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私たちの物語 - 家族過去ログ No.26
メッセージ数:520件

<520> 豆だいふく ■2005年03月04日 金曜日 07時25分22秒
最近、兄の顔を思い浮かべると吐き気をもよおすのですが・・・。怒りというより
嫌悪だね。これも回復の一過程なんですかねえ。イヤダイヤダ。
<519> こくーん ■2005年03月04日 金曜日 01時12分10秒
母はいつも私たちを見ていませんでした。
「子どものため」と言いながら、本当に見つめているのは自分でした。
私の方を見てるときですら、本当に見ているのは私を透過して見える自分の姿でした。母が自己愛に支配されていることに気づいたのは高校生くらいになってからでした。
彼女は本当の自分の姿を見ないために、次々と不幸や苦労を招き寄せるのです。
その非現実的にも思える不幸に健気にも立ち向かう自分は容認できるのでしょう。頑張っている自分は美しいのでしょう。その更に奥に隠されている本当の自分には向き合わなくて、いい。
もちろん、そのことを母には伝えたけれど、きっと無駄でしょう。
その言葉ですら、彼女には新しい試練であり隠れ蓑。
ああ、あなたは。
そのまま、私の手から逃げ切ってしまうですね。
本当の自分から眼をそらし続けるのですね。
あなたは。
<518> ロヴィン ■2005年03月04日 金曜日 00時49分37秒
母親を手放しで批判できないのは,僕が彼女と一緒にいる時間を楽しんでいたという事実があるからだ。共犯なのだ。僕は共犯であり被害者だ。何が楽しかったのか覚えていないが,たぶん溺愛されて嬉しかったのだろう。だから今こうやって1人の人間として見ようとしても上手く行かない。母の記憶は常に美化されている。無意識のうちに美化している。僕は自分を「いい子」だとは思っていなかった。それなりに反抗したし,傷つけた。それでも結局は依存していた。
<517> ロヴィン ■2005年03月03日 木曜日 22時50分08秒
母親はよく雷雨になるとヴェーとーベンの「運命」を僕の前で歌って踊っておどけていた。多分、それは祖母の前でやりたかったことなのだろう。
<516> ロヴィン ■2005年03月03日 木曜日 22時45分41秒
(書き直し)
嫌なところは知識をひけらかすところと,個人の意見を,主観で解釈したり一般論にすり替えたりして,個人の意見が,どこにでもある普遍的なもの,取るに足らないようなものであるように扱うこと。
<515> ロヴィン ■2005年03月03日 木曜日 22時41分48秒
(連続投稿ごめんなさい。今、怖いほど記憶が甦ってきてます)

叔母さんのことを思い出した。叔父は聞くところによると2度目の結婚らしい。叔母さんは母の入院中及び死後で父親が忙しい時、よく御飯をご馳走になったり,あるいは惣菜をタッパーに詰めて家の前に置いておいてくれることがあった。母の生前,母と叔母が大喧嘩をしたらしい。叔父が結婚するにあたり祖母が暮らしていた家を改築することになったのだが,叔母が祖母の遺留品を処分したそうだ。それに母が激怒したらしい。その事で家でぶつぶつ文句を言っていた。口にはしなかっただろうが,恐らく叔父に「あんな人と結婚するなんて」と非難、皮肉をこぼしたのではないかと推測している。叔父も大変だったろうに....。姑ならいざ知らず義理の姉が,ここまで干渉してくるとは辛いだろうな。 母は近所のおばさんの陰口も良く叩いていた。「あそこの奥さん容姿は綺麗だけどね,ココロはきっと汚いのよ。ゴミ捨てのマナーなんかロクに守らないし」などとこぼしていたし,実際にそのことで喧嘩したらしい。当時の僕の目には自分の主義主張を曲げずに果敢に向かっていく姿が(あくまで父と比較してだが)熱血漢,正義漢として尊敬の対象として映った。でも結局は自分の世界しか見えず、それを壊されるの最も恐れているかわいそうな人だった。
また異常にミーハーというか,常に感動を追い求めているような「夢見る少女的」な側面もあった。例えば家族旅行で自然の多い場所に言ったりすると「ロヴィン!!見なさい!!この花は〜で」などと始まる。とにかく自分の感動を無理やり人に共有させようとする人だった。それもやはり当時の僕には「情操豊かなロマンティスト」として好意的に映った(あるいは,映るように努力した)。

