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私たちの物語 - 家族過去ログ No.35
メッセージ数:700件

<700> アーネスト ■2005年05月05日 木曜日 17時21分02秒
今の自分,トラウマ,親との関係という観点から,もう一回母親との関係で,受けてきたと思われるキズを癒していこうと思う。
<699> ayako ■2005年05月05日 木曜日 15時38分15秒
部屋の申し込みをした。その際に緊急連絡先に親の連絡先が必要だと言われた。
審査の段階で連絡が行くかも知れないとの事だった。嫌だったが親と話した。
母は変わらず酔ってた。「とにかに帰って来なさい」と連発。2年位音信不通だった姉と2時間ばかり話した。姉は変わらず引きこもりだ。だが祖母の介護+祖母の年金の管理+家事をしてる。今までだと家事しかしてなかったから両親から文句を言われてたが、介護までしてるから文句は早々出ないだろう。姉はしきりに「私は介護までして大変なのよ!私はすごいのよ!」と言っていた。姉は最近4人の男に言い寄られてるそうだ。2人はスーパーの店員。2人は図書館員。姉曰く「すごいんだよ。スーパーの男は頼んだことテキパキやってくれる」「図書館員は私が行くと目線を感じる。でも話し掛けてもこない。何か言いたいんだったら言ってくれば良いのに」
だそうだ。勘違いも甚だしい内容に唖然。青木さやかのネタ並の勘違い。
姉と話してもやはり話はかみ合わず、姉の歪んだ面がハッキリと浮き出てたのが解る。私が自分の意見を言えば「その価値観どこから持ってきたの?」とか「あんたは甘いね、本当に28なの」とか理解不能の単語が飛び出した。その度に私はマトモニ答えてた。姉は「あんたは親の事許してないけど私は許した。だからあんたも先送りしないで早く許しなさい」と言って来た。私は「許したら一緒に住めるの?許したら家出てるんじゃない?私は私のペースで片付けてくから。18年間も苦しめられて来たんだから早々には許せないよ、18年と同じ期間はかかると思う」
「18年間?理屈だわ。物事を先送りにするのが許せない」と言って来た。あんたも
引きこもりしてる事をもう10年位先送りしてるじゃんと言いたかったが辞めた。
泥仕合になるから。姉は自分と他人の区別がつかないのだ。理論武装して自分を守ってる感じがした。私はまともになったから姉の話に動じなくなった。悔しいから姉は私の心に侵入して来たが私は怯まなかった。変わらず姉は私に帰って来て欲しく無いと言っているようだ。「帰らないから安心して」と言っておいた。母は「顔が見たい」とか酔っ払いの戯言を連発してた。姉は「母に納得させなきゃまた言ってくるわよ」と言ってきた「納得させる必要は無いでしょう。私は自分の意志を伝えてるから。それをどう受け止めるかは本人次第だし。」姉は「でも相手に伝わらないとダメじゃない。相手の使ってる言語や思考パターンを読んで話さなきゃ。伝わらないと意味ない」果たしてそんな事をしてまで話す必要があるのか?無いだろう。私は脳みそがアルコール漬けになってる人には何話しても通じないと思ってる。宇宙人だから。ましてや人の気持ちなんて理解するとは思えない。
姉は私が自分の意見を聞かなくなったから面白くないのだ。私は「もうあなたの言う通りにはならないよ」と伝えた。無言になったから私は「元気そうで良かったよ。気になってた」姉「馬鹿じゃない」「あんた冷たいわねーいくら嫌な女でも18年間居たんだから気にはなるでしょう」姉「馬鹿じゃない」結局姉とは一生理解しあう事は無いなと思った。両親はとっくの昔にもう無いなと思った。
今まで姉の理論武装に負けてたけど今回私は姉と話してて私の勝ちだと思った。
勝ち負けではないのは知ってるが私の方が姉よりずっと健康だし、私の方が成長してると思った。姉との関係で私は常に敗者だった。今回私は勝者になった。
暫く気分良かった。あの女に勝った♪私は姉は嫌いだ。理屈ばかりこねて、楽しく話しが出来ない。常に自分が上だと思いたいが為に人を馬鹿にして話を展開させる
そんな女。私は病気だと知ってるから耐えられるが、一般の人だったら姉から離れて行くだろう。姉は自分が良いと思った物を私に押し付ける。姉に送ってもらった本の中で一番役にたったのは斎藤学の本位だ。姉に伝えた。姉はあの本をちゃんと読んだんだろうか?私はもうあの家には戻らない。一人で頑張る。そう決めた。小さい頃から私は早く大人になった家から出たかったのだ。アル中の家には居たくない。母が酔って話してるのを姉がなだめてるのを聞いてたら幼稚園みたいだった。
姉は「えらい乳母」なのだ。母も父と結婚したばかりに気の毒な人だ(元々アル中の素質はあったにせよ)母も父以外の男と結婚してたら違う人生だったのかもしれないのに。私の家族?は気の毒な人間の集まり。ACが3人集まるとすごい世界の
コミニティが出来上がってる。絶対参加したくない。凄まじい関係が繰り広げられてるから。自分はあの中で良く生きてこれたなと思う。これも自分の力。
<698> スナフキン ■2005年05月05日 木曜日 15時23分23秒
今日は子供の日だ。こどもの日?何それ。

