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私たちの物語 - 家族過去ログ No.2
メッセージ数:40件

<40> なみ ■2003年05月06日 火曜日 23時28分14秒
私は母からほめられたことを覚えてません。服装おかしい、顔がぶさいく、足がふとい、被害妄想だ、話し方が気に食わない 汚い 気持ち悪い 正確が悪い等々、家族の中で気が休まるなんてことがなく、常にいてはいけない という気持ちでした。ここにいてはいけないと思っていました。 母の金切り声におびえていました。 思えば母の感情を気にしていました。けんかの時のドアを閉める音がものすごく不快でした。晩御飯の片付けをしないと手伝いもしない悪い子だといわれました。部活動をしていましたが、お前に一番お金がかかると、ず〜といわれてました。反面、親にはお金を出すしか手伝えないだのとまったく正反対のことをいわれてもなんにも嬉しくなくて、むしろ次は何をいわれるんだろうとびくびくしていました。ずべては母の感情のアンバランスが引き起こしたことで、私にはそんなに責任がないことだと気がついたのは連休後一人になった今日でした。
 自分がこんな風に悩んでいると その原因はあなたにあるんだといいたい。
でもそんなこと言われたらきっと悲しむだろうな・・ そうすればいいんだろう。
このまま私は何もいわないですごすべきなのかな なんかそんした気持ちだ。
 心のそこから甘えられるお母さんがほしかったな
<39> なみ ■2003年05月05日 月曜日 21時23分10秒
以前からいおういおうと思っていたことを今日父にいってみた。 「弟が不安定になったのは父さんが母さんの悪口をいっていたからだよ!!」と。小さいころから母の言うことに苦しんでいた私にとって 父は味方だったのだが、最近は私も大人になってなんとなくだけど母のいっていたことが「わかる」ようになってきたのだ。 私は小さいころから家族の中でとても 居場所がなくて 連休も家に帰っても居場所がないとおもっていた。 けど 最近は少し違ってきたのだ。
 父さんが母さんのこと悪く言うなんて すこしおかしいと。でも母さんも父さんのこと悪くいってた。母は表で、父は裏で。私もいつか 親に隠しておくことが多くなった、いったら怒られる、悪い子って言われる、だめな子って思われたくない・・・ だからいい子でいないとだめだったんだ。でも いいたかったんだ、本とは 「もっと仲良くして」って。けんかしないでって。今の私は誰にでもいいことをいっている。 父用に、母用に、姉用に・・・ すごく調子いいと思うけど、今の私にできる事だから、しばらくそうしていよう。違うように接したくなったらそうしよう。家族の中で小さくなって顔色をうかがうのはもう、疲れちゃった。
<38> めぐみ ■2003年05月02日 金曜日 13時23分01秒
私は一人っ子で、祖父母との同居もなかったから家族と言えば母と父しかいない。
私が幼い頃、父と母は仲が悪かった。父方の祖母の干渉がひどくなり母はいつもいらいらしていた。
私はありとあらゆる言葉で蔑まれた。一番傷ついたのは「お前にはあの女(祖母の事)血が入ってるからもうだめだ。」と言う言葉だった。私を根源から否定する言葉。選んで生まれてきたわけじゃないのに。頼んで産んでもらったわけじゃないのに。
父は常に無関心だった。私が怒鳴られても殴られても無視されてても、自分に矛先が向くのをおそれて他の部屋へ行ってしまったり、出かけてしまったり。
私には味方がいなかった。家の中でずっと一人だった。
そのくせ母は私が自立することを嫌がった。「あんたにできるわけない」「後で帰ってきたいって言ってもその時はもう手遅れなんだから」そして「そんなにこの家が嫌なの。じゃあ、あんたと私は親でも子でもない。好きなところに行けばいいじゃないの!」そうすると自分がひどく恩知らずなことをしている気持ちになって出て行けなかった。
今は実家を出ている。出ないと限界だ、と思えることが起きたから。でも心はひどく不安定だった。仕事も続かずに転々としていた。
母は年老いた事への不安からかいい母親になろうとしていた。「どうして辛いことがあったら私に話さないの?」などと言う。話せるわけがないのに。そして「私はあんたにそんなに信用されてないわけ?こんだけこっちから歩み寄ってやってるのに。どうせ全部私が悪いって言うんでしょ?私さえいなくなりゃいいんでしょ?!」と言われ、それっきり連絡が途絶えた。
これでよかったのか分からない。分からないけど私は楽になった。罪悪感が消えることはないけれども、心の負担は確実に減った。
私の家族は今の彼氏だけだ。子供は産まないつもり。
私のような人間をまた作ってはいけないと思うから。
<37> みほ ■2003年05月01日 木曜日 22時27分56秒
ここにお嫁にきてからずっと大事にしてくれるお義父さんにも素直になれなかったりした。自分の父親の存在なんて消してしまいたいくらい嫌い。
たまに実家に帰るともう回復したなんて思いこんでいる父と母をだましているようでとてもつらい。
すごく辛いときにも素直に涙を流して相談できなくてつい強がったりする。
実家に帰れば母の姑に対する愚痴聞き役。そんなことお父さんに言えばいいのに。私はいつも愚痴を聞いてお母さんの母親みたいだと思ったことがある。
父親はいつ見てもなんだか情けないやつだな〜なんて思って殺したくなる。
昔、病院を転々とさせられていたとき父は一度も顔もださなかった。
一回だけ私が死にかけたとききたっけ。でもひどく私と目が合うのを恐れていた。
いつでも私をきちがいにしてた。
その当時いつも思っていた。父親を殺してやりたい。
どうしてそんなに憎んでいたんだろう。
でも今もそれは消えていない。笑顔で笑いながら心の奥ではつかれている私がいる。いつか私が子供を産んだときどうしてお母さんは三人も子供を産んだの?って聞いたら「姑にいじめられてお父さんにも守ってもらえずくやしくてしかたなかった。だから味方を一人でも多くほしかったんだよ」って言ってました。
私たちはお母さんを守るために産まれてきたのかな・・・・
最近とっても疑問です。
<36> alpha ■2003年05月01日 木曜日 00時40分54秒
親の事は恨んでいません。どんな形にしろ親の愛は確かに存在していました。感謝はしています。よく家族旅行にも行ったし、お誕生会だってなんだって。でも、どうしてこんなに幼少のころから孤立感を感じ、そしてそれをあきらめて生きてきたのか、理由がはっきりしません。ただ、子供のころから本当に心を開けるのはぬいぐるみだけでした。夜中聞こえてくる、私たち姉妹をばかにしたような両親の話し振りや、過剰な期待とそれにそむいた時のこと、等を思い出すととても悲しくはなります。身体的にも圧倒的に大きく、短気な父とヒステリーを起こす母。でも、嫌な事はよく思い出せないのです。
とある事(親との取っ組み合いを含む事件)で家を出てから、私はずっと家(両親)を恐れてきたのだということに気がつきました。戻ってあげたいという気持ちはあるのです。でも戻れない、戻りたくない。これ以上自分の人生を犠牲にできない。親がかわいそうだな。と、発作的に?‘死にたい’という妄想が浮かぶたびに思います。まだこんなところにいる私ですが、簡単ではないけど自分の人生を生きるつもりです。(まとまりのない文章でごめんなさい)