母に関してはよく思い出せないが,父は尊敬できる点が一つある。ものすごい熱心な勉強家だ。英語もかなりできるみたいだし読書量は半端ない。でも「子どもと競争する親」としてのエピソードがある。僕は大学入学後に,第二外国語でスペイン語を履修したのだが彼も負けじとスペイン語の勉強を始めた。でも僕はそのことに関しては蔑視はしてないかな。嫌なところは知識をひけらかすところと,個人の意見を,主観で解釈したり一般論にすり替えたりして,個人の意見を尊重しないこと。
<514> ロヴィン ■2005年03月03日 木曜日 21時16分23秒
今、アドレナリンが出まくっている。と同時に怒るには少し疲れている。
昔は自分破壊をするのが好きだった。自分を壊すことで親から精神的に自立していると思っていた。でも,根っこの部分では母親に見えない糸で引っ張られていた。「それ以上,遠くに行くんじゃないよ。この紐が許す範囲だけよ。この紐を切れるもんなら切ってみなさい,ただじゃ置かないわよ」そういう声が聞こえてきそうだった。
<513> ロヴィン ■2005年03月03日 木曜日 19時25分06秒
兄がモノに当たる時、俺は「なんてデリカシーのない奴だ」と思ってきた。でも俺も人のことは言えない。今までOD,リスカなど他者に迷惑をかけるような[デリカシーを欠いた」行ないをしてきた。 一回、兄に怒っているときどんな状態なのか?と尋ねたことがあるが,彼は,その時は無意識に出てしまう,と言っていた。俺のOD,リスカにしても同じことだろうと思う。その時、なぜそうしてしまったかは今でもわからない。そう思うと形は違っても僕と兄は同じような感情を抱いているのかもしれない。
<512> ロヴィン ■2005年03月03日 木曜日 19時11分55秒
怒りを発散した。ベッドを殴り、抱き枕を母に見立てて蹴り殴り,母の写真をはさみで切った。新聞紙を切り裂いた。それでも怒りがまだ渦巻いている。ある本に,御墓の前で手紙を読み上げると効果的だ,と書いてあった。ホントかよ?と思うけど,時間がある時,やってみたい。
<511> 豆だいふく ■2005年03月03日 木曜日 10時27分24秒
あれ?7人兄弟か。(男4:女3)だ。失礼。で、残り女子3名もやや問題アリで、長女はまーまーかな。早くに御主人を亡くして女手一つで二人の子供を育て上げた(薬剤師)。やっぱいいよね、手に職があるってのは。次女は駆け落ちして結婚したが、旦那様が浮気をして離婚。三女はお見合い結婚したがこれまた相手が浮気して離婚。今は実家に戻って生活しているらしい。なんだかなー。
私は色んな部分がこちらの方々とよく似ているので気を付けなさいと言われてきた。う〜ん、とても心配だ。気を付けろって言われてもね〜。
<510> 豆だいふく ■2005年03月03日 木曜日 09時52分00秒
父の兄弟姉妹は6人いる(男3:女3)。祖母はお手伝いさん付きで嫁にきたらしく、家事はまったくできない。その6人は全てお手伝いさんに育ててもらったようなものらしい。但し教育(勉強)だけはスパルタだったらしく祖母はいつも定規を持って子供達を叩いて勉強させていたらしい。確かに皆優秀の部類に入る仕事に就いている(内面はノーコメント)。長男は妾4名を持ち随分楽しそうだ。(全員にマンションを買い与えている)。超チャラ男。次男は実家の事業を継いだがお金を使い込み勘当。三男(マイパパ)は結婚・離婚を繰り返し他界。ややチャラ男。四男は行方不明。かなり真面目な人だったのに・・・。まあ彼らは皆気さくな江戸っ子タイプなので他人として付き合うにはなかなか楽しい人なんだけど、私の中の男性不信の原因の一つになっているのは確かかもしんないね。それにしても彼らの奥様達は皆辛いだろうなー。
<509> ロヴィン ■2005年03月03日 木曜日 07時57分31秒
兄を裁く自分の中の自分。自分には裁判官がいて「判決!!只今の審議は...」なんて朝からやってる。止めようと思っても止められない。僕の中には本当の自分と母親に支配されてる自分が2:8ぐらいの割合で存在してて,兄を裁いたり,自虐したりするのは8の方だ。だからこんど自虐したくなったら母を責めたい。
<508> ミルキー ■2005年03月02日 水曜日 21時31分54秒
私には10歳離れた姉がいる。
彼女とは 中学生の頃に2ヶ月くらい祖母の家で暮らした事しかない。
姉も母に虐待されていた。1歳で、オムツの交換が面倒だった母は、叩きまくって、姉にトイレを教えたらしい。
ネグレクトもされていた。小学生の姉は、自分で汚れた洋服の山の中から洋服を選んで 小学校に行っていたみたい。
祖母はそんな姉が可愛そうだと思い、母から奪って連れて帰ってきたらしい。
その後姉は祖母の家で成長した。姉は祖父母に可愛がられた。
祖母は夏に泣きながら 私の姉は可愛そうだったと言った。
(私はもっとひどかったんだけど・・・)

