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私たちの物語 - 家族過去ログ No.31
メッセージ数:620件

<620> アーネスト ■2005年03月29日 火曜日 07時41分15秒
それでも一体自分の人格のどこまでが家族の影響で,どこまでが自分の生来のものなのかよくわからなくなる。明確な線引きはできないんだろうけど。思春期の頃から,なんであんな押し殺したような生き方をするようになったのか正直,自分でもよくわからない。親のせいかもしれないし自分のせいかもしれない。でもあの変わり目が自分では悲しい。今、自分が戻れるとしたらあんなストレスの溜まる生活は絶対しなかったと思う。もっと(いい意味で)自分本位で,もっと自分の人間性や職業適性、そんなことについて考えたのだろう。
<619> アーネスト ■2005年03月29日 火曜日 07時36分02秒
そんな鬱憤が溜まりに溜まってやったのが万引きなんじゃないかな。そしてそれでも結局親は変わるどころからますます,厳しくなった。だからもうクソ真面目な人間になって「親に何も言わせて溜まるか!!」っていう感じになったのだと思う。だから悪く言って裏のない人間になった。秘密を持たなかった。学校であったことも親にはよく話していたように思える。そうするしかなかった。10歳の頃にできるだけの反抗をしてダメだって,無駄だってわかったから。
<618> アーネスト ■2005年03月29日 火曜日 07時32分42秒
(連続ですみません)

母親に境界線を侵され何度もぶちきれ,その度に気持ちをわかってももらえず怒りを抑圧してきた絵が浮かぶ。「こんなに親切な母親なんか他にいませんよ!!」,「親に口答えするんじゃありません」は常套句だった。よくできた,しかし何の意味もたない常套句だ。これだけはハッキリ宣言するが10歳の自分には境界の防衛手段はなかった。腹が立ったからお金をくすねて,最新式の文房具などを買っていた。通信教育みたいなものをやっていたのもこのころだった。こっちが頼んだわけでもない,勝手に押し付けられた。考えてみたら母親が決めたんじゃなく自分が選び取ったものって,本当に数少ないな。剣道も絵画もそう。なんとなく話しを持ちかけられてやっただけ。
<617> アーネスト ■2005年03月29日 火曜日 06時58分19秒
新学期や,遠足、修学旅行になると母が,僕に聞きもしないで持ち物に勝手に名前を書いたり、ラベルを張られたりした。勝手に,というのが本当に許せない。完璧に自分の存在を無視されたようで悲しい。その持ち物を持って学校に行くのは恥ずかしかった。結局,外にいようが家にいようが,その持ち物を持っていることで母の呪縛に掛かっていたような気がする。この持ち物はあんたのじゃない,あたしのものだ!!とでも言わんばかりに。あそこまで露骨に存在を無視されると自分というものがわけがわからなくなってくる。
<616> アーネスト ■2005年03月28日 月曜日 22時47分01秒
思考が兄のことや,その他色々なところへ飛んだけど結局自分は12歳ぐらいに親にされたことが今の自分の規範意識になっているみたい。その頃の気持ちに戻るのは難しいけど。あれがなかったら自分の性格ってどうなっていたんだろう。多分、全然違う性格になっていたのかもしれない。
<615> アーネスト ■2005年03月28日 月曜日 22時31分09秒
(一部フラバ注意)

兄と一緒にいると自分の問題はすっと消えて彼の問題に縛られてしまう。「なんでそんなに乱暴に振る舞うのか?」,「なぜ神経質に痰を切るのか?」,挙げればキリがない。とにかくすごいまずい状態だと思う。なんだかすごく鬱陶しいのである。去年の夏、兄が海外旅行に行っている間、本当に快適だったのを覚えている。私が嫌なのは(それは私にも共通している可能性大だが)被害者ぶっているところだ。「お前は幸せだな,通院がすんなり容認されて。俺なんて....」。そう「俺なんて」という彼の言葉にいつも反応していた。何か自分が極端に優遇されてきたみたいで嫌だった。実際にそれほどの差があったわけではないのにだ。彼は家族全員で団欒する際にも誰に言うともなく過去のトラウマを延々と語った。いじめに遭った話し,リコーダーで顔面を叩かれた話し。そういうのを自分はいつも傍観していた。まわりの反応は,よく覚えていないがとっても陰鬱なものだった。そしてなぜか,同じ親に育てられたのにそういうトラウマを持っていない自分が後ろめたく思えた。それは僕の責任ではないのに。彼の苦悩・鬱な感情は僕の責任ではないのに。それが爆発し始めたのが去年くらいからだろう。まず僕と兄の間に横たわる大きな溝、それを受け入れなくてはならない。そして,まず各々が別々の人格を持った者として尊重されなければならない。彼のトラウマに僕が介入する必要はない。
<614> アーネスト ■2005年03月28日 月曜日 22時10分21秒
(一部フラバ注意)