<35> チョコ ■2003年04月21日 月曜日 16時11分01秒
あたしにとって、家族とは・・・・
何でも話せて、家族会議なんぞがあって、月に1回はみんなで外食、年に1度くらいは温泉旅行!時に喧嘩もするけど、すぐ仲直り〜
兄は、親の期待どおり大学を出て、安定した職についている。あたしは、とりあえず専門学校に行ったが、専門職につけず、職も転々としてきた。妹もあたしと似たような感じだが、かわいがられている。そう、見えてしまっているだけなのかもしれないけど・・・・昔から、あたしはしかられていた。何かある度、しかられていた。ほめられた思い出が、ない。だまっていい子でいるときだけ、「いい子だね」っていわれた。子供らしくなかった。そんな手のかからない「いい子」を求めている母は、きっと自分の事で精一杯だったのだろう。。。今となっては、理解できる。母も祖母にしかられて育った事を聞いたから・・・母は、すごくまじめで、少しでも世間に恥ずかしいようなことをすれば、傷つくことばをあたしにぶちまけた。母は、強かった。子供のあたしが対抗できるわけがない。弱く、迷惑をかけないでいる事が、この家族の中に適していると感じた。酒を飲むと、変わる父。声だけはでかいから、勢いに圧倒されていた。怖い.....
今あたしは、ACを自覚したが、調子がいいときは、普通でいれるので、ついつい病院へ行く事をやめてしまう。
わたしは大人になり、両親を許そうと思っているが、心のどこかで許せない自分がいるらしく、母とはあまり話をしない。父もすっかり、あの頃の勢いがなく、母に相手にされてない父をかわいそうに思う。でも、目をみてまともにしゃべれない。心に思っている事と、まったく正反対の発言をしてしまう。自分の行動が把握できてない。ときどき、自分が傷ついている事さえわからない。
わたしの家族は、一緒にいるのに遠くにいるようだ。愚痴も悩みもいえない。強がりな家族の中で、わたしはいつもどきどきしている。
気の休まる家族でありたいナー