夏に弟が私を殺そうとした事件があった。
それは 些細な私の一言が彼を逆上させてしまったから。
その後母は あの子には父親いないんだからって言われた。
弟の父親は単身赴任でちょっと遠い所に住んでいる。
(本当に父親なしで育ったのは 私なんだけど・・・)

そう。うちの家族は、祖母→姉を溺愛。母→弟を溺愛。
溺愛されてる 姉も弟も 苦しいと思う。その愛されぶりはすごくて、自由な時間などないみたいだったから。
でもさぁ、誰が私を愛した?

母の家にいたときは 弟との扱いの違いを、ぐぅぅぅうっと我慢した。
ついでに虐待と、母&弟二人しての攻撃にも耐えた。

祖母の家にいたときは、姉はこんなにいいこだったってずっと言われた。それなのにお前は!!!って。
ついでに 意地悪もされまくって それも耐えてた。

こんな家 つぶれてしまえばいいんだ!
<507> ロヴィン ■2005年03月02日 水曜日 15時55分43秒
(ここ二週間かなりこの場所に粘着的に依存してしまっているが,本当にこの場所に感謝します)

兄が復職して緊張が解けたというか急に無力感に囚われている。やっぱり休職中はこっちもそれなりの気構えがあったんだろうな。ホントうちの家族って,ぜったい波乱を黙殺するというか,そういう状態になるのを恐れるくせがあるんだろうね。誰かが誉められれば,誰かがけなされる。誰かが家事をやれば,誰かがサボる。必ず誰か1人に負担が集中するようなシステムになってる。総体としてのバランスをすごく重視する。境界線が無くて,運命共同体的。誰も自由になれやしない。親でさえも....。
<506> ロヴィン ■2005年03月02日 水曜日 14時18分43秒
昔から友達のお母さんとか見ると,すごい対等だし子どもを1人の人間として見てるし,程よい距離もあるし,冗談を言える関係だったりしてすごい羨ましいなーと眺めてた。うちは両親ともユーモア度マイナス500くらいで,冗談が全く通じない。これは僕にも見事に受け継がれた(笑)。その代わりにあるものは,嘘っぽい笑い。なんとか明るくて幸せそうな家族に見せようとしているのがバレバレ。「〜君の家はねー」と話すと決まって「他人は他人,うちはうちなのよ」と母は反発した。これは一見,至極まともに聴こえるが,自他の区別が一番できていないのが,皮肉にも母親だった。父親との記憶はほとんどない。もともと地味な人だが,それ以上に家族の輪に入ってこない。3歳の頃、海外から一時帰国したとき、幼稚園まで自転車で送ってもらったのを覚えている。が,それ以降母の死までの17年間くらいほとんど接した記憶がない。そうした人間と今、一緒に住んでいるというのも妙な感じがする。父は確かに単身赴任が多かった。高校か中学か忘れたが夏休みに,父の赴任先のアパートを掃除しにいったのも覚えている。熱い夏の日だった。あれは確か高校2年の夏だろう。その頃は家族の手伝いをするのは子どもとして,当然だと思っていたし,しない奴らはまともじゃないと思ってた。でも今はわかる。子どもは親の手伝いをするために生まれてきたわけじゃない。
<505> ロヴィン ■2005年03月02日 水曜日 13時47分36秒
(連続投稿で申し訳ないです)

