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私たちの物語 - 家族過去ログ No.50
メッセージ数:1000件

<1000> なきむしっこ ■2006年01月18日 水曜日 19時48分28秒
 家族について。
私の家族は「良い家族」だと思っていた。お母さんは優しいし何でもいう事をきいてくれる。お父さんも私の質問にいつも適切に答えようとしてくれる。お姉ちゃんに対しては無条件に好きだったと思う。尊敬していた。大切だった。私から見ると・・・・無防備に生きているように思えた。仕事を続ける。勉強ばかりしている。健康に気を使っていないように思える。いつかガンになったりするんではないかとか、どうして気をつけて生きないのだろう?と思っていた。
 家族の中にいて私は幸せだった。クリスマスの時とか、サンタのカードを書いてもらった。
 苦しくなったのは、家族の中でいつの間にか・・・・末っ子のみんなの喜ばせ役、何を言われても傷つかない役、あっかるい役を何故か自分がしていると思った時から。。。。学校で何かの拍子にいじめられるようになった。好きな子が同じなのに、かくして「応援するよ」とか言っていたからみたいだけど。
 学校では、人間扱いされないのに、我慢して、家族に絶対にそんな惨めな姿を見せる事ができないと心の底から思ってからだ。
 家族を支えているつもりだった。だから、私の家族の中で果たす役割を降りたら家族を今ある家族を失うと思っていたから。失いたくなかった日常を。ずっとあった、かわいがられている、幸せなものを失いたくなかった。
 家族。。。。が離れていった気がした。今までクラスの同級生のような友達家族だった家族、それでも優しかった家族が。
 学校でのいじめを繰り返しうけていて、先生からも何だか「気持ち悪がられているような」そんな感覚を受けた。この子は、何か大人で女の部分を持っていて、私の心情を分かりそうで、子どもっぽくないと変に思われている気がした。
 私は人の心情を理解して、期待を読み取るのがものすごくうまかった。子どもの私にはそれは重荷となった。テストや学校のせんこうの期待を読み取るだけのくだらない勉強には役に立ったとは思うけども。それくらいだ。
 依存心の高い子にはものすごく依存された。嫌だった。
 いつも学校の中で。。。「何で?」って思い続けていた。私は。
でも、「学校楽しい」と言い続けた、家族には。見栄を張りたかった。お姉ちゃんに負けたくなかった。気の強い姉はいつも私の上に君臨していて、私はいつも下にいる思いだった。姉は上だった。私は下だった。それはいつも私を「気が強くなりたい、わがままになりたい、これが私の人生の目標」と思わせた。
 家庭の中にいて、どれだけ親切にされて、「幸せ」に見えても、私はいつも自分を穴ぼこだらけの存在だと感じていた。いつも私は性格改善が必要に思えていた。学校の中でいつの間にかいじめやからかいの的になった。小学校時代の理不尽な思いを抱えて、いつも顔がひきつりまくっていながら・・・牛乳を入れる箱が牛乳でいっぱいになっているのを水道で洗いに行ったことを思い出した。
 「人生はつらいことだらけだから、大人になったらもっと世の中で辛い事ばかり受けるから。。。。今我慢して、他の人よりも一歩リードしよう」と思っていた。
 家族に隠していたいじめの日々。家族にうそをつくようになったいじめの日々。でも、自分を感情のはきだめにして、神様を呪いまくって、いじめをする子を恨まず生きていたら、いつの間にか自傷が止められなくなった。自傷的な気持ちが止まらなくなった。
<999> アーネスト ■2006年01月18日 水曜日 12時40分15秒
原家族に対する怒りを取り扱うことができない
「いま」の彼らの行動に対して不満を持っているはずなのに、その下にある何層にも敷かれた憎しみ、怒り、恨み、嫉妬、見下したい、コントロールしたい欲求。そして殺意。「いま」に焦点を当てれば当てるほど、変えられない過去に直面せざるを得ずに辛い。それでも進んで進んで、いくのだろうか?スリップしながらいくのだろうか?こわいっす
<998> こくーん ■2006年01月17日 火曜日 03時47分08秒
もしかしたら母は『理想の誰か』を探していたのかもしれない。
この世のどこかに母にとって真に特別な『完璧』な人がいると信じていたの
かもしれない。
『この人ではなかった』と、父が、弟が駆逐されていき、
最後の私も、やっぱりそうではなかった。