<34> そらみみ ■2003年04月20日 日曜日 21時38分03秒
どうして私の母親は 
自分が幸せを感じていない時期に子供なんて生んだんだろう。
母親が、嫁姑問題で傷ついていた事はせめたりはしない。
だけど、なんで精神不安定な時に子供が欲しいなんて思ったのか
全然理解できません。

物心つく前から人見知りだった私たち。
母親の胎内で、すでに人間不信が始まっていたんじゃないかと思う。
人間不信な母親の胎内で育ったのだから。

過干渉とヒステリック、無視を繰り返した母親。
「あなた達は欲しくて生んだのよ」
なんて言われても、何も感じません。
というか、吐き気をもよおします。
それよりも、子供が欲しかった理由を教えてください。

”見方”が欲しかっただけなんじゃないですか?
自分の子供だったら、自分の苦しみを分かってくれるはずって
勝手に思い込み、そう育つようにしむけ、
今だって私がこんなことを考えているとは露ほども知らす、
終わらせたはずの問題をほじくり返して、
自分の夫や姑や小姑の悪口を私に聞かせ、
ストレス発散をしているだけなんじゃないですか。
私はゴミ箱じゃありません。

私は、仲のよかった父方の従兄弟を失いました。
本当は昔みたいに気楽に語り合いたい。
母方の従兄弟となんて、今更何を共有すればいいのかわかりません。
親戚づきあいなんて、もうこりごり。
母親を喜ばすために、母方の親戚と付き合う事は、
私にとっては馬鹿ばかしいだけです。

私は子供を生みません。生まないことがその子の幸せなんだから。
お母さん、あなたにもその事に気づいて欲しかった。
<33> mirai ■2003年04月05日 土曜日 13時04分04秒
家族と距離を置いていることに罪悪感を感じてしまうことがある。
どうしてあの家に帰れないのか。
親子なのに。家族なのに。私の母なのに、父なのに、と。
だけど考えてみれば、私が帰ることができなくなったのは、私のせいでは全然ないのだ。
あの人たちが、親の心を持って、私に接してくれていたなら、大人になった私にだって帰る場所くらいあったろう、と思う。だけど、実際はどうだったか。親の心があったなら、どうしてあんなに私を虐められただろう? どうして無視することができただろう? どうして犠牲にしておけただろう?
あの人たちが親の心を失ってしまったのには、いろいろな理由があるだろうし、いろいろな事情があるだろうけれど。それが今はわかるけど。
私に家族はない、と感じるとき、私に親はない、と感じるとき、
寂しくて寂しくて寂しくて、どうしようもなく寂しくなる。
心の底に潜むいらない罪悪感が、むくむくと大きくなるのは、そんなとき。
<32> ちかこ ■2003年03月29日 土曜日 09時30分02秒
家族という単位が変わってきた

はじめは自分の産まれた家
親戚づきあいっていうのは
盆正月彼岸に挨拶と線香をあげに
行くことだと思ってた
父の産まれた家
母の産まれた家
自分の名字はどっちとも違った
本家とはほとんど付き合いがなかった