テレビでは家族で**遊園地に行ったりと、
子供の楽しい思いで作りに忙しい。

そんな思い出は一つもない。
両親といて楽しいと思ったこともない。
楽しいときは親がいない時。
私が私らしくできる時。

一つ強烈に残っている記憶がある。
家は両親共働きで、母は月曜日に休みだった。
小学低学年の夏休みの時。
何処にも連れて行けないからと母が休みの日デパートに行こうと約束した。

子供の心はどうだろう。
いつも無関心の親が一緒にどこかへ行くと言うのは、言葉に出来ないほどうれしかっただろう。
私も月曜日を心待ちにしていた。

しかし事件が起きた。
母と一緒にトイレに行って、その後で買い物をしてお金を払おうとした時、
ハンドバックがなかった。
母がトイレの荷物置きに置いたままだったのだ。

その時私が怒られた。
「**がハンドバック預からないって言ったから、お母さんがトイレの中に置いてそのまま来たんじゃない」と。

私の時間が止まってしまった。

トイレで母は私に預かれとも言わなかったし、置いてきたのは母の不注意だったのに、どうして私が怒られるのか?
私が居るだけで、母の気が散れて注意が散漫すると言う。
今まで母は忘れ物をした事も無いと言う。
私が居るというだけで、悪いことが起こるのか?

後でデパートの事務室にカバンの忘れ物が届いていることがわかった。
親切な人が届けてくれたようで、被害は何もなかった。

母はカバンを探してから、何事もなかったように買い物を続けたが、
私は心が凍り付いてその後感情を失った。
母親に近づけない。
今までどうり、いるかいないかの母が良いのかも知れない。
私が創造していた母を期待をして、バカを見る。
それだけではない。
傷つけられる。関わりあいたくない。
子供心に一番愛してもらいたい人が、一番私を傷つける人になった。

子供の頃の楽しい思い出?何一つ思い出せない。
思い出すのは嫌な思い出。
心の中に閉じ込めて、見たくない思い出。
一つ一つ扉を開ける時が近づいてきた。
ゆっくりやっていこう。
あせってもしょうがない。
これが私の人生だ。
今から変えていこう。
<697> キーコ ■2005年05月04日 水曜日 13時18分59秒
一連の出来事

きょう、母と例のごとく摩擦が在ったので、少し書いてみようと思います。

少し迷っていることが在ったので、如何しようかと思ったのですが、
話をする相手が居ないので、『簡単な話しだったら大丈夫だろう。』・・・と思って、母の所へ出かけて行きました。
(息子に言わせれば、相談する相手を間違えている・・・と言われると思うのですが、いろいろ考えて取った行動なので、どうか愚かな事だと思わないようにしよう。)