その代わり,我が家の年末年始は除夜の鐘をつきに行くのが恒例だった。僕はなんと高校2年くらいまで,それに付き合っていた。友達いなかったんだろうな。兄は中学の頃から,部活の友達とつきに行くようになったから,僕が中学の頃からは3人で行くようになった。

それから我が家には他にも恒例の行事があった。両親ともに遊園地とかに行く事は無くてもっぱら桜を見に行くとか,寺参りをすることとかが休日のお決まりだった。僕も10歳頃までは,抵抗なく家族の付き合いとしてついていった。でも中学の頃になるとさすがに抵抗が出てきたが,なぜか断わるこに抵抗があった。これも,僕のなかでは謎というか理解できない行動だ。とにかくそういう年寄りじみているのが嫌で,途中でいじけたりしていた。それでも結局,そういう付き合いが結局高校くらいまで続いた。なんか違ってる。親は親として楽しみを持てばいんだ。僕はそれを共有できるはずない。やっぱり「いい子」だったんだと思う。「いい子」っていうか「従順な子」だったんだろうな。何を拒否して何を望めばいいのか,そういうことがもう10歳ぐらいからわからなくなっていた。
<504> ロヴィン ■2005年03月02日 水曜日 13時38分54秒
親戚付き合いのある友達が羨ましかった。核家族以外にも,自分を取り囲んでいる社会があるということが羨ましかった。どうやら母方は別として,父方の家族には縁が無いらしい。父の家族はものすごく仲が悪いらしい。たまに,とある県に住んでいる叔父さんから家に電話があるけど,ものすごくよそよそしい。「父は外出してますよ」というとロクに挨拶もせずにすぐ電話を切ってしまう。物凄く事務的で冷たい。 だから正月に帰省してお年玉をたくさんもらってくる友達が羨ましかった。金額の問題じゃなくて,そういう付き合いがあるということが羨ましかった。
<503> ロヴィン ■2005年03月02日 水曜日 11時01分36秒
(部分的にフラバ注意)

やはり母の影響って自分には相当大きい気がするんだよね。父,あるいは兄に反抗したり絶縁したりするって想像してもほとんど怖くない。でも母となると別。やっぱり俺にとって母にしたがって生きるのは死活問題だったんだよ。でもなんでそうなったのか自分でもよくわからない。母のことは彼女の死後、悲しみと共に洗い流したから急には記憶が甦ってこないんだよね。一つわかるのは10歳の時に万引きがばれて,普段優しかった母が鬼のようになってから従がうようになったのかもね。あの万引きのばれた日っていうのはトラウマなのかどうかよくわかんないけど,未だによく覚えているからね。いつも帰りの遅い父が帰ってきて(こういう時だけは早いんだ)何の説明を請わずに殴られたからね。あんたらはコミュニケーションの仕方を知らない。あの時の父は俺じゃなくて母を信用してた。父は結局、僕を守るための人ではない。自分が戻ってくる巣(家)の中の揉め事をいかに鎮圧するかに命かけてる。きっと父も,争いの絶えない家で暮らしたんだろう。揉め事が起こるのが怖いんだ。それは僕も同じだ。噂によると僕の叔父さんは自殺したらしい。とりあえず○○家は争いが酷かったらしい。兄は5人兄弟だったらしいけど4女を巡って,遺産の相続とかで壮絶な争いが起きたっていう話しを昔聞かされた。その四女である僕の叔母さんは,とても暗い人だった。母の葬式後に挨拶に僕1人で叔母を訪ねたのを覚えてる。父が叔母を憎んでいるのは知っていたから僕が代わりに行って,叔母さんの愚痴を聞いて過ごしたんだ。それにしても父と叔母の険悪さはよくわかった。父が電話で叔母と話しているのを見たけど喋り方は素っ気無くて顔も引きつってた。