そもそも最初の気付きは兄からだった。帰宅すると尋常無いほどに荒れていて怖かった。殺意さえ抱いたこともあった。父には一人暮らしさせてくれてと頼んだが,だめだった。多分、父も私が出て行くと家族内の「何か」が崩れるのを恐れているのだろう。推論だがなんとなくわかる。前に就職したら出て行くといったら「寂しいこと言うなよ〜」と言われた。虫酸が走る。
<613> いつか ■2005年03月28日 月曜日 12時18分18秒
フラバ注意です。

日曜日など、家では落ち着いてくつろぐ事は無かった。
「算数もってこい」と言われたら最後、それは果てしなく続く。
解らないことが解るようになる勉強ではなく、馬鹿といわれ、唾を飛ばし、突き飛ばされ、泣かされ、終わる事はなかった。
そして、「おまえはぼんやりしていてなんだか、あーあもうしょうがない」などと言われて終わった。
姉たちは、物音1つたてないで、ひっそりしていた。
母はかばってくれなかった。うろうろはしていたが。
こんな雨の日は思い出してしまう。大嫌いな父
二度と会わないことでなんとか今はふんばっていられるのかも。
自分の今居る場所が、休みの日に、思いっきり普通にのびのびとしていられる。
これだけでもいいぞ!じゅうぶんしあわせだ。
こうして、今の自分に自信をもつことと、いろいろな事に感謝したりしてまた新しい自分に出会っている。
<612> アーネスト ■2005年03月27日 日曜日 19時50分52秒
父と母は見合い婚だったらしい。それにしても,一緒にいる事が少ない夫婦だった。一緒にいる時でさえ会話らしい会話はなかった。いつも事務的な話し方をした。談話とか談笑というものとは程遠かった。そして母親は父といる時より私といる時の方が楽しそうに見えた。
<611> アーネスト ■2005年03月27日 日曜日 19時47分53秒
(一部、偏った見解があります)

父も母も過度な一般化が得意技だった。万引きをしただけで全人格を否定されたのはショックだった。罪を憎んで,僕を憎まないで欲しかった(とは言っても,それってすごい難しいことなんだろうな,と察する)。だから自分も「真面目」という性質を一部の行動だけでなく,全人格にまで浸透させないといけなかった。「万引きするやつは普段の行ないも悪い。だから普段から真面目にしておかないと」と自分を律した。そして12歳から22歳くらいまではずっと生真面目に生きてきた。来るしかった。自分の体にどれだけ無駄な力が入っていたかを僕は二十二歳の頃に知った。誇張でもなんでもなく文字通り力んで生きてきた。
<610> 豆だいふく ■2005年03月27日 日曜日 08時17分17秒
ウチの母はどんなに忙しくても疲れていても必ず手作りの食事を作ってくれた。インスタント系の食べ物が食卓に上がったことはない。そのお陰で体は健康です。認めたくなかったけどこの点は母に感謝します。認めることは決して負けることではないから。しかしこれ以上はまだ無理です。
<609> アーネスト ■2005年03月26日 土曜日 22時10分23秒
毎晩,この時間ぐらいに家の前でタクシーが止まりドアがバタンと閉じられる。鈴の付いた玄関のドアが開いてやや強めに閉じられる。体が硬直し,コメカミのあたりが疼く。兄が帰ってくると毎晩こんな感じ。別に超険悪というわけではない。それでも息苦しい。
<608> アーネスト ■2005年03月26日 土曜日 17時41分35秒
自分は結構、家族全体の調和にこだわる傾向があるような気がする。例え兄と仲良くなったとしても,そしたら今度は父に罪悪感を感じるような気がする。家族って一体なんだ?ただ同じ場所にたまたま居合わせたとしか思えない。親近感ゼロ。ない親近感を感じようとする事自体,おかしい。いや,待てよ,と。家族に限らず自分と他人の距離ってどれもこんなものなのかもな。一緒に住んでるから苦しいだけで。ある程度割り切らないと。
<607> こくーん ■2005年03月26日 土曜日 04時36分29秒
母は『謝らない人』だ。
そんな母が1度だけ、心から謝ってくれた記憶がある。小5か小6のとき。
何が原因だったのか忘れたが、本当に私は怒ったのだと思う。数日後、謝罪の手紙にハンカチが添えられて、机の上にあった。手紙を読んで、ああ、母は精一杯謝ってくれてるんだ、と納得した覚えがある。
今、母親とは断絶状態(一方的に)。
定期的に電話やメールが入る。私は自分の気持ちを訴えたけれど、そんなことはなかったかのように。
『連絡下さい』→『買い物に付き合って欲しい』→『かわいい春物のバックを買ったから』…とここまできて、以前の記憶が蘇ったのだ。あの手紙にはハンカチが添えられていた。…物を与えて、ごまかそうとしたの?って。
でも、信じたい。あの時の手紙の謝罪は心からのものだったって。
<606> アーネスト ■2005年03月26日 土曜日 01時37分58秒
(連続投稿,ご容赦ください)

