Top過去ログ一覧
私たちの物語 - 家族過去ログ No.4
メッセージ数:80件

<80> なつみ ■2003年09月15日 月曜日 18時02分47秒
機能不全家族。私の育った環境。揉め事が好きな家族だった。
昔、祖父が多額の借金を作って逃げた。私が生まれた年だった。それから父は人が変わったように酒を飲んでは暴言、時には暴力を母に振うようになった。(らしい)私は以前の父の姿は知らない。物心が付いた頃から父親が恐かった。友達の家と私の家とは違うんだ・・幼いながらに悟った。
私は父と会話する事ができなかった。父の前では他の家族とも話せなかった。声を出して何か発言する事が恐かった。こんな事を言ったら怒られるんじゃないだろうか・・。その反面、父の居ない所では母に言いたい事を何でも言った。母と、父の悪口を言い合っていた。それを父は面白くないと思い、怒られた。「なんでお父さんには何も話さない?」と。話さないんじゃなくて話せなかった。私の居場所はどこにもなかった。部屋に引きこもって、ただじっと息をひそめていた。それさえも怒られた。父は、私がそんな風になったのは全部母親が悪いと言っていた。その頃、私はACを知らなかった。
母に依存する私。だけど母は一人じゃ何もできない弱い人だった。両親の不仲、父が母に振るう暴力を見せ付けられて育つぐらいなら、仲良くできないのなら、離婚してほしかった。そしたらどんなに楽だっただろう。
「あんたが小学校を卒業したら・・」「中学を卒業したら・・」母は口ではそう言っていた。私はその日を毎日想いながら、日々じっと耐え続けた。けど、経済力などの理由から、ソレが実行される事はなかった。
次第に母への不信感も募っていった。高校に入った頃には、家にはあまり寄りつかなくなり、そんな想いもなくなった。他人と関わる事で寂しさは埋められていた。他人と居る方が楽しかった。私はただ仲良くしてほしかっただけ。やっとそんな風に思える様になった頃、ソレは実行されようとしていた。その頃は、ギクシャクするものの父と多少会話はできるようになっていた。私は父と母の間に入り仲をとりもった。それから今の所なんとかうまくやっているようだ。
私は機能不全家族の中で育った為、学生時代、社会に出てからもさまざまな辛い思いをしてきた。自分をずっと押し殺してきた私は、表現することが苦手な警戒心の強い内気な大人に育ってしまった。人とのコミィニケ-ションのとり方が分からなかった。今思えば、小学校時代にはすでに自律神経失調症、摂食障害、不眠症、対人恐怖症、不安神経症、などの症状があった。けれど、両親は私の症状には気づいてくれなかった。社会にでてから、仕事にも支障をきたすようになった。
私はずっと自分の家は何かが違うと思って生きてきた。解決する力も気力もなかった。けど、家族以外の人と関わりさまざまな経験をしてきて、今やっとこうしてACと言うモノに向き合い始めている。今は実家も出て両親と距離を取っている。自律神経失調症の症状は多少和らいだけど、社会に適合するのはまだまだ無理。両親にACを理解してもらうのもまだ難しい。
少しずつがんばってみようと思う。
<79> きりん ■2003年09月15日 月曜日 02時40分16秒
自分の想いを吐き出しても良いなんて・・・。何だか信じられない経験・・。
実家は機能不全家族だった。私は3人姉妹の真ん中でよく「変わってる・・」「何でそーなの!」って責められた・・。誉めてもらった記憶なんて無い。だから私はダメな人間だと思ってずーっと必死に生きてきた。独立しても母の言葉は頭から離れる事はなくて 必死に頑張って来た。今も自分はダメな人間・・。
父の記憶は鬼の様な顔。 自分のイライラを家庭でしか爆発出来ないちっちゃな男だった。いつからか 親の顔色を見る子供になった。感じてはいけない・・・怖かった。父の居ない時は家族の雰囲気をよくしようって無理にしゃべった。母にも離婚していいよって言った。家族で楽しく喋ったこと無い。家族の決まりごとも無かった。ただあの家で、息をひそめて時間が過ぎただけ。私は人として生きる価値、自分の存在が認められる事もなかった。
私の心はあの時 自分を殺す事でしか生き延びる方法はなかった。
今 自分がどう感じて良いのか解からない・・・。怒る事がわからない・・不快も解からない・・ひたすら血まなこで前に進んできてしまった・・。その結果 何かが壊れてしまった。わからないよ・・。どうして良いのか。私は一人ぼっちだもの。解からないよ・・・。もう疲れた・・・。存在を認めてもらいたくて必死に生きてきたけど・・・。薄暗い部屋で手を延べて「助けて」って言っても誰も手を差し出してはくれない・・。
今になって年老いた両親が連絡が無いから心配だ・・って言って来る。
何ヶ月か前にACで辛いって手紙出したのに、ACの意味さえも調べずに心配だって・・。私は恨みつらみを言う気は無い。私の辛ささえも 両親には分けてあげない。
<78> ひとみ ■2003年09月14日 日曜日 00時09分58秒
私は家族と旅行したり遊んだりお喋りしたり食卓を囲んだりした思い出がない
父は毎晩飲み歩き浮気をしている事を私に話し いつもバカにした口調で褒めてもらった例はない
母は機嫌悪そうに家事だけをしていて何か面倒なことがあれば完全無視 病気になれば看病もしてくれず少しでもお金のかかる話をすれば不機嫌 彼女の口癖は 嫌だ 何? あっそう となげやりな口調
12才の時兄から虐待を受けた その日から家を出るまでの10年刊緊張しない日はない
兄にやめて欲しいと涙ながらに頼んだ 笑っていた
私は家を出て一人暮らしを始めた その何年後結婚をし出産をした 子供は天使だ 汚れをしらない 白にするのも黒にするのも親次第
今まで兄が怖かった でも生まれてきた時は違うはず
どこでそんな風になったの? どうして両親は気づかないの? どうして子供を生んだの? どうしてもっと愛してくれないの?
思い切ってきいてみた 頑固な子供の顔がそこにはあった 
最後の切り札 兄が私にした事を話した 全然動じてない様子
あの時顔を見てこの人達に分かってもらおうなんて無理だと分かった
私は私でなんとかするしかない 期待するのはもうやめた
時間がかかってもいい自分の為にもう辛い思いはたくさん
<77> クッキー ■2003年09月09日 火曜日 11時35分36秒
母は、アルコール依存症(と思われる)の父親がいる家族で育った。
家の中での暴力(母はあまり巻き込まれなかったらしいが)に
いつも脅えていたらしい。

父は、やはりアルコール依存症ぎみの父親と、ワーカーホリックの母親の
居る家族の中で育った。
「長男」という立場をまっとうにこなしていたため、
無理ばかりして、精神が健全に育たなかったよう。

その二人の間に生まれた私。
「家族」という枠に自然に安心して過ごせられなかった二人は、
私が幼い頃、家族以外の人達を「無理矢理」に受け入れようとし、
そのしわ寄せが、物事を真面目に受け取ってしまう私の心に
ダイレクトにきていた。

二人は、私の気持ちを、知るよしもない。
自分達に、余裕がなかったから。
むしろ、物質的に良く育ててやったじゃないかと、言われていた。

「家族」という、生きるために密接した関係では、
どうしてもどこかで「ゆがみ」がくる。
そういう部分をやっと理解してきてて、
私は、「たまたま」、運悪く、両親のゆがんだ部分に
からまれ突き落とされてしまっていた。

...両親に、言いたいこと、訴えたいことは、たくさんある。
けれど、大部分は通じない現実も知っていて、
この現実を私は受け入れざるをえない。
静かな気持ちで。
<76> コートジボアール ■2003年09月08日 月曜日 20時26分53秒
物資的に経済的に不足していても、家族の愛だけは無償で、代替不可能な宝物。命なんか長くなくていい。日本に生まれて幸せだね。それは、本当だとおもいますか?
<75> SUN ■2003年09月06日 土曜日 19時34分56秒
No.74のMです名前をSUNに変えます。
他の過去ログを読んでいて以前にMという方がいらっしゃることに気付きました。掲示板は全く初めてなもので変えたほうが良いのかよく分からなかったんですが、一応SUNに変えます。
<74> M ■2003年09月06日 土曜日 12時45分21秒
私の母親は子供のとき親に抱かれた覚えがあまりないといっていた。それでそれが当たり前だと思い自分の子供(私)を抱くことをあまりしなかったらしい。私が1歳半の時妹が生まれた。妹は生まれつき足が悪かった。生後1週間でそのことが分かり、母は妹の世話につききりになったのだろう。そんな幼すぎる時代の記憶は現在もっていない。妹は足の手術の為小学2年生の時入院した。母が病院にずっと付き添っていた。その間の母親役は私が担った。私は母に「あなたがちゃんとしないとお母さんが困るでしょ」という言葉を言われた記憶がある。あなたが私の代わりに母親役をしなさいと言う意味の言葉だ。それから私は人が変わったようにまじめで親に従順な子供になった。親に甘えることをしなかった。親は私には全く手がかからなかったといっている。親に甘えるという当然の欲求を抑圧された私は、他人はそのままの私を受け入れてはくれないとずっと思っていた。
私はずっと自分が何の病気なのか分からなかった。自分が壊れて10年後やっと自分はアダルトチルドレンであることに気付き自認した。やっと人生のスタートだ。

母は自分で判断できそうなことでも私に尋ねてくる。「〜したほうがいいかなあ」自分で判断できないのか?私が親に甘えられている気分になった。
父親は子供っぽい、「〜してよお」とか子供に平気で言う。親の言う言葉なのか?子供に「ケチ」と言ったりとか、人が食べているものを自分も欲しがる。まるで子供だ。自分の意見が通らないとしまいには逆切れして自分の部屋に行ってしまう。
親は家族に甘えている、私が甘えられているようだ。親の役割を放棄しているのか。私は今また母親役を担っている。この家は安全な場所なのか。
<73> カオナシ ■2003年09月01日 月曜日 16時00分55秒
今でもよく覚えているのが、昔住んでいたうちの玄関と、そこに生えていた榊の木。何をしたかは覚えていないけれど、家から閉め出され、泣き叫んでいた。このままあなたに捨てられてしまうかもしれないと思って。その時に見つめていた榊の木。
そんなあなたは「厳しい母親」なの、それとも常軌を逸しているの?
その頃の私は誰かが腕を挙げると反射的に怯え、よけようとする子。今の私は人間嫌いで・閉じこもる子。あなたが私をこんな風にした。今は普通に話しているけど、そんな瞬間にもあなたを恐れている。
中学時代から続いた祖母との確執。たけり狂う母と、激昂する父。その間で必死に仲裁をする私。仲裁なんかしたくなかった。もっと安心で安全な気分でいたかった。あんな身近で人の憎しみなんか見たくなかった。
あなたが私をこんな風にした。でもそう思っても解決なんかしない。でもこの苦しい胸の内を、情緒的な問題を、どう解決すればいいのか分からない。
<72> しばわんこ ■2003年08月30日 土曜日 23時54分27秒
 夕飯の支度を手伝いながら、ふと、情緒不安定な母を見て、自然に口をついて出た。
「お母さんはかわいそうな人だね。きっと一生そのままなんだろうね。」
いつもの私らしくない。今まで母をそんな風に捉えたことはなかった。

 私はACかもしれないと気がついてから、自分と向き合って考えた。母から自立できなくて苦しんできたけど、それは母との依存関係が出来上がっていたからなんだ。むやみに自分を責めて、うつ状態にまでなっていたけど、それで解決するものではない。自分の感情をもっと外に出すんだ。私は母に服従していることに気がついた。情緒不安定な母親を恐れていた私にとって、自分の存在を否定されるのを最も恐れていた。服従は生きるために必要だった。

 子供の頃は人見知りが激しくて、家族以外の人とは、話すどころか、顔を上げることさえ苦痛だった。全ての人が恐ろしくて、話しかけられたりしたら緊張のあまり頭の中が真っ白になった。なかには遊びに誘ってくれる人もいて、遊んだこともあるけど、緊張したままだから一緒にいても何も話せないし、所在無い気分だった。私の心はきっと凍り付いてしまったんだと思った。あたたかい感情をなくした私は、次第に家族の前でも笑っているふり、元気なふり、楽しいふりをするようになった。

 私には12歳年上の兄がいる。彼は精神障害を抱えていて、数年前から入院生活を続けている。今まで兄の話題は避けるようにしてきたから、兄の話をするのは苦手だ。でも彼は私の人生に最も影響を与えた人物の一人であり、話さないわけにはいかない。

 彼の精神障害というのは、今でいう統合失調症で、かつては精神分裂病といわれていたものだ。私は、兄のことがあってから、精神医学や心理学といったものに異常にコンプレックスがあり、それに関した新聞記事や雑誌、テレビ番組にさえ不快感を覚え、拒絶してしまうのだ。だから、この病気についての知識は、恥ずかしながら世間一般程度もないかもしれない。未だに拭い去れないこの複雑な感情は、これからも私に付きまとうだろう。でもいつか兄を許せる日が来ることを、心の片隅で信じているのだ。

 発病する前について私が記憶しているのは、学校から帰った兄が制服を着たまま、疲れた顔をしてソファでうなだれている姿だ。母が心配して尋ねても、兄は話そうとしなかった。いつ頃からか、父親と喧嘩することが増えていった。父はなぜ兄が起こっているのかわからないという様子で、まともに話を聞こうとしなかった。けんかをするのは決まって夕飯時だった。兄がひざを抱えて泣いていたのを覚えている。結局わかってもらえないまま、兄は失望して自分の部屋へ行ってしまうのだ。父は目の前の夕食を食べることの方が大事らしく、それを気にする様子もない。それどころか不愉快にさせられたことに腹を立てたようだった。そんなことを何度繰り返しただろう。いつからか兄の涙は暴力へと替わっていった。

 私は兄の暴力について努めて忘れるようにしてきたので、はっきりとは覚えていないし、すぐには思い出せないが、確か小学校に上がる前から始まっていたと思う。年齢差のおかげで幸い私は殴られたりすることはなかった。兄の暴力は自分の部屋にあるものを壊したり、食卓の食事を投げつけたり、そして両親に向けられるようにもなった。

 父親は頼りなく、おろおろするか、しまいには怒り出す始末で、母は兄と父を相手にすることとなった。兄の怒りは深夜まで続いた。兄が疲れきって眠ってくれればいいのだが、時には翌朝まで続くこともあった。私は恐怖のあまり涙も出なかった。矛先がいつ自分に向けられるかと怯え、母がいつか疲れきって死んでしまうのではないかとひどく心配し、また、いつか兄が家族を殺すかもしれないという大きな不安に押し潰されそうだった。

 これらのことは家族以外には隠さなければならなかった。兄の病気に対する社会の偏見は根強く、家庭内暴力なんて恥ずかしいことだった。理解のない人たちに知れたらどんな噂を立てられるかわからない。この団地にも暮らせなくなるかもしれない。そうして家族の問題は外の世界から隔離されていった。そうかと言って、父も母も当てにならない。頼れる親戚もいない。私は次第に自分で何とかしなくてはいけないと考えるようになっていった。

 友達のいない私にとって、生きていくうえで家族が全てだった。その家族が目の前で傷つけ合い、憎み合っている。家庭の温かさなんて存在しない。私たち家族は今にも切れそうな細い糸でつながっているに過ぎない。私たちは外では平穏無事な一般家庭を装おうとしたが、実際のところ、内心ではバラバラで、家庭など崩壊していることを感じていた。家庭がなくなったら私の存在が否定されてしまうと思った。私は生きていくために、どんなことをしてでも家族を繋ぎ止めなければならなかった。だから自分を犠牲にすることに迷いはなかった。あらゆる感情を押さえつけ、親の望む通りの良い子を装った。必死だったから、そんなことをしたら自分がどうなるかなんて考えられなかった。

 そして今の私がいる。心の中ではさみしくて泣き叫びたいのに、表現できない。だれかとつながっているという感覚がほしい。いつか必ず幸せになると信じて、もう一日生きてみよう。

<71> クッキー ■2003年08月29日 金曜日 19時18分11秒
あなたには、理由があった。
私を助けられない理由があった。
私に暴力をふるっている父に関わると、自分と父との関係が
崩れてしまうから、勇気がなかったから、恐かったから。

わかるよ。そういう時って立ちすくんじゃうよね。
あなたにも、泣いている子供が中にいるんだよね。
子供ながらに、うっすら理解はしていた。

でも、なら、あなたはあなたができることをして欲しかった。
私が父に殴られた後、私の側に来て支えて欲しかった。
それが難しいのなら、側に来てもらえるだけでも良かった。
実際のあなたは、私から遠い場所にいて、
見ていないフリをしていたね。
夕食の時間になり、何事もなかったように食事を出し、
いつものようにみんなで食べたよね。
私は、味がしなかった。しなかったけれど
乱れた行動をしてはいけないから、おいしく食べるふりをしていたよ。
必死で。

私のことを、助けたくなかったのかな?
むしろ、父と一緒に殴ってくれたり怒鳴ってくれたほうが
ましだった。
中途半端な、やさしい「フリ」をされることが
一番残酷だよ。

だから、今も、あなたへの感情を整理できない。
あなたを、まだ、許せない。
「他人事」でいたあなたを。
母への複雑な感情に、苦しみ続けている。
<70> クマノミ ■2003年08月27日 水曜日 00時00分38秒
母と姑である祖母は決定的に仲が悪かった。
「いくつになっても幼い所があり、感情的になり易い母」と
「旧家の嫁として生きてきた自分にプライドを持っている祖母」
上手くいく訳ないよねぇ。
仕事を持ってる母は長女の私が産まれると
昼間は祖母のもとに私を置いて仕事に復帰した。
当然「おばあちゃんっ子」
私も母親になった今だからよく分かる。
母は「子供を取られた」と感じた事だろう。
妹が6年後に生まれた。
母は妹をとても可愛がった。
今度は祖母には預けなかった。
妹は昼間、
市から紹介して貰った子育て支援の家庭に預けられた
私も今は母親だから分かる。
「今度は子供は渡さない。この子だけは私の子。」
私も母親になった今だから
はっきりした事、
あの頃、「私はお母さんに捨てられた」と漠然と感じていた。
何度も「そんな事無い」「これは私の被害妄想」
「お母さんはそんな事しない」って自分に言い聞かせてたけど
お母さん、私を捨てたんでしょ。
見捨てたんでしょ。
気持ちは分かるけどさ、
見捨てておきながら、仲の悪い二人はいつも喧嘩をする。
子供だった私の大好きな二人は、私の事が原因で喧嘩をする。
私の為に喧嘩をする。毎日、毎日、毎日、毎日、毎日、毎日、
父は見ない振りをする。
「私さえ居なければ、私の大好きな二人は喧嘩しないに違いない」
「ごめんなさい。ごめんなさい。生きていてごめんなさい。」
毎日、思った。

ACというのを知る前は
「大人のくせに親が嫌いだなんてかっこ悪い」
って思ってた。
でも、今ならわかります。
私は母と父が嫌いです。
<69> WINNIE ■2003年08月23日 土曜日 00時54分16秒
母に、私はよく言われた。
「あんまりバカ正直にならなくてもいい」
「バカまじめに考えないで、気楽にしたら」

父がしらふの時には、ものすごくまじめで、責任感が強かった。そういうところも、母は鼻で笑っているようなところがあった。

一生懸命取り組もうとしているところを、なんでそんな風に、言うんだろう。

母は、大学を出たての頃、中学でほんの一時期、音楽を教えていた。その時のことを、「窮屈でやっていられなかったから、さっさとやめて、自分でピアノを教えるようになった」と、よく聞かされた。

自分が勤めていたミッション系の学校の、規律に厳しいシスターを、「嫌な面倒なやつ」と自分が思っていることを、自慢してみせる。

そんな母が、私のことをバカみたいにまじめだ、と笑うと、兄もよく一緒になって笑っていた。

「もっと肩の力を抜いて」ということを相手を思いやっていうのだったら、言い方があると思う。「バカ」はつけないと思う。

それとも、私が真剣に考える姿は、やっぱりバカみたいなんだろうか。

真剣に取り組もうとすることまでバカにされると、自分が嫌いになる。

<68> しろ ■2003年08月21日 木曜日 01時47分01秒
私のことを傷つけることを平気で言って、傷ついた私の顔に満足し、
私が心を殺して、平気なふりをすると、怒りの表情で震えている。
昔、母親だと思っていた人、もう分かってくれなくていいです。
私は私の気持ちで生きます。
<67> さゆり ■2003年08月20日 水曜日 22時50分23秒
両親への告白
私は、自分の気持ちが整理もつかない小学生のとき、本気で施設に入ろうと思いました。そして、本気で調べていました。(親がいても引き取ってくれるのかな・・)なんて思いながら
悲しい事に、その頃私は、あなたたちのような親に対して泣き叫び悲しむ事はしていませんでした。その絶望を通り越していたのです。それを受け入れて、どうそれから解決しようか真剣に悩んで施設に行こうと思いました。
恋愛もわかっていないあの年頃にそんなことを考えて・・・今あの時の自分を抱きしめてあげたい
お父さん。私がたぶん実家に帰らない限り、声聞く事すらなく終わる関係でしょう。私はお父さんはお金だと思っています。もし、お父さんがいなくてお金があったら・・・それでも、私の人生は何にも変らない
お母さん、お父さんと違ってお母さんは嫌いでも憎んでもやっぱり死んだら号泣します。何をされても、お母さんの小言とか臭いとか料理とか思い出すと、やっぱる母親ってすごいと思います。お母さんはそういう意味で『許されて』います
私は非行に走る事もなく、大学も行かせてもらい金銭では感謝しています。もちろん親自身がその為に何か犠牲にしただろうことにも・・・
ただ、カウンセリングでトラウマに正面でぶつかって認識してから、その感謝のお金全てあなた方に返還して、縁を切ろうと思いました。おなじDNAを持っているだけの、他人になりたかった。
そして久々に帰省した時の、両親の白髪を見たとき、そんな考えの自分が恥ずかしかった。たびたび実家に帰ろうって素直に思った
その時のそんな強い道徳観からか、私は未だあなた達のこと解決できていないと知った
このサイトで、自分が「AC」だと辛いけど認めた。大学時代は認めたくなかった。普通の家庭だったと思いたかったから・・・
<66> ケイ ■2003年08月18日 月曜日 05時37分30秒
夫に「最後通牒」を突きつける決心をした。それは夫を傷つけるかもしれない。でも、私も十分すぎるほど傷ついてきた。自分にできる我慢は全部した。できる努力は全部した。もう、たくさん。もう、夫との関係に依存しない。
私の自尊心を奪っていき、生きる力をなえさせている原因は、夫の家族との関係にあるとやっと気がついた。自分自身がACから徐々に回復するに連れて見えてきた。彼らもまた、共依存関係だ。
これで、結婚生活にピリオドが打たれるかもしれない。今までとは違った苦労を背負い込むことになるかもしれない。
でも、勇気を出します。
<65> かな ■2003年08月18日 月曜日 00時56分30秒
お母さんが怖い。久しぶりにそう思った。
多少のことじゃお母さんに負けないようになったつもり。
お母さんの機嫌が悪くなっても気にしない、怖くないよってずっと言い聞かせて、それがやっと普通になってきてた。
だけど久々にお母さんの機嫌が悪くなって、家族の中で一人疎外された気がした。お母さんは機嫌が悪くなって、しかも私がそれに対して謝罪の態度を見せないと私の存在を無視するようになる。私が傍を通るとため息を付く。まるで私の存在が邪魔なのかのように。それが小さい頃からすごく怖かった。
家での居場所をすべて奪われたような気分になるから。
一時期自分の中で小さい頃の自分が泣いてることがあった。
悲しい、寂しい、助けてって。全部自分のせいにして苦しんでる。
だから私は自分で自分に「そうじゃない。かなは悪くないんだよ。」って言い聞かせてた。今日久々に小さい頃の自分が心の中に出てきた。
だからすごく怖かった。
ここからまた抜け出せなくなりそうだったから。
何度もお母さんにこの気持ちを告白したいって思った。
だけど今改めて思う。うちのお母さんには無理だって。
お母さんは大人になりきれてない。
持っている知識は大人かもしれないけど、怒ったときにすることはまるで中学生のするいじめみたいで、私はそれを見ていると自分がいじめられてた時のことを思い出してしまう。
お母さんは私がそんな恐怖を抱いてるなんて、少しも知らない。
私は今でもこんなに苦しんでいるのに。
<64> しろ ■2003年08月16日 土曜日 03時54分39秒
お母さん、私が楽しいことがあったり、才能を発揮すると、すごく機嫌が悪くなり、けちをつけたね。
ずっと、出来ることも、出来ないようにふるまってた。あなたが怒るから。
楽しいも嬉しいも言わないようにした。
嫌な毎日だけど、何とかやれてるって感じで接した。あなたがそれしか許さないから。
ひどいことしてくれたね。
あんた、最低だよ。私とあなたは違う人間です。
<63> うねろう ■2003年08月12日 火曜日 15時06分30秒
私には家族を創る勇気もなければ自信もありません。私も子供を創ったら、自分の母親みたいに子供に完璧さと理想を押し付けたり、甘えたりイライラしてる感情ぶつけたり、自信のなさをそのまま子供に移していく事をするのかなぁ。信仰を持った今でも昔の傷や怒りが込み上げてくるし、寂しさ、恐怖、みじめさにどうしたらいいのか解らなくなる。そういうのを人に話しても解らないし、うざったがられたりするだけだったよな。オープンに何でも話して!と言われて話しても、いくら信仰がある人とはいえ人間だし完璧じゃない。だからもういい。これからは、自助グループを探して参加していくつもりです。

<62> 2 ■2003年08月11日 月曜日 00時20分11秒
母さん、あなたは弟が生まれてから、15年間私に一度も心から笑顔を向けてくれたことがありませんでしたね。
でも、あなたもお母さんに笑顔を向けてもらえなかったのでしょう?
憎くも哀れでいとおしい、母さん。
私とあなたは同じですね。恨みたくても恨めません。
父さん、どうしてまっすぐに私を見てくれないの?
ごめん、わかってる。
あなたのことをおじいちゃんとおばあちゃんが見てくれなかったんだよね。
どうしようもない私の家族。
弟だけでもまっとうに育ってくれてよかった。
あとは、私達の傷を時が癒してくれるのを待つばかりです。
<61> ★1 ■2003年07月30日 水曜日 20時28分01秒
私は東京の大学に通う大学生(♀)です。今は実家を出て東京で一人暮らしをしています。
私の家族は離婚した両親と、3才上の兄が一人います。私の両親は、私が小学生の時離婚しました。父は、実の両親ではない家庭に育ち高校卒業後、すぐに貴金属の職人となり、独立して母と結婚しました。母は、厳格な祖父と、教師をしていた祖母の両親のいる比較的裕福な家庭に育ちました。母には妹がいるのですが、その妹とよく比較・差別されて育てられたようです。母は、高校生の時父と出会い、私の兄を妊娠して、高校を中退して、父と結婚しました。詳しいことはよく知りません。  私の子供時代の記憶は、家族が(両親)がおかしくなった時からの記憶しかありません。小学校3・4年生の時だったとおもいます。それまでは、きっと私の家族も、他の家庭の様に幸せだったに違いありません。 私の父はアルコール依存症でした。お酒を飲んで、毎晩暴れて、母に暴力を振るいました。隣の家の人や、近所の人たちはみんな、私の父が毎晩お酒を飲んで暴れる事を知っていました。私は毎晩父がお酒を飲んで暴れる度に、母が父に殴られる事よりも、父の怒鳴り声や、母の泣き叫びながら助けを求める声が、隣の家の人や近所に聞こえる事にいつも恐怖を感じていました。私にとってそれはとても恥ずかしい事でした。  兄はよく父が暴れると、母を助けようと止めに入り、父に殴られていました。家の二階にあるそれぞれの部屋が私と兄の部屋でしたが、夜中、母は父に殴られると、私と兄の部屋の前の階段の下の方まで必死やってきて、私と兄の名前を必死に呼んで、助けをもとめていました。私は父が暴れて母を殴っている時、一度も母を助けに階段を降りて行った事がありません。早く終われと、いつも思って、一人で布団の中にもぐっていました。
夜眠る前、母は家の包丁を隠し、私と兄に2枚のテレホンカードを渡して、もし何かある時はこのテレホンカードで警察に連絡しなさいと、言いました。とにかく逃げなさいと言いました。
小学校5・6年の頃には、両親は何回の別居を繰り返し、母は離婚をふまえ、父に内緒でアパートをかりていました。そしてある日、父のいないちょっとした時に、母と兄と私は、わずかな身の回りの荷物を持って家を出ました。

Copyright (C) 1998 CGI Arkadia All rights reserved.
This script written by Shintaro Wakayama.