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私たちの物語 - 家族過去ログ No.30
メッセージ数:600件

<600> アーネスト ■2005年03月24日 木曜日 21時53分46秒
階下から父と母が上がってきて兄の部屋に入っていくのを僕は(記憶にないが)怯えていた,あるいはいないふりをしていたのだと思う。母の罵声が飛び,父はどっちつかずの中途半端な態度。僕はただ隅っこで小さくなっているだけ。今でも兄が,ドアをばたーんとしめた時ビクッとするのは,僕がびっくりしているんじゃなくて,僕の中の母親が,それに対して怒っているのではないだろうか?あるいは,兄が荒れた時に母の罵声が飛ぶ→僕は怯える,という条件反射なのかもしれない。
<599> アーネスト ■2005年03月24日 木曜日 21時48分47秒
兄との思い出でぱっと浮かぶのは僕6歳、兄10歳の頃。今の家に引っ越してきたばっかで,兄が僕のおもちゃを取り上げてトイレに鍵をかけて閉じこもったので新築のドアを僕が蹴って木材を割ったこと。後は宝探しゲームを兄がやってくれたこと。兄の友達と一緒に遊んだこと。その後四年の記憶は飛び,僕が10歳〜12歳くらいのころ、兄が僕の部屋に入ってきて胸倉を掴んで泣きついた。母親との衝突後だった。その後楽しい記憶は一切無い。この頃から家族で外食する時などは僕は,道化師をしてばかりだった(母と兄の仲が悪いの知っていたから)。僕が高校受験の頃,兄は,大学受験。ラジオの音がうるさくて文句を言いに行った。僕だけでは無理で,両親に頼んだ。でも,これは今思えばよいことではないのかな。兄は受験のことで親とかなりもめていた。兄の部屋で全ての家具が滅茶苦茶に倒される音を聞いた。僕は,多分うずくまっていたんだと思う。寂しくて母親に甘えたこともあった。兄に泣きつかれたこともあった。「俺が堕落したら,俺に助言を与えてくれ」と。僕と兄の蜜月の記憶は僕が6歳の頃で途切れている。
<598> アーネスト ■2005年03月24日 木曜日 20時52分42秒
やはり僕にとって母との対話は非常に意義深いことのように思える。何も話さなくとも墓石に,自分の思いを投影させるだけでも気持ちを解法できるように思える。何より自ら墓地に出向いていくという能動的な関わり方が重要なのだと思う。思えば母に対していつも自分は受動的だった。言いつけを守り,「怒られないように」振る舞い,「睨まれ」れば怯えた。自分の意見など投げかけるなど持っての外だった。というか,そもそも母の前では本来の自分を圧殺しなければならなかった。だから墓に行ってなんども言いたかったことを伝えたい。そして,それが自分を罪悪感から解法する方法のように思えるのだ。勿論,自助グループに出て仲間と共に自分の感情に向き合うこともとても大切だ。しかし今は,前述した「儀式」をやってみたい。母と向き合い,彼女の心理的支配から自分が解法された時,家族内で自分が思ったように振る舞うことができるのではないだろうか?兄や父の言動に目くじらを立てるのは,私が母親の人格というフィルターを通してみているからだと考えている。また兄に対して罪悪感を感じるのは....ここが肝なのだが...結局,僕は母と兄の緩衝材的,役割だったように思えるのだ。母の側に付いているものの,基本的には中立だったように思える。時には兄の言い分を聞いたこともある。つまり未だに≪心理的に母親の影響力が強い≫自分は,≪母を憎んでいる兄≫の敵であり,母の味方をせざるを得ないのだ。

