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私たちの物語 - 家族過去ログ No.36
メッセージ数:720件

<720> こくーん ■2005年05月13日 金曜日 00時43分59秒
『お母さん』と言えないし、書けない。『母』にも抵抗。
今は『ママ』と書く、言うことが多い。嘘っぽくて丁度いい。リアルじゃないから丁度いい。少し前は、名前にさん付けで呼んでいた。全く他人な感じ。それが丁度良かった。
ただ、言うだけ。ただ、書くだけ。
なのに、長年使い続けてきた『お母さん』にどうしてココまで心が抵抗するのだろう。
<719> アーネスト ■2005年05月12日 木曜日 17時05分45秒
今まで、グリーフワークは漠然としてきた。父に経済的に頼っていることもあって,どうしても自分が愛されなかったことを納得できなかった。でもいくつか具体的にそれを裏付ける思い出が出てきて,だんだんとだけど「事実」「実際に起こったこと」「否認してきたこと」を受け入れてみようと思えるようになってきた。
<718> アーネスト ■2005年05月12日 木曜日 14時59分55秒
(暴力のフラバ注意)



兄のエロ本を盗すみ見ること,性に対する罪悪感もあったが,兄そのものに対する罪悪感,恐怖感も会ったのではないか,と思うようになった。8歳の頃,兄が私の部屋になぐりこみに来たことが一度だけあった。多分、一度だけ。4つうえの兄に殴られることは恐怖だった。何より,2、3年前,自分のヒーローだった兄が自分を脅かす存在になったことがショックでたまらなかった。兄は男性的で野性的で自分の憧れだった。父にない物を持っていた。

服を捕まれて平手とグーで殴られた。私は泣いた。わんわんと泣いた。しばらくして母が(確か母だった思う)来て兄を叱った。兄は大音量でヘビメタを聴くようになった。僕は怖くて自分から「止めて」とは言えなくなって,両親に頼むようになった。

兄が高校に上がり私が中学1年の頃、兄はすでに抑うつ状態でぐったりとしていた。一度,私に泣きついてきた。「俺が堕落したら俺に忠告してくれ,何でも言う事聞くから」。ここまで思い出して父に自分の身を,(やはり母ではなく父だったと思う)守ってもらいたかったのだと思う。
<717> アーネスト ■2005年05月11日 水曜日 21時30分33秒
インナーチャイルドは残念ながらぼやけているが,インナーマザーの方ははっきりと自覚できるようになってきた。それは両親だけじゃなく,代々続いてきた機能不全家庭の集合体みたいなものだ。ものすごくおこがましく,傲慢かもしれないが,そのことに気付いたのは○○家の中で自分がはじめてなのかも?という英雄ぶった気持ちもある。
<716> アーネスト ■2005年05月11日 水曜日 12時41分21秒
家族を最終的に自分にとってどういう人間として位置付けるかは重要な問題だ。
淡い期待がある。今生きている父親に,母親と結婚したことから,今までの全てを謝らせるという到底不可能な幻想を抱いている。TVや映画で見たどこかの幸せな家族みたいにいつかハグし合って和解できるときを期待している。

ただ,許す許さないはもっと先でいい。今はインナーマザーを無視すること。インナーチャイルドを保護できるように自分を訓練すること。
<715> φ ■2005年05月11日 水曜日 08時04分52秒
そういえば、彼女と結婚の方向で話していることを報告したときも母は「あなたは女の子と付き合ったこともないし、気楽な楽しい付き合いもなく、初めての彼女といきなりそういう話になるのは可哀想」と言っていた。自分の何が可哀想なのかよくわからなかった。女性を慎重に選ぶように行ってきたのはあなた達だったじゃないか。そのせいで、誰かを好きだという気持ちに自信が持てずいつも直前に逃げ出した。やっと自分で迷わない相手を見つけた僕の何が可哀想なのか理解できない。
可哀想なのは、母自身だろうか。結局あなたは結婚も恋愛ではなく親の決めた人だった。恋愛結婚だと思っているのは父だけだろ?
<714> φ ■2005年05月11日 水曜日 07時37分15秒
今思えば、彼女に会いに行くことに許しが出ないのは、そのせいかもしれない。
<713> φ ■2005年05月11日 水曜日 07時35分35秒
壊れることも出来ない自分。
鬱や神経症の一歩手前までは行ったのだと思う。
パニック障害ではないかと思ったこともある。
親には心配をかけた。それは分かっている。
ただ、そんな僕が彼女のところへ出かけて、急に元気になって帰ってきたとき、僕に対して母親の言った言葉「私たちはいったいなんだったの」。そこに愛情とは違う何かを感じてしまいました。
今でもよく分かりません。自分はいったい、両親の何なのでしょう。
<712> アーネスト ■2005年05月10日 火曜日 12時12分48秒
家族に対して持つ感情は大まかに挙げると,バウンダリーを侵害された恐れ・怒り・哀しみ・寂しさと,彼らに対する「自己憐憫」。つまり自分を傷つけた相手に恨みを溜め込みながらも,彼らを憐憫の対象として世話する,というなんとも矛盾的で,自己破壊的な関係だ。
<711> るあん ■2005年05月10日 火曜日 11時11分09秒
インナーチャイルドとの対話という課題。それに取り組むべく、幼い私をイメージしてみる。イメージしてみたはいいが、声をかけるとなるとどうもうまくいかない。どうしたらよいかわからず、おろおろしてしまう。大人を信じていなかった私、いかにもやさしそうな態度の裏に見え隠れする権力欲にうんざりしていた私、そんなデリケートな子にどう接しろというのだ。

そもそも私は子どもが大の苦手だ。それも、うるさい、じゃまだというレベルの話ではなく、子どものそばにいると自分の存在が脅かされるような気がするくらい苦手だ。だから、できる限り子どもがいる場所にはいかない。それでも、公共交通機関等で小さい子のそばにいることを余儀なくされると、それこそ、目をつぶって耳をふさいで頭を抱えていないと、パニックになりそうになる。

当然のことながら、この対人恐怖ならぬ対子ども恐怖とでも言うべきものを抱えている限り、インナーチャイルドとの対話は難しい。だから、どうして子どもが苦手になったのかについて考えてみた。考えてみたら、結構複雑な問題であることに気付いたが、とりあえずいくつかの理由を思いついた。まず、ACに一般的と思われる理由。子どもを見ていると、自分の辛かった子ども時代を思い出す。子どもの純粋さを大人が傷つける、そのメカニズムに自分が参与してしまうかもしれないと思うといたたまれない。子どもらしい子ども時代を送れなかったために子どもらしい子どもを見ると嫉妬する。また、大人になりきれていないが故に、子どもの前では大人にならねばならないというプレッシャーに耐えられない。

そして、私の過去に固有と思われる理由。あの家で、第一子であった私にとって、ある程度物心ついてから訪れた第二子誕生という出来事は、少なからず、自分の安全を脅かすものとして感ぜられた。その脅威の念は、もともと少ない親の愛が全て下の子に向かってしまうかもしれないという焦りとつながっていたのだろうが、それは単純明快な一直線のつながりではない。当時の私は、上の子は下の子に嫉妬しやすいこと、また、上の子は下の子に比べて家族的な役割にはめ込まれやすい(末っ子は名前で呼ばれるが、上の子はお兄さん、お姉さんという役割呼称で呼ばれる傾向にある)ことを知っていた。そうであるが故に、下の子の存在によって、嫉妬という人間臭い感情が自分の中に生じるかもしれないこと、また、自分という人格が上の子という家族的役割に収斂してしまうかもしれないことを感じ取り、それに対して脅威を覚えたのだ。そんな捉え方をした私は、第二子誕生以降、ますます感情を押し殺し、家族と関わらないようになる。そうするより他に自分を守れないと思ったから。以来、子どもが苦手になった。

また一つの理由として、子ども好きを標榜している母親の存在がある。母は、子どもは可愛いと言い、子どもを見るたびに目を細めたり、見知らぬ子に赤ちゃん言葉で話しかけたりする。高校生の頃からか、そんな自称「子ども好き」な母親が示す自己欺瞞に吐き気を覚え始めた。何たる偽善者かと、何を優等生ぶっているのかと、その態度に憤りすら覚えた。当時、私は、ACという概念こそ知らなかったが、私を愛という名の元に支配し、私から子どもらしい子ども時代を奪ったのは母であるとどこかで分かっていたのだろう。そんな母が人前で子ども好きを標榜し、母性本能をひけらかしているのが許せなかった。以来、子どもを可愛がるという行為は支配欲を満たすためのものであり、むしろ罪深い行為と感ぜられてならない。

以上のような理由について、ある程度成長した段階のインナーチャイルドと話し合っていけばいいのだろうか?
<710> アーネスト ■2005年05月10日 火曜日 00時09分41秒
10歳の頃に得たかった何かを探している。それは,そこで充足され,もう埋める必要のなかったものなのかもしれない。

母は自分の価値観を,私にたどって欲しかったのだろう。8、9歳の頃,絵を習いに行った。その頃はよくわからず母に言われるままにという感じ。その後は塾。そして剣道。どれも自分から行くと言い出した記憶はない。それともこの歳ぐらいの子どもは自分から何かしたいなどとは言わないのだろうか?わからない。ただ25年間の人生、自発的に何かをしたいと思ってしたことはなかった。それが証拠に,何かを止めるときはいつも親の同意を得ていたから。

10歳の頃,欲しかったもの。漠然としているが安心感、被承認感のようなものかな?丁度、勉強嫌いが激しくなって,兄と母が喧嘩を初め,相対的に自分の方が優遇されているようで窮屈だった。母の溺愛と干渉はこの頃から更に強くなった。家にほとんどいない父。夕食を食べに来る叔父の方が好きだった。

そして万引き。それ以前から金も随分盗った。兄からも。
寂しかった。声をかけて欲しかった。「○○,万引きなんかして,なにか不満でもあるのかい?」そう言って欲しかった。私は言うだろう「家族みんなが荒れていて仲が悪くて嫌だ。だからやったんだ」「そうか,お父さんが悪かった」でもそんな会話が出るはず無い。でも僕が欲しかったのは,そういう丸ごとの受容、甘えさせてくれること,悪いことをしても受け止めてくれることだった。

否、目立つことだったら何でもよかった。悪いことだろうと,いい事だろうと。それを本能でわかっていたんだろう。勉強嫌いで特技のなかった自分だ。親の目を引くのは,万引きしかなかったんだろう。

「よくやったね」,「がんばったね」,「お前はお前のままでいいよ」これを行ってほしかったのだろう。でもそれは小学生で諦めた。中学という舞台で,「いい子」を演じるしかなかった。いわば代償行為だ。
<709> キーコ ■2005年05月09日 月曜日 22時42分42秒
昨日は、母の日でした。
十代の頃 母の日には 花を買い、母が喜ぶような 計画を立てて、プレゼントしていました。
ご機嫌取りと言うよりも、「母のよろこぶ顔」がただ見たかったのです。
非常にむずかしい父と、ほとんど「家庭内別居」という形で暮らしているお母さん。
いつも体調不良を訴え、月に一度は 必ず寝込んでいたお母さんの笑顔を見るのは、当時のわたしにとって、ほんとうに宝物でした。

 そんなわたしでしたが、母に花を贈らなくなりました。
息子が生まれて「母親」になろうとしても、どうしても成れない。
母親と呼ばれるだけで、気が咎めて、ほんとうに息子に申し訳なくて・・・。
そんな風でしから、とても感謝の気持ちを込めて、母に花を買う気にはなれませんでした。

 昨日は、久しぶりに「赤いカーネーション」を買って、母に贈りました。
素直に自分の気持ちを言わない母が、きのうは「ありがとう!」と言って花を受け取り、直ぐに飾ってくれました。
ほんとうにうれしかった。
モノのやり取りならば、上手くいく場合が多いのですが、わたしが、母にして欲しいのは、普段の生活で、わたしのありのままの気持ちを、きちんと聴いてもらうことです。
お金や 物をもらうより、わたしの話をきちんと聴いて、気を張らないで、安心して、母と話しがしたいのです。
 でも、母に『こういう事』を求めると、途端に摩擦が生じて、いつも険悪な状況に追い込まれます。
どうやら、母は「そういう事」が出来ない人のようです。むしろわたしに、それを求めてくる人でした。
母なりに、「子どもたちを愛そう。」と努力しているのは認めるのですが、いつも的がずれていました。
わたしが成長するために、とても大切な「心の栄養」は、上手く与えられなかったようで、かえって、わたしの方が、栄養を吸い取られていたような感じがします。

さて、どうやってわたしは、「自分の中に、インプットされていないモノ」を伝えてゆくのか?
自分を大切にする、愛するということが、よく分らない・・・、人と、上手く関われない・わたしが、どうやって他の人と親密な関係を育ててゆくのか?
わたしには、「学習と体験」が必要なのです。
どこで?・・・どのようにして?…それを体験していったらいいのか よく分からなくて・・・。
今も、手探りで歩んでいます。
<708> アーネスト ■2005年05月09日 月曜日 22時32分47秒
父の干渉に耐えがたく「心が痛みます」と素直に言う事が出来た。こんなことは某セラピストに教えてもらわなければできないことだった。言えた後は,気持ちがすっきりした。相手を攻撃する目的で言ったわけではないし,素直に自分が受けた傷を表現することができた。

ただ,まだいくつか心配もある。家族の確執から来るストレスが,外の人に及んでいないか,という不安だ。兄のことも,父のことも僕は大方、受け入れることができてきた。とはいっても日常腹の立つことはたくさんある。でもこれでも全然ましなほうだから,ととりあえずは自分に言い聞かせている。声のちょっとしたトーンに,言葉遣いに,表情、仕草にそれが現われていないことを願う。こういうことはハイヤーパワーに任せるしかない。
<707> ほーる ■2005年05月08日 日曜日 23時51分36秒
すいません。705の括弧内はちょっと言葉遣いに毒があります。
答えは簡単には出ないので自分のシビアな部分に今後のたたき台として語らせてみた、という感じです。
というか父の相手をやりこめるときのやり方に似てしまって少し凹んでいます。これでは自分にとっても良くないですね。
(トピと関係ない話で申し訳ないですが、口調が違ってややこしいしきついかなーと思いましたので付け足させていただきました)
<706> アーネスト ■2005年05月08日 日曜日 17時46分14秒
今、思い出したのだが母がいつも自分の話しを聞いてくれないことに対して,物凄く腹を立てていた。母は私がいい年になっても○○ちゃん,と言っていた。そして子どもが飛行機や自動車の効果音を真似た声を出すみたいに1人で遊んでいた。いつもかまって,というオーラを出していた。それをやるのは私の前でが多かった。外に出ると絶対,そんなことはしない。いかにもいい母ぶりをアピールしようとしている。僕も,そろそろ現実を受け入れないと。
<705> ほーる ■2005年05月08日 日曜日 10時26分19秒
父について(心が思うまま)

お父さんは頼りにならない
お父さんは優しくない
お父さんは暴力的
お父さんは自分のために子供を叩く
お父さんは親子関係については愚かだ
お父さんは偉くない
コレが現実。思考(刷り込み)は逆。
父を捨てることが私にとっての最大のタブーであるかもしれない。
しかし、なんのための?ただ家にいなかっただけの男だ。

(そう、兄の暴力と娘の不登校を野放しにしただけよね。
今も兄の無職と娘の引きこもりを放置してはいるけど。
兄の暴力を解決しようともしなかった。つまりは暗に暴力を肯定していたってこと。おまえが殴られても別に気にならないってことよ。その事実から、答えは見えているでしょう?
でも、いっとき優しかった場面がおまえを迷わせるのよね。
でもそんな埋め合わせが欲しかったんじゃないわよね。欲しかったのは心から安心できる場所。それを確保できない親の優しさは結局、見せ掛けに過ぎないのよ。それにすがっていては本物は永久に手に入りはしない。
家から逃げ出したチキンに用はないはずよね?
理解してもらう価値もないんじゃないの?決別するために何かを言おうとするなら、それは構わないわよ)

と、誰かが言う声がする。
<704> φ ■2005年05月07日 土曜日 22時36分15秒
母からのメール

「現在自分の取っている態度を自覚している?まるで中学生の反抗期みたいに!お父さんの言葉をどう受けとっているのですか。それが理解できない様なら残念だけど、相当頭と心が貧しいように思います。よくお考えを」

「そんなに疲れて家族の心を曇らす態度を一生取り続ける積りですか?疲れた為かそうでないか位の見分けくらいは着きます」

もう疲れました。
<703> こくーん ■2005年05月07日 土曜日 02時36分30秒
(すみません。702の続きです)
思えば、私はその女の子のご機嫌をとってきたし、その子が私をライバル視するのも感じてきたように思う。私はその子と競い、敗北して、力を失っていった。負けるのは当たり前だった。なぜならジャッジを下すのは母だったから。
もちろん、それが母の全てではない。
彼女のお陰で、彼女に守られて、大人になったのも、事実。
私にとって過酷だった環境はまた、彼女にとっても過酷だったことも事実。
でも、もう嫌なのだ。あの子と一緒にいるのは。
<702> こくーん ■2005年05月07日 土曜日 02時29分48秒
最近、母を思い出すと、『かわいい服を着て「私を見て。言うこと聞いて」って言っている女の子』が浮かぶ。
<701> アーネスト ■2005年05月06日 金曜日 13時52分23秒
私は父のバウンダリー無視が怖い。私は兄の怒りが怖い。
どっちからも逃げることはできない。でもまず良い所を見ること。父はさっき優しい言葉をかけてくれた,ありがとうって言えなかったけど今言うよ「ありがとう。そして素直じゃなくてごめんね」

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This script written by Shintaro Wakayama.