家を出て自分が選んだ人と暮らしている
新しい名字
他人が家族になった
同居人を大事にしてくれる人たちが
私を大事にしてくれている
<31> マフマルバフ ■2003年03月29日 土曜日 01時02分59秒
姉への手紙
1月中旬に姉が田舎の漬物を送ってくれた。その返事を書いた手紙をまだ出せずにいる。出さないほうが良いことはわかっている。私が私の人生をいきるために肉親とは連絡はしないほうが良いと思っているからです。しかし、姉は自分の人生をいきられない人なのです。こんな、つらい人生があるでしょうか?あまりに残酷です。
それでも、私は「姉への手紙」を出すべきか逡巡しています。
姉にとって懐かしい弟からの手紙は歓びとなるでしょう。しかし、私にとっては精神的自立のさまたげになるのです。この悲しみはあまりに残酷です。誠意がつたえると苦しみにつながり、私は混乱します。
姉への手紙はまだ出せずにいます。かわいそうな姉。
<30> みけ ■2003年03月28日 金曜日 16時12分11秒
 私の家族はおかしい。父は口を開けば「結婚しろ」「お前たちは欠陥品だ」。母は人の話を聞けない人で、いつも一方的にしゃべり続けている。姉は自分で消化できない怒りを私にぶつけてくる。こんな家族が嫌で一人家を出た。でも、姉も私と同じように苦しんでいることを知り、しばらくして姉と2人暮らしを始めた。自分らしさを取り戻しはじめる頃必ず母からの電話「寂しいから家に来て」。無視し続けると、突然アパートにやってくる。口をひらけば「私、とっても寂しい」。家を出て8年になるというのにこんな状態が続いている。
 2年前私に久々に彼ができ、休日ともなるとデートで忙しくなった。日に日に姉は無表情になった。彼の話をしようものなら返事はない。おまけに、会社で嫌なことあった日などは、私に言葉で攻撃をするようになった。はじめは気にしないふりをしていたけど、疲れてしまったのでここ数日は口をきいていない。なんでも、どんな事でも許せる人間になりたいと思ってがんばってきたけどもう限界。もう、がんばるのはやめた!私は自分の自由と幸せのために生きる!邪魔されそうになったら「邪魔はやめてね」って笑顔で言うぞ!
<29> みらい ■2003年03月12日 水曜日 17時04分18秒
家族、、、家族ねえ、なんでしょうね、家族って。

私の母は、自己中心的な人で、自分のことだけしか考えられなくて、自分の思い通りにならないことがあると、平気で暴言を吐いて、ヒステリックに怒りをまき散らす人でした。私はそういう母の下で、たくさんひどい言葉でののしられ、傷付いて育ちました。もちろん、私自身のことなど、母の目には映っていないようでしたし、それは寂しいことでもありました。一方で傷つけられながら、もう一方で無視されて。母は子供のように感性が豊かでかわいらしい所もある人でしたけれど、私はそんな母をどうしても好きになれませんでした。
私の父は、お酒をよく飲む人でした。たぶん、お酒がないと生きていけない人です。アルコール依存症だと思います。飲むと暴れるわけじゃありませんが、よく愚痴を聞かされました。とくに母のヒステリックには私も困っていましたが、父も困っていたわけで、「お前さえ生まれなければ、あんな女とは結婚しなかった」とこぼされていました。私は生まれてこなければよかったと思っていました。生まれてきて、父を苦しめていることが、苦しかったです。長いこと、父には申し訳ない、という気持ちで生きていました。だってそんな父でも、母よりは私に優しく接してくれていたから。私は母には愛されていると思えなかったけれど、父には愛されていると思っていたかったのです。