いつものように、母はラジオをつけて、家事をしていました。
「迷っている事が在るので、10分程話を聞いて欲しい。」と、彼女の都合を尋ねました。
「聞くわ。」という返事がかえってきました。
ラジオを消してもらい、「さあ、しゃべろう」と口を開いた途端に、サッと立って、洗面所の方へすたすたと歩いていく。
「?!」・・・・。
いったいどういう事だろう?・・・と思い、しばらく黙った様子を見ていたのですが、洗濯をしはじめました。
「話しを聞く」と言いながら、こういう態度を取られるのは、とても不愉快です。
『「ないがしろにされた、無視をされた。」と感じている・わたしの感覚が、おかしいのか?』・・・と、「あまりにも見事な母のふるまい」に、惑わされそうになりました。
 絶対に、そんな事はありません!

 その旨を、はっきり彼女に伝えたのですが、彼女の見解は「意見の相違」というものでした。
「あくまでも真実を見ようとしない、一連の 彼女の否認だ。」と直ぐに 識別できたので、母の術策に 陥らずに済みました。

しばらく経って、母の本音がようやく出てきました。
近頃、わたしが、境界線をはっきりさせて、対等に 口をきくようになったので、すごく しんどくて話がしたくない。
でも、「『自分の意見』を正直に言って拒絶すると、「わたし」が不機嫌になって、怒らせるとまずい。」と思ったので、いやいやながら承諾したそうです。

 相手の気持ちを、自分勝手に創造して、「自分の気持ち」を押さえ込む。
なおかつ、相手に言った「ことば」と、自分の取った行動は「まったく正反対のもの」。
それに対して、相手が 「不快な気持ち」を伝えてきても、それを 「相手の原因」にして、自分が正しい!…と主張し続ける。

自分の意見が 言えない、自分のありのままの姿が 見つめられない。・・・母が恐れているのは、どうやら「自分自身」のようで、
その矛盾した行動を、「自分に気づかせて来る・人間」に対して、ものすごい攻撃 と 拒絶反応が起きている。
そういう風に、わたしには思えるのです。

母にとっても、わたしにとっても、こういう関係を続けることは、とてもvしんどいことです。
母が言っていたように 『「ふたりの関係」を切っても、何の問題解決にはならない。』と、わたしは思います。
 小さな共同体が、成長してゆくためには、こういう段階を通る必要があるのだと、心の内で密かに 宣言していました。

 わたしも、母の 「抑え付けるような・命令口調」を、平静に、穏やかに、受け入れる所まで、成長していません。・・・怒らずに、忍耐して「聴き入れる」だけで、精一杯です。でも、それに対して努力してゆくつもりです。
 母には、「正直に自分の意見」(特に、NO!メッセージ)を言うように以来しました。
それも、落ち着いて、それだけは きちんと言えました。
・・・・やれやれ・・・・。
<696> スナフキン ■2005年05月03日 火曜日 15時55分21秒
就職して何年か経った時、自分でやりたいことを見つけた。

昔「ボランティアで海外に行きたい」と言ったことがあったが、
相手にもされなかった。
永遠に行くのではなくて、何ヶ月とかの短期で行くのがあったからだ。
もちろん仕事はやめてもいい。
しかし一人暮らしをしているので、家の事、その他もろもろ、、、、
その時は行く決意ができなかった。

今度は違う。
年をとる前に、自分でやりたいことを思う存分したかった。
もう親に「する、しない」など、聞くことも無かったからだ。
「**をします」と手紙を書いた。
答えを聞くことも無いからだ。

そしたらどうしたことだか、家の父が大反対で干渉し出した。
今まで放任だったのに、180度変わったのだ。

一人暮らしをしている私を、強制的に家に連れ戻した。
私の貯金通帳もすべて持っていかれ、引越しまでした。
「働かなくてもいいから、家に居ろ」と家から出してもらえなかった。