要は僕が家族の誰の肩も持たない,独立した人格を完成させれば,複雑な絡め取られに足をすくわれることはなくなるのではないだろうか?あくまで仮説だが,とりあえずこの方法を信じてやってみたい。イツまでも罪悪感に苛まれて自分の人生を棒に振るいたくなんかないから。
<597> 豆だいふく ■2005年03月24日 木曜日 18時37分29秒
私は兄のプライドを無意識に傷付けてしまっていたのかもしれない。
今のところこれ以上は「否認」です。
<596> tranet ■2005年03月24日 木曜日 01時25分36秒
もう父が倒れてから4年ほどにもなるというのに、この事は関係あるのだろうか、僕は未だに苦しみ続けている。僕は、父が自宅療養になってから、ますます混乱の度を深めていった。2002年の事だった。父が怖かった。恐ろしかった。私は父を憎んでいたから。知らず知らずのうちに私は父を憎んでいた。それが恐ろしかったので、その感情を誰にも話すことなく閉じ込めた。そうしたら周りがどんどん見えなくなっていった。時間感覚も判らない。今思うと、うつ病だったと思う。というか、いまだそこから抜け切れているかどうか自信がない。
父が退院してきた時に聞いた話では、父は若年性高次脳障害という障害を持っていた。これはもちろん父から聞いた話ではなく、母を通して医者から聞いたものだった。母もその頃にはすっかり参っていて、平常心を失っていた。具体的にどういったら良いか、母の話は次々にあちこちへと飛ぶ事が多くなった。僕も何処まで自分が「平常」なのかわからなかった。それは僕にとって恐ろしい事だった。
<595> tranet ■2005年03月24日 木曜日 01時10分29秒
家族なんて、馬鹿馬鹿しいものだと思っている。
他人なんて、信用できない。でも他人に頼らずには生きていけないんだ。この悲しい現実が、僕を鬱にさせる。
僕の母は、共依存者だった。それを知ったとき、とても悲しかった。
就職活動中、泣いた。今まで家族のために尽くしてきた自分が、本当情けなくなった。大学二年生になった時、父はくも膜下出血で倒れた。最悪だった。その時の僕に悲しみはなかった。仕事中毒の父と、共依存の母との間に生まれて、激しい怒鳴りあいを何度も聞かされて、僕の感情はその時までにはすっかり麻痺していた。父が倒れた時、僕は泣いちゃいけないと反射的に思った。その時、僕の中の何かが死んだ。僕は狂ったように意識不明の父の元へ通院した。友達がどんどん離れていった、自分から連絡しようと思わなかったから。この苦しみをわからない友達なんて屑だと思っていた。そこから僕の地獄が始まった。
<594> アーネスト ■2005年03月23日 水曜日 21時50分16秒
(連続投稿ですみません)

今まで月々の生活費親にもらうのが兄に対して後ろめたかった。大学に入った時、(お金に厳しい)母親はもう実質いなかったし,私は(バイトしている時期を除いて)父から生活費を貰っているのだが,そのことで兄が当初はよく文句を言った。それで僕の方もなんとなく嫌だった。でももうそれは止めようと思う。こっそりと貰うのはもうなしにする。結局,後ろめたさを作っている原因は他でもない自分だから。兄が何か言ってもそれは僕の性じゃないし,むしろ不公平に育てた親の責任だ。それに兄もなんだかんだで学費の高い学校だったし,父に言わせればそれほど差額はないらしい。兄も小遣いを貰っていたという。もし,後ろめたさを持つ者がいるとすれば,それは兄ではなく父に対してだろう。少しずつでも行動を変えていきたい。

それから自分が行動を変えるからといって,相手に変わることを期待しすぎないようにしたい。あくまで行動を変えるのは,相手に変わって欲しくてではなく,家族における新しい自分のスタンスを作るためだと。多少は期待してしまうのかもしれないけど...。相手がどう思うか,変わるかは僕の関与するところではない。
<593> アーネスト ■2005年03月23日 水曜日 21時19分23秒
兄は,母親に関して「異常だった」と述べていた。「いい子」にして応酬を防いだ私と,完全に打ち負かされた兄。果たして私に兄の,その屈辱が分かるだろうか?恐らくかなり難しいことだと思う。もし,2人ともが同じように厳格に,あるいは寛容に育てられたとしたら,分かり合えるのかもしれない。しかし,ここまで差が歴然としていれば,かなり難しいのだろう。兄は,恐らく私に対してそれほど悪い感情は持っていないと言う。でも家族の中では(父よりも誰よりも)私は,兄が屈辱を受けるを見てきた。結局,憐れみの対象でしかないのだ。フラットな気持ちで付き合うのが難しいのだ。言い訳なのかもしれないが。むしろ,過去のことは抜きにして,一から付き合いを始めることが大事なのかもしれない。いずれにせよ,時間を要するものだ。でも書きながら自分がどうしたいのか,少しずつではあるが見えてきたかな。罪悪感も少し和らいだ。自分だけで抱え込まなくてもいいって気付いた。
<592> アーネスト ■2005年03月23日 水曜日 21時10分12秒
私は兄をいつも母親というフィルターを通して見ていた。兄は母親に叱られてばかりで勘当寸前の「問題児」として私の目に映った。そして恐らく私は今もそういった(かつて母親に勘当されかけた者として)憐れみの目で見ているのかもしれない。私が中学生だったころ兄は≪女性と付き合えば「はしたない」と罵られ≫,≪いずれは家を追い出される者≫であった。母と兄の争いはすざまじく家具が倒される音,罵声....それが嫌で仕方がなかった(今は大方記憶が抑圧されていて鮮明に思い出せない≫。