母も同様に,不幸な子ども時代を送った。大正生まれの厳格な祖母に育てられた。僕は母も祖母も好きじゃなかった。でも母方の叔父さんは好きだった。親戚の中では一番、朗らかで明るい人だった。よく可愛がってもらった。今は結婚(少し問題はあるみたい)して引っ越したけど,付き合いの少ない親戚の中でも叔父さんは好きだったな。

僕は帝王切開で生まれた,と母はよく恩着せがましく僕に語った。「あんたを生むのは本当に大変だったのよ」と。その度に僕は申し訳なく思った。母は僕が高校生になっても「〜ちゃん」と読んでいた。何度もぶっ殺してやろうと思ったけど体が抵抗しなかった。蛇に睨まれた蛙だった。俺はそこが知りたい。なぜ母を1人の人間として見れなかったのか,そして今も見れないのか。母はよく僕の前でおどけて「あっかんべー」したり豚の真似とか言って「ぶーぶー」とおどけていた。まるでボーイフレンドの前で無邪気に振る舞う女の子だった。気持ち悪かった。今でも吐き気がする。彼女も不幸だったんだろうけど,そんなことは私は知らない。私の責任じゃない。例え僕を産んでくれた人だろうと,僕をスポイルするような人間に恩を着せられたくない。僕にはもっと大事な友達がいる。僕を受け止めてくれる友達が幸い数名いる。僕は母親の子じゃない。
<502> ロヴィン ■2005年03月02日 水曜日 10時32分36秒
父は大したことないを頼む時でも必ず文頭に「悪いんだけど〜」とつける。これは,相手を気遣ってのつもりかもしれないけど,かなり不快だ。何回も言われると、引き受けるほうも本当に迷惑なように感じてくるし,違った視点で観察すると,「そんな(些細な)頼みごとを迷惑に感じてしまうほど」自分は無能な人間であるかのように思えてきて,ひどく傷付く。相手は全くそんなことを意図しないのだろうけど,傷付く。言葉は最終的にはそれを受け取る側が解釈するものだ。だから,頼みごとが誹謗中傷に化ける可能性はある。ただ一番、問題なのは,そんな父の習性を僕も受け継ぎつつある,という事だ。
<501> こくーん ■2005年03月02日 水曜日 05時42分27秒
『お母さん、仕事退職したらカウンセラーとかやってみたいな。
 ほら、人の話を聞いてあげるの得意だから。向いてると思うの』
そうよ。ママ。あなたは他人に自分の意見を言えない。
だからひたすら相手を肯定して話を聞くの。
聞いてくれてありがとう、って言われて気持ち良くなるの。
でもね、
話を聞きながらあなたが思ったことを全部、私が家で聞いていたの。
「そうそう、ママの言うとおりよ」って。
だから、あなたは私の交友関係も趣味もたいして知らなかったけど、
私はあなたの職場の同僚の家族構成から性格、抱えてる悩みまで、
全部知っていた。よく知ってるって驚いてたけど。
あなたが話したんだから当たり前なの。
それでも、カウンセラーになりたいって思う?

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This script written by Shintaro Wakayama.