いま、私自身も両親と似ていろいろ問題を抱えて四苦八苦の毎日ですが、もっと別の形、違う形の愛情があることを知っています。それを私は幸運に思います。親子だから、家族だからと、私から大切なものを平気で奪っていったあの人たちも、それでも私を愛しているつもりだったと思います。私にとっては痛い記憶、辛い思い出ばかりの家族。それでもあれが私の家族で、私はあの人たちの子供なんです。
<28> かな ■2003年03月10日 月曜日 02時13分09秒
幼稚園のとき、祖父母のもとで家にいるほとんどの時間をすごした。二人は私のことを「いい子だね」と褒めてくれる唯一の人達だったから。
私は姉と比較されていることを知っていた。成績でも器用さでも劣っている私を姉と比較しているのを言葉に出さず比較されていることが余計に悲しかった。いつも仕事で忙しい母を姉にとられるのも嫌だった。
ただそれでも、こういうことは一般的に起こることだし、うちの家庭には楽しいときもあるし普通だと思っていた。
そのときまでは家族はしっかり建っていた。
小学校低学年の頃、家族の不穏な空気を感じるようになった。それから祖父母の母に対する態度が厳しいようにも感じるようになった。・・何かが変だ。
そんな時、母から祖父母との不仲を聞かされた。
家族がひとつ崩れた。
今まで可愛がってくれた祖父母と母が不仲?どうしよう・・・。母は祖父母のことを「くそじじぃ」「くそばばぁ」と言う。でも私には言えなかった。心の中でずっと「お母さんやめて。話し合いをしようよ。」と叫んだ。でも祖父母のことでヒステリックになる母が怖くて言えなかった・・・。
中学生になる頃、私の態度は一転していった。
祖父母の母への不条理な態度が気に食わなくて「じじぃ」「ばばぁ」なんて平気で言っていた。でも今思うと、それには他にも理由がある。
まずひとつは祖父母の母への態度が不条理だということ。(もちろん母の祖父母への態度が完全に正しいとは思っていなかったけれど。)
次は姉へのコンプレックスが一番ひどくなっていた頃だということ。
中学の担任団は姉を受け持った人達で、皆姉のことを知っていた。私は「姉の妹」として見られていることが苦しかった。それに姉は私の存在を否定しているかのようだった。普段私はふざけていた。それでしか居場所を確立できなかったからだけど、それでも真面目な話を姉としたいときもあった。でも姉は私の話など聞く価値がないとすぐに却下するのだ。
家の中で私の居場所は祖父母と姉にはなくなってしまった。
最後に父のこと。父は母と祖父母との板ばさみになっていた。今でならその気持ちも理解できるけれど、その頃は母の味方をしない父に怒りを感じていた。母は祖父母のことで胃潰瘍にもなり、泣いていることもあるというのに。
私の居場所は父にもなかった。
つまり私の居場所は、母にしかなった。母の味方をするしかなかった。
誰も私を見てくれないけれど、私が母の味方をする限り、母は私を見てくれる。味方をしていれば・・・・。
母に依存する理由は他にもあった。
両親の仲が祖父母のことが原因で悪化していた。
特に母から父への愛情はなくなっていた。
二人が喧嘩をするたび、母は私と姉が高校を卒業すれば離婚すると言った。私にはそれが怖かった。どれだけ居場所が母にしかないと考えていても心の中では父も姉も好きだし、信頼したかったからだ。だから二人が喧嘩をするたび母が「離婚」という言葉を出すのが怖くて、私は二人の仲裁をした。
高校生になり、今、私の心は落ち着きを取り戻しているけれど過去のことを思い出すと辛い。いつもは心にしっかり鍵をかけているけれど、ふとしたことでそれを開けてしまうと悲しくて辛くて不安で寂しくて。
私は自分の感情を家族に出したかった。でも家族は完全に崩壊するわけでもなく、完全に成り立っているわけでもなく、無反応に毎日を過ごしている。
私もふざけたり、笑ったりしながら毎日が過ぎてゆく。私は自分の感情を吐き出したい。祖父母と母の不仲を悩んだこと、姉へのコンプレックス、姉が私を認めてくれなかったこと、父の存在の意味、母への依存、両親が働いていて毎日寂しかったこと、私が母の味方を止めた時感じたヒステリックになった母への恐怖、離婚するといった言葉への恐怖。あまりにも重なりすぎて伝えられないのだ。自分でもどれがどうなっているのかわからなくなる。苦しい・・。

私は何だろう。ヒステリックになった母は怖かった。その敵意が私に向いた。
すごく怖かった。母を敵に回したとき、味方をしてくれる人はこの家にはいない。私は常に母の味方をするものじゃないのに。母のものでもないのに。母はいつも私を優しい子だ、将来のことも私がいたら面倒を見てくれるだろうと言うけれど、正直疲れた。もちろん母が寝たきりになったら面倒をみてあげたいと思うだろう。でもそれは自分で思うこと。
私は母のものじゃない。私は私なのに、私は私の意見を言うこともできない。
家族のことで苦しんでいるのは、この家できっと私だけ。
だから感情を出せない。出すことが怖いし、根本がどこにあるのかはっきりわからない。ただ支えになっているのは、ある本で読んだ「子どもの不幸は親から見た不幸ではない。」という言葉。
私は私が感じるものをそのまま受け止めればいいのだろう。
でもまだ時々心はいうことを聞かなくて勝手に開く。
悲しくて寂しくて。きっと私の記憶の中には、もっと辛いことや、もしかしたらこの寂しさの原因が封印されているのかもしれない・・・。



<27> かのん ■2003年03月07日 金曜日 16時20分19秒
家族って何だろう?
心身ともに支えあうんだと思っての間違えてたのかな。
いつも口では優しいの。優しい言葉かけるのに、
態度とか行為はいつも拒絶するのに。批判しかしないのに。
おとうさんはお仕事から帰ってきたらお酒しかないし。
家族よりお酒とTVが大事なの。
おかあさんは何かあると泣き叫ぶし。