一方,母親に服従していた私から見れば≪叱られて当然≫の存在だった。私と兄の間には常に母親がいた。思春期を迎えた兄弟であれば,秘密を共有したりする楽しみがあったのかもしれない。またそれを通してより親密になれたのかもしれない。でも残念ながらそれは生されなかった。共有されるべき秘密は全て母親に掌握された。今の私の性格のまま13歳に戻れば,兄と上手くやっていける基盤を築けるのかもしれない。

私と兄の間に入り込んだ母親はもういない。そしてその厚い壁は物理的には存在しないが,心理的には存在する。少なくとも私には。いつも気になっていたこの微妙な距離は,母という見えない壁なのかもしれない。なんでも母親のせいにするわけではないが,これでも私は兄と仲良くしようとして飲みに誘ったり,あるいはこちらから打ち解け話や,悩み相談をしたこともあった。でも2人の間には何かギコチナイ空気が ―少なくとも私には― 流れていた。それを気にしないようにするのも一つの方法なのだろうが,私の性格上,もしくは経験上,感じている≪ギコチナサ≫を無視・否認・抑圧しても上手くいかないことは分かっている。

いくら愛想を振り撒いたところで,その空気の源が除去 ―果たしてどうやったら除去できるのかは分からないが― 出来ない限りは,私と兄は打ち解けるのは難しいだろう。何しろ15年ぐらいは,こういう関係なのだ。時間をかければできるのかもしれないが....。この件に関しては長いスパンで見ていく必要があるだろう。いずれにせよ一刻を争そう問題ではない?かな。
<591> アーネスト ■2005年03月23日 水曜日 17時01分20秒
母の生前は,スケープゴートの兄,道化師・ヒーロー及び母親の代理夫だった自分がいて(全く健全ではないが)一応人間関係が成り立っていた。ところが母親が死んだ事で,僕は役割を演じる必要がなくなった。それまで母の庇護下にあった自分は家族の中で「剥き出しの巣の人間」になり役割を演じる必要がなくなった。いつも自分が「いい子」を演じることで,兄に対してヒステリックな母親を宥めることができた。でももういい子を演じる必要がなくなった今、何かしらの罪悪感を感じる。それは役割を放棄することで母親に対して感じるものかもしれないし,あるいは,今まで母の庇護下にいることが出来た,という点で兄に対する罪悪感もしれない。いずれにしろ,あまり意味のある罪悪感ではないだろう,となんとなく思っている。母親に対してワークを行なえば,何か見えてくるだろうか。そう願う。
<590> こくーん ■2005年03月22日 火曜日 23時32分17秒
母と議論をする、ということは、解決策を模索するのではなく、どちらかが勝つまで、相手の喉下に決定的な切っ先を突きつけるまで闘う、ということだった。もう、元々が何だったのかすらわからなくなった。
幼少からの弱みを握られている私が勝てることはなく、やりこめられた子供時代。大人になってからは渡り合うか、優位に立つことができるようになったが、それを自覚した途端、怖くなった。
私はきっと同じ方法で人を追い詰める。
私はきっと母と同じことをする。
母と暮らせなくなった原因の、これは1つ。
<589> アーネスト ■2005年03月22日 火曜日 09時35分57秒
自分の頭の中で母親と自分は密着していた→性欲に罪悪感を抱いていた→母親を客体化しようと努めた→その過程で,抑圧していた母の死に対する哀しみが甦ってきた。こんなところかなぁ....。つまり母と未分化だったから,母親が死んだという感覚が薄かったんだね。死者を対象として見ることができなかった。母に絡め取られていたから,母が死んだことに関してイマイチリアリティーがなかった。でもようやくできてきたんだろうな。6年か,長かったな。あっという間だったな。でも,大丈夫。後はこのワークを続ければいいんだから。
<588> アーネスト ■2005年03月21日 月曜日 21時56分33秒
(一部、偏った見解があります&言葉が汚いです)