まさに人形になってしまった。
母、叔母、知らん顔。
父の見方?どっちかと言うと、関心が無い。
母は父に、はむかうことができない。
自分に被害が行くので、そーっとしている。
火が燃え移らないように、煙が出ないように、「私は知らない」と無関心。

近所の目や私の友達の手前、友人が尋ねてきたり、電話などはなんとも無かった。
しかし友達は皆不思議がっていた。
田舎の友達は「突然音沙汰も無く帰ってきた」と言い、
向うの友達は「突然田舎に帰ってしまった」と言う。

父はマザコン男だ。
人を愛することもできないし、自分で何もできない。

私は父を長男だから家に居て、祖父母の面倒も見てといいように考えていた。
実際は違う。
家から出て行けと言われたとしても、出て行けない。
まして都会で一人でも居られない。
祖父母の面倒を見てでは無く、祖母に面倒を見てもらいたいのだ。
自分の住み慣れた小さい沼から出られないのだ。
沼の外の世界があるとも考えられない。
沼の中で「俺が一番頭がよく、偉いのだ」と威張っていたいのだ。
手の着けようの無い奴だ。

結局私は仕方なく家に閉じ込められ、
中学、高校時代の友達が来た時だけ外出が認められた。
誰にも助けを求めることなく、ひたすら耐えた。

半年が過ぎたとき、アルバイトを始めた。
ほとぼりが冷めたというより、
父はもともと私に関心が無かったが、
また自分の好きなパチンコに関心が行ってしまい、
私の事はそれほど気にならなくなったのだろう。
しかし、私の心の傷はますます深くなってしまった。

関心が無いなら最初からほっといて欲しい。
私の人生を両親にめちゃめちゃにされた。
私の事を考えているなら、子供のときからそうして欲しい。
何一つできないくせに、自分の感情しだいで子供を束縛する。
昔から何一つ変わっていない。
子供は都合のいいおもちゃ。
一人の人間としてみてくれない。

父は年をとって、ますます手が着けられない。
年をとって、可愛いおじいちゃんになれば人に好かれるだろうに、
ますます頑固になって、融通が利かない。
自分を変えようと努力するのでもなく、「相手が悪いと」人のせいにする。
昔からそうだった。
自分の都合のいいように、人を動かしたがる。
自慢話ばかり。

父は若いときから友達が居ない。
パチンコが友達だ。
あんな父に友達はできないだろう。
私もあんな人たちと付き合おうとも思わない。
<695> りん ■2005年04月30日 土曜日 22時32分32秒
ああ、ねぇ。
言ってもいいですか。
貴方が私を苦しめているって。
貴方のせいで私は死にたくなってるって。
貴方が全て悪いんです。
貴方の常識がおかしいのか。私の頭がおかしいのか。
どちらにしても私にはもう限界なんですよ。
この状況で笑って暮していくにはもう疲れてしまったんです。

貴方は私の話を聞かなかったことにして同じ事を何度も聞く。
都合の悪いことはねじまげて論点を摩り替えて
結果的に私がぜんぶ悪い事になるのね。
私はまだ貴方の理論武装を解くには頭が足りません。
でもこれだけはわかってしまったんです。
あたしは、苦しんでいる。
貴方のせいで、苦しんでいる。
ああ、貴方がどれだけ言葉をつむごうと
これだけは間違いないんです。
ああ、どうしよう。どうすればいいんだろう。
本当に、どうしよう。
<694> アーネスト ■2005年04月26日 火曜日 20時55分07秒
父親は世間体が大事らしい。そして自分もそうなりかけてる。
父は人の責任を平気で取りたがる。この辺のバウンダリーの無さは母親と同等。
何も起こっていない,失敗すらでていないのに干渉される痛み。
でも今、それを痛みとしてちゃんと認識してる。進歩してる。
昔はそれを,害になるものと思わず受けつづけたから。
次は,親に向かって自分の感情を表現したい。ネガもポジも言い現わすのが
正直なコミュニケーションだと思うから。
<693> ほーる ■2005年04月26日 火曜日 04時19分16秒
母について(まだACを知らない昨年の夏頃)


日曜の正午あたりだった。母がニコニコしながらやってきた。
テレビを見ている私の前にハコをひとつ置いた。プレゼントだという。誕生日はまだずっと先だし、たとえ何かの記念日でもモノを贈るなどということを普段しない人間が突然なにを言い出すのだろう、と思った。嫌な予感がした。
箱の中身を見てぎょっとした。そこには大小一対のペンギンのぬいぐるみが入っていた。

彼女は二十歳をとうに過ぎた私にペンギンの親子のぬいぐるみを与えようとしている。
即座にいらない、といって返そうとしたが聞き入れてもらえなかった。私はそもそもぬいぐるみとか人形といった類は苦手だ。しかしそんなことに興味のない母はあんたが好きだから買ってあげたのに、と言うだけで取り合ってくれない。箱から出さないまま値札を見る。万を超えている。
あ、と思った。以前、テレビでペンギンの特集をやっていて、それを見てひとり”可愛い”を連発していたが、それを見ていたのだろうか?
たしかに、ペンギンは好きだ。ただ単に哺乳類なら大体好きというレベルでだが。それも説明したが、いいから貰っておけと聞かない。

とにかくこれは貰ってはいけない気がした。
他愛もない話のようだが、深刻な気分だった。笑って受け取ればいいのだろうか?ならばなぜこんなにも気が滅入るんだろう。
無言になり反論しなくなった私に母は満足し、すぐにそのことに興味を失ったようだった。
箱を抱えて途方にくれてしまった。
返品する気も起こらず、かといって売るの捨てるのを考えようとすればなにか引っかかる。
貰ったものを反故にする罪悪感だけではない。
なぜこんな簡単な選択が難しく感じられなにもできなくなるんだろう?という疑問だけがぼんやりと残った。
私がそのとき選べた行動は「保留」というものだけだった。
しばらくその件は猫とか小鳥とか可愛い生き物に大げさに反応してはいけない、という教訓としてのみ残った。

自分の部屋に戻った後でふと思った。彼女の目に映った私はどんな姿をしているのだろう。
寒気がした。
<692> 苦しい ■2005年04月23日 土曜日 23時04分05秒
両親がいやでたまらない。子供を2人持ってACであることがはっきりわかった。両親の孫に対する態度も嫌い。あんな親のせいで私の人生はずたずたにされてしまった。でも、気づいてない。あの人たちは常に自分が正しく、反省することも、自分の間違っていることを認めることもしないのだから。
もう、年なので性格が変わらないことはわかっている。けど、一度でいいから私に謝って欲しい。子供の頃から、言葉で虐待されたこと、人間や動物に対する愛情や慈しみを教えてもらえなかったこと、生活していくのに必要な知恵を教育してくれず、勉強と学歴のみを崇拝していたこと。夫婦仲が最悪の家庭で
常に緊張し、笑うことさえないつまらない家庭。
そして、孫が生まれても実家に戻ることさえ許してくれなかった母親。
私に謝って。手をついて謝って。あなた方は自分しか愛せない可愛そうなひとたち・・・・
<691> アーネスト ■2005年04月23日 土曜日 18時12分45秒
あまり自覚がないのかもしれないが,兄と母の争いが怖かったんだと思う。なんで急に厳しくなったのかなーと。当時、真っ暗で寝るのが怖くてドアを開けたまま寝てた。そうすると母が上がってきて,兄の部屋に入り罵声を飛ばした。それは役者がかったとでも言うような,いかにも「断罪」というか正義の審判的な叱り方だった。よく耳に残っているのが「電気をこんなにつけっぱなしにして,いつか罰が当たるわよ」とか「閻魔様に舌を抜かれるわよ」。それを寝たふりしながら聞いてた。で,それが寂しくてわざとふとんを跳ね除けておいて母が直しに来るの待ってた。だから半分、怖くて半分は依存してたんだけど。でも,すごい的外れな叱り方だった。だって兄は何も悪い事してないし。祖母からの遺伝なんだろうね,罰当たるっていうのは。ある種、罰っていうのはハイヤーパワーみたいで,怖かった。逆らえない怖さがあった。
<690> いつか ■2005年04月23日 土曜日 17時12分07秒
せっかく生まれたのに、とんでもない家族のなかでものごころついたもんだ。
姉に追いまわされ、父母は喧嘩三昧。時々お金を貰いに来る祖父。
父は自分の働かない親にむかって怒ると良かったのに。
私たちにそのうっぷんをぶつけていた。
若いころから、いいこぶって、弟たちの学費までお世話してたらしい。
やらなくて良かったのに。
自分の奥さんや子供を大事にすればよかったのに。
ボーナス時に、いかに貧しい暮らしをしているか、といういやらしい手紙がよくきていた。
変な宗教に入って、寄付ばかりして、財産なくし家も売って。
おじいちゃん、可愛がってもくれなかったね。
そう考えると、いやだって伝える事の大切さを思う。
父も嫌だったに違いない。
私にはできない。
家庭をもった自分の息子や娘にお金を貰いに行くなんて。
自分で働く。
一度しかない人生なのに、変な家族に生まれ、残念だ。
思い切り嘆こう。
今までそんなこと思っちゃいけないって教えられていたから。
そういえば、父の実家の近くに乞食の一家が居て、皆馬鹿にしてたけど、今思うと私の家族はその人達以下だ。優しそうなお母さんだった。
<689> ふうせん ■2005年04月23日 土曜日 03時11分10秒
大分前に妹が言っていたのだが、
父の一番厭なところは、散々酷い事をしておいて、それを責めると、もの凄く傷つくところ
なのだと。敵意を持っていてくれたら戦い甲斐があるのに、散々酷い目に遭わせておいて、反撃すると傷ついちゃうんだから、被害者はこっちなのにやってられないと。
様々な仕打ちも、彼は全て子どものためだと信じているのだから、始末に負えない。全て自分の信じることが最善であると思い込んでいて、それを押し付けていいと思ってる。だから責めれば、裏切られたと思って傷つく。もうイヤ。
<688> ふうせん ■2005年04月23日 土曜日 02時50分47秒
しばらくかなり調子が良かったのに、また苦しくなってきた。

私は、父や母に、憎しみや敵意を持つことが、どうしてもできない出来ない。
父や母を、哀れに思ってしまい、責める気持ちになれない。怒りが湧いてこない。そして自分に対しても無気力になっていくのだ。
まず、怒る必要があるのだと強く思う。私の人生の一番初めの肝心なところを、親の未熟さや、エゴで、台無しにされたのだから。せめてこんなに傷ついていたと言うことを伝えたいのだが。無力感で一杯になってしまうのだ。
父はいまだに思っているのだろう、この娘は、失敗作だと。不幸なことに母親似だったので、仕込んでもちっとも、ものにならなかったと。

父と久しぶりに会った。孫たち(私の子どもたち)が一生懸命、最近出来るようになったことを披露するのに、父は、「ほう。」の一言だけで、自分の話したいことを、大人たちと話すばかり。
どうして子供心にそんなに鈍感なの?多分父もあまり親にかまってもらえなかったんだろうな、そう思ったら、哀れでなんかもう話す気が失せる。
(本当は、子どもらのいないところで、‘もっと大袈裟に褒めてよ、やる気を育てるチャンスでしょっ’て言おうと思っていた。)言っても理解できないんだろうなって。まるで褒めたら、子どもが駄目になるって思ってるみたい。
そう、私も褒められたことがなかった。物心がつく頃から絵が大好きで、友達のお母さんに褒められて喜んでいると、「時間かかりすぎ。細かったらしいなあ。」幼稚園で新しく習った歌を嬉しくて家で歌えば、「何歌ってんだかわからんな。」その時は、照れて笑っていたけど、今でも鮮明に覚えているくらい本当は傷ついていた。きずついても「じょうずだもん!」なんてふくれる事も出来なかったんだな、すでに四つ五つの頃から。

そんな大昔のこと今さら父に言っても仕方ないけど、この自尊心の無さは、一体どうすればいいの?
だから私は今も、暴力・アル中夫と、別れることが出来ない。まだ若いんだからやり直せると、いくら周りに言われても、私にはここしか居場所が無いとしか思えない。
<687> アーネスト ■2005年04月22日 金曜日 21時25分36秒
某セラピストが,「例え冷遇されても,復習するために相手と同レベルにまで自分を下げて復讐する必要はない」と言っていたけど,これは実践してみて,正しいとわかった。アクティブリスニングすることで相手の最善さや,相手に共感を示す方法もほんの少し分かってきた。たまに復讐した衝動に駆られる。そしたら距離を置けばいいだけだ。自分を下げる必要はない。
<686> アーネスト ■2005年04月22日 金曜日 20時14分30秒
次の日に出すゴミを玄関に置いておくと父親が勝手に漁って「これは捨てるな」とかやられたことがある。いくら親だからってやっていいこといけないことがある。そうだ。当たり前だ。プライバシーもあったもんじゃない。
<685> アーネスト ■2005年04月22日 金曜日 18時36分47秒
(続き)
ただ可能性として,以上なほど母子密着であった可能性はある。距離を取れないゆえの,自他の区別がつかないゆえの悲しさ。だから以上に反抗期という言葉に憧れがある。まぁ今が反抗期なのかもしれないけど。
<684> アーネスト ■2005年04月22日 金曜日 18時34分53秒
物心ついたのは3歳頃かな。あまり泣く事が無かった,と母は言っていた。4,5歳の頃かな,海で迷子になった。そのくらいの年齢なら泣いて訴えてもおかしくないかもしれない。が,泣かなかった。大事なのは泣かないことではなく,自分の欲求を満たす術を,既にこのころから知らなかったのかもしれない,という事だ。それ以前,つまり乳幼児期にどういう子どもだったのかは知らない。調べる方法はあるが,今は止めておいたほうが良さそうだ。
<683> kitten ■2005年04月22日 金曜日 17時30分07秒
兄が居るからどうか分からないけど、久しぶりにパニック発作が出た。
苦しかった。泣けたら楽になった。
うちでは泣くことがずっと許されなかったから、自分でも抑えてしまうんだ。

早く一人の空間を作ろう。好きなだけ泣いても誰も怒らないところに行こう。
<682> がつき ■2005年04月22日 金曜日 00時12分14秒
子供の頃、両親にあまり構ってもらえずずっと寂しい思いをしてました。
自分にとっての父親代わりの祖父が亡くなったとき、小学5年生ながらに、
「強く生きなきゃ」と思って、それで親には頼るまいと思い今まで生きて、
随分自分に無理して生きてきたと思う。もっと両親に甘えて良かったのかな?
と今、甘えることが困難な年になってふと思います。
今まで「ほかの人と根本的な何かが違う」とずっと思って生きてきました。
<681> アーネスト ■2005年04月21日 木曜日 14時57分20秒
ふと気付きがあったのだが,批判的な人というのは,相手を下に見ることで自分に優越感を持っているのかなー,思った。某セラピストも,本当に自信のある人(自己評価の高い人)は偉そうにしないし,他人に寛容であると言っていた。

両親は批判的だったな〜。家庭教育という名目で人を随分と罵っていたな〜。「死ね」とか「生むんじゃなかった」という言葉を掛けられた覚えは無いが,いつもヒステリックだった。表情や仕草も,いつも監視的だったし。

後、勉強でわからないところがあったら持って来いと言われて,いくと「なんでこんなのもわかんないんだ?」って(笑)。明らかにダブルバインド、ダブルメッセージ。そりゃ屈折した人間にもなるよ。

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This script written by Shintaro Wakayama.