いくら母に手紙を書いても、語りかけてもリアリティーがない。まるで自分自身に話し掛けているよう....。母を否定することは自分自身を否定することだから。今、私は反抗期です。母を否定します。母の価値観、教育観,人生観、人をみる目,モラル,服装,好きな音楽・絵・本全て。記憶から葬り去ります。
母はよく絵本を読んでくれた。でももうそれもいい、全て捨てる。自分を壊して,母を壊す。
<605> アーネスト ■2005年03月26日 土曜日 01時28分44秒
なんで兄より優遇されただけで罪悪感を背負わないといけないんだろう?悔しいな。こんなこと考えているだけで時間だけが経ってしまう。もう6ヶ月も同じ事を考えているよ。兄は怒ると怖い。キレルと怖い。テレビのリモコン,物干し竿,ドアノブ全部壊した。その怒りはかつて母に向けられていた。そんな時、母に従順でいることで怒られない自分が,したたかで卑怯なように思えた。怒られるのが自分だったら良かったのに。兄の母に対する怒りは間接的に自分の方に向けられた。えらい迷惑。やっぱりダメだ。自分の中にはまだ母親がいる。心理的に母親の側についている。だから兄が怖いんだ。もっと中立にならないと...。僕は4分の1だ。誰かの分身でもなんでもない。そのアティチュードを母に見せないと。
<604> アーネスト ■2005年03月25日 金曜日 21時56分56秒
ある本によれば過度の罪悪感は自分の責任を見えなくするものらしい。言わんとする事はなんとなくわかる。いつまでも罪悪感に打ちひしがれていたらアカン!と私は思う。でもそれはついて離れないのだ。いくら堂々と振る舞ったところで,罪悪感の出所がわからない限り,自分の思考から追い出すことはできない。

私には反抗期がなかった。そして一生ないと思っていた。親に,特に母親に背く事は絶対にしまい,と思っていた。したら兄のような目に遭うことがわかっていた。10歳の時に悟り,中学に入ったと同時に完全に自分の欲・価値観・アンテナを圧殺・滅却・抑圧した。

だから今、そのツケを払うべく父に無言の反抗をしているのかもしれない。そのことが後ろめたいのだろうか? 自分が反抗期を迎えたら家庭は崩壊すると思っていた。いつも秩序を守る側の人間だった。その役を降りた今、自分がどういう生き方をしていけば良いのかわからない。
<603> アーネスト ■2005年03月25日 金曜日 15時46分39秒
3回目のリチュアル(儀式)を行なってきた。今回は墓についてから,そこで思いついたことを,書いて音読した。兄と私を不公平に育てた事,そのことで私が罪悪感を抱き,苦しんでいる事。それについて謝って欲しいことなどを,伝えた。5回ほど音読した。周りに人はいないのだが,何故か,そういう不平不満を大声で読み上げるのは,何か不適当なことのように思えたので,それほど大きくない声で音読した。この儀式はまだ始めたばかりだから,効果の程は微妙だけど,決して無意味なことのようには思えない。まだやってみたい。続けてみたい。お疲れちゃーん
<602> ユリ ■2005年03月25日 金曜日 01時21分58秒
今日両親に私のことを分かってほしかった、と話した。両親も親に対して悲しみを抱えて生きてきた。私が寂しかったんでしょう? と言うと少し私に理解を示してくれたみたいだ。今まで子供にも繰り返してしまうことが多かったろう。人を愛することが難しかっただろう。親も不完全なまま子供と成長していくんだ。だから私は育ててくれてありがとうとやっとそんな風に言えそう。自分が親の為に必要だったとわかった瞬間から、自分が生まれてきた役目がわかった。誰もいらないこなんていないよ。やっと自分の存在が自分で認められた気分だ。
<601> 埴輪 ■2005年03月24日 木曜日 23時22分52秒
許すも許さないも
それ以下でも以上でもないのかもしれない。
只ここにある事実。
それだけなのかもしれない。

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This script written by Shintaro Wakayama.