だからもう優しい言葉はかけないで。
私に構わないで。
そして笑ってくれるんならそれでいいよ・・・。
何もいらないから。
<26> QOO ■2003年03月04日 火曜日 12時18分43秒
家族がいない。みんな死んじゃった。
今更ながらキツクなる。一生男はいらないかわりにお母さんの愛情が欲しい。
私は何で生まれてきたんだろうってそればかり考えてしまう。
何で生きてるんだろう?私だけ。
1人でずっと生きてきたから人に甘える事が出来ない。
簡単に誰にでも甘えれる人を見ると羨ましくもあり醒めた目でも見てしまう。
本当は思い切り甘えたいのかもしれない。でも自分の壁が崩せない。
家族がいた頃の幸せな思い出なんて何も無い。
母親のぬくもりだけ今だに忘れられない。苦しい。
いつまでこんな手に入らない物を求め続けてしまうんだろう。
ちょっと限界を感じてる。
<25> りん ■2003年02月27日 木曜日 23時20分12秒
家族。なんなんでしょう?
うちは、父、姉、私がいて、離婚した母が離れて暮らしています。
みんな壊れてます。
あぁ・・今日も頭が痛い・・・。
<24> はね ■2003年02月19日 水曜日 23時07分58秒
ごめんね、あたしのことで家族中巻き込んじゃって・・・。

ごめんね、あたしが弱いから、お母さんにあたしが言いたいことを言えないからおじいちゃんやおばあちゃんにまで迷惑かけちゃって。

でもありがとう、私のために親身になってくれて。

本当にありがとう、今ようやく気づいた、私を最後まで裏切らないのは家族だけなんだ、と。

ありがとう・・・。
<23> さやか ■2003年02月15日 土曜日 20時51分07秒
お母さんがお酒を飲んで怒っている。お母さんはいつも怒っている。
お父さんが20年前も前にやってしまったことを怒っている。
お母さんはいくらあやまっても許してはくれない。

お母さんは怒るしかない。
人がいちばん傷つくような言い方で怒るしかない。
怒って怒って怒って どんなに怒っても
それでも怒りは絶対に消えない。
そんなに怒っても気が済まないということは
どんなにつらいことだろう。

お母さんはどうしてそんななのかなあ?
<22> さくら ■2003年02月08日 土曜日 14時54分53秒
うそはつきたくない。
苦しさを知っているから。だけど、うそをつくクセはなかなかなおらない。
小さい頃から何年も使ってきた自己防衛の技だから。
うそをつかないように考えて考えて答えるのだけど、会話の反応は鈍くなるし
無反応になったりもしてしまう。
人間関係って言葉のコミュニーションが大切なのにね…。
親子のそういう関係が現在の人間関係にものすごく影響している。
不自然な自分に落ち込むばかり。
誰も私を責めているわけではないの。過去の母親が責めているだけ…。
<21> マヤコフスキー ■2003年02月05日 水曜日 01時50分56秒
「トラウマと音楽」・・・または回復について
 三次元の世界で耳というものは、立体感を認識するのにどういう役割をしているのだろうか?目をつむって周囲の音を確認すると、すべて視覚で認識しているものだから、音だけで世界を認識するのはむずかしい。
 トラウマを自覚する者にとって、視覚と聴覚はバランスを崩しているのではないだろうか?個体差があるからこうである、とはいえない。
私の場合、発声があやふやになりやすいので、少しの期間、声楽をならってみた。先生のピアノの音に緊張して、思うように声が出せないことを知りました。
今でも楽譜をみながらでないと歌えません。つまり、視覚にたよるから、耳が死んでいるのです。歌を暗記して楽譜を見なければいいのですが、楽譜を見ながらでないとリズムがバラバラになりピアノとまったく協調できませんでした。
 どうして声楽の練習に視覚にこざわるのか、私も今もわかりません。本来的に音楽は耳で楽しむものですが、声楽の教室にはいるとそれができないのです。
 ややこしいので説明は省略しますが、子供の頃のトラウマが影響していると思います。先生に話しかけたりして、気持ちを落ち着かせ、先生のピアノと合唱するような感じで歌うと、私は少しの満足かんがあり、ちょっと変化しようと努力した自分を発見し、嬉しかったです。
 先生は厳しいですが、暖かさのある人です。トラウマに苦しむ方は声楽療法もよいとおもいます。
 三ヵ月〜六ヶ月くらいなら紹介しますよ。自分に合わなければやめればいいのです。
 なを、見るということについての問題を気づかせてくれたのはカウンセラーの優しさによるものと思います。

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This script written by Shintaro Wakayama.