僕の自我が未熟だと過程したら,僕は10歳ぐらいで母親を失ったことになるんだろうか?それともこれは下らない妄想だろうか?いいや,下らなくても,マザコンだと言われても僕は母親が死んで悲しい。母親の死は何かで埋められるようなものではなかった。でも僕はそれを矮小化してしまった。だから結局、悲しみを未消化のままにしてきたんだろうな。はーつくづく自分が嫌になるよ。悲しむ時に,なぜおれはやせ我慢をするんだ?!いいじゃないか? 弱くて。母親が死んでピンピンしている奴がいたらそっちの方がおかしいよ。それを僕はずっと女々しいと思っていた。
<587> アーネスト ■2005年03月21日 月曜日 19時17分36秒
母と祖母。陽気な母と,無口な祖母。でも似てた。二人とも超厳格で,ケチというか倹約家で...。祖母と一緒にいると気分が安らがなかった。結局,痴呆みたいになって亡くなったけど....。祖母にも母にも,なにか「必死さ」というか常に「追い込まれている」というか「鬼気迫る」というか,安住できない人達だった。かわいそうにね。ひいおばあちゃんは知らないけどやっぱり似た人なんだろうね。僕はどっちかって言えば母方の叔父が好きだった。初めて東京ドームにも連れてってくれたし,父といるより楽しかった。父とは数回キャッチボールをしたことがあるけど,あんまり遊びに連れて行ってくれなかった。叔父さんに会いたい。父方の親戚にはあまり親近感がわかない。なんだかピリッとした空気が漂っているし,会っても事務的な対応しかできないし..。○○屋をやっている叔父さんなんか家近いのに一度も家にきたことも無いし,こっちが行ったこともない。だから同年代の従兄弟の繋がりは僕には全く無い。しょうがいっちゃしょうがないけど,なんか寂しいね。まわりの友達とかで従兄弟同士で遊んだりする話しを聞くと羨ましいもん。家の家系はみんな人付き合い下手なんだな〜。
<586> アーネスト ■2005年03月21日 月曜日 18時24分55秒
昔よく家族でいった海水浴場。近々,足を運ぼうかなと思っている。結構遠いし金もかかるけど,今は無償に海が見たい。
<585> アーネスト ■2005年03月21日 月曜日 18時20分52秒
母親やはり音楽や絵画が大好きな人だった。夕食の後に,よく1人で歌っていた。ママさんコーラスみたいなのもやってたっけ。それから自分が書いた絵がコンクールで優勝して,その当時では高価な絵の具セットをもらったらしい。その自慢話はよく聴いたな。多分、誰にも聴いてもらえなかったんだろうな。
<584> アーネスト ■2005年03月21日 月曜日 18時18分41秒
今、気付いたんだけど昨日まで高まっていた(母親を失った)喪失感は大分収まってきた。音楽とギターのおかげだな。
<583> ほーる (言葉遣い汚いです注意) ■2005年03月21日 月曜日 04時35分35秒
話し終わったあとうわーッと泣き出す親。
「仕事と家庭の両立なんて所詮無理なのよ!あんなの嘘よ!」

……えーっと
私の話をしていたのですが。
責めてるんじゃなくて
私の辛さを聴いて欲しかったんですが。
内容ちゃんときいてる?またかわいそうなわたしのフリして。
またアンタのこと慰めなあかんの?
つーかなぜか反射的にゆってしまった。
「べつにお母さんのせいじゃないんよ」
ってさ……
くそ

で結局自己嫌悪。


おっおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお前にいってやりてえよおーお前のせいなんだああああああああああ!!!!鈍いんだよガキなんだよあんったら家庭放置してそのくせいつまでもあたしをガキ扱いしやがって!!!!されたことは忘れてねーぞ、穏やかなフリしてるだけだからな!!!!兄貴に殴られたぶんあんたらを殴り返してやりてえんだカネも時間もねえ子供も好きじゃねえくせに二人も産むんじゃねーよどあほ!!!!!!!!


わたしゃあんたらのペットですか?
この卑小で腐りきった感情をここにおいていきます。
もうごっこ遊びはしたくない。
<582> アーネスト ■2005年03月20日 日曜日 22時17分46秒
自立と共依存について。誰かから認められれば自立なのだろうか?いや、違う。自己評価が高まっていけば自立はできるはずだ。じゃあ自分の承認欲求はどうするか?それは人に求めてはいけない。それは本来親からもらうものだった。

父はいつも単身赴任だった。もっと一緒にいて欲しかった。責任や社会について教えて欲しかった。自分の承認欲求を満たすための母はもう死んでしまった。どうすればいいんだろう?
<581> アーネスト ■2005年03月20日 日曜日 21時27分30秒
ずーっと乗り越えたと思っていた母の死を今更のように噛み締めている。自分にとって母親とはなんだったのか?と考えた時に,うまくイメージできない。というか6年前に忘れよう忘れようと思っていたこと今更,蒸し返すことに意味があるのか,だんだん疑問に思えてきた。一体,どこからどこまで回復の範疇に入るのか,さっぱりわからないよ。

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This script written by Shintaro Wakayama.