいけない、良い子にしてなさい、お父さんは忙しいのだから休みの日ぐらいゆっくりさせてあげなさい。』
『お父さんに、叱られてる事を言ってはいけない、迷惑かけないの心配するから喧嘩になるから』。でもあの瞬間自分が思ったのは、父が助ける事が在るという驚きと無価値な助けと『母よミスをしたね、少し強くやり過ぎた? 父の前であからさまにやるから』という思いのみ。
毎回ぶたれてた、今思うと本当なのかも。
自分は苦痛がないと何か失っていないと、何か壊れて失って行かないとダメなのかもね。
そういえば、私立小学校入学決定まで親戚も保育園の先生も父もあなたの味方ではなく、ストレスの対象だった事覚えてますか? 
自分にとってもストレスでした、3歳まで共働き・未熟児&成長不良(食が細く偏食)・母が低姿勢でストレス過多(共働き等で落ち度・負い目が在ると母自身が錯覚していた)で注視・苦言・アドバイス。
人間は自分の立場や見解で都合良く解釈して都合良くしゃべる、母の立場・姿勢を利用していたね、中には心配や助けになることあったのかもしれないけど、自身の言葉に責任もたず、相手に重荷やどう影響するかを考えずに自分達の一方的な価値観や見解だけで物事話していた人たち。
当時: 共働き=子供に悪影響  成長不良=育児が下手・失敗  その他Etc 
必死にあなたを支え、見下してくる親戚から保育園の先生から父から何とか守ろうとしてきた自分を覚えてますか? あなたの良きアドバイザーであり盾であり杖であり番犬の役割を使用としていた頃の自分の行動を実際少しだけど役に立ったのでは?、少し見方変わってきてたでしょ?
できるだけ話中断して早く帰れるようにしたり、睨みつけたり、言葉上の釘さしたり。
酔っていない人で、母がいなくて我慢ならないときは子供ながらヘリクツこねて対峙したよ。
そのくらい力は両親の口論でもらっていたからね。あの頃は大人や偏見に毒された子供を嫌っていた。入学後、親戚は褒めてくれたね、一気に変わったね風向きが、あの人達の価値観の壁壊したね。だからかな、自分も小学校に入って平和ボケしたのかな?  あんまり覚えてない。
<1064> エゴ ■2006年05月12日 金曜日 13時41分21秒
フラッシュバック注意 下記 記事:1063
<1063> エゴ ■2006年05月12日 金曜日 06時36分09秒
母よ今日はあまり自分と顔を合わせないでほしい睨んでしまうよ、自立しないで同居だけど。
母よ、家の近所をあなたが落ち着くまで一緒に散歩させられた事逢ったね。
あなたのやり方、言葉、実力行使、両方同時、好き勝手な順番でやっていたね。
思いだして来たんだよ最近、追い出してくれてたね、保育園(年長)〜小学1・2年。
何度か脅しを使われた後で実際追い出したのは、1〜2度くらいかな? なんだっけ何で怒られた? 稀にしたおねしょか? もっと悪い事したか? 両親の不満点挙げたか? しつけの時暴力やめてほしいと言ったからか? 他の家を良いと言ったからか?
『悪い子』『必要ないから出て行きなさい』『他の所が良いんでしょう?』『うちより良い所無いんだから』『外で大変な目に逢って来なさい』『一人で生きられるもんなら生きてみなさい』
嫌がる自分を玄関からだしたね、その後、10分くらいして裏庭に行っていた自分を見つけてさらに怒ったね。 『なんで玄関にいないの!』 って、好きな所に行って良いって言ってたから移動した。それにあの時、家から本当に追い出される覚悟はできてたよ、嫌、いらないのなら出て行こうと思ってた、ただ最後の用事すんだら家から出来るだけ離れようって。どうやって生きて行くかも考えた、でもなんだろう、あの時の方が大人だ、冷徹だ、楽観的だ、どうころんでも良い覚悟あった、ある意味止められて安堵半分、落胆半分だったよ。
後10分〜20分探すの遅ければ、2度と合わなかったかも?今思うとその方がお互いの為だったのかも?。