家族がバラバラになった…というよりは、そう考えたほうがしっくりする。

かわいそうな人だ。
あれほど善良な、悪いことのできない人であるというのに。

私はあの人の強さにも、弱さにも耐えられなかった。
<997> サクラ改めミエル ■2006年01月16日 月曜日 00時31分13秒
幼少の頃から親に育ててもらった記憶があまりない。
共働きだった両親だが、5歳のときに祖父が亡くなった。
それから父親が鬱になったようだった。
当然家計は母親が大黒柱となる。
祖母に育てられていたのだが、10歳の時に発狂する。
「電波が聴こえる」「○○さんから見張られてる」といった具合で、
当時出始めたアルツハイマーではないかとの話を「日常生活は出来るんですょね」と一蹴した医者。
その後、お隣と揉めて裁判沙汰になる。
借家だったのだか、高校生の時に公共団地に引っ越しをした。
部屋数が少ないので、両親・弟・私と祖母という部屋割りになった。
弟は勉強のため、一人部屋を与えられた。
私は祖母をなるべく無視して過ごすことに決めた。
なるべく部屋にはいないように、夜遊びも覚えた。
どのタイミングだったかは忘れたが、就職した頃、毎晩遊んでいた私の帰宅時間が3時4時になっても(当方寝たフリをしていましたが)必ず覗きにきました。懐中電灯を持って(苦笑)。
その祖母とも別れた。
天国に行って祖父とうまくやってるだろぅか。「生前オカシかったょな」と説教のひとつでも言って欲しい。その頃には正気に戻っているだろぅ。
思えば、かなり歪んだ愛情だったけれど(だからってTVもつけずに豆電球でゴハンですょ)、彼女なりの守り方・愛し方だったのかもと、ようやく思えてきました。救急車を呼んで私に精密検査をしろと、なんかが埋められてると私を捕まえようとした祖母の姿は目に焼きついてはなれません。「性的イタズラを受けてるんじゃないか」と裁ちばさみ片手に追い回されることもありました。
「盗聴器が仕掛けられてるから」とケーサツを何度も呼びつけています。
父親は寝ているだけです。働きざかりに仕事らしい仕事が続いた試しもなく、願書の父母の職業欄に「テキトーに書いておいて」と母親に渡しました。高校生になってからは一度も職を聞いてません。
いまはシルバー雇用があるようで、毎朝出勤するみたいですが何処かは知りませんし、午前中で終わる仕事らしく昼寝してます。母親が「仕事が忙しくて疲れた〜」というと「イヤなら辞めちまえ」的なことをクチにします。私にはそれが許せない。その結果はゴハンが食べられないってことを身に染みて理解してないからでしょう。
この機能不全家族の中で、唯一まともなのは母親だけです。
尊敬しています。
同時に不安でもありました。いつ置いてかれるのか…と。
母親に叱られるのが怖くて、鬱と不眠症で精神科に通院していたことも内緒にしていました。(会社では平気で言えるのにね)
見捨てられるんじゃないかと不安でした。

ようやく去年の大晦日に話をしました。
やっばり叱られたけど(「アンタはいつも事後承諾だ」と)、「好きな人がいます。その人と暮らしたいです」ということが出来ました。その時、ちょうど揉めてて、私は車を飛ばして相手の許へと車を走らせようとした時。

初めて背中からギュって抱きしめられました。

「ダメだったら帰っておいで。いつまで経ってもアナタは私の娘なんだから」と。
それ以来、少し、ほんの少しだけど家庭内が改善されているように思います。
まったくなかった挨拶が出来るようになった。
食事の後片付けも進んでやるようになった。
家族のかかわりを持つようになっていった。
根本原因はわかってます。
それをどう改善(回復)していくのかが、今後の課題です。
<996> iwashitakeco ■2006年01月12日 木曜日 10時13分10秒
母は私の友達を全員、けなしてきた。
批判して、バカにして、「そんな子としかつきあいがないのか?」と言い続けてきた。
友達からきたハガキを勝手に読み、そしてまた批判する。写真を見てはバカにする。
友達が幸せそうだと話すと、その事実を否定した。