裏庭にいたのはね、愛犬と最後の別れを記憶しておきたかったから。
たぶん、2度と合えないし、会いに来るにしても時間がかかると思ってたから。
自分は愛犬に抱きしめて、少し遊んで、家の事、両親の事、自分と遊べなくなる事、愛犬自体が辛い目に遭うかもしれないけど頑張って・ごめんねって感じで伝えようとしてた、人間の言葉と行動で。本当に後少しだったんだよ。
母よあなたは言うね『幸せで愛されて育った』それで良いでしょうって?
自分は時々とはいえ、勉強・しつけでは邪魔され・脅かされ・ぶたれてた、それも酷いよ。
日常生活でもあなたはストレス高いと自分にあてる、自分しかいないから。
父から与えられるストレス(母が意見を譲るを含む)の逃場無いから、父と話し合わないから。
父よあなたも酷い、1〜2度助けてくれたが、意味ないし夫婦のもめ事こどもに割食わすな。
小4中盤まで父よあなたの行動にできるだけ母と自分は合わせていたのに。
それに、ふたりともやつあたりのレベルが酷いぞ、愚痴で相手の不満点・悪口いうのもあれだが、
自分に絡んで否定されたり、夫婦関係修復する努力が弱いのに壊す・終わり・諦める・逃げる・責任転嫁・無視・放棄・自分にやらせよう という内容を言うし、はっきり言って子供に甘え過ぎ。
記事:1062修正
自分も連れて行った方が良いか悩んで質問して来た、あなたの質問の先にあるかも知れない可能性が怖かった。
記事:1057修正(静穏モードの両親のイメージ強くて忘れてた、今より若かった両親)
修正前 忍耐が強くまじめで常識人、母にも切れない。
修正後 自分の意見が絶対に正しいと思っている、手を上げる事はないが怒りやすさは普通、
    子供にも八つ当たりを言う。
修正前 家族思い、性格は頑張りすぎの家族を大切にする人。
修正後 怒ったりストレスがたまると家族思い・家族を大切にする人がどうでも良くなる。

<1062> エゴ ■2006年05月11日 木曜日 21時13分14秒
記事:1058関連
母よ今思う、多くの経験をさせてくれてありがとう。
でも本当はどこかで自分の事を消したいと思っていると思う。潜在意識の片隅に本能として。
死んでほしくない(当時は泣きながら幼稚な言葉)と言った事、恨んでますか?
あの時、あなたを止めない方が楽だった?本当に望んでいたの? とどめてごめん。
自分は怖かった自分のみを守りたかった、あなたを失った行く末を言われ、泣いたら
自分も連れて行った方が良い金谷んで質問して来たあなたがその質問の先にあルカも知れない可能性が。
<1061> なきむしっこ ■2006年05月09日 火曜日 15時20分14秒
たった今思い出した。
私がピアノの練習で切羽詰っていたときに(いつも前日に練習するの・・・)
母親の何度もくる質問や話しに「うるさいよ」って言ったら(もっと強い語気だったかしら?)
「OOちゃんのためにお弁当作ったり、お皿洗ったりしているのに・・・もう明日からは何にもしてやらない!!!」って怒られたこと。そして2時間後にはもう母親は忘れているか・・・普通に話しかけたり。口きかない!って宣言した日には口きかなかった。別に恐くなかった。母親は私にとって別に恐い存在ではなかったし、どっちかっていうと子どもみたいな人だと思ってたから。
姉はそんな母親をばかにしていたし、父親をタッグくまれて母親を笑いものにしている時のなんともいえない悲しみみたいな気持ちったらなかった。
姉の「雨だから迎えに来て!!!!!」という強い語気には絶対に逆らえない母親だった。
どうして問題に面と向かわずに「うるさいなんていうもんじゃないとか」いつも感情で「もうしてあげない!!!」になるんだろうか。
友達の言いなりになっている私を見て「何でOOちゃんはいえないんですか」「何でいえないの〜(へらへら笑っている)」とからかう。「あの子(友達)はピアノ発表会でうまくひけずに終わったあとに泣いてしまった子を指して・・・
負けず嫌いですごいね〜(私を見ながら)負けず嫌いな子の方が絶対伸びるよね」と言う。バスケでボールめがけて無謀に誰にも渡さないで、うまくなのに、ボールだけとって意固地に話さない子にあの子みたいに積極的でうまい子はすごい」とか言う。何思ってんだろ??私を鍛えたかったらしい。負けず嫌いで、性格の強い人になってほしかったらしい。そういう母親こそ、友人に言われっぱなしな所見たし、友達との旅行でままさんグループである人以外と旅行しようと計画して、OOさんに言わないでほしいんだけど・・・・なんて何かいっつもものすごい子どもっぽいって思ってた。
つまりガキなのよ。ガキに育てられたのよ。だって、私思春期でいったいどんな教育受けてきたかって考えたときにうちに家族に関しては、ただの馴れ合いの場所、でも決して弱みは見せられない(本当に)場所だったが一番ぴったりくる私の家族という場所の思いだったから。

Copyright (C) 1998 CGI Arkadia All rights reserved.
This script written by Shintaro Wakayama.