私は友達を作ってはいけない、と思った。
<995> reiko ■2006年01月11日 水曜日 10時33分02秒
父と2時間強電話で話した。私の中でいろいろ変化が起こっている気がする。それを抑えず、そのままじっくり見守ろうと思う。ある初期の発達段階で固着していた発達心理がやっと動き出した感じである。私の問題は「分離不安の解消」と「アンビバレンスの保持」。そのどちらもいまの私ならできる。まだ、自分の中に確固としたアイデンティティーが生まれている確信は無いのだけれど、明確になった個々の問題に真正面から取り組んでいるうちに、きっと気がついたら「これが私なんだ」というものが出来上がっているようにも思う。いまだに以前の私を知る人は、私を見ただけでどこかに行ってしまうけど、そのことに無意味に囚われることは無くなったし、新しい人たちと関わってゆこうという気持ちの方が大きい。父母ともに結構重度のBPDである。自分を育てながらできる範囲で彼らに積極的に関わってゆこうと思う。
<994> iwashitakeco ■2006年01月11日 水曜日 10時11分51秒
母は私のことを嫌っている。
父は私を見捨てた。
それが事実。
ただそれだけのこと。
<993> ヒナミ ■2006年01月09日 月曜日 19時52分51秒
今まで両親と会話らしい会話してこなかった
できる環境じゃなかった できる相手じゃなかった
話しても応えてくれなかった 応えてくれてもそれは否定や皮肉ばっかだった
あたしが自分で決めたことにも 必ず文句がついて渋々承諾
そんな感じ もう話すのも嫌になった時期
話し掛けてくる母親に適当に返事してたら
溜息ついて あんたと話しててもつまんない って言われた
だってその頃にはもう 自分の口をついて出るのも皮肉ばっかり
素直に親の話も聞けなかった お母さんだって聞いてくれなかったよね
気持ちよく認めてもらったことって少ない
必ず最初に忠告される うちのめされる
ああ、自分の決めたことっていつもダメなことなんだ 
自分てダメなんだ
それが今更
お父さんもお母さんも子ども達のこと心配なんだよ って
やたら遠まわしに探りいれて 話をしようとしてる その態度が苛々する
ウザいにも程がある 何言ってるの ほんと今更なんだよ
<992> reiko ■2006年01月06日 金曜日 21時20分33秒
親という存在を、自分で自分からから遠ざけて来ていたと思う。理由は、@愛してくれないからA彼らも親から愛されてないから愛を持たないから怒っても無駄だからB一人でしっかり生きていかなければならないから。たとえどんな親であっても親とのつながりを無理やりゼロにすることに無理があったらしい。ものすごい孤独感だ。自分を根底で支える「愛の記憶」はもう作り出すことは出来ないけれど、そういう欠損を私は抱えているけれど、「抱きしめてやりたい衝動に駆られています」とメールをくれた父を、いま私の心が受け入れるか、受け入れないかの境目にいます。そんなことを私に言ってくれる人が、この世にいたのか。そんなふうな存在として親をこころに持つことができていたら、私はこんなに苦しい時間を、こんなに長く過ごさなくても良かったのかもしれない。信じられないことだ。信じないように、親とのかかわりを避け、そうして自分から苦しみに身を浸していたらしい。夢のようだ。私に「抱きしめてやりたい」と言う人間がいたのだということが。それをどうこころに受け入れるか、受け入れると何かが崩れるような気がしているのだ。でも、でも、お父さん、そんなありがたいことはないのよ。
<991> ちゃな ■2006年01月06日 金曜日 19時54分39秒
小学校に上がったばかりの姪っ子、なぜか私を気にいってくれたみたい。
お正月に会ったら、何なのかな…すごく仲良くしてくれるの。嬉しい。
自然に体を寄せてきて、自然に手を繋いできて、
自分が拒否されるとは微塵も思ってないんだなぁ。
あったかい、きもちいい、やすらぐ、
と思ってたら、ふいに手を離して自分の興味のある方へ行っちゃった。
が〜ん!!!
見捨てられた…って子供にオトナが???
しばらくしたら、また戻ってきて自然に手を繋いでくれた。
帰りの準備をしていたら、
「もう帰っちゃうの…?」って素直に寂しそうな顔をして。

自分が得られなかったものが何だったのか、実感できました。
<990> NAC NAC ■2006年01月04日 水曜日 22時33分36秒
今日はここから。健康ランド「ハッピー」(\630)出た私のふにゃ〜な気分も、これを書き終えた頃にはテンション急降下していることだろう。それでも盆正月恒例の浜松記念なので書いておく。

ここ数年私の盆正月は春野町(今は合併して浜松市。標高高くて身長170の私でも背伸びすれば星に手が届くくらい星がきれいだ)の友人A宅に図々しくもお邪魔している。だからこの時期私は寂しい実家から暖かい家族へ、逃げるようにして東名高速に乗る。
当然盆正月だからA宅は姉家族と弟家族が帰省して賑やかだ。いや、ガキんちょが計4匹(男2・女2)もいるから賑やか通り越して「子育ては大変だ。あたしゃ結婚してなくて(できなくて)良かったよ」ってのが実感で、そんな私がいけしゃあしゃあとお邪魔するのだから当然友人Aも独身だ。
ここで私とA、お互い30過ぎた者同士の利害が一致する。その訳は私はお邪魔することで(愛車はキャンピングカーだが)車中泊しなくてすむ⇒快眠でき、私同様田舎の長男坊であるAは同じ独身の私が来ることで、結婚して新たな家族を持った姉弟に対して肩身の狭い思いが軽減されるってわけだ。
事実、Aがいない時に私はガキんちょたちの遊び相手をしていたわけだが、疲れた。めちゃくちゃ疲れた。なにせ相手は子供、特に野郎は手加減なしでブチかましてくる。自分の子供ならまだしも他人の子供じゃ怒るにも怒れんし、あたしゃ捕まえて(引きつった笑いで)くすぐるのが精一杯だよ。そんな時姉弟のナイスフォローが欲しいところだが、「実家に来たら子供の世話から開放されたい」彼らは「これこれやめなさい」と言うだけで、それ以上の強制執行はしない。故にガキどもはここぞとばかりに遊びまくる。臨時チャイルドプレーヤーの私としてはそんな親の気持ちもわからんではないが「フンガーフンガーフランケン」ってところで、まことに微笑ましい?家族団欒の構図である。フンガー(怒ってるんだよ)
以上私の肉体的苦痛。
そして子供が遊び疲れ寝に着くと、当然彼らは子育ての話になる。あたしゃAの気持ちがよ〜くわかったですよ。独身なので子持ちの会話に入れない「居場所のない独り身の寂しさ」「何で俺は独身なの?」
くぅ〜辛過ぎー あたしゃ危うく久保田一升瓶ラッパ飲みするとこでしたよ「あしたのジョー」のおっちゃんみたいにね。「くぅ沁みるぜジョー」
以上私の精神的苦痛。
そしてここからが今日の本題だ。
「愛情を知らない」私がA宅でお世話になる最大の利点は「『機能する家族』『会話・団欒のある家族』とはどういうものなのか?」自分で実体験することにある。
そして毎回お世話になった後「Aんちはいいなぁ」と私は羨みながら、満たされなかった自分の過去を思い出しては泣くのがパターンだ、今回も。
「何でうちはお互い無関心なの?」
「何で情緒を促す会話がうちにはないの?」
「何でうちの食卓には笑いがないの?」
「何で家族で団欒や楽しみを作ろうとしないの?」
「何で楽しかった思い出がないの?」
こうして「何で?」「何で?」をあげたら私はキリがない。典型的機能不全出だ。未来に向けて私がプラス100の経験をしたら同時に過去のマイナス100の経験も思い出される。「情緒喪失」「乖離」のACでなければ嬉しさ一杯でいいはずなのに、必ず出てくる背中合わせの寂しさ。
何でだろうね?
全て子供としての純粋な欲求が無視され続けた結果だ。インナーチャイルドと会話してると私はよくわかる「小さい自分がどうして欲しかったのか」 そんな痛みさえも感じない鈍磨の家族。
仮に今回のA宅お泊りをホームビデオに撮ってマイファミリーに見せても、彼らは何も気付かないだろう「これが情ある家族だよ、うちと全然違うでしょ」ってことに。

気付くには感じることが必要で、じゃ感じるためには何が必要?
その答えは自分の中にあるでしょ。
<989> アーネスト ■2006年01月03日 火曜日 01時19分58秒
人に謝れない。
なぜ人を傷つけておいて、謝りたくないのか。先日も家族間でそういうことがあって困った・・・結局、内なる子供の声を聴いてみたら彼がひどく怒っていた。私ではなく、内なる子供が怒っているなんて言ったら無責任なのかもしれないけど・・・実に子供じみた怒りをぶつけて、それで責任がとれなくなる。正直なのは、率直なのはいいことだと思っていたのに、それはやはり相手を尊重しない結果になってしまった。

さらにひどいことに、よくよく考えてみてどうしてそんな言葉を発してしまったのか、怖くなるくらいに把握できていないのだ。

内なる子供が、何歳なのか知らない。でも原家族に対して激しく反応してしまう。距離を置いてうまくやっていきたいのに・・・

それで手紙を書いたんだ。まだ書き途中なんだけど・・・
素直に謝ってしまえばそれは効率的なのだけど、よく納得してないのに謝るとまた責任が取れなくなりそうで・・・ちょっとこの一ヶ月は逃げてた。それで気づいてまたつらくなった。でもなんとかなる。私がしない限り、私という「役」が欠けない限り、事態はなんとでもなる。過剰反応だけに気をつけて。
それにしても原家族との対応はやはりエネルギーがいるし、時間がかかるのだ。でも後少し、後一区切りでうまくいくはず。
<988> ひろこ ■2006年01月02日 月曜日 20時28分47秒
今とても寂しいです。
誰といても、何をしていても空虚。自分の存在意義が見つからない。
最近はお酒ばかり飲んで、暴飲暴食もいいとこ。
好きになるのは駄目男ばっかり。
人の気持ちを考えない、すぐに暴れる、人間として普通に最低な男ばっか。
で、父親にそっくり。
あ〜なんで大嫌いな父親そっくりの男をすきになってしまうんだろう?
自分でもわかんない。
どうしたらいいのかもわかんない。
今夜もぐだぐだになるまで飲んでしまいそう。最悪!!!
<987> reiko ■2006年01月01日 日曜日 11時01分56秒
ここ数日精神が不安定。半年振りに父親と電話で話したことがきっかけか。もう物分りのいい優しい娘はやめにしたい。そう思ったらものすごい言葉がこころからわいてきた。あたしを一体なんだと思ってんだ、おまえら早く○○でしまえ、人を馬鹿にするのもいい加減にしろ、それでも親か、・・・。あー、誰か助けて。お正月は嫌い。ひとりぼっちは大嫌い。わたしがいなくなる。わたしはどこにいる。わたしは、わたしは・・・
<986> NAC NAC ■2005年12月31日 土曜日 21時18分58秒
この時期クリスマスから誕生日を経て正月と「親がワーカホリックで家族団欒を経験したことがない」私にとっては苦痛の1週間だ。そして今年も私は耐えられない機能不全家族から脱出を図り、ここ浜松にいる(盆・正月好例)。
そして先ほど私は某鳩のマークのスーパーに夕飯の買出し(ご飯・白身魚・アルコール・つまみで税込み\739)に行ったのだが、年末の混雑に嫌でも意識させられる「家族」 そして思い出される「笑いのない冷たい食卓(それが当たり前で私はおかしいとさえ思えなかった)」 それに続く「怒り」 「ほんとビールでも飲まなくちゃやってらんねぇよ」って感じだ。これでアメ横なんか行った日にゃ私は一気にブルーになるだろう。そして今私はアルコールを飲んだ後だ。フンガー
明らかに私のインナーチャイルドは怒っている。そして今の私はそれを適切に表す言葉が見つからない。強いて言えば「マグマ」といったところか。
確かに小さい時の私は「親に感情をわかってもらえない」寂しさで一杯だった。それなのに「寂しいとはどういう感情なのか?」さえもわからなかった。
それっておかしいだろ?

先日私は30数回目の誕生日を迎えたわけだが(ACと気付いて僕3ちゃい)、「愛情を知らない」私の母親は何を考えているのか?私の部屋の入り口にプレゼント?の目覚まし時計を置き、箱の明け口に「おめでとう」と書いたメモ用紙を挟んでいた。
ん〜すばらしい母親だ。全然ポイントがずれていてムカついてくる。中学時の私なら即座に布団相手に「臍で投げる」バックドロップの練習をするだろう。まさか(マミーは)それを想定してやっているのか? 頼むから「(母親)ぶるのはやめてくれ。あんたの思い込んでいる愛情は子供を傷付けるだけなんだから」って感じだ。
ホント私には彼女の思考回路が理解できない。
なぜ子供と向き合って会話しないのか?
やっぱ経験がないからその必要性が思い浮かばないんだよねぇ。悲しい女だ。
<985> reiko ■2005年12月31日 土曜日 15時47分20秒
父と一緒に温泉に2泊、という話になった。一日たったら怖くなった。二日間も‘監禁’されるような気がした。こころの「身動き」が取れなくなるのだ。これをわかってもらうのが難しい。機を逃すと、伝わるはずの愛情はもう二度と伝わらない。母とは何か。母親というのは一体どんな存在なのか考える。私にはない。あの人は誰?私にちょっかいをかけてくる、まっすぐ私の目を見ない、いつも泣いている、あの人は一体私のなんなのだ?何のために生まれてきたのだ、人間不信になるためか?自分の仲間である人間を、心の奥底で恐れ、憎むために生まれてきたのか。本物しか受け入れられなくなった私は、偽りの満ちるこの世界で、孤立する。まったくのひとり。まったくのひとりである。さぁ、ワイン。それとチーズ。ゆく歳を祝おう。
<984> らぷ ■2005年12月30日 金曜日 23時03分51秒
(フラバ注意?)

こわい。涙が出る。ひとりになった途端、鹿か何かの鳴き声みたいなのが聞こえた。自分の喉から出ている音だった。怖い。涙が止まらない。親に別れさせられた元彼は理想的な私の「親」だった。いつだってわたしを丸ごと受け入れてくれた。大好きだった。もう依存しちゃダメ、自分で自分をせわしなきゃいけないと分かっているけど、でも今でも大好き。彼をおもうとかなしい。でも、つよくならなきゃ。と自分に言い聞かせている。結局私の面倒を見るのは私だけ。わたしをACにした両親とも、元彼とも、距離をおかなくちゃ。結局「家族」は当てにならない。当てにしちゃいけない。
<983> いつか ■2005年12月27日 火曜日 23時33分44秒
機能不全家族。
小学校6年の頃、呼吸が苦しくなっていた。
緊張すると、息が上手くすえないような、そして頭はぼんやりしていた。
過喚起だったと思う。

何も知らないまま、よく耐えたものだ。
<982> 秋 ■2005年12月26日 月曜日 19時33分26秒
不快な表現が含まれてます、注意

昨日旦那とクリスマスということで近くのショッピングセンター
に行った帰り、電車に乗ったら、車内で嘔吐してる人がいて、
すごく不快になって嫌だなと思ってそこから離れて違う車両にいった。
それから、なんか家に帰って不安定というか自分では何も気にしてはいなかったんだけど、なんともいえないもやもやとした気持ちになった。
(べつに私も胸がむかむかして吐きそうというのとは、違う)

そして気がついた、その原因が。
小さいときからうちの母は、ストレスが原因と見られる血圧低下を
起こし、3ヶ月に一回は、嘔吐して入院やら救急車で運ばれていたことが。
なんか、こういうのフラッシュバックというのかな。
そうなることで父は私たちを責め、家の雰囲気は最低になる。
一度、母のおむつを交換したことがあった。
いつも、泣いていたな、そんなとき。
家の手伝い、父の暴言、早く家を出たいと思った小さい頃・・
そんな記憶が鮮明に蘇って・・

どうして母はそこまでして無理をしていたのだろうか・・
やっぱり私たち子供のためだっただろうか・・
いつも極限まで追い込んでいた。
いまでもたまに同じような症状で入院したとか連絡が来ると、
不安になる。
どうしてあんな父と結婚したのかな・・
私は小さいときから居心地のいい場所じゃなかった、家族って
父も母もいるのに、本当に心から言いたいこと言えなかった・・

今何も自信が持てなくて、何からも逃げるようなだめな人間になりました。
なぜ生きているのかわからないから
<981> アーネスト ■2005年12月26日 月曜日 16時20分51秒
(性的フラバ注意)

母親に性的な接触を持たれるのは何人ものの屈強な男に羽交い絞めされているのと同じくらい不快だ。洗髪、散髪、耳掃除。

何かが間違っているのに、何がどうおかしいのか具体的にいあらわせない。
でも具体的でなくてたぶんいい。自分は十分不快だった

Copyright (C) 1998 CGI Arkadia All rights reserved.
This script written by Shintaro